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会津から北関東へ2020(4)那須から水戸へ

12月10日(木)那須から水戸へ

翌朝は食堂で立派な朝ご飯を食べた。このホテルはそもそも病院が研修生のために建てたらしいが、それにしても立派だ。きれいで、しかもGoTo対象だから格安で泊まれた。名残惜しかったがチェックアウトして病院まで行き、バスに乗って駅の方へ戻る。天気も悪くなかったので、電車に乗る前に少し近所を散策する。

昨日は大山巌墓所の前まで行った。大山の別荘は大山農場の中に今もあるらしい。現在は那須拓陽高校が管理しているというが、こちらもコロナで見学はできない。取り敢えず高校の前まで行く。この高校、スポーツが強いことで有名。長距離ランナー渋井陽子なども卒業生だ。正門は四脚門といい、古びているがこれも大山ゆかりだという。

大山農場へ行ってみると、敷地はかなり広く、外から見てみると、遠めに建物が見て取れたが、洋館の姿はなかった。当時那須には山形有朋や松方正義などが別荘を建てているが、大山はここで本気で農業をしようとしていたのだろうか。折角なので乃木神社も参拝する。こちらはとても立派な神社で驚く。乃木希典もここに別荘を持ち、土地を開拓している。途中に鉄道跡が見られた。昔は木材運搬などに活躍したらしい。

駅まで戻り、電車に乗り込む。今回はSuica利用可能とのことで安心する。そうだ、黒磯以南は首都圏なのだ。宇都宮まで乗り、上野東京ラインで小山まで行く。ここから水戸線で行こうと思ったが、水戸線なのに水戸まで行かず、友部で乗り換えとか。何故なんだろう。高校生の頃、何度か水戸線に乗ったが、考えたこともなかった。小山駅で駅うどんを掻き込む。

本当に静かな田舎を水戸線は走っていく。1時間ちょっとで友部に着くと、向かいの常磐線に乗って水戸へ行く。水戸へ行くのは1年先輩の結婚式以来だから、32年ぶりぐらいか。駅に着くと横にある宿に荷物を預けて外へ出た。先ずは県立図書館を目指す。ここで茨城の茶業史を調べ、コピーを取る。

それから街歩き。弘道館など徳川慶喜関連の場所を歩く。ただ彼は幼少の頃しか水戸に居なかったので、実はゆかりの場所は多くない。お城の周囲をグルグル回ると水戸藩関連の施設が多く残っているが、殆どがきれいだ。偕楽園などに行きたかったが、夕方になったので明日にして宿に戻り、チェックイン。

それから待ち合わせの水戸京成百貨店に向かう。京成線が通っていない水戸に京成百貨店というのも不思議だが、駅から約1.5㎞、街の中心部にある。しかも水戸で唯一残った百貨店らしい。地方都市には、このような首を傾げる事象が時々見られるが、それにはきっと事情があるのだろう。今や京成百貨店は水戸市民に必要な存在、という声も聞いた。

待ち合わせたのは香港で何度かあったKさん。いつの間にか故郷の水戸に帰っていたので、訪ねてみた。Kさんの実家はここからすぐの場所で料亭をしていたらしい。非常に博識で、教えてもらうことが多い。何と自宅にお邪魔してしまい、奥さんとも初めて会った。実は今晩Kさんがオンライン勉強会に参加予定なので、一緒にそれを聞くこととなった。

その後夕飯もごちそうになってしまい恐縮だった。香港の昔話や歴史の話なども沢山してしまい、ついつい遅くまで居座った。帰りはスマホを使って何とか歩いて帰った。水戸は東京にも近く、家賃なども安いらしく、意外と住みやすいところかもしれない。ちょっと勉強になる。

12月11日(金)急遽東京へ

明日起きようとすると、何だか頭が重い。それ程寒くはないと思っていたが、どうしてか頭が冷えているように感じられる。一度は治ったので、1階へ行き、朝食を食べたが、何と弁当が配られている。それにみそ汁と納豆が付くのは、やはり水戸だからだろうか。とても食べきれずに残す。

今日は偕楽園に行こうと計画していたが、どうも具合がよくない。1時間ぐらいベッドで横になっていると、何とか起き上がれたので、思い切って東京に戻ることにした。偕楽園や博物館は次回にしよう。宿は駅の横なので便利。GoToクーポンを使っていなかったので土産のまんじゅうを買い込むと、すぐに特急に乗り込む。

普通電車なら2時間かかるが、特急なら特急料金はかかるがわずか1時間。体の負担を考えると1550円払って特急しか選択肢はなかった。座席未指定特急料金というよく分からない切符だったが、乗り込むと座席指定されているかどうか表示されているので、それ以外に座ればよいという合理的なもの。自由席車両を探して歩く必要もなく便利だと感じる。電車が動き出し、目をつぶるとアッいう間に1時間が過ぎ、東京駅直前で起きて何とか下車で来た。

会津から北関東へ2020(3)会津から西那須野へ

また城の周囲を回って、山川捨松の家があった場所を探す。ようやくその看板を見つけたのは、もう日が暮れかかる頃だった。山川家はこの街の名家であり、有名人も輩出している割には、その扱いが小さい理由は何だろうか。捨松が仇敵大山巌と結婚したこともあるのだろうか。

その後まんじゅうを買い込む。日本国内を旅すれば、どこでも土産の和菓子が売られているが、これを箱で買って帰っても、もう喜ばれなくなっていた。それならばら売りしているものを買って、宿で食べる方がよいと考えた。今回はあわまんじゅう、というものだった。

結局雨は降らずにその日の活動を終えた。夕飯も出来るだけ地元の名物を食べようと思い検索したところ、なぜか会津カレー焼きそばというのが登場したので、食べてみることにした。簡単に言えば焼きそばにカレーがかかっている物で、焼きそばもカレーもまずくはないのだが、別に別に食べても良いかと思った。それに普通の焼きそばと普通のカレーで1000円も取られるのは、何となくコスパが悪い。

