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熊本佐賀福岡茶旅2021(4)玉名から伊万里へ

雨の中を出発する。今日の午前はお墓探しの旅である。台湾魚池で紅茶を最初に作った持木壮造。彼のお墓が熊本玉名にあると聞き、これまで色々と調べてきたご縁も考えて、訪ねてみることにした。手掛かりはお寺の名前だけ。それでも行けば何とかなるというかなり甘い考えで進む。

1時間ほどで玉名のお寺に到着。案内を乞うと最初は怪訝な顔をしていた住職夫人だったが、私が壮造のお孫さんからもらった家系図を取り出すと『あ、それはこの寺にある家系図を写したものだ』と言い、後は色々と教えてくれた。最近は個人情報もうるさく、身元調査を称して個人を調べる人も来るので警戒しているらしい。とにかく分かったことは、持木家の菩提寺はここだったが今墓はないということ。

それから教えられたもう一つの寺へ行く。こちらではさっきのお寺の名前を出したのでスムーズに取り合ってくれたが、何とここにも壮造の名前はなかった。現在の持木家の当主に連絡すれば何かわかるかもしれないと言われたが、それは私のやるべきことではないと思い、後はご子孫にお任せした。いずれにしても今、日本のお墓制度は崩壊しようとしていることが分かる。

そこから30分。今度は大牟田に寄る。三井三池炭鉱は、三井財閥の収益源だったが、ここから出て、三井の2代目総帥になった男、團琢磨ゆかりの場所として訪ねた。團はもともと福岡出身だから、地元でもっと顕彰されてよい人物だと思う。炭鉱跡はきれいな庭のあるレストランになっており、そこに團琢磨の胸像が置かれていた。もう一つ、新幹線の新大牟田駅前にも團の銅像が建っているが、どれだけの人が彼を認識できるのだろうか。いずれにしても日東紅茶の生みの親は團琢磨だと思っている。

山鹿に向かう途中、道の駅でランチを探す。田舎へ行く時には何といっても道の駅が役に立つ。そして偶にはお茶を発見する。ここでは馬すじゴロゴロコロッケ(通称バカコロ)を頂く。牛筋は食べても馬筋は食べたことがない。元々牛筋が好きなこともあり、美味しく頂く。

それから車で1時間、山鹿に到着した。先ずは山鹿紅茶を復活させているFさんを訪ねた。実は5年ほど前、宮崎で紅茶伝習所の話を聞いていた時、山鹿ならFさんがいるよ、と言われてその場で電話したことがあった。何とFさんもその時のことを覚えていてくれたらしい。

Fさんのところでは、現在は紅茶だけでなく緑茶も作っている。というかこの地は緑茶が主流だが、山鹿伝習所の歴史を踏まえて、Fさんが紅茶を作っているというのが正しい。お茶を頂きながら、色々と資料を見せてもらう。ただいくつか気になる点があった。特に伝習所の場所がよく分からない。

続いて役場に移動して、こちらでもお話を聞く。山鹿もかなり広く、伝習所の場所はやはり特定できない。ここでも志那風とインド風の伝習所が開かれており、特に最初の場所は難しいらしい。さらになぜこの地が伝習所として選ばれたのかについてもよく分からない。ただアレンジした人が意外で、実は緑茶を指導しようとしていたかも、と思ってしまった。

岳間茶の碑も見に行った。大変景色の良い場所に比較的最近建てられたようだ。元々山鹿は江戸時代からの茶産地で、藩主細川家にも茶を献上していたという。明治に入り岳間茶といえば、紅茶から緑茶に切り替えた中川正平を思い出すが、彼もまた可徳乾三と共にシベリア視察に行っている。結局中川の岳間茶は残り、可徳の紅茶は消えていったということだ。最後に岳間小学校に行き、お茶の歴史関連の展示を見学した。明治大正昭和の製茶や茶もみ唄など面白い展示がある。車に乗り込むと同時に雨が降り始め、途中は暴風雨のようになったが、佐賀に着いた時は何となく止んでいた。

6月4日(金)伊万里から糸島へ

佐賀の朝はぐずついていた。本日はOさんとの茶旅、最終日。佐賀市から伊万里へ向かう。伊万里といえば有田と並ぶ焼き物の地であり、お茶関係者は茶碗などを見にいくところだろうが、我々の目的は全く違っていた。この地で生まれた森永製菓創業者、森永太一郎を訪ねる旅だった。

