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大磯茶旅2020(1)鴫立庵と吉田茂邸

《大磯茶旅2020》  2020年9月19日、10月5日

先日小田原に行った時、大磯でお茶作りをしている人がいるとの話が出た。よく聞いてみると、その奥さんは私も知っている人だというではないか。何となく神奈川茶の旅を続けたいと思い、大磯にも行ったことがなかったので、訪ねてみることにした。

9月19日(土)大磯へ

大磯駅は想像よりはるかに小さな駅だった。実は子供の頃、辻堂に住んでいたことがあり、東海道線には馴染みがあったのだが、ここ大磯で降りたことは一度もなかった。そしてここは高級別荘地帯というイメージがあり、駅舎も立派なものを想像していただけに、ちょっと拍子抜けしたわけだ。

駅にはT夫人が迎えに来てくれていた。T夫人とは何と札幌で会って以来、数年が経過しており、札幌で紅茶館を経営していた彼女は、いつの間にかTさんと結婚して、大磯に移り住んでいた。お相手のTさんは以前より茶業を志しており、そこに共通点があったようだ。私は札幌でセミナーを依頼された時、主催者から『紅茶関連はこちらで』と言われて、T夫人と知り合った。お茶のご縁である。

駅前にはTさんが車で待っていてくれ、先ずは鴫立庵に連れて行ってもらった。実に雰囲気の良い茅葺屋根の建屋が見える。鴫立と聞けば、西行法師の『心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮』を思い出すが、何とここはその句が詠まれた場所ではないかということで、その名が付いたという。

しかもそれを言い出したのが、江戸時代初期1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物だったというのが引っ掛かった。彼は小田原の外郎屋と関係があったと言い、興味は尽きない。そんなことをここの責任者のYさんから伺いつつ、見学した。Yさんも歴史好きで、色々と詳しい歴史を説明してくれるので、思いの外、長居してしまった。

法虎堂には、曽我物語で知られる曽我十郎の恋人が祭られているという。大正天皇の奥方で、昭和天皇の母である貞明皇后も来訪の記念碑が建っている。この皇后の歴史、ちょっと興味あり。幕末の蘭学医、松本良順の墓碑があるのはなぜだろうか。鴫立沢の標石(レプリカ)も置かれている。実に様々な時代の歴史が詰まっていて面白い。

T夫人はここで定期的にお茶会を開いているらしい(コロナ禍で開催が難しくなっているようだが)。ただ歴史的建造物なので、火を使うことは許されず、T夫人お得意の紅茶などを淹れているという。T夫妻がここに住んでいるのは、Tさんが隣の平塚出身だかららしい。

続いて、大磯郷土資料館へ行く。ここに先ほどの鴫立沢の石碑があると聞いていたが、何と外にポツンと置かれており、意外だった。資料館の展示では特に、大磯ゆかりの人物たちを知り、その別荘文化について学んだ。大磯の別荘というとどうしても吉田茂邸がイメージされるが、実はそれだけではなかった。

大きな公園を歩いて横切り、その吉田茂邸へ向かう。ここで日本の政治は動いていたのか。だが残念ながら数年前に火事になったと聞いている。勿論見事に建て直されており、サンルームと共に立派で広い日本庭園が目を惹く。広い庭を歩いていくと、海が見える場所には吉田茂像が建っていた。建物の中では、養父吉田健三と実父竹内綱の写真が目に入る。また吉田の長い外交官生活の中で、茶貿易との関連を知りたいところだが、それは見つからなかった。

昼ご飯を食べに行く。魚が美味しいお店でランチを頂く。お目当ての生シラスはなかったが、十分に堪能できるご飯だった。昼過ぎには大磯在住のHさんと会うことになっていた。折角なのでT夫妻もご紹介すべく、一緒に待ち合わせ場所へ向かう。そこは古民家を改装したカフェ。古い茶箱などが置かれており、聞けばその昔はお茶屋さんだったところらしい。

このカフェ、かなりおしゃれで美味しそうなパンなども食べたくなる。1階には中庭のテラスなどで飲食が可能だ。何だか立ち飲みもしている人もいる。古民家の2階は畳の部屋。ここで紅茶をオーダーして、飲みながらゆっくり話す。4人でお茶作りの話などをした後、今度はHさんと二人で、茶歴史などについても話す。日本茶の歴史は本当に分からないことばかりだ。

Hさんと別れて、駅の方へ向かおうかと思ったが、まだ日は高いと思い直し、もう一歩きすることにした。駅のすぐ近くにエリザベス・サンダース・ホームと書かれた場所があったが、入ることはできなかった。岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)の長女として生まれた澤田美喜が設立した児童養護施設。駐留軍兵士と日本人女性との間に生まれた混血孤児たちを預かる乳児院だった。ここは岩崎家の所有地だったのを戦後苦労して買い戻したという。

大磯には明治の有名政治家の別荘が沢山あったと聞いたが、どこにあったのだろう。東海道松並木を歩いて行くと、改修中の広い敷地があった。ここが大隈重信邸だったところで、近日中に、旧大隈重信別邸・陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸の庭園が一般公開するらしい。明治記念大磯邸園という名で纏められている。その先には伊藤博文邸『滄浪閣』と書かれた石碑があり、その後ろに実際の滄浪閣はあったらしい。

神奈川茶旅2020(3)横浜を歩く2

地下の閲覧室に入る。午後は1時半から3時半の2時間のみ使用できる。席は離れており、わずか4席。如何にも大学の研究者といった感じの人が座っており、既に全てを調べ上げたうえで来場し、サクサクと資料を貰ってコピーしている。初めての私はここに何があるかも知らずにやってきたので、係員の人の手を煩わせることになってしまう。

それでも何とか目指す貴重な資料を探し当てたが、何とそれは120年以上前の現物であり、ここでコピーすることはできないと言われてショック。専門業者に依頼して、1-2週間、費用も相当掛かるので、断念した。勿論色々と別の発見もあり、なるほどと思う横浜開港時の資料も見つかった。やはり来てみないとわからないものだ。