12月9日(水)会津若松3

会津最終日。今朝は天気も良かったので、半日歩いてみた。西軍墳墓なるものがある。ここでの戦いでは、会津人だけではなく政府軍も相当の死傷者を出したことだろう。七日町通りを行くと、斎藤一の墓に出くわす。剣の達人とも言われた斎藤は会津生まれでもないのに、会津戦の後ここに残り、会津人と共に斗南に移り住んでいる。

その後郊外の方まで歩いて行く。蒲生氏郷がキリシタンだったので、その痕跡はないかと思ったが、教会なども見付からない。郊外に僅かにキリシタン塚という碑が建っており、江戸初期この付近で殉教したキリシタンが埋められた場所らしい。すごくいい天気で、空も青く、雲の感じもよい。

那須野へ

会津での活動を終了し、また電車で郡山方面へ戻る。郡山から新幹線に乗らずに在来線で行く。東北本線も今や細切れ。新白河、黒磯で始発に乗り換えていく。途中でSuica使用不可を知ったが、西那須野駅で精算してくださいと言われ、降りて申し出ると『ちゃんと確認して乗って』と言われたので反論しようかとも思ったが、無駄だと知っているので、黙って精算した。

今日は実に久しぶりに旧友Mと会うことになっていたが、少し早かったので、荷物を持ったまま、散策する。向かった場所は大山巌、捨松の墓所。立派な参道があったが、固く扉は閉められており、お参りすることは叶わなかったので、外から拝む。その向かいの道は大山参道という名前で、もみじ並木と書かれていた。

駅に戻り、言われていたバスに乗り込む。ところがほぼ同じ時間に2本バスがあり危うく乗り違えるところだった。バスで15分ぐらい乗ると、そこに病院があり、そこで降りて予約された宿を探す。ここはMの勤務地であり、宿はその横にある。何と大浴場もあり、部屋も広い。しばし寛いでいるとMがやってきた。10年ぶりの再会だろうか。

彼の車で駅方面へ戻る。車を彼の自宅に置き、奥さんに挨拶する。会うのは20年ぶりだろうか。若い頃から知っている人に会うのは何となく気恥ずかしい。お母さんにもご挨拶したが、『ああ、名前は聞いたことがあるね』と言われる。もう40年以上前の知り合いなのに、何とも記憶力が良い。いずれにしてもコロナ禍なので早々に失礼した。

Mに連れられて近所の美味しいイタリアンへ行き、夕食をごちそうになる。Mの行きつけだというが、最近はコロナの影響を受けて、お客は多くない。そもそもM自体が、以前とは全く異なる医療関係に勤めている訳で、コロナの影響はあるはずだ。だがこの時点では『実は栃木の県北はさほどひどくない』ということで少し余裕が感じられた。コロナ患者は多くないのに、レストランが閑古鳥というのはなんともいえない。

Mとは長い付き合いがあるが、最近10年のお互いの状況はあまり報告していないので、話は長くなる。食事を終わっても話は尽きずに、彼はタクシーで私を送ると言って、そのままホテルまでやってきて、部屋でまた話し込んだ。最近はウクレレを始めたと嬉しそうに言う。二人の娘も成人している。彼の人生のディテールを知っているかといえばそうではないが、大枠、いや若い時期の成り立ちを知っているというのは大きい。夜更けになって彼はタクシーで帰っていった。

会津から北関東へ2020(2)会津の多彩な歴史に触れる

そのすぐ近くには、大河ドラマで主人公にもなった直江兼続の屋敷跡もあった。そう、上杉景勝も会津を領地としており、あの関ケ原の戦いでは家康がここに進軍してきて、途中で小山評定となり、関ヶ原へと反転している。会津というのは考えるまでもなく、日本史上では極めて重要な土地なのだ、だから重要な人物が配置されるのだと改めて実感する。

更に歩いて行くと、日新館天文台跡がある。何だか石垣の上に供養塔でも載っている感じで面白い。江戸時代から天文学が教えられていたのだろうか。この付近一帯には、白虎隊士の実家がいくつもあったようで、その表示がある。更には山本覚馬、八重生誕の地という看板も見える。これは大河ドラマによって発掘?された場所なのだろう。やはり動機が生まれないと歴史は掘り起こせない。

ようやく実に見事な外観のお城が見えてきた。150年前、この城を巡って凄惨な戦いが行われたとは思えない見事さだ。城へ入って見る。本丸跡は広場になっている。入場料を払って城を上っていくと、かなり詳しい展示が目に入る。その多くが会津戦争を戦った人々とその後のことであり、大変参考になった。そして城の上から見ると。会津の街がよく分かる。

広場を歩いて行くと、麟閣という名の茶室があった。この茶室のいわれはすごい。千利休切腹後、高弟蒲生氏郷は秀吉に願い出て、利休の子、少庵を会津に引き取り、この茶室を与えたという。権力者に逆らって死を賜った人間の子供を引き取るとはすごいことだと思うが、同時にこれが後の千家の茶道に繋がっていくのだから、面白い。非常に良い天気の夕暮れ。写真がまぶしい。

その後もグルグルと歩き回る。城近くの小さな公園に、柴四郎、五郎兄弟生誕地の看板を発見した。文士の四郎と軍人の五郎、いずれも興味深い会津人であり、今後彼らの足跡を追っていくことになるだろう。特に柴五郎の『ある明治人の記録』がとても気になっている。城の周りには萱野権兵衛や西郷頼母など、会津藩家老の屋敷跡などの看板も立っている。当然のことながら、現物は全て会津戦争で焼けてしまったことだろう。

12月の会津、その日暮れは早い。5時過ぎには腹も減ってきたので、宿近くの食堂に入る。会津の名物がソースかつ丼とは知らなかった。調べると『大正時代から親しまれてきた会津庶民の味。ごはんの上に千切りキャベツを敷き、その上にソースを浸したトンカツをのせます』となっている。この食堂、狭い店内で高校生が食べている。なかなか美味しい。

