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九州北部茶旅2020(10)小倉城と清張記念館

7月18日(土)北九州散歩

朝は良い目覚めだった。この宿は新規オープンなのか部屋がきれいだ。この宿は長崎、佐賀と同じホテルチェーンだったが、驚いたことに料金はわずか1泊2000円。GoToトラベルの実施が延期になる中、なぜこんなに安いのか。何と北九州市は独自に割引キャンペーンをやって、ホテルなどを支援していたのだ。しかし9月末まで書かれており、この料金なら1か月6万円(朝食付き、駅近)で小倉に住めるな、などと下世話な考えが頭をもたげるほどの安さだ。実は今回博多は週末でホテル代が高かったのでスキップして、安い小倉に2泊することにしたという事情がある。朝食を見る限り、お客はそこそこに入っている。

朝食後散歩を始める。先ずは小倉城を目指す。数年前小倉に来た時は時間がなく、城の周囲を一周しただけに終わったので、今回はゆっくり、じっくりと歩く。常盤橋を渡る。ここは長崎街道の東の起点だと書かれている。先日行った長崎の起点はどこだっただろうか。佐賀は街道沿いを通ったが、今回の旅は長崎街道からは大きく外れていた。今はすっきり新しい街になっている。

お城の堀を眺めながら、先ずは今回の目的地、松本清張記念館を訪ねる。コロナの影響か、参観者は多くない。前回脇を通った時、是非入ってみたいと思った記念館、念願が叶った。松本清張は小倉生まれ(実際は広島?)で私が大好きな作家の一人。推理小説は映画やドラマ化もされ、最近のコロナ禍で『砂の器』や『点と線』など、テレビの再放送が続いている。

だが彼のもう一つの顔、歴史家という面が非常に興味深い。古代史物も面白いが、特に昭和前期の『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』などは、研究者としての成果が散りばめられ、一般人が知らない歴史を知らしめたことが、大変参考になっている。私は大学生の時に1年ぐらいかけて清張の本は全て読んだと思っている(その殆どの内容は既に頭にない)が、その時彼はまだ生きており、今なら話を聞いてみたいテーマがいくつもある。

記念館はかなり広く、彼の経歴から映画のポスターまでその展示も多岐にわたり、また一部資料なども備えられていて、充実している。展示を見ながら思い出すことも多い。だが何といっても今回目を惹いたのは、杉並の清張宅から移送したという、再現された彼の書斎と書庫だった。書庫には膨大な書籍や資料が詰まっているように見える。私はもう多くの欲望を持たない人間だが、あんな書庫を持つほどに興味あることを調べて書いてみたい、と強く思ってしまった。

お城を見てみる。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンの像がある。そうか、巌流島は小倉藩の領地だったのか。そして佐々木小次郎は細川家の剣術指南役だった。この小次郎はこの後の旅で再び登場し、非常に興味深い歴史に遭遇することになる。

立派な城の中に入り、上まで登ると周囲が一望できる。途中には歴史の説明が色々となされており面白い。ここは関ケ原で功があった細川忠興に領地が与えられ、彼が作ったもので、小次郎を雇ったのも忠興の時代なのだ。忠興といえば、奥さんは関ケ原のある意味犠牲となった明智光秀の娘ガラシャ(今年の大河ドラマは6月よりコロナの影響で休止中だが、芦田愛菜演)。そして利休の高弟、茶人細川三斎でもある。実に興味深い人物だと言え、ちょっと調べてみる意欲が湧く。

小倉城庭園にも行ってみた。大きな池にきれいな庭園があった。武家の書院とある木造の建物で庭を眺めながらお茶を頂くことも可能なようだったが、コロナで人はあまりいなかった。展示館も併設されており、ここは細川の後に藩主となった小笠原家による小笠原礼法に関するものが説明されていた。当時の小笠原家には宮本武蔵も仕えていたとか。小倉に移った小笠原忠真は晩年、黄檗宗に帰依。中国から渡来した即非如一禅師を開山として広寿山福聚寺を創建したというのも興味深い。