結局2時間居たのは要領の悪い私だけだった。外へ出ると日差しがまぶしい。先ほどの大谷嘉兵衛像、実は別の場所にあるとの情報があり、30分ほど歩いて行く。しかしそこは分かり難い傾斜地で、道に迷う。本牧山頂公園の中を歩き回り、ようやく天徳寺に辿り着く。寺の境内の、隅の方に大きな記念碑があったが、像はなかった。訪れる人もなく、なぜここに碑があるのかの説明もない。

帰りにヘボン博士邸跡という看板を見つけた。ヘボン式ローマ字で有名だが、彼と奥さんのメアリーは横浜開港後にやってきた多くの日本人に英語を教えており、ヘボン塾出身者にはあの高橋是清、林董(日英同盟の立役者)、益田孝(三井物産初代社長)などがいる。もちろん優秀な医師、キリスト教伝道者という点も加え、その貢献度は想像以上に高い。

旧居留地を歩いていると、所々に古い建物が保存されている。元浜町通りは既にほぼ新しくなってしまっているが、幕末はここに多くの茶商が店を構えていたらしい。向こうに大きな税関の建物も見え、往時を偲ばせる。イルカが歌った『海岸通り』とは、1871年に埋め立てによって作られた道らしい。

日本大通りを歩き、横浜公園へ向かうと、かなりの人が同じ方向に歩いていく。しかも野球のユニフォームを着ている人が多い。そうか、ここは横浜スタジアム、そして今日は横浜のホームゲームが開催されるようだ。夜は暇だったので、もしチケットがあれば野球観戦でもしようかと考えたが、今回は目的が違うので、大人しく部屋に帰って休んだ。

8月27日(木)横浜を歩く2

翌朝は早起きして、朝食のパンにありついた。やはりパンの方が胃にも優しいのだが、今度は量が足りなくて困った。先ずはホテルの横にある横浜公園を散策する。朝は何とも気持ちが良い。池もあり、庭園風の場所もあり、憩いの場という感じだった。1876年に作られたこの公園、何と日本で最古(日本人に開放された最初)の公園だと書かれている。

設計者は土木技師リチャード・ブラントン。1866年大火の後、遊廓跡地に公園を作り、公園から港に向かって新道路を建設、それが日本大通りとなった。日本大通りとは居留民と日本人を分ける道路だったという。尚ブラントンはスコットランド出身、日本中に何と26もの灯台を作った『日本灯台の父』と呼ばれる専門家らしい。

それから港の方へ出てみた。天気が素晴らしく、空も海は青かったが、最初に開港された港は小さかった。そして今日の午前中も再度開港資料館に予約を取っていたことから、また出かけて資料を漁った。少し時間があったので、資料館自体の展示物もついでに眺めてみる。でも一番興味深いのはこの建物自体かもしれない。

資料館を出て、またフラフラしていると、中居屋重兵衛店舗跡という看板が目に入る。重兵衛は開港と同時に群馬から出てきて生糸貿易で財を成した人物と言われているが、幕末でその名が消えている。どうも何かの事件に巻き込まれたようで、ちょっと興味を惹かれる。また調べてみよう。

神奈川県博物館は、1904年横浜正金銀行本店として建てられた。建物は重厚そのもので、そして大きく、形もよい。中の展示物にも興味深いものが多いが、開港場としての歴史は多くない。横浜正金といえば、アジア各地にその足跡が見られるが、小説家永井荷風はニューヨークとリヨン支店に勤めていたらしい。何で永井荷風が、と思うのだが、永井の父久一郎は、明治初期にアメリカに留学したエリート官僚で、その後日本郵船上海支店長なども務めた国際派だったという。

腹が減ったので、その辺の中華食堂に入った。回鍋肉が急に食べたくなり、注文する。当たり前だが、日本の回鍋肉はキャベツだ。しかもその量が多く、キャベツ炒めを食べているような気分ではあるが、店員の中国人は愛想がよく、やはり日本だ、と思ってしまう。

午後は横浜郵船ビルの博物館を見学する。三井と三菱の戦いなどは興味深いが、私が思っていたような展示はなかったので、そのまま海岸沿いを歩き、山下公園で氷川丸を見学する。アメリカ航路の様子(一等船室など)など、参考になるものも見られた。ホテルニューグランドでナポリタンでも食べたい気分だったが、暑くなってきたので、そのまま帰路に着いた。

神奈川茶旅2020(2)横浜を歩く

最後に開成にあるTさんのお店にも寄った。普段は小田原に住み、茶畑は山北、店は開成と拠点が多すぎるので、変更を検討しているという。ただこれもまたご縁。(その後山北駅前商店街に移転したとのこと)

Tさんは漢方アドバイザーでもあり、漢方を取り入れたブレンド茶を特色としている。正直漢方の生薬や花の入ったお茶は苦手だと思っていたが、こちらのお茶は実に飲みやすい。そして効き目も期待できるとのことで、早速購入して飲んでみることにした。特に目が疲れやすいので、それに合わせた茶を選ぶ。これは意外な発見だった。

そこからWさんの車で横浜駅まで乗せてもらった。何と今晩は人生初の横浜泊なので、駅ビル内で夕飯も一緒に頂く。横浜駅といえば人が多いことで有名だが、レストランはどこも閑散としており、ちょっと心配になるほどお客はいなかった。我々もサクッと定食を食べて、さよならした。そういうご時世なのだ。

横浜駅から日本大通り駅まですぐだった。そこから歩いて5分ほどのチェーンホテルを予約していた。夜この付近を歩くとライトアップもあり、雰囲気はよい。何と1泊朝食付きで3000円は格安だろう。フロントの対応もきびきびしていて気持ちが良い。枕も選べるのがうれしい。部屋は変型2段ベッドになっており、広くはないがスペースがある感じ。普通はファミリーが使う部屋なのだろう。

8月26日(水)横浜を歩く

翌朝はゆっくりと目覚めた。午前8時に朝食を食べに行ったが、何とパンか弁当かの選択。そしてすでにパンは無くなっており、朝から量の多い弁当を食べる羽目になってしまった。これもコロナのせいだ。部屋まで持って行くのも大変だったが、意外と多くの人がそうしていた。やはり感染は怖い。

9時には宿を出て歩き出す。ここはどこに行くにも便利な場所。先ずは何となく中華街へ行く。勿論人は歩いていない。天后廟をお参りする。それから山手の方へ向かい、外国人墓地に辿り着く。自由に入れるのかと思っていたが、一般の見学は制限されており、お墓を探すことはできなかった。