12月8日(火)会津若松2

朝起きると頭がボーっとしている。昨日よく眠れたからだろうか。宿の朝食はビュッフェスタイルを禁止して、弁当スタイルになっていた。結構おいしい和定食だったので、テンションは上がる。当然ながら宿泊客は多くなく、朝食を食べている人はさらに少ないので、感染対策の厳格な中、ゆったりと頂く。

今日の天気予報は雨。雨の中を歩いて行くのは厳しいと思っていたが、外を見ると降っていなかったので、先ずは降るまで歩いてみることにした。とにかく会津といえば白虎隊、白虎隊といえば飯盛山だから、そこを目指して行く。心地よい寒さで歩きも軽快になる。その名も白虎通りを歩き、階段を上ると誰もいない、白虎隊墳墓に出た。横には婦女子の墓もある。史実は別にして、ここで多くの若者が亡くなったこと、更には会津戦争で多くの婦女子が亡くなったことに言葉もない。白虎隊の生き残り、飯沼貞夫の墓もある。確かにここからは会津の街がよく見えた。

それから山本家の墓所大龍寺、そして愛宕神社の後方の山中に分け入ると、新選組近藤勇の墓、土方歳三の記念碑を見て、更に松平家墓所で歴代藩主の墓を見ると、新選組と会津、戊辰戦争が目の前に飛び出してくるようだ。その後その昔この地を収めていた芦名氏ゆかりの地を訪ね、なぜかそのまま小田山(芦名氏の山城)を上り始めてしまった。ここまで歩くと相当にきついが、なぜか雨は降らない。

その山の頂上まで登るのは大変だったが、会津が一望出来た。山城とはそのような場所なのだろう。冬枯れの木々、中腹にはあの柴四郎五郎など、柴家一族の墓がきれいに並んであった。ここでは墓参も大変だろう。更に下に降りて、善龍寺に西郷頼母の墓を探したが、その墓の小ささにはちょっと驚く。これは人柄なのだろうか。また西郷の母や妻など21人は、城に入らず、自ら命を絶ち、ここに葬られている。

会津から北関東へ2020(1)真冬の会津若松へ

《会津から北関東へ2020》  2020年12月7日-11日

いよいよコロナ再流行が見えてきた。来年夏のオリンピックも本格的に中止の検討に入っているかもしれない。とにかくこの1年、3月にバンコックから逃げ帰って以来、海外に行けないどころか国内さえ、思うような旅はできない。今年最後の旅として、ひっそりと福島へ向かう。実は47都道府県の内、1泊以上の宿泊経験がない県に福島が入っていたのは自分でも意外だった。子供時代を栃木で過ごしたのだが、栃木市は東京を向いており、北は視野に入らなかったのだろう。

12月7日(月)会津若松へ

福島で行ってみたところといえば会津若松だ。茶旅以外の旅で興味があるのは歴史だから一度は行かなければと思っていた。ちょうど時間が空いたので、寒いだろうとは思いながらも、大宮から新幹線に乗った。乗ってちょっと考え事をしていたら、もう郡山に着いてしまった。これだから新幹線は情緒がなく、つまらない。

郡山駅で会津若松行きの在来線に乗り換えようと自動改札に切符を入れると、切符は吸い込まれ、何も出てこない。在来線ホームにそのまま行けた。だがよく考えてみると、これだと切符もなく、Suicaのタッチもしていないので、何となくおかしいと思い、駅員にその旨申し出ると『駄目だよ、切符持っていないのなら、出口を出て買わなきゃ』と怒られてしまった。確かに乗車券は郡山までしか買っていなかった。

しかし自動改札があるのにお客の方が考えなければならないのだろうか。実はこの路線、郡山から会津若松はSuicaが使えるのだが、東北本線の郡山-黒磯間は使えないという変則になっていると後で分かり、それならちゃんと書いて置けよ、と文句を言いたくなる。JRの年配の駅員にも偉そうな人がたまにいるから気を付けないといけない。

乗り換え時間に間があったので、郡山駅を探索する。土産物屋は充実しているようだったが、ちょうど駅そばが目に入る。そういえば朝飯も食べていなかったので、ここで朝昼兼用うどんを頬張ることになる。やはり温かいうどんは何とも有難い。

磐越西線はゆっくりと走っていく。途中に温泉があり、山もきれいに見えた。冬の東北はもっとうらぶれた印象を持っていたが、これは快適だ。隣の座席では、親戚同士が久しぶりに出会ったようで、話に花が咲いている。コロナで人の往来が途絶えたのは、むしろ地方の方だったようだ。

1時間20分ほど乗って、終点会津若松駅に着いた。駅前には白虎隊の像が建っている。取り敢えず観光案内所に立ち寄り、地図を貰うついでに、『山川捨松ゆかりの場所』を尋ねてみたが、皆さん首を振るばかり。え、今度お札になる津田梅子さんと共に明治初期にアメリカに留学した女性、しかも後年大山巌夫人となった女性が地元で殆ど顕彰されていないとは。係員は申し訳なさそうに『捨松さんが会津に居たのは幼少期だけですから』と説明されて、何となく納得して外へ出た。

会津若松1

予約したホテルは駅から数分歩いたところにあった。昔はいいホテルだったのだろうが、ちょっと老朽化が目立つ。結婚式相談所や旅行会社がホテル内にあるのがそれを物語っている。料金が安いのはそれだけの理由だろうか。フロントの対応は門切り型で温かみはなかった。寒さはそれ程でもないが、天気はどんよりとしており、明日は雨との予報もあったので、今日の内に回れるところは回っておこうと宿を飛び出した。