先ずは伊万里川沿いに太一郎生家跡を探す。古民家を改造したおしゃれなカフェがあり、そこで聞くと生家は隣だという。このカフェ、とても居心地がよさそうだったので、ここで現代の伊万里紅茶を飲み、サンドイッチを頂く。するとこの伊万里紅茶を作っている茶農家さんもやってきて、面白い。

お隣は今割烹料理屋になっている。江戸時代から森永家はここで陶器と魚の問屋を営んでいたが、父が早くに亡くなりここを去ったとある。太一郎の苦労の始まりであろうか。続いて伊万里神社を訪れる。ここの上に太一郎の胸像があった。そして何と神社の横には菓祖中嶋神社がある。香橘神社もある。Oさんにとって興味のある分野らしい。和菓子の伝来、伝承、面白い。その街から西洋菓子で成功した太一郎が出たことはどう関係するのだろう。

熊本佐賀福岡茶旅2021(3)合志から小天温泉へ

6月2日(水)熊本市内3

今朝も美味しいご飯を食べたので、散歩に出た。熊本学園大学まで歩くにはかなりの時間が掛かったが、案外足が軽い。この大学の創設にかかわったのが阿部野利恭。阿部野は可徳乾三がシベリアに設けた茶業事務所の責任者をしており、しかも日露戦争前に軍のために諜報活動も行っている。石光真清とも昵懇の間柄だ。更に熊本茶業組合長にも就任、茶業に縁のある人物だ。大学内はやはり静かだったが、ビルの中に阿部野の胸像が置かれており、学校は彼を忘れていないようだった。

それから水前寺公園の方へ向かう。夏目漱石は熊本で頻繁に引っ越したらしい。ここにも旧居があったが、やはり入れなかった。その近くには、明治初期熊本洋学校の教師をしていた、ジェーンズ邸(日本で最古の洋館)があったが、何と熊本地震で崩れており、移転工事が進められているとのことだった。熊本洋学校といえば熊本バンド、徳富蘇峰など同志社などにも繋がっていく。

宿に戻りつつ、小泉八雲の家の前を通ったが、閉まっていた。結構閑静な日本家屋のようだった。それから熊本城の横を通り、加藤清正の像を久しぶりに見た。城は地震で壊れたが、改修は進んでいる。ただコロナもあって入場は制限されているという。遠くから城を眺めた。それから蔚山町を通って帰る。ここは清正が朝鮮の役に出兵して見た蔚山から名前が付いたらしい。

合志から小天へ

宿で一休みしているとOさんがやってきた。車に乗ってここから茶旅が始まる。まずは以前も訪ねた三友堂さんへ向かう。2年ほど前、合志で可徳乾三についてお話しした時、直前に訪問した。ここは130年前可徳が作った茶舗で、可徳破綻後工藤家が引き継いで、今に至っている。

何の連絡もせずにいきなり訪ねたのだが、ご夫婦とも覚えていてくれた。Oさんも紹介で来た。何とも有難い。前回以降に書いた文章も渡した。すると工藤さんが『可徳の看板、見る?』と聞いてくれたので、思わずお願いしてしまう。近所に保管されているその重みのある看板を引っ張り出すだけでも大変だったが、実際にこれを見ると、歴史の重みと同時に、可徳が本当に生きていた証を見た実感が沸く。帰りに見性寺に寄って写真を撮る。ここは可徳の法要が行われたという寺だった。

それから合志へ向かう。Uさんと連絡が取れなかったので、自ら合志義塾跡を訪ねた。ここは2年前と変わっていない。工藤家もここに関わっている。そしてハバロフスクの可徳商店に派遣された若者もここの出身者だった。何とも教育の重要性を感じさせる場所だ。

合志の歴史を掘り起こしているUさんと何とか落ち合って、可徳の墓に向かう。前回も連れてきてもらったが、やはり場所は分からず、迷ってしまう。可徳の墓は2年前と変わりはなかったが、Oさん、そしてUさんの知り合いにとっては、やはりあれだけ可徳という名前が並ぶ墓は珍しかっただろう。

Uさんとはあっという間にお別れして、今日の宿泊先、小天温泉へ向かう。雨がかなり強くなっているが、なぜか車の中にいる時だけだった。宿に着くと、コロナのせいか今晩のお客は我々二人だけだった。個室温泉付きの広い部屋にアップグレードされて嬉しい。お茶を頂き、お菓子を食べると温泉気分になる。