港が見える丘公園、こんなところを歩くのは何十年ぶりだろうか。風が少しあり、さわやかだ。旧ゲーテ館やイギリス領事官などの建物が見える。神奈川県近代文学館もあるが、今回の目的と関連がないのでパスして、公園から港を眺める。何となくユーミンの曲を思い出す。

少し下っていくと、古びた建物が見えた。ここはフランス山と呼ばれ、幕末から明治初期、フランス軍が駐留し、その後領事館などが建てられた場所だったという。この時代の歴史、そして茶貿易には大いに興味が湧くが、この遺構を見ても残念ながら汲み取れるものは何もない。

そこからバスに乗って、伊勢山皇大神宮に行く。ここに来た理由、それはウキペディアに『大谷嘉兵衛像』があると書かれていたからだ。ところが広い境内、階段を上り下りしても、一向にそれは見つからない。もう一度ネット検索してみると、私と同じようにそれを探して、ここにはないことを確認したとの報告があった。戦時中像は供出されてしまったようだ。

大谷嘉兵衛は三重出身で、幕末に開港したばかりの横浜へやってきて、若くして茶業を始め、明治期日本一の茶業者になった男だ。茶業組合の会頭も務め、明治の茶業界に大きく貢献した。特に茶葉輸出が重要であったため、横浜に像が建てられたのだろうが、今ではそんな彼を知る人は一部の茶業関係者だけになってしまっている。

神社のすぐ近くになる神奈川県立図書館に立ち寄る。ここは幕末の開港場建設のために神奈川奉行所が置かれた場所だとある。中に入るとコロナ禍で人は少なく、静か。だが資料を探す環境は整っており、また多くの資料が眠っていたので、有意義なコピーができてよかった。

そこからトボトボ歩いて宿の方に戻る。途中にレトロで立派な建物があったので、思わず入ってしまった。目立つ時計塔がある横浜市開港記念会館だった。中もレトロでステンドグラスがきれい。このステンドグラスに描かれているのが、ペリー来航時の黒船ポーハタン号だ。岡倉天心がこの付近の生まれであることなどを知る。

シルクセンターまで歩いていく。ここは元英一番館があった場所で、今は記念碑だけが建っている。ここは旧山下町居留地一番館であり、あのジャーディン・マセソン商会横浜支店があった場所ということになる。ここでは往時活発な茶貿易が行われたのだろう。明治初期には吉田健三(吉田茂の養父)が支店長をしていた時期もあり、何とも興味深い。

そして今日のメインイベント、横浜開港資料館へ行く。英一番館の反対側にある。コロナ禍事前予約が必要で、予約しておいた。午前か午後を選ぶのだが、入れるのはわずか4人という狭き門だ。この建物は元英国総領事館として使われ、歴史的に貴重であり、そして中にも貴重な資料が残っていた。

神奈川茶旅2020(1)小田原から足柄茶へ

《神奈川茶旅2020》  2020年8月25日-27日

7月にあるはずだった東京オリンピックは1年延期となり、何となく7月、8月と過ぎていった。この間どこへ行くでもなく、鬱々とした生活を送っており、体調も捗々しくなかった。このままではどうかしてしまうと思い、また原稿にも差しさわりが出てきたので、近県へのショートトリップを敢行することとなった。

8月25日(火)小田原で

朝の電車に乗るのは実に久しぶりだ。コロナ、コロナと騒いでおり、オフィスワークの7割削減を叫んでいる都知事をしり目に、電車はいつも満員らしい。勿論学校が休みなので、幾分緩和されているが、7割削減などあり得ない。もし本当にそうしたいのなら、先ずは首相や知事がオフィスに出ないで、リモートワークしている様子を見せるべきだ。そして記者会見などもすべてリモートで行うべきだ、と考えるのは、私だけではあるまい。それができないなら、リモートワークなど絵に描いた餅、企業に対する無理強いに過ぎない。日本は完全なデジタル後進国なのだから。

少しでも混雑を避けるため、京王線を新宿方面と反対に乗り、京王永山から小田急へ切り替え、小田急線下り電車で小田原を目指した。小田原駅は静岡方面に行く時によく通る駅だが、実際にここで降りて観光するなど、近年は一度しかなかった。その日も雨でほぼ何もできなかった思い出しかない。

駅で日本茶インストラクターのWさん、中国茶荘を経営しているMさんと待ち合わせた。そこへ小田原在住で茶作りもしているTさんが迎えに来てくれ、4人旅となる。先ずはお昼ご飯を食べに行くらしい。車窓からは小田原城が見える。ここは改修後、まだ行っていないが、今日はとても時間がなさそうだ。

ちょっと行くと、箱根板橋というところに古めかしい建物があった。下田豆腐店という90年の歴史ある豆腐屋だったが、既に閉店となっていた。そこへ何と、インド料理を出す店ができたというのだ。中に入ると、何とも立派な揉捻機や乾燥機が置かれており、紅茶が今すぐにでもできそうだった。

このお店、如春園は小田原でこゆるぎ紅茶を作っているという。元々オーナーOさんは旅行ガイドをしており、インド、スリランカなどへの添乗をしている内に、紅茶の魅力に取り付かれたらしい。更にインドカレーにも目覚め、この3月に開店したという。コロナ禍にあっても、本格的で美味しいカレーと紅茶が評判で、店内は意外と広いのに、ランチは満員盛況であった。またOさんは以前、私の講座を聞いてくれたこともあったようで、ご縁を感じる。

実はここの近所には三井物産初代社長で、大茶人とも呼ばれる益田孝の別邸『掃雲台』が昔あった。9つの茶室で茶会を開く他、農場、牧場、林業の実験場として、チーズ、牛乳工場や缶詰工場などを製品にして三井物産に出荷していたらしい。また戦後すぐ三井農林は一時ここで日東紅茶を作っていたともいう。小田原は紅茶にとっても歴史的場所であり、ここで今、こゆるぎ紅茶が作られているのは、偶然ではないかもしれない。今回は行けなかったが、次回はフラフラとこの付近を散策し、有名人の別邸も探してみたい。