取り敢えず当てもないのでお城の方に歩いて行くと、会津の商店街があった。その裏側に、ひっそりと寺があった。興徳寺、何とここにあの戦国随一の武将とも言われた蒲生氏郷の墓があると書かれている。蒲生氏郷は40歳の若さで京都に死んだ。その時の領地は会津若松であり、あの城も氏郷が築いたという。天才の寿命は短いということか。

そのままずっと歩いて行くと、お城のへりにぶつかった。そこには藩校日新館にゆかりのある人物が書かれた看板があった。その中には山川大蔵、山川健次郎両兄に下に捨松の名前もあるではないか。その横には山本覚馬、新島八重の兄妹の名前もある。こちらは大河ドラマ八重の桜で、名前が売れていた。

そこから少し行くと、山鹿素行誕生の地という看板があった。あの山鹿流陣太鼓、忠臣蔵でもお馴染みだが、その素行が会津出身とは初めて知った。しかも父親は伊勢亀山から会津に移ってきたというから、蒲生家と何か関係があるのかもしれない。記念碑が建っていたが、その字は東郷平八郎だった。

静岡茶旅2020(4)紅茶史を学ぶ

Mさんに金谷駅まで送ってもらって別れた。先ほど急ににわか雨が降ったが、なぜか駅に着くと止んでいた。そしてきれいな虹が出た。今日の旅は成功だったという印だろうか。金谷から浜松へ、そこで乗り換えて豊橋まで行った。1時間半かかった。豊橋駅前の、最近ずっと使っているチェーンホテルを予約していたが、何だかここの対応は良くなかった。

チェーンホテルと言ってもようは担当者個人の問題もあるし、ホテルの設備の問題もある。それは分かっていたのだが、何となく不愉快になったのは、やはり疲れのせいだろうか。1枚だけもらったGoToクーポンを使って、駅ビルの和幸でとんかつを食べた。何だか嫌な予感がする。天気も良くない。

11月20日(金)紅茶史の基礎を学ぶ

朝ご飯を宿で食べる。豊橋のご当地グルメ、カレーうどんとあるが、どうなんだろうか。やはり外は雨で、外出を控える。本日は国産紅茶を学ぶため、T先生とお会いすることになっていたが、急速にコロナ感染者が増加し始めていた。当初はかなりのお時間を頂くつもりだったが、状況に鑑み、モーニングを食べながらの短時間に変更となった。

T先生から『長く話せないのは残念だ』と言って頂き、貴重な資料を沢山頂戴した。そして先日枕崎へ行ったことや、森永紅茶の話などを始めると、やはり膨大な知識をお持ちなので、話は簡単に止まらず、予定時間をオーバーしてお話を聞いてしまった。ただ一番印象に残った言葉が『国産紅茶の歴史は悲しい歴史』だったことは、なぜこの歴史が語られずに埋もれているのかを一言で言い表していた。もしコロナがなかったら、半日ぐらいT先生を引き留めて話を聞いてしまったであろう、と思うほど、刺激的な時間だった。果たして次回はいつお話が聞けるだろうか。

外へ出ると雨は上がっていたので、今回初めてきた豊橋の街を歩いてみることにした。先ずはJRで一駅乗って二川宿へ行ってみる。線路に沿って東海道があり、古い町並みが少し見られる。15分ぐらい歩くと本陣資料館があったので見学すればよかったのだが、そこをスルーして、落ち着いた街をフラフラして、そのまま豊橋駅に電車で戻った。

駅から何となく這い出す。商店街に安いかつ丼屋があり、腹ごしらえをしてから歩く。少し行くと老舗のかまぼこ屋が見える。この辺は東海道の吉田宿だったらしい。更に行くと昭和初期の立派な建物、豊橋公会堂がある。その向こうには豊橋ハリスト教会がそびえたっている。その隣は旧吉田城跡。公園になっており、散歩するにはちょうど良い。

天気がとてもよくなってきている。だが既に色々と疲れてしまっていた。早めに宿に帰り休む。夕方ちょっと外へ出て、ラーメンを食べて、またすぐに宿へ帰って寝た。やはり体力の衰えは深刻だと案じる。

11月21日(土)レジェンドに会って

今回の旅の最終日を迎えた。豊橋滞在が何となく不完全燃焼だったので、今日こそは、と意気込む。豊橋から袋井までJRで戻り、そこからバスに乗って浅羽支所を目指す。今回は久しぶりにM先生をお訪ねして、胸にあるいくつもの疑問を払拭しようという目論見だった。だが昨日のT先生より年齢が上のM先生は果たして来られるのだろうか。

それは杞憂に終わる。3階に上がると先生はちゃんと来られていて、30分ばかりお話しできた。紅茶の歴史など、モヤモヤしていたものの一部が何となく晴れていくのがうれしい。文献に書かれていなくても、足で稼いだ豊富な経験を持つM先生の一言一言が心に刺さる感じがする。もっと伺いたかったが、万が一のことがあってならないと、大変残念だがお暇する。先生のコレクションも見ずに立ち去った。本当にコロナは困ったものだ。

ちょうどバスが行ってしまった。仕方なく周囲を散策すると、茶畑が見え、神社があり、城跡まであった。30分はあっという間に過ぎて、バスに乗って駅に向かった。だがまだ時間は早い。そして天気がとても良い。荷物は駅のコインロッカーに入れてある。今回は袋井宿付近も散策してみようという気になり、駅より一つ前のバス停で降りて、歩き出す。東海道袋井宿は駅の反対側にあり、ふらふら歩いてみたが、特段見るべきものはなかった。

袋井駅まで戻り、東海道線に揺られて、東へ向かった。疲れていたので、どこかで新幹線に乗って帰ろうと思っていたが、この揺れ心地が何ともよく、少し寝入る。結局小田原まで在来線を乗り継ぎ、小田急に乗って帰宅した。さすがにコロナがうるさくなり、乗客も少なく、ゆっくり読書が出来、考え事も出来た。