城から出て駅の方へ戻る。途中に商店街があった。4年ほど前、小倉に来たのは、辻利さんを訪ねるのが目的だった。京都からの分家である小倉辻利は現在台湾を始め、世界中に辻利の名前で店舗を展開しており、カフェやスイーツに力を入れるなど、最先端の面白い活動をしている。今回も社長にお会いして、聞きたいことがあったのだが、不在とのことで諦めた。以前は台湾人観光客などがわざわざ来ていたが、今や残念ながらその姿はない。

九州北部茶旅2020(9)博多にちょっと寄ってみて

7月17日(金)博多に短期滞在

今朝もいい天気だ。宿には朝食が付いていないので、迷わず飯抜き。食べ過ぎなのだ。駅まで荷物を引いて戻り、JR筑肥線で博多へ向かう。一度さっと乗り換える。車内は博多に近づくにつれて、急に人が多くなる。1時間半で到着する。今回博多には泊まらないので、先ずはコインロッカーを探して荷物を押し込む。

駅前から祇園の方向へ歩いていく。10分もかからず承天寺に着く。ここは鎌倉時代の臨済宗の僧、聖一国師が開山した寺だ。当時の博多の豪商、謝国明などの援助を得たらしい。聖一国師といえば、静岡茶の祖とも呼ばれているが、その史実はちょっと疑問らしい。ただ入宋中は杭州郊外の径山寺で4年ほど修行しており、ここで茶に親しんだことはほぼ間違いがない。先日京都へ行き、やはり国師が開いた東福寺も訪ねているので、何となく親近感が沸く。

国師は宋から、うどん・そば・羊羹・まんじゅうなどの製法を日本に伝えたと言われている。承天寺に「饂飩・蕎麦発祥之地」の碑があるのはそのためだ。博多ごぼてんうどんは私の好物だが、麺がフニャフニャなのは日本でここだけが当時の麺を維持しているのではないかと勝手空想してしまう。

また国師には博多で疫病が流行した時に、施餓鬼棚を弟子に担がせ、自らその上に乗って町中に聖水を撒き、疫病が退散したとの逸話があり、これが博多祇園山笠の起こりだとか。それで「山笠発祥之地」の碑も置かれている。いずれにしても当時のマルチタレント聖一国師の果たした役割は実に大きい。

そこから川端に向かう。実は今朝知り合いのZさんから連絡があった。彼女はコロナでずっと福岡にいたらしい。折角なので、ちょっと会おうということになり、ラーメン屋で待ち合わせた。ところが歩いて10分ほどの場所なのに、なぜか店に辿り着けない。仕方なく別の店に入り、ラーメンを食べた。それからカフェに移動して話し込む。

Zさんとは北京で知り合い、その後色々とご縁があった。今は福岡にも家があり、ここが気に入っているらしい。そして博多のお寺で写経するなど、すっかり馴染んでいる。何事にも探求心が強く、かなりのめり込むタイプなので、教えてもらう事も多く、話していて楽しい。

話は尽きなかったが、Zさんと別れてまた歩き出す。先ほど訪ねた承天寺の近くまで戻り、今度は栄西禅師が開祖、源頼朝が建立したという最古の禅寺、聖福寺に向かった。さすがに古刹、という雰囲気を醸し出す境内だった。栄西は宋から持ち帰った茶種をこの寺にも撒いたというが、その場所はよくわからない。僅かに茶筅を持ったユニークな茶筅観音があるだけだ。ここは広田弘毅の菩提寺でもある。文官で唯一絞首刑になった元首相は何を思ったであろうか。

バス停を探していると、立派なお寺に出会った。東長寺、真言宗の寺で、弘法大師が唐から戻り、ここで密教を祈ったらしい。福岡は日本の玄関口、そんな時代は意外と長かったはずだが、今ではその意識が薄れている。一度はこの町に住んでみたいと思うが、その機会は訪れるだろうか。

バスに乗り、指定された場所に移動した。福岡は地下鉄も発達しているが、バスも沢山走っており、どれに乗ってよいか迷う。バスを降りてちょっと迷いながら、とあるマンションまでやってきた。実は知り合いのYさんが、ここにマッサージ屋を開業したというのだ。