折角なので、如春園さんが、最近植えたという茶畑を見に行くことになった。そこは意外にも旧小田原城内で驚く。勿論現在の城とは異なり、戦国時代あの北条氏が作り上げた広大な城の一部だった。ある意味山城で、豊臣秀吉に攻められて滅亡したのは、この辺なのだろう。石垣の城壁ではなく、環濠が深く掘られ、守られていた。小田原城については、別の機会にもっと調べてみたい。

そんな中の平たい場所に小さな茶樹を見つけるのは、何とも愛おしい感じだ。何とか大きく育ってほしいと思う。その周辺はハイキングコースにもなっているようで、時々人が通っていたが、至って静かな場所だった。次回は自らの足で歩いてここを散策し、併せて探索してみたい。

山北へ

そこから車で約1時間、山北町に行く。今回の目的である神奈川のお茶、足柄茶の茶畑を見に行った。神奈川といっても、山の一本道の、こんなに山深いところがあるのかと思うような場所にその畑はあった。以前はかなりの茶農家があったというが、廃業が続いており、耕作放棄茶園も増えているらしい。見晴らしはよく、富士山が見える日もあるという。

Tさん夫妻は、ここの土地を借りて茶作りに励んでいるという。土地は斜面にあり、茶園の管理は大変そうに見える。それでも茶を作ろうとしているということは、色々と苦労はあるようだが、それはそれできっと楽しいのだろう、と勝手に思ってしまう。

駅のある所まで下りてくると、そこに足柄茶を売るお店があった。外には足柄茶の碑も建っており、近くには茶工場もあるという。神奈川県は何とか足柄茶をブランドにしようと努力していたが、9年前の東日本大震災の影響もあり、なかなか難しい対応を迫られているように見受けられた。

中国地方西部茶旅2020(5)安芸太田の茶処

これから吉賀町に戻っても夕飯を食べるところがないという。Uさんが『海が見えるレストランで食事がしたい』というので、車は帰る道と反対に海に向かっていく。宇部市のあたりまで来てしまったが、ネット検索したその食堂は港の中にあり、しかも閉まっていた。仕方なく、街中のスシローで寿司を食べたが、私にとっては、初めてのスシローであり、デザートまで食べて十分満足できた。

7月22日(水)広島へ

いよいよ今回の旅も最終日を迎えた。今日はインドパキスタンが専門のM先生も加わり、4人で出掛けていく。大学の授業はオンラインとなり、ネットさえあればどこでも授業ができるというので、フィールドワークに来ておられるらしい。コロナ禍にも良い面もあるのかもしれない。私もM先生と話していて、パキスタンやバングラの茶事情について知ることができ、有意義だった。

この吉賀という場所は島根県にあるが、一山超えればすぐに山口県である。今日は広島へ行くというから遠いのかと思ったが、山道を1時間半で広島駅まで着くらしい。ちょっと行けば広島県にも繋がっているのが、この辺の面白いところ。でも車がないとどこへも行けない(広島駅から吉賀町まで直通バスが運行しているらしい)。今日はちょっと雨の予感もある。

午前11時頃には広島駅付近に着いてしまった。そして目指すは広島風お好み焼きだ。有名なお店に開店と同時に突入して味わう。ソースやマヨネーズのいい匂い。いや、こういうのが食べたかったんだよな、という味がする。店内にはお客がどんどん入ってきて、コロナどこ吹く風状態だった。満足、満腹で店を出た。

それから安芸太田という辺りに向かう。道の駅へ行くと美味しそうなソフトクリームがあったので思わず食べる。本当に道の駅にはいろんなものが売っている。そこで地域振興を担当する方と待ち合わせて、お茶関連の場所まで案内してもらうことになっていた。雨脚が強まる。付近には加計という地名が見られるが、あの有名になった加計学園と何か関係があるのだろうか。

案内された場所は、広々とした民家だった。中に入ると実にきれいで驚いた。何と空き家を改装して貸し出す事業を行っているという。いわゆる民泊だろうか。見晴らしの良い農村風景、思わず座り込んで見とれる。地元の古老がやってきて、この地の茶の歴史が書かれた町史などをもってきて見せてくれる。

この付近も江戸時代は芸州浅野家の領地で、茶業も奨励されていたという。やはり江戸時代、作物が取れない山間部で、政策的に茶は作られていたということか。更に明治初期、茶の輸出が始まると、茶工場が建ち、茶問屋が茶葉を捌いていたらしく、広島県の茶処と言われたという。

隣の納屋のようなところへ行くと、昔使われていた釜炒り用の鉄釜と炉が残されていた。小さいので自家用かと思われるが、昨日も見たように、中国地方山間部は伝統的に釜炒り茶だった様子が見て取れる。果たしてこの釜炒り製法はどこからどのように伝わったのだろうか。それを解くカギは残念ながら今回見つからなかった。

この近くにお茶の専門家がいるので、と言われ待っていると女性がやってきた。Kさんという日本茶インストラクターで、何と私のことを知っているという。元々は九州の方で共通の知り合いもいた。今はこの地に移り住み、地域振興活動などもしているようだ。それにしてもこの山奥で、自分のことを知っているという人が現れるとは驚き以外の何物でもない。

いつのまにか雨も上がったので、周囲にわずかに残る茶畑も見た。こちらもこれまで同様、既に産業としての生産は終了しているといってよい。これからは民泊などを見据えた風景の一環として、茶畑や茶の歴史が登場するのかもしれない。

名残惜しかったが、加計地区を離れた。そして車で広島駅まで送ってもらい、そこで皆さんと別れて新幹線に乗る。M先生から『駅弁はたこめしがうまいですよ』と教えられたので、それを探す。今は乗客が少ないせいか、時間的な問題か、駅弁はわずかしか残っていなかったが、その中にたこめしがあったので、買い込んで慌てて新幹線に飛び乗る。

さすがに新幹線は空いていたが、夏休みシーズンを迎え、全国的にはGoToトラベルの運用が始まり、旅行客が戻ってくることだろう。だが、東京は除外されてしまった。これはどう見ても、国民に対する不公平な措置と言わざるを得ない。科学的根拠も示されず、恣意的な政策決定?アメリカなら必ず訴訟になるだろう。そして私の国内旅はここでまた一時中断を余儀なくされてこととなってしまった。