静岡茶旅2020(3)中村圓一郎を訪ねて

現在日東紅茶の歴史について書いているので、三井農林さんの大工場を外から眺めた。紹介してくれるという方もいたのだが、今回はコロナ禍なので敢えて中に入ることはせず、遠めに写真に収めた。詳しく調べていけば、相当興味深い紅茶史が出てくるのだろうが、先月枕崎を訪問して少し満足してしまったところもある。

旧藤枝製茶貿易商館(通称とんがり屋根)にも行ってみた。明治35年(1902年)に建設されたというこの建物は、静岡の近代茶業の幕開けを象徴する洋風建築。この可愛らしい建物、現在は使われていないのだろうかと思っていたら、藤枝市に寄贈される予定で、蓮華寺池公園内に移設し、茶文化を発信する観光拠点として整備する方針だという。

最後に以前お世話になった方を訪ねた。とても美味しい料理を出すお店だが、現在は一日数組しかお客を取らず、しかも年内でお店自体を辞めてしまう予定だと聞いた。本当に残念ではあるが、このコロナ禍、お客さんを受けたくてもままならず、疲れてしまったのだという。ゆっくり休んでいただきたい。そしてまたいつか再開してくれたら、と思う。

夕方暗くなった頃、島田の宿まで送ってもらった。そして夜はお知り合いのIさんたちと、お寿司屋さんで会食した。茶の歴史などについてSさんに色々と教えてもらい、勉強になる。皆さん、夜の会食は久しぶりだと言っていた。ここではGoToクーポンが使えたが、店の外には一斉表示しておらず、店に入らないと使えるかどうかわからないようにしていた。どう見ても使ってほしくない様子が窺われた。お寿司屋さんは仕入れを現金で行っているのだろうか。お客が来てもクーポンだと現金化が遅れ、店の経営に影響があるのかもしれない。

11月19日(木)中村圓一郎を探して

翌朝も天気が良かった。宿で待っていると、川根のMさんが迎えに来てくれた。今日は戦前静岡の、いや日本の大茶商、中村圓一郎の歴史を訪ねる旅をすることになっていた。先ずは榛原郡吉田町に向かう。中村家は明治以前から醤油屋であり、その後製茶業にも参入したという。だが戦時中圓一郎が亡くなると、茶業からは手を引き、戦後は醬油屋だけが存続していた。

中村醤油に突撃したが、社員の女性は『昔のお茶のことはよく分かりません』とそっけなく言う。後ろから男性が出てきて、資料と言ってもこれしか、と言いながら会社のパンフをくれた。そこには圓一郎についても触れられているが、茶業についての詳しい情報はなかった。『あとは社長に聞くしかない』と言われたが、あいにく外出中で会うことは叶わなかった。まあ、突然訪問したのだから仕方がない。それでも醤油屋さんに辿り着いただけでもかなりの前進だ。

続いてMさんの家のある川根方面へ向かう。何となく途中までは、昨日通ったような気がする。藤枝の大茶樹へ行くのもこの道だったのか。そして大井川鉄道千頭駅付近までやってきた。駅の近くに中村圓一郎像が建っていたが、そこは分かり難い場所で、訪ねる人も少なそうだった。圓一郎は醤油や茶だけではなく、この大井川鉄道の初代社長も務めていたのだ。

更に近くの水力発電所もあるという。日英水電、イギリスの技術で発電を起こしたものだが、これらにも圓一郎は関与している。Mさんに案内されて、その遺構を見に行ったが、トンネルを掘り、水の落差を利用して発電が行われたようだ。そしてこの電力の一部は川根あたりの茶業にも利用されたというから、その貢献度は高い。今や忘れ去られている感のある中村圓一郎。その貢献を考えればもう少し顕彰されるべき人物ではないか。

それからお弁当を買い、山の上の方まで登っていく。見晴らしの良い場所でお昼を食べた。さすがお茶農家、Mさんはお茶入れ道具一式を持ち込み、ここでお茶を淹れてくれた。こういう環境で飲むお茶はまた格別だった。紅葉はちらほら見られたが、観光客はほぼいなかった。

それから川根を降りていく。途中森の中に突然モダンな建物が登場して驚いた。何とここは茶工場だという。美術館かと思うような建物がなぜ森の中に。そしてそれが茶工場とはどういうことか。更には新しく茶工場を作るということは、作った茶が売れる見込みがあるということだろうが、一体どんなお茶を作り、どこに売るというのだろうか。どうやら海外輸出か?

最後に金谷の方に降りた場所に、ここも最近できた商業施設、KADODE OOIGAWAがあり、見学する。緑茶・農業・観光の体験型フードパークと書かれている。かなり大きな施設であり、大井川鉄道の駅にも隣接している。お客さんも入っており、単なるお茶の販売だけでなく、お茶の体験コーナーなどもある。更に魚などお茶以外の売り物も多く、地元民が楽しめるようになっていた。

静岡茶旅2020(2)丸子から大井川へ

そこからまた歩き出す。いつの間にか浮月楼と書かれた料亭のような場所に出た。そこは最後の将軍徳川慶喜が駿府に移ってから住んだ屋敷跡だという。入って見たかったが、コロナ禍で営業しているように見えない。まだ時間が早かっただけか。せっかくここまで来たので、慶喜謹慎の寺、宝台院にも寄ってみる。この寺は家康の側室で2代将軍秀忠の生母、西郷の局の菩提寺だった。古田織部が作ったキリシタン灯篭などもあって、ちょっと興味深い。確か家康は自分の周辺の者がいつの間にかキリシタンになっていたことに恐怖を感じて禁令を発したと記憶している。

宿に戻り、荷物を受け取り外へ出た。今日は久しぶりに紅茶作りのMさんを訪ねることになっていた。わざわざ奥さんが静岡駅前まで迎えに来てくれたのは有難い。丸子に向かう途中の道路わきで車が停まったので、何かと思っていると、何と生シラスを購入。そのまま昼ご飯のお店(有名店、とてもよい景色)にそれを持ち込んで、丸子名物とろろ汁と共に美味しく頂く。何と贅沢なランチだろうか。そしてその場には、以前台湾でもご一緒した、日台協会の方もおられ、懐かしく談笑する。