10年前北京に居た時は、Y夫人が腕の良いマッサージ師と共同でマッサージ店を経営しており、かなりお世話になっていた。だが今度はご主人が全く違うマッサージを始めたというのだから、ちょっと驚いて覗いてみることになった。マンションの一室に入ると、施術室がある。先ずはマッサージと言われ、恐る恐るベッドに横になる。

CS60というのだそうだ。ボールのようなものを体に擦り付ける感じで、北京で昔受けていた強い指の圧力とは違い、スーッと気持ちが良い。何だかウトウトしてしまい、気が付くと施術はほぼ終わっていた。特に体が悪いとの自覚もないので、ちょうどよい休憩となった。

別の部屋に移ると、Y夫人がお茶とお菓子を用意してくれていた。彼女は中国茶の茶芸師で、こちらも本格的だ。マッサージと中国茶が同時に味わえるところなど、ちょっと想像がつかない展開だった。そしてダラダラと過ごしていると、疲れも癒え、爽快な気分となる。夕飯も近所の焼き鳥屋で一緒に食べた。ちょっと昔話などをして、ちょっと今の社会について語っていると、あっという間に時間は経ってしまう。

今晩は小倉まで行かねばならないため、早めに切り上げてバスで博多駅に向かった。ロッカーから荷物を取り出し急いでホームへ走り、鹿児島本線区間快速に乗り込んだ。これで1時間半かけて、暗い中を列車は走る。午後10時前に何とか小倉駅に到着。今晩も駅近の宿を予約していたので、チェックイン。そしてシャワーを浴びるとすぐに寝てしまう。

九州北部茶旅2020(8)初めての唐津

唐津へ

佐賀駅まで送ってもらい、今度は唐津へ向かう。JR唐津線に乗れば1時間ちょっとで着いてしまう。今日は天気も良いので有難い。駅前の観光案内所に寄って、今日予約した宿の場所を確認して地図を貰った。唐津にはチェーンホテルはないようで、普通の宿を選んだが、駅から10分以上荷物を引きずって歩く。もうすぐそこにお城が見える。途中の商店街はコロナのせいか閑散としていた。

宿のチェックインは4時からしかできないと言われ、正直対応も今一つ、不満を覚える。預けた荷物もその辺に置き去りでちょっと心配だが、田舎では取られることはないのだろう。仕方なく外へ出た。ちょっと歩くと、イカの活き作り、の看板が目に飛び込む。私は一般的には豪華なご当地グルメとは無縁だが、イカは大好きなので、思わずその店に入ってしまった。驚いたことに外を歩く人はいないのに、店内は満員盛況だ。確かにイカは新鮮で食べ応えがあった。思わぬ散財だったが、気分は頗るよい。

これで元気が出た上、天気も良いので、唐津を歩き回ることにした。先ずは資料探しに唐津市近代図書館へ向かった。実に立派な建物だ。コロナ禍にも拘らず、係員に丁寧に対応してもらった。だが唐津出身の家永泰吉郎(台湾の日本統治初期の新竹県長)に関する資料は何も出なかった。何故だろうか。家永は日本統治初期の台湾で地方官僚として活躍した人物だが、その実像は掴めないままだ(後に家永は鍋島家の家臣筋だと判明)。

だが唐津には辰野金吾をはじめとして、多くの人材を輩出したことなど興味深い歴史が沢山詰まっていることが分かった。歩いているとその辰野金吾生誕の地があった。東京駅や日銀本店を設計した男はここで生まれたのだ。更に立派な建物があり、その重厚な構造に昔の銀行ビルだとわかる。旧唐津銀行であり、現在は辰野金吾記念館になっている。設計は金吾の弟子だという。中に入ると1階は広井銀行ロビーであり、2階に金吾関連の展示物がある。