中国地方西部茶旅2020(4)鹿野茶、そして小野茶へ

最後に津和野にある太皷谷稲成神社(稲荷を稲成と書くのはここだけ?)に参拝した。日本五大稲荷の一つで、朱色の千本鳥居を潜ると、津和野の町並みがいい感じで眺められる。ここでお揚げ包(お揚げ、ろうそく、マッチ)をもらい受け、拝みたい稲荷の前に行き、それを供えるとご利益があると聞き、やってみる。ご利益のほどは定かでないが、気持ちはよい。ここは北白川宮家ともご縁があるようだ。

そして夕暮れが近づく中、ついにUさんの住む、島根県吉賀町にやってきた。ここは昨年3月に一度お邪魔しており、その際外から見た立派な旧家に泊めてもらえることになっていた。ここは某お笑い芸人ゆかりの家であるが、庄屋さん格、2階建ての豪邸で部屋数も多かった。夕飯は途中で仕入れてきた魚などを材料に、Uさんが用意してくれ、ここに住むAさんと3人で、美味しく頂いた。この家は古いためこれから徐々に改修されるようだが、一応シャワーもあり、蚊の出現なども心配されたが、私には問題ない住環境でぐっすりと眠れた。

7月21日(火)鹿野茶、小野茶へ

さわやかな朝を迎えた。朝ご飯を食べさせてもらい、今日もUさんの車で出発するが、一体どこへ行くのだろう。Aさんと3人で山道を50分ほど行くと、川が流れ、自然豊かな山間集落が出現する。その道沿いに茶樹がちらほら見え隠れしているとテンションが上がる。如何にもUさんが好む光景だ。

近所で聞き込みをすると、80歳になるSさんが親切にも、この付近の茶の歴史を説明してくれた。茶はその昔(少なくとも明治初期)から作っているが、最盛期はかなりの量を出荷していたという。だが近年は人口減少(23軒あった家が今は6軒のみ)と高齢化が進み、自分たちの飲むお茶を生産しているだけだ。毎年5月に若葉を使って釜炒り茶、ほうじ茶を作る。番茶という名称は使わない。Sさんに案内されて、茶畑も見た。緩斜面の狭いところに茶樹が植えられている。

そこからまた山道を30分ほど行くと、集落があった。こちらは以前Uさんが訪ねたことがあるという。Nさんというお宅へ寄ったが、ご主人は介護ベッドの上におり、奥さんは『こんな状態だから、もうお茶は作れない』と残念そうに話してくれた。これが山間部の現実かもしれない。もうすぐ山のお茶は消えてくことになりそうだ。

鹿野という街へ向かっていると、山の中に突然看板を見つけた。降りてみると『井上豊後守墓所』と書かれている。何と戦国時代に毛利家に仕えた武将だったらしい。墓も非常に古く、家臣の分も含めて沢山ある。そしてあの長州ファイブの一人、鉄道の父井上勝がその子孫だと言い、また井上薫も一族内の人間であるらしい。こんな山奥に戦国を見るとは思いもよらない驚き。

そこから1時間以上走って鹿野に着いた。腹が減っていたが、食堂なども見つからず、もちろんコンビニもない。昼飯抜きか、と思っていたところ、偶然食事処が目に入る。何という幸せ。すぐ飛び込んで美味しいとんかつにありついた。そしてそこの奥さんが実に愛想がいい。聞けば大阪から嫁いできたといい、『田舎町ではいつまで経っても、余所者なのよ』と笑いながら、余所者の我々に色々と話してくれた。その中で鹿野茶について聞くと、関係者と連絡を取ってくれた、感謝だ。

鹿野ファームという直売店で鹿野茶を買ってみた。更に町外れの『たぬき』というお店へ行くとご主人は鹿野茶の製造もしており、話を聞きながら、手作りの製茶道具なども見せてもらった。5月の田植えが終わると茶作りをするらしい。鹿野茶の起源は1374年漢陽寺を開いた用道禅師が中国から茶の実を持ち帰りこの地に植えたことに始まるという(この時代に、こういうことは普通だったのだろうか?)。江戸時代、鹿野茶は有名ブランドだったとか。昭和初期でもかなりの産量があったというが、現在は細々と作られているだけ。漢陽寺は先ほど横を通り過ぎただけだったが、中に入って見るべきだったと後悔したが後の祭り。

そこからさらに1時間ほど車に乗り、小野茶の産地へやってきた。山口茶業は、観光茶園でも売り出しているのか、リゾートのような素晴らしい空間の中にあった。H社長は2代目で、初代の父親が八女から移住して、高度成長期に小野茶開発に努めたという。役所と連携して、広大な茶畑を造成している。今日回ってきた中で、企業型の茶業は初めてだった。釜炒り茶も作っているとのことだったが、『大量には売れないよ』と残念そうにこぼす。

その造成された茶畑も見に行った。確かに広い台地に茶畑が向こうの方まであった。防霜ファンも見え、伝統産業とは全く違う光景だった。だがその一部には耕作放棄茶園も見られた。ここもご多分に漏れず、後継者不足、そして茶価の低迷の煽りを受けているようだ。夕暮れの台地が少し悲しい気分にさせた。

中国地方西部茶旅2020(3)佐々木小次郎と静御前の墓参りをして

7月20日(月) 山中で驚きの発見

朝食は早めに食べた。おにぎりとみそ汁、サラダにたまご、十分な量だった。宿泊客がそれなりに居たことはこの時に分かった。食堂にスタッフはいたが、フロントはやはり誰もいなかった。チェックアウトはカギをボックスに入れるだけ。とても簡単でよい。

9時にUさんが車で迎えに来てくれた。Uさんは島根県と山口県の県境に住んでおり、車で1時間ぐらいかけて萩に来てくれた。事前打ち合わせはしておらず、彼女は今日、萩を回ろうと考えていたようだが、私の昨日の行動を聞いて、素早く全てを変更してくれた。この機転は素晴らしい。

『じゃあ、これから珍しいお城の跡を見に行こう』と言われ、キョトンとしていると、萩市大井の海岸沿いに着いた。昔漁港だったのだろうが、今は実に静かで人影もない。そこから少し上ると、鵜山(うやま)という丘があった。そこに壠(グロ)と呼ばれるお城の外壁、石組みのような構造物を突如出現して驚く。