ここは夏目漱石の『草枕』という小説の舞台になった場所であり、その中の煎茶道関連の記述に注目して、その現場にやってきたわけだ。実は漱石はお茶好き、それも煎茶派だった。だが舞台はこの宿の隣、今宿はない。ここではゆったり温泉に浸かり、美味しい、そしてヘルシーなご飯を食べてボーっとしていた。

6月3日(木)大牟田から山鹿へ

翌朝も雨が降っていた。雨音を聞きながら個室風呂に朝から浸かり、やはり美味しい和食を堪能する。実は昨晩から首と肩の痛みが再発していた。恐らくは畳生活が影響しているのだろう。温泉に浸かればよくなるだろうと思ったが、意外や上手くはいかない。あまり肩を気にすると腰も痛みだす。

傘をさしてお隣を見学する。旧前田家住宅。前田案山子という名前には聞き覚えがある。漱石も案山子がいたから、わざわざこの山深い温泉まで足を運んだのだろう。建屋の中に小さな温泉が残っており、外から見ることができた。ある意味、何もないところ、だからこそ漱石が愛したのかもしれない。

雨の中を出発する。今日の午前はお墓探しの旅である。台湾魚池で紅茶を作っていた持木壮造。彼のお墓が熊本玉名にあると聞き、これまで色々と調べてきたご縁も考えて、訪ねてみることにしたのだ。手掛かりはお寺の名前だけ。それでも行けば何とかなるというかなり甘い考えで進む。

熊本佐賀福岡茶旅2021(2)水俣へ

Kさんとは3年ぶりだろうか。前回は人吉の紅茶伝習所関連でお世話になった。相変わらずいいお茶を作っており、ファンも多い。今回は香りのよいお茶を厳選して購入した。Kさんの隣にSさんという人が出店していた。何と福岡の糸島から来たという。お茶屋というよりシナモンなどを扱っているらしい。その彼が『糸島の歴史は面白いからぜひ来て』という。この先福岡で訪ねる予定の場所を告げると、何とそこは彼の家のすぐ近くだというので、その場で訪問が決定した。これぞ、茶旅。

一度宿に帰って休む。夜遅めに夕飯を探すと、コロナ禍でもあり、店があまりない。一番近くのとんかつ屋が開いていたので、久しぶりに立派なとんかつを食べる。非常事態宣言は出ていないものの、蔓延防止が出ている熊本。やはり旅をするにはかなりの不自由が生じている。

6月1日(火)水俣へ

翌朝は早く起きて、宿の朝食を食べる。ビュッフェスタイルではなく、定食を提供する形式なのだが、この郷土料理定食(レンコンなど)はかなりうまい。朝からいいものを食べて気分は上々。すぐに出掛ける。市電で熊本駅へ行き、JR鹿児島本線で八代に向かい、そこから肥薩オレンジ鉄道に乗り換えた。この列車はSuicaが使えないので、あらかじめ熊本駅で切符を購入した。

乗客も少なく、何とものどかな旅だった。途中から視界が開け、海沿いを走っていく。1時間ちょっとでその可愛らしい電車は水俣駅に着いた。今回水俣に来たのは、ここが徳富蘇峰、蘆花兄弟の出身地だったからだ。何しろ我が家の最寄り駅は芦花公園なのだから、一度は訪れたいと思っていた。

先ずは市役所に向かう。実は昨日鶴屋で会ったAさん、自分が水俣に居ないのは申し訳ないと、何と徳富蘇峰記念館の担当者に連絡してくれ、会えるようにしてくれていた。というのも、蔓延防止措置の影響で、今は記念館も閉鎖されており、水俣に行っても何も見られないのは分かっていた。教育委員会で30分ほど丁寧に、ゆかりの場所など概略を教えてもらった。有難い。

役所を出て歩き出す、何と蘆花公園があった。記念碑もある。こちらがある意味、本当の蘆花公園かもしれない。川を渡ると徳富蘇峰記念があった。ここは蘇峰が寄付した資金を基に図書館が作られた場所らしい。ただ蘇峰兄弟は幼い時に熊本に移住しており、生まれ故郷ではあるが、馴染みはどれだけあったろうか。

図書館で徳富家関連の資料を探したが、コロナの影響で長居は出来なかった。徳富兄弟の生家の建物も残っていたが、立派な商家だった。少女像があったので見てみると、村下孝蔵は水俣出身の歌手だった。電車の時間が迫っていたので、駅前のパン屋さんでパンを買い、電車に乗ってから食べた。素朴な味が懐かしい。