唐津にはあの高橋是清の足跡もあった。唐津藩英学校(耐恒寮)で英語を教えていた。その生徒に金吾はじめ、その後の唐津を支えた有名人が出たというから驚きだ。因みに私は全く理解していなかったが、幕末の唐津藩は同じ佐賀県内ながら肥前とは異なり、幕府側に付いた負け組であったのだ。この逆境が辰野金吾などを生み出したとも言えるかもしれない。

それから唐津神社を見つける。その近くには唐津くんちの曳山展示場などもあった。お囃子のテープが流れていたが、何となく寂しく、そのまま通り過ぎてしまった。そこからずっと歩き出した。本当は秀吉の朝鮮出兵の基地、肥前名護屋城跡へ行きたかったが、バスに乗ることもできず、歩くには遠すぎた。

3㎞ぐらい歩いてようやく海に出た。往時の唐津港、そこには古めかしい建物が残されていた。明治末年に建てられた木造だが洋館風、旧三菱合資会社唐津支店本館で現在は唐津市歴史民俗資料館と書かれていたが、休館中で中を見ることはできなかった。その昔ここは石炭積出港として栄え、三菱が事務所を設置、三菱御殿と呼ばれていたとか。この建物の設計は三菱建築で、顧問は曽根辰蔵博士。彼もまた唐津出身で辰野金吾と共に高橋是清に学び、東京ではジョサイア・コンドルに建築を学んだ男だった。

帰りもトボトボと歩き、途中で古い大きな屋敷を通った。この町は予想以上に石炭で栄えていたに違いない。ようやく宿へ行き、チェックインを済ませたが、まだ外は明るかったので、再度外へ出て近くの唐津城に行く。かなりきついのぼり階段のところへ行くと、地元の高校生が何と階段ダッシュをやっており、私は登るのを止めた。とても若者に敵う体力はない。

だがそのまま帰るのも癪だったので、橋を渡り、虹の松原と書かれた方へ向かう。少し風が出てきたが、海を見るにはよさそうだ。だが海の近くは林に囲まれ、海辺には近づけない。何とか虹の松原の碑を見つけたが、林の中に埋もれている。疲れたので、帰ることにしたが、同じ道はつまらないと思い、橋を渡り、別の方向へ。

結局川の反対側をずっと歩いて、唐津駅まで戻ってしまった。疲れ果てた目の前に、『ラーメンランキング 佐賀県2位』の表示を見て、思わず入ってしまう。ラーメンは確かにうまく、そしてチャーハンもいい感じだった。街中で入れる店を探すよりも正解だったかなと思う。宿に帰る頃にはすっかり暗くなり、唐津の旅は終了となった。宿は古びたビジネスホテルで客もあまりなく、ひっそりと寝入った。

九州北部茶旅2020(7)有田焼から売茶翁へ

7月15日(水)ちょっと有田へ

朝早めに起きて、ゆっくり荷物を引きずり長崎駅に向かった。長崎駅も6年ぶりだったが、駅舎は工事中で、ホームも新しい方へ移動しており、意外と遠かった。今日は佐賀で泊まるのだが、その前に急に有田へ行ってみたくなる。だが時刻表を見ると思いの外、時間がかかる。Suicaは使えないので、切符を購入する。当然ながら特急などには乗らない。

長崎本線快速シーサイドライナーに乗ると、途中彼杵など茶処の駅を通過した。彼杵茶日本一などという宣伝も出ており、降りて訪ねたかったが、時間的に許されなかった。ハウステンボス駅を通り、早岐という駅で佐世保線に乗り換え約2時間、ようやく有田駅に着いた。ローカル線の旅は緩々としており、乗客も少なくて良い。

有田駅に降りたものの、特に当てがあるわけではない。取り敢えずコインロッカーに荷物を入れて外へ出た。観光案内所があったので、そこで地図を貰い、名所を聞いてみた。有田焼の博物館など、見どころは色々あったが、今日は時間が2時間しかないので、柿右衛門窯だけに絞ることにした。タクシーで行くことを勧められたが、当然歩いて向かう。