グロはかなり高い石垣で、沖縄で見たグスクを思い出す。グロとグスク、どこか音も似ている。ここは城なのか?元寇の時の防御だったのか?グロに関する詳しい資料は全くないとのことで、真相は闇の中である。近くには湊古墳などもあり、この地域がどの程度の歴史を持っているのかも含め、まさにミステリーだ。そして簡単な丘なのに、道に迷ってしまうという不思議。なんだろう。

そしてなぜUさんはこんな場所を知っているかも謎だった。その理由はいとも簡単で、『山の中に野生の茶樹が生えていないかを探して、島根、山口などの山間部を訪ね歩いていると、自然と出てくるのだ』というので、これまた驚いた。まさにUさんならではの茶旅が展開されている。

そこから今晩のおかずを買いに行く。新鮮な魚が沢山車に積み込まれた。私はただ車の助手席に座っているだけで、どこへ行くのか、今どこにいるのかもよくわからない。そして今度は『お墓参りに行きましょう』と言われ、また車に揺られる。阿武町という土地の山間に到着する。何と佐々木小次郎の墓と書かれているではないか。その墓は古びており、文字もよく読めない。正直『小次郎って、いつ死んだんだ』などという愚問が頭を過る。そう、彼は巌流島で死んだのだ。

佐々木小次郎という名は有名だが、その生涯について知っていることはわずかだとこの時気づいた(先日小倉城には行ったが、何も勉強しなかった)。そしてここにあった説明書きに興味を持ち、調べることにした。まさか小次郎の妻がキリシタンで、と言われると、もう頭は真っ白だった。そしてササっとウキペディアで小次郎を探ると、何と巌流島の小次郎は69歳だったとある(戦前の定説?)ではないか。妻は妊娠中とあるから、小次郎は69歳で子をなしたのか(何となく加山雄三の父、上原謙を思い出す?)?調べた結果がこちら。

それから、道の駅「うり坊の郷katamata」というところにも寄った。田舎では何といっても道の駅が頼りだ。むつみ肉と書かれた猪肉を中心に奥あぶ清流米やトマトソフトクリームが名物だという。ここには日干番茶が売れられており、今回の旅の目的、『日本の山間部の茶業を訪ねる』がようやく登場した。

そして更に墓参りが続く。今度は何と静御前だ。静御前は小野小町などと並び、美人ということもあってか、その墓は全国にあるという。だが義経や静ゆかりの地といえば、東北、京都、鎌倉などと思われ、少なくとも山口に関係があるとは思えない。

田んぼ道を行くと、『静御前の墓』という看板が数十メートルおきに出てきてびっくり。よほど行政が力を入れているのだろう。しかしよく見ると『伝説』という文字も見える。その墓は少し山を入ったところにあった。母親磯禪尼と義経の子の墓も一緒であるが、かなり古びており、ちょっと崩れかかっている。果たしてこれは本物なのか。

そんなことを考えている私の横でUさんは真剣に何かを眺めていた。このお墓に通じる参道に茶樹が植えられていたのだ。こちらはどう見ても最近のものだが、一体だれが植えたのだろう。その意味を知りたくて、そして静御前の歴史を知りたくて、何と町役場に押し掛けた。静については、一応資料はあるものは正直よくわからない(義経と壇之浦が結びついた?)いう。

茶樹についても『そんなのあったっけ?』と言われるも、その時偶然電話が鳴り、何と掛けてきた人のお父さんが植えたことが判明する。その家を教えてもらうとさっきの墓のすぐ近くだったので訪ねて行ったが、あいにく留守で事情を聴くことはできなかった。しかしこれは何とも面白い展開だった。帰り掛け、教えられた道の駅に行くと、静御前の像まで建てられていたが、地元の人も訳がわからないのではないだろうか。

中国地方西部茶旅2020(2)萩で幕末史を堪能する

街を歩くと、高杉晋作生誕地や木戸孝允旧宅などが、ぞろぞろ出てくる。そこをちょっと見学するのに、いちいち100円程度の入場料を取られるのは非常に煩わしい。萩城下は世界遺産にも登録されているというのだから、もっとまとめてもらいたいと思ったら、最後の方で共通券があるのが分かったが、もう遅かった。

城下町から少し郊外に出ようと歩いていると、途中で藩校明倫館を外から見た。非常に立派な木造の建物があり、しかもその後にも数棟が続いている。これは思ったよりはるかに広い。水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と共に日本三大学府の一つに数えられていた明倫館。吉田松陰を筆頭に、井上馨、桂小五郎、高杉晋作、長井雅楽、乃木希典など、さすがに多彩な人材が学んでいた。

隅の方に、最近長州ファイブの説明があった。幕末英国密留学を果たしたのは井上の他、伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士だった。知り合いの香港人がロンドン大学卒業生で、彼から以前その名前を聞いて興味は持っていた。井上馨は外交、遠藤は造幣、山尾は工学、伊藤は内閣、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」と呼ばれ、明治日本の原動力になっていた。だが明倫館に通えたのは井上だけだったことは、明治維新とは何かを考えさせられる。

松本川を渡り、松陰神社を目指した。萩といえばやはりここに来なければならない。坂本龍馬にゆかりの薩長土連合密議之處などの碑もあり、ムードは盛り上がる。1862年竜馬は武市半平太の手紙を持参して萩に入り、久坂玄瑞らと会合を持った。これが後の薩長同盟に繋がるとの説もあり、久坂の影響で竜馬は土佐を脱藩したらしい。

そして神社に踏み込むと、かなり広い敷地を持ち、松下村塾の建物が復元されている。こんな小さな建物の中に連日若者が溢れかえって、激論を交わしていたのだろうか。松陰が押し込められていた旧宅も保存されている。ボランティアの人が観光アンケートを行っており、珍しく付き合って答えたら、水を貰った。

そこから少し行くと、伊藤博文の像やその別邸が開放されていた。更に吉田松陰生誕の地や松下村塾発祥の地がある。実は吉田稔麿生誕の地の碑も小さく見えたが、この稔麿という人物もちょっと注目されてきている。松陰の叔父で教育者の玉木文之進の家も残されていた。そして東光寺という立派な寺まで来た。ここは黄檗宗だ。