それからMさんの作業場にお邪魔する。実は今年の頭に火事があり、現在は仮茶工場のようになっている。家もまだ土台しか作られていないが、製茶作業は既に行われており、さすがと思ってしまう。そして早々試飲が始まる。特に牛乳にもこだわった特製ミルクティーは美味しい。東京から来ていたYさんも一緒にお茶を楽しんだ。

ここは日本紅茶の祖とも呼ばれ多田元吉が茶作りをした土地でもあり、紅茶の歴史についても、色々と情報を得る。特に多田がインドから帰国した後、最初に紅茶を作ったと言われる高知、そこに同行した熊谷義一とは何者か、などの話題が出た。多田も使ったかもしれないお盆や茶葉を揉む笊などがここには残されており、火事でも無事であるのは、やはり歴史を明らかにせよ、ということなのだろうか。

あっという間に時が過ぎ、名残惜しいが、安倍川駅まで車で送ってもらった。今晩は島田に泊まる予定となっており、電車に揺られていく。車内に乗客は少ないが、これはコロナの影響なのだろうか。島田駅で降りてから、宿までの10分弱、本当に人が歩いておらず、寂しい感じがした。

宿はチェーンホテルだったが、手続きはかなり適当だった。更に『この辺でGoToクーポンを使えるところは?』と聞くと、『コンビニぐらいですかね』とそっけない。時間も遅いので、荷物を部屋に入れてすぐに外に出て夕飯を探したが、食堂らしきものもなく、あっても閉まっていて困った。

ようやく見付けた蕎麦屋さんでもお客は全くいなかった。きっと閉めようとしているところに私が飛び込んだのだろう。かつ丼セットは美味しかったが、クーポンは使えなかった。盛り上がっている静岡市内との差はかなり大きい。

11月18日(水)島田から金谷、そして藤枝

朝ご飯を宿で食べると、すぐに外へ出た。天気がとても良いので、歩き出した。実は宿の横が島田宿本陣だったので、何となく『越すに越されぬ』大井川を渡ってみようと思い立つ。30分以上歩いてようやく川の近くまで来ると、昔の建物が見えてくる。川越遺跡もある。川を眺めてみると、川幅はかなりあるが、水量は少ない。勿論今は橋が架かっているので、ゆっくりと橋を渡ってみる。

そこからまた30分以上歩いて金谷駅近くに来た。今日はこれから、ふじのくに茶の都ミュージアムで待ち合わせだったが、そこは駅の反対側、そして急な坂道だった。近道しようとGoogle検索に従って歩いて行くと、何と陸橋が補修で通行止めと書かれていて暗澹となる。もう体力が残っていない。思わず作業員に声をかけ、何とか渡らせてもらったが、その先の坂は相当に堪えた。

ミュージアムに着いた時には全身汗でびしょぬれで恥ずかしかった。取り敢えずお知り合いのHさんに声をかけ、ここの図書室に入れてもらい、資料を探しながら休んだ。その後展示を見学しながら、S君の到着を待った。ここの展示は当然ながらかなり細かく、私が探していたものも見つかってよかった。

見学が終わった頃、S君が到着して、彼の車で藤枝の方へ向かった。朝からずっと歩いていたので、車がやけに早く感じられた。藤枝の大茶樹を見に行ったが、山の中の茶畑に、こつ然と現れる感じだった。樹齢約300年、かなり遠くからでないとカメラにも収まらない。だがなぜここにこんな大きな茶樹が残ったのだろうか。昔見た嬉野の茶樹を思い出す。

静岡茶旅2020(1)静岡市内で

《静岡茶旅2020》  2020年11月16日-21日

10月以降、CoToトラベル解禁もあり、国内旅が少し行きやすくなっていた。だが冬が迫り、何となく雲行きが怪しくなってくる。出来るだけ、行けるうちに行っておこうと考え、旅を詰め込み始めた。中でも静岡だけは、来年の連載や調べ物の関係もあり、どうしても訪ねる必要に迫られて、行くことになった。果たして無事に行けるのだろうか。

11月16日(月)静岡へ

9時25分バスタ新宿発静岡行きのバスに乗った。乗った一番の理由は安い(新幹線の半額程度)からだったが、もう一つは『乗客が殆どいない』という噂だったからだ。ところが座席指定をしてみると、数席しか空いていないので、これは間違ったと思ったが、既にチケット購入済みで乗るしかなかった。ところが実際に乗車してみると乗客は10名に満たず、途中の高速道路バス停でも乗ってくる人はいなかったので、あとはゆったりと席を移動して、好天の富士山などを眺めながら、バスの旅を楽しんだ。

だがこのバス、まっすぐ静岡駅へは向かわず、清水付近で一般道に入り、いくつものバス停で停車した。元々高速道路でも渋滞区間があり、いつ着くかと心配していたが、最終的には10分遅れで到着したから、安堵する。すぐに予約してある駅前のホテルに荷物を預けて、静岡の街へ飛び出した。

直ぐに駿府城に突き当たり、更に歩くと茶町に出る。その道を北上していくと、少しばかり茶の名残がある街並みとなる。最盛期には茶問屋が軒を並べ、大いににぎわいを見せたお茶の街だが、今や静かに佇んでいる感じだ。取り敢えず約束していた茶業会議所まで駅前から30分弱歩いた。月刊茶に連載していた過去があり、懐かしくて、そして何か資料はないかと訪ねてみたわけだ。

編集者のOさんが在籍しており、資料探しの前に、先ずはお茶を一杯となり、そこから各地の茶話に発展していく。それは思いの外、楽しい時間であり、今後の旅へのヒントをくれる貴重な機会ともなった。結局ここで午後を過ごしてしまい、茶の歴史調査は特になく、Oさんの車で駅まで送ってもらう。これもまた楽しく、如何にも茶旅らしい。