有田の街はさすがに焼き物を商う店がいくつもあった。雰囲気も悪くない。柿右衛門はちょっと郊外にあり、歩くと駅から30分ぐらいかかって大汗を掻いた。ようやくたどり着くと、敷地内にきれいなショップがあったが、こんな時期の平日だからか、店員さんはいなかった。裏へ回ると展示館があり、何とか柿右衛門の歴史などを見ることができた。出島にあった東インド会社の皿も展示されていた。

きれいな庭も見えたが、雨が強く降り出した。工房もあるようだが、見学はできない。というより人が誰もいなかった。同じ道を帰るのもなんだと思い、少し回り道をしようとしたところ、何と山登りになってしまった。かなり急な坂を喘ぎ喘ぎ何とか登り切り、下りに入ると、古めかしい民家がいくつも見られた。更に古い町並みが残る辺りを散策しに行こうとしたが、時間切れで駅に戻った。

佐賀で

有田駅からまた佐世保線に乗り、佐賀まで行く。今度は1時間もかからずに到着。駅横のホテルを予約しており、そのままチェックインして荷物を置くと、すぐにまた外へ出る。午後はくれはさんを訪ねることになっていたので、もうすっかり馴染んだ道を歩き始めた。お店の付近は古い町並みの保存地区でなかなか良い。

お店に行く前に寄りたいところがあった。実は京都でも追いかけたあの売茶翁についての情報が欲しかった。売茶翁はここ佐賀の出身であり、彼がいた寺もあるはずだった。それを知る手掛かりとしては、やはり肥前通仙亭(高遊外売茶翁顕彰会)へ行くのが良いと思われた。以前に一度訪ねたが、その時は売茶翁がどんなお茶を飲んだのかだけに興味が絞られており、有益な情報は得られなかった。

肥前通仙亭の敷地に行くと、売茶翁顕彰碑がそこにあった。中に入ると、丁寧な説明があり、そして売茶翁直筆の書などが展示されているのを見ることができた。売茶翁は佐賀にいたんだな、という意識が芽生えた。だが売茶翁が出家した龍津寺を訪ねたいというと『今は寺自体がなく、その場所を探すのも地元の人でないと分からない』と言われてしまった。

その足でくれはへ行ってみる。実は今日はちょうどMさんの講座が開かれており、その終わる頃を見計らって挨拶に行った形だ。会場は満員盛況で、お知り合いも何人も参加していた。Mさんとは先月京都で会ったばかり。まさかまた佐賀で会うとはご縁がある。皆さん熱心に質問しており、関心の高さが分かる。

夕方になり、講座参加者も散会し、Mさんも福岡へ去っていった。そしてOさん夫妻とお嬢ちゃんと一緒に夕飯に連れて行ってもらった。午後5時半から美味しい物を頂き、何だか楽しい夕飯だった。売茶翁の寺は明日Oさんが連れて行ってくれることになり、更に一安心となる。車で宿まで送ってもらい、早々に休む。

7月16日(木)売茶翁の寺

翌朝宿で朝食を食べた。実は長崎と同じホテルチェーンで料金もそれほど変わらない。だが朝食の取り方は、長崎がビニール手袋をしてビュッフェ料理を取るのに対して、こちらは既にラップされているパンや食べ物をプレートに載せて食べる方式だった。ホテルごとに色々と工夫しているのが面白い。

Oさんと龍津寺へ向かった。バスでも何とか行けるが本数が少ない上、バス停から寺まで分かり難い。車で20分ほど郊外に出ると、周辺には田んぼなどが現れる。Google地図に寺の名前は出ていたが、なかなか行き着かない。何と本当にこの寺に本堂はなく、お墓があるだけだった。そこに比較的新しい売茶翁顕彰碑が顕彰会によって建てられているのだ。やはり歴史というのは簡単には見えてこない。

くれはの近くの旧古賀銀行(佐賀市歴史民俗館)の中で、Oさんと紅茶を飲んだ。ここはいかにも昔の銀行という雰囲気が漂っており、大正ロマンを感じさせる場所だった。ここで日本紅茶の歴史を探す旅について、話が盛り上がり次回の再会を約す。