そこから坂を上っていくと、松陰、玉木文之進など吉田家、久坂玄瑞や高杉晋作、その他、幕末の歴史で名前が出てくる人々の墓が沢山ある場所に出くわした。これは歴史好きにはたまらない場所かもしれない。そして小高い丘から、眼下に街が見えた。そして松陰の像があり、この付近が本来松陰の生まれた家の跡だと書かれていた。

一体何キロ歩いたのだろうか。さすがに疲れて足が動かなくなった。おまけに雨が落ちてきそうな天気となり、周遊バスを利用することにした。これは30分に一本程度しかないが、大体どこへでも行けるのでとても便利。しかも料金は100円だ。萩駅なども通ったが、その先の海が見える場所でバスを降りてまた歩き出した。小さな港は静か。藩の船倉があり、古い町並みが見え、雰囲気が良い。

かなり歩くと、野山獄跡までたどり着いた。ここは松陰が海外渡航失敗後に投獄された場所で、ここでも受刑者などに教育を施したとあるが、今は記念碑が建っているだけである。午後4時過ぎまで歩き回ってしまい、しかもご飯はモーニングうどんしか食べていなかった。こんな時間にやっている食堂もないだろうと、宿に戻りかけると、何と今朝のモーニングうどんの店が目に前に現れた。これはもう食べるしかないと、かつ丼セットを注文。腹ペコなので腹一杯詰め込んで満足した。

ようやく宿に行き、チェックインを済ませた。ここは大型ホテルであり、大浴場もあるというので、疲れた体を癒すためにさっそく浸かりに行く。さすがにこの時間は誰もいなくて、ゆったりできる。露天風呂もあり、快適だ。さっぱりすると、のどが渇くが、飲み物も無料コーナーがあり、充実している。部屋も広めだ。これで朝食付き、料金は5000円程度だったので、当たりホテルだろう。週末は近隣から泊り客が来るようで、意外と混んでいた。このまま夕飯を食べに出ることもなく、ボーっと休息に充てた。

なおこのホテルは、B&B式バジェットホテルという表現を使っており、フロント業務も午後の一定時間だけで、あとはなんでもセルフサービスになっている。料金を抑えるという意味と、コロナ対策という両面から、なかなか良いアイデアだと思われたが、どうだろう。

中国地方西部茶旅2020(1)萩へ

《中国西部茶旅2020》  2020年7月19日-22日

長崎から佐賀、福岡と進み、本来はここで一度東京へ戻る予定だったが、島根在住のUさんから連絡があり、2-3日時間があるというので、小倉から山口方面へ向かうことになった。茶旅はまだまだ続いていく。

7月19日(日)萩へ

小倉に2泊して、なんだかスッキリした。Uさんと明日萩で待ち合わせとなったので、今日は移動日、萩に到着すればよい。だが私は萩に行ったことがなく、歴史的にはどう考えても興味深い場所なので、朝一の電車に乗って急いで小倉を離れた。これまで食べ過ぎたので、宿の朝食は食べなかった。

先ずは山陽本線下関行きに乗る。僅か15分で本州へ渡る。そこからすぐに新山口行に乗り換えて30分、厚狭まで行く。厚狭を『あさ』と読むらしい。古来「あづさ」と呼ばれ、中世以降「梓弓」に関係の深い地名から「あさ」に変化したとか。何となく日本語ではないような気もするが、どうだろうか。

ここからJR美弥線の2両編成に乗り換える。それまで海辺を走っていた列車は山の中に突っ込んでいく感じになり、ところどころに田園風景が広がる。当然乗客は少なく快適。1時間ほど乗ると、長門市駅で山陰本線の1両列車に乗り換えて、最後は海を見ながら、東萩まで行く。合計約3時間。

途中駅で聞いてみると、山口県内はSuicaがほぼ使えないとのことで、切符を買い直した。山口県はJR西日本に再三要請しているというが、進展は見られないとか。安倍首相のおひざ元でこんなことがあり得るのだろうか。そうか、安倍さんは電車に乗らないから分からないんだ、きっと?!デジタル化推進とは何だろう?

朝10時過ぎに東萩駅に着いたが、さてどうしようか。予約した宿は駅のすぐ横にあったので、先ずは荷物を預けようと出向いてみると、何とフロント業務は午後までやらないと書かれており、スタッフは誰もいなかった。ただコインロッカーがあり、『宿泊客は無料で使える』となっていたので、そこへ荷物を押し込んだ。

そして駅の観光案内所で地図を貰う。係りの女性に『どちらから?』と聞かれ、ドキッとしながら『東京から』と答えると、ニコニコして『世田谷に松陰神社がありますね』というので、驚いた。何だか気分が愉快になって、足も軽くなる。そのまま歩いて、萩城跡へ向かったが、途中で一軒の食堂が見えた。このコロナ禍にも拘らず、行列ができており、思わずのぞき込むと『モーニングうどん』と書かれているではないか。気になってしまい、つい中に入った。

肉うどん360円は確かに安い。そしてネギは小鉢に取り分けられていて、いくらでも食べてよいという。何とも気前が良い。汁の味も甘みが程よく、美味しい。今日は日曜日、朝から家族でモーニングうどんを食べているのは、何とも微笑ましい。お店の人も余所者にも優しく、気に入ってしまった。

元気一杯で萩城跡まで歩く。突然楫取素彦生誕の地という看板に出くわした。さすが萩。幕末、明治に名の知れた人物を多く輩出している。楫取はNHK大河ドラマ『花燃ゆ』にも登場した、吉田松陰の親友。松陰の妹寿が嫁いだが病死、そしてもう一人の妹で大河の主人公だった文(久坂玄瑞未亡人)を後妻としている。

因みに楫取は、1864年長崎に勝海舟を訪ね、長州藩の窮地を救ってくるよう頼んだりもしている。この時坂本龍馬とも再会している。明治に入ると群馬県令となり、養蚕、生糸貿易を熱心に奨励し、文夫人はニューヨークで成功した新井領一郎に松陰形見の短刀を託している。楫取素彦、もっと注目されるべき人物だと思う。