因みにオレンジ鉄道ではPapPay支払いで切符が買えたが、その切符は一部手書き、思い出に残るようなもので、感心した。更に乗り換えの八代駅では、ここからJRでSuicaなどの使用が可能となるため、途中にタッチパネルが設置されているが、それにタッチしなかった客がいたようで、何と駅員がJRのホームまで探しに来ていたのが、何ともローカル線だった。

熊本市内2

熊本駅に戻る。そこからどこへ行こうかと迷っていると、駅前の大きなビルの中に何と図書館があった。しかもコロナ禍でも特に閉鎖されてはいない。思い切って飛び込み、知りたい資料の有無を訪ねると。実に丁寧に探してくれて助かった。県立図書館は閉鎖と聞いていたが、ここは市立図書館の分館らしい。駅前に図書館、いいね。

駅前から歩いて10分ちょっと、川沿いから少し入ると石光真清記念館があった。石光はあまり知られてはいないが、日露戦争以前より諜報活動に従事し、シベリア地区に非常に詳しい人だった。だがその功績はあまり評価されておらず、後に彼の手記が出版されて、知られるようになった。熊本関係者、そして茶業関係者にも繋がる重要人物だが、ここも閉まっていた。

さっきの図書館で検索してもらった時、市立図書館本館へ行けばみられると言われる本があった。折角だから行ってみようと思ったが、交通が不便。仕方なく30分ほど歩いて向かう。途中味噌天神などがあり、ちらっと見る。こちらの図書館はちょっとピリピリしており、検索された本だけが出され、コピーしたら早く帰って、といった対応だった。まあこれが普通のコロナ対応だろう。

帰りに徳富記念館にも寄ってみた。大きな木が見えたが、ここは改修中で入れなかった。この時期、熊本ではどこも締め出された。のどが渇いたのでコンビニに寄ると、『午後の紅茶 熊本県産いちごティー』なるペット飲料の売り出し中だった。熊本の紅茶、美味しいよね。腹が減ったので歩いていると、何と桂花ラーメンがあるではないか。若い頃、新宿で偶に食べたが、ここは熊本発祥だった。ラーメン+チャーンを美味しく頂く。これまたなつかしい味だった。

熊本佐賀福岡茶旅2021(1)熊本の歴史を歩く

《熊本佐賀福岡茶旅2021》  2021年5月31日-6月5日

ついに還暦を迎えた。さあ、これからだ、いや、これからだと思っていると、突然寝違えたような痛みが走る。それは首に始まり、肩にも広がり、そしてとうとう腕がしびれる事態となる。PCに向かい合っても、腕が痛くて文章も書けない。病院に行くと『そのうち治ります』と若い医者に言われ、早期回復の見込みはなかった。

コロナも感染者が増え、それでも東京五輪は予定通り行われるという。そうだ、この五輪期間中は思いっきり休もう。その前に行けるところには行っておこう。4月に大分に行ったので、やはり熊本県山鹿は訪ねたい。ついでに佐賀も行きたい。Oさんも乗り気だったので、またもや熊本に降り立った。

5月31日(月)熊本市内1

2年ぶりに熊本空港に降りた。前回は大学の先輩が迎えに来てくれ、30年ぶりの再会となったが、今回はコロナ禍でもあり、一人で市内へ向かう。この飛行場、2年前とは様子が違うように思われる。改修工事中なのであろうか、簡易な造りのところが目立つ。市内へ行くバスがあるので、それに乗る。地方空港はフライトに合わせてバスがあるのでうれしい。

以前熊本駅から空港までバスに乗ったことはあるが、今回は空港から途中で下車する。40分ぐらいで桜町バスターミナルに着く。ところが降りて外へ出ようとしたが、バスルートしかない。他の乗客の行動を見ていると、一旦ターミナル内に入っているので、それに従い、エスカレーターで2階へ行き、そこから外へ出る。きれいになったのは良いが、何だか面倒だ。

今回は初めてのホテルに泊まる。最近チェーン展開に力を入れているらしいが、熊本には昔からあるとか。フロントの接客対応がとてもよく、チェックイン時間前でも、部屋に入れてくれたので満足。夕方なぜか部屋のテレビのNHKだけが映らない怪奇現象もあったが、すぐに部屋をチェンジしてくれるなど、対応は良かった。