ホテルに戻りチェックインする。この宿は新しいようで、きれい。そして部屋も広い。テレビを点けると大相撲中継があり、それを見ていると腹が鳴る。そうだ、ランチを食べていないことに今更気が付く。取り敢えず駅地下に潜ってみると、きれいな日本茶カフェが出来ていた。静岡各地のお茶が売られているようだったので、入って見ようかと思ったが、空腹には勝てず、スルーしてしまった。

静岡県は実に太っ腹だった。泊まったホテルで、GoToトラベルクーポン以外に、静岡商品券がもらえて、それが使えるお店に入り、美味しいお刺身を頂戴した。そんなに高くないホテル代なのに、と思っていると、どこからか『その宿は静鉄だから』という声が聞こえてきて、面白い。

11月17日(火)紅茶王を訪ねる

このホテルは朝食付きだったが、新しいホテルらしく食堂はない。1回に入店しているプロントで食べるのだ。混雑する時間を避けて早めに行ってみると、既に出張族で席が埋まっている。何とか滑り込んでプロントの和定食?を頂く。そういえば、ここで昨晩ウエルカムドリンクも無料でもらった。ちょっとしたことだが、なんだかとても得した気分になっている。

午前は散策に出た。昨日は通り過ぎた駿府城をゆっくり歩いてみた。城内?に徳川家康の像があり、家康が手づから植えたというミカンの木があった。その後ろは発掘調査が行われているようで、将来は復元されるのだろうか。周囲のお堀もきちんと残っている。高校が近いのか、学生が登校中の雰囲気で歩いて行く。

また茶町に舞い戻った。結局昨日はそこまで行ったが、何もしなかったのでちょうどよい散歩コースとして利用する。静岡に茶をもたらしたといわれる聖一国師の像があるというので行ってみたが、最近建てられたモダンな造りで驚いた。その裏側は茶市場のようだが、閉まっている。

それから当て所なくフラフラしていると立派なビルの中に中央図書館の分館があることがわかった。しかもそこは歴史情報センターとなっていたので、お茶関連の資料でもないかと寄ってみる。係りの方が親切に色々と案内してくれ、静岡県各地区の茶業史などを眺めて過ごす。やはり静岡の茶歴史はずば抜けて多い。だから困るとも言える。こんなに沢山あれば、整理できなくても当然だろう。

軽井沢旅2020(3)軽井沢から横川へ

それからKさんが最近住み始めたという高層マンションを見学した。バブル期に建てられたと思われるこの建物、完全な山の中に突然現れるのでかなり驚く。車がなければとても生活できない場所。プールやサウナも完備しており、夏だけここに住む人もいるというが、冬はかなり寂しそうな場所だった。ただ部屋からは雄大な浅間山がくっきりと見え、その眺望は抜群だった。

帰りはワザワザ40分かけて車で送ってもらった。聞けば、軽井沢と北軽井沢は県が違うだけでなく、街のルールや物価もかなり異なるらしい。軽井沢の夜は早いが、北軽井沢は門限?はなく、北軽井沢はガソリン代が安いため、そちらへ行ったついでに給油する人も多いのだそうだ。晩はゆったりと休息する。

11月11日(水)軽井沢から横川へ

今朝も寒い軽井沢。既に昨日多くの宿泊客はチェックアウトしたと見え、今朝の食堂は空いていたので、ゆっくりと食事をとる。出掛けるまでにはかなり時間もあったので、散歩に出てみる。軽井沢駅へ行くと、旧軽井沢駅舎記念館という建物があった。明治43年に建てられた駅舎をそのまま再現して、記念館として使っている。中に入るとストーブの温もりが何とも暖かくてよい。駅の反対側に回り、2階から外を眺めてみると、何とスキー場が見えている。

旧軽井沢の大きな通りも歩いてみたが、こんな朝に人影は殆どない。もう冬支度なのだろう。駅から数分のところに大きなマンションが建設中だった。まさに億ションという感じだが、最近のコロナ禍で、東京から軽井沢に引っ越す動きはかなり出ているというから、販売は順調に違いない。ただ別荘街を歩いてみても枯葉がかなり落ちており、多くの家で退去している様子が見て取れる。億ションの住人になる人は冬を越すのだろうか。

10時前にKさんがやってきて、一緒に六本辻にあるカフェに行った。ここは一昨日の晩に会った後輩のTさんが店長をしており、ちょっと寄ってみた。このカフェはある企業が運営している、今流行りのワーケーション施設に併設されており、何ともおしゃれな造りで、環境もよく、驚いてしまった。お客さんも海外駐在中にコロナで帰国した人や小さな子供を連れた若夫婦など、実に多彩で面白い。Tさん夫妻はお客さんが頻繁に来るので、大忙し。コーヒーを一杯飲んで、あまり話さずに退散した。

Kさんの車で早めのランチを食べに行く。中華料理屋があったので入って見ると、何ともチャーハンが美味しかった。だがそのボリュームは巨大で、午後中ずっと胃がもたれるほどだった。これで今回の軽井沢滞在が終了したのだが、ただ帰るのもつまらないので、軽井沢駅からバスに乗り、横川へ出てみることにした。

バス停に着いたが、乗客は私ともう一人しかいない。しかもこの状態は横川に着くまでずっと変わらなかったので、これまた驚いてしまった。バスはすぐに山道を登り始める。もう少し早い時期なら紅葉がきれいだったろうなと思われる景色だ。途中所々、道路わきを見るとトンネルがあった。これが昔の鉄道路線跡だと分かる。

今碓氷峠を越えている。江戸時代には旧中山道の難所として知られていた峠越えだが、1893年に碓氷線が開業、当初は生糸の運搬が主目的だったらしいが、その後の大別荘地軽井沢の繁栄に貢献したことだろう。だが1997年に廃線となったという。その遺構が各所に残り、鉄道ファンは廃線ウオークなどをしているという。