城の手前には菊ヶ浜と呼ばれる海水浴場もあったが、さすがに水遊びは禁止のようで、人もほぼいなかった。萩城は関ケ原の後、毛利輝元が築城し、居城となった。幕末の動乱で不便となり、山口に移るまで長州藩の中心地。今は解体され、石垣などは残っているが、見るべきものはあまりない。

城の近く、毛利輝元の墓がある、天寿院も訪ねてみた。ここは廃寺となり、墓だけが残っている。管理維持費として参拝者は20円払うようにと書かれていたが、毛利家はそんなに貧しいのだろうか。いや歴史観光を売り物にするのであれが、市がこの程度の維持費を負担するべきではないだろうか。外国人が20円の看板を見たら、相当の違和感を覚えるであろう。

そこから萩城下町が始まっていたので歩いてみる。武家屋敷が並んでおり雰囲気はある。立派な像を見つけたが、何と田中義一だった。陸軍大将で、昭和の初め総理大臣にもなっているが、生家は藩主の駕籠かきだったとある。萩博物館を訪ねると、何とコロナで事前予約制となっており、見学できなかった。仕方なく、ショップで資料本でも探そうと思ったが、ここも検温などがうるさく、結局何も見ずに出てきた。

九州北部茶旅2020(11)北九州 ユニークなTea House

小倉駅からJR日豊本線に乗り込んだ。20分ほど乗って朽網という名の駅で降りた。正直何と読むのか分からなかったが検索して、『くさみ』だと知る。網から海を連想したが、どうも海はないらしい。なぜこんな地名になったのか。ネット上では『景行天皇が土蜘蛛討伐の際に、葛の網をしいたところそれが朽ちたことに由来』とか『「くさ(臭)」+「み(水)」で、臭みのある水(飲めない水)に由来』とか説明されているが、何となくピンと来ない。

駅から上り坂を上がり、国道らしき道に出た。ここに来た理由、それは昨年3月の四川旅でご一緒したMさんが凰茶堂という中国茶のお店を出していると聞いたからだ。そのお店は想像していたよりずっと大きく、車が何台も止まっていた。午後1時ごろだが、ランチを食べる人、お茶を飲む人で賑わっていた。お茶だけでなくスイーツも充実しているようだ。

ここ3か月はコロナで様々な問題があったが、ソーシャルディスタンスや除菌など1つ1つの課題をクリアーしてお店をオープンさせているという。話を聞いていると思った以上に飲食業は大変だと痛感する。Mさんは忙しそうだったので、私は奥まった席でお茶をオーダーしてまったりと飲み、美味しいデザートをサービスしてもらってご機嫌になる。

ランチのお客さんが捌けた頃、茶葉を売る辺りに移動して、Mさんと無駄話を始めた。このお店、思ったより遥かに茶葉の種類が多く、またマニアックなお茶まであって、見ていても楽しい。それは店主の拘りだろう(まあ、あの四川省の茶旅にやってくるくらいだから)。

その間も地元のお客さんはひっきりなしにやってきて、中国茶を飲む人がこんなに多いのかと、ちょっと驚く。地域に根付くには苦労も多いのだろうが、何とも頼もしい限りだ。コロナに負けず、お店を続けていって欲しい。そしてまたいつか、一緒に茶旅する機会があればよいなと思う。

朽網駅に戻ると、何と電車が止まっているという。こういう場合、どうしたらよいのか、考えは全く浮かばない。だが幸いなことに頭を巡らすまでもなく、なぜか電車はやってきて、すっと乗り込み、小倉駅まで戻った。ホームを歩いていると、『北九州名物 かしわうどん』が目に入り、突然腹が減った。そういえばちゃんとお昼を食べていなかったのだ(さっき凰茶堂で飲茶を食べなかったことが急に悔やまれる)。甘い汁で煮しめた鶏肉が上に乗り、ネギとの相性がとても良い。こういうローカルフードが好きだ。

宿には戻らず、また商店街を散策する。美味しそうな和菓子屋さんがあったので、思わず寄り道した。日本茶旅ではやはり和菓子の魅力が大きく、まんじゅうなどを1つ買って部屋で食べるのが病みつきになってしまった。ついでにこの先で渡すお土産も購入して満足する。

そして午後は、駅近くにあるバーに向かった。昼からバー?酒も飲まないのにバー?と言われそうだが、昼はカフェ、夜はバーのホルンというお店があるという。狭い入り口には、おしゃれにTea House Hornと書かれている。中に入るとバーカウンターがあり、奥にはテーブル席が意外とたくさんあるようだった。

このお店は、バーテンダー店長のMさんが和紅茶の美味しさに目覚め、夜の本業以外に昼間は和紅茶専門カフェとして運営しているというのだ。私は近年酒を飲まないのでバーに行くことはないが、バーカウンターでゆっくりバーテンダーとお話しながらドリンクを味わいたいという密かな欲求は持っていた。そういう人の気持ちを満足させてくれるのが、ホルンだったのだ。

Mさんがゆっくりと和紅茶を淹れてくれた。最近の和紅茶は物によっては非常に質が高い。そして和洋どちらのお菓子にも合うような気がしており、美味しく頂く。Mさんは若いころからバーテンをやっていて、既に10数年の経験があるという。そして和紅茶との出会いで、新たな可能性に目覚めた。こんなお店が全国にあればいいな、楽しいなと思ってしまう。

夕方5時を過ぎると、夜の営業準備に入るというので、この心地よい空間を退散した。また商店街に戻ってみると、土曜日の夕方で人混みがすごい。コロナなどどこ吹く風だ。夕飯に何を食べようかと悩んだが、前回滞在時に焼うどんを食べたので、今回はとりかつ丼にしてみたいと思う。さっきかしわうどんを食べたことなど完全に忘れ去られている。

ところがとりかつ丼で有名店だという店はなぜか夕方前に閉店となってしまっていた。検索すると同じ店の2号店が別の場所にあると知り、そこまで歩いて向かった。川沿いのショッピングモール内のフードコートのような場所にそれはあったが、こちらはなぜかかなり空いていた。とりかつ丼とみそ汁、サラダセットを注文。とりかつは甘みがあり、私の好みだった。九州北部の旅はこうして終わりを告げた。