約50分のバスの旅を終えると、横川駅に到着した。ここから電車に乗るのだが、まだ時間があったので、少しその辺を歩いてみた。どん詰まりの駅なので、車両が数台停まっている。その横をすり抜けると、ちょっとした散歩道がある。碓氷峠の関所の門が見えた。中山道の重要拠点だったのだろう。

駅まで戻ると、峠の釜めしの看板が見えた。そうか、ここは元々横川の釜めしで有名な地だったが、電車が峠を越えなくなり、あまり聞かなくなった(軽井沢駅で売っていたように思う)。折角なので老舗で釜めしを食べてみたいと思ったが、何しろ先ほど食べたチャーハンがずっしりと重く、残念ながら断念した。

小さな駅舎を通り抜けると、鉄道ファンと思われる人が数人、写真を撮りながら発車を待っていた。とても強い日差しがあり、眠気を誘う。『鬼滅の刃』とコラボしているのか、目の前にはアニメがはためいていた。列車が高崎に向かって動き出すと、如何にもこの旅が終わったと強く感じられた。

軽井沢旅2020(2)軽井沢から北軽井沢へ

11月10日(火)軽井沢から北軽井沢へ

今朝は零度と寒かった(部屋は快適に暖かったが)。宿の朝食は何とカレー。これが意外とうまくて、完食する。フロントによれば昨晩この宿は満室で、食堂が狭いため、希望時間に朝食が取れない可能性があるとのことだったが、その通り満員だった。そんなにこの寒い軽井沢に人が来るのかと思ったら、『今年最後のバーゲンが昨日までだった』のだとか。今晩はだいぶ少ないらしい。

Kさんが迎えに来てくれたので、朝からなぜか軽井沢霊園に行く。軽井沢の歴史、特に外国人の歴史を知るには墓地が良いとのことだったが、残念ながらここには外国人墓地はなく、開発される前の軽井沢住民の墓などは見られたが、成果はなかった。そのまま歩いて、雲場池を散策する。天気も非常に良かったので、バーゲンを終えた観光客がかなりおり、皆が写真を撮っていた。

そこから車で少し離れた立派なホテルに行った。ランチの時間には少し早かったので、いきなり庭に出る。そこには実に自然な景観が広がっており、とてもホテルの庭を歩いているとは思えない。沢を降りていくように、小川に向かっていく。ここは軽井沢の水源で、中山道を行き交う旅人が飲み、そして明治天皇もこの水を飲んだ、御膳水と説明書きに書かれている。

ここのランチは美味しいパスタだった。リーズナブルでよい。しかもKさんが『天気が良いのでデザートは庭で食べたい』とわがままを言っても、笑顔で聞いてくれ、テーブルを用意してくれた。枯葉が微かに舞い落ちる、柔らかい日差しの中で食べるデザートは格別だった。

そこから車は雄大な浅間山を眼前に見ながら進んだ。浅間山といえば、歴史的には江戸時代に起こった天明の大噴火を思い出すが、今でも何となく白煙が出ているように感じられる。そして車はいつの間にか県境を越え、群馬県に入っていた。そこにも軽井沢があったのに驚く。北軽井沢。

ここに北軽井沢という駅があったらしい。草津との間を結んだ、その軽便鉄道の駅舎が残されており、そこには大学村の説明などもあった。何と大正時代に法政大学の学長がここに、教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ったというのだからすごい。初期の村民には岩波書店の創業者である岩波茂雄や安倍能成、谷川徹三、野上弥生子、津田左右吉、小泉信三らがいたというから、話題性のある、本格的な村だったことが分かる。

車はそのまま進んでいき、ハイロン村に入った。カタカナの地名は珍しいなと思っていたら、何と現在の中国黒竜江省海倫のことだった。満蒙開拓団の入植地として知る人ぞ知るこの村、第二次大戦前に群馬県各地から集められた開拓団の人々が終戦後日本に戻り、政府から払い下げられた土地を開拓したという。日本で開拓した場所に満州の地名を付けるのは極めて稀ではないだろうか。

近所に住む80歳を越える元気な女性に話を聞くことができた。『私は7歳で引き揚げた。少し怖い思いをした程度で帰国できたが、ハイロン村の住人は1945年9月11日に匪賊の襲撃に遭い、多くが犠牲になった。今でも毎年この日に村人が集まり慰霊祭をしているが、もう生き残った人も、大方あちらへ行ってしまったよ』と寂しそうに語る。

群馬に戻っての開拓は苦労が多く、生活も大変だったというが、『最初はリンゴなど果樹園をやり、息子の代になると値段の高い白菜など高原野菜に切り替えた』といい、現在も現役で農業をしている。人手不足のため、海外から技能実習生を迎えて、補っている。

『満州で満人に厳しく当たってきた日本人は、終戦後逆にひどい目に遭ったんだよ。うちは比較的優しく接してきたから、返って彼らに助けられ、生き延びた』『だから中国人でもベトナム人でも、うちに働きに来てくれる実習生にはできるだけ優しくしている。孫が沢山増えたと思えば楽しいよ』という言葉が、非常に印象的だった。

実習生も最初の頃は中国人だったが、今ではインドネシア人に代わっている。この寒い北軽井沢で、宗教も異なる彼らの苦労は大変なものがあるが、お祈り部屋まで設けた、その立派な宿舎を見れば、厳しい立場の人にどう接するべきかを身をもって体験した人の温かさが分かる。

最初はコロナ禍を気にしていたが、話している内に打ち解けてきて、最後は村はずれの小高い丘の上、大きな慰霊碑が建っているところまで案内してもらった。浅間山が真正面に見える場所に、周囲には各家の立派なお墓が並んでいるのは圧巻の光景だった。満州の大平原とは違い、山に囲まれた、小高い所にお墓があるのは、やはり満州へ行った人々の、強い故郷への思いではないかと勝手に想像してしまった。