熊本はまだ五月だというのに、何とも暑い。午後2時の気温は30度を超えていた。それでも腹が減ったので外へ出た。宿のすぐ近くに大きなアーケードがあり、パッと目に付いたのが、『馬肉うどん』。熊本だから馬刺しは食べるだろうが、馬の肉をうどんに入れるのだろうか。好奇心から食べてみたが、まあ普通の肉うどんと変わりはない。

折角なので熊本市内の歴史的に興味がある場所を歩き回ることにした。先ずは熊本城の横を通り、堀の外側にある横井小楠とその弟子たちの像を見る。勝海舟や坂本龍馬にも影響を与えたと言われる思想家だ。明治の初めに京で殺されてしまったが、生きていれば更なる活躍があったかもしれない。その向こうには西南戦争で熊本城を守り抜いた土佐人谷干城の像も建っている。

更に進んでいくと、宮本武蔵旧居跡という表示が見える。そう、武蔵は晩年細川の庇護のもと、熊本に来て五輪書を書いてここで亡くなっている。そのまま夏目漱石旧居(5番目の家)を見学しようと思ったが、何と現在改修中で閉鎖されていた。その裏には先ほどの横井小楠生誕地の看板が見えた。建築関係の若者が休んでいるところをどいてもらい写真を撮ると、彼らもここが何なのかと興味を持ってのぞき込む。

そこから歩いて熊本大学を目指してしまった。ちょっと無謀だったが、30分以上かけて何とか歩けた。郊外にある熊本大学のキャンパスは静かだった。コロナ禍で授業はオンラインだろうか。熊本大学というと、何となく宮崎美子を思い出してしまう。何で宮崎なのに熊本?

今回の目的は夏目漱石の足跡。旧制五高の建物がキャンパスに残っていると聞いたが、ここも全面改修中。その前には小泉八雲の顕彰碑がある。漱石の記念碑を探すと少し離れたところで、おどけた感じの漱石像と句碑を発見。漱石の熊本は、松山より濃い生活だったのだろうか。

熊本大学を抜けて、更に歩いて行く。細川家の墓所があるという泰勝寺跡(現在は立田自然公園)まで行ってみた。ところがコロナ禍で閉園中、入ることはできなかった。かなり歩いていたので、疲れがドッと出た。お寺も門だけあったが、改修中のようで、何となく中は覗けそうだったが、そのまま立ち去る。

そこから10分歩いて熊本大学まで戻り、バスに乗って市内へ戻る。そういえば、茶農家のAさんやKさんが鶴屋百貨店の催事に出店していると言っていたので、折角だから寄ってみることにして、街の中心でバスを降りた。コロナ禍のこの時期に催事ができるとは、九州は東京とは違うようだ。

百貨店にはそれなりに人が入っていた。まずはAさんに挨拶。本当は明日水俣に伺う予定だったが、ここの催事が明日までということで、残念に思っていたので、会えてよかった。Aさんの活動はユニークで、様々なところへ行き、勉強しているという。愛媛の黒茶にも関わっているというので、次回はそちらを訪ねようと思う。

羽生茶旅2021

《羽生茶旅2021》  2021年5月6日

大河ドラマ『青天を衝け』を楽しみに見ている。渋沢栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市は盛り上がっているだろう。栄一は徳川昭武のお供でパリ万博に行っているが、その時の経験がその後の実業家を作ったとも言われている。この万博、色々と興味深い点があるのだが、日本の物品の中に茶はなかったのか、という観点で見てみた(茶は展示されたが、市主要産品ではなかった)。

その過程で、この展示品を運んだ、そして販売したのは誰だったのかに興味が出てきて、清水卯三郎という名前に行き当たる。卯三郎の墓が自宅のすぐ近くにあるというので行ってみたが、見付からない。もう一度検索すると、何と生まれ故郷の埼玉県羽生市に移されていると知り、訪ねてみることにした。

5月6日(木)羽生

盛り上がらないゴールデンウイークが過ぎた。原稿の締め切りもあったので、思い切って電車に乗った。羽生という場所は子供の頃からよく聞いていたが、行ったことはない。『久喜、加須、羽生、舘林・・』という東武線の放送が懐かしい。東武動物公園も昔は杉戸という駅名だった。現在羽生といえば、フィギャ―スケートの羽生選手ぐらいしか思い浮かばない人も多いだろうか。

北千住から久喜へ行き、伊勢崎線の館林行きに乗れば、羽生に着く。駅前からちょっと歩くと、市民プラザ前に清水卯三郎の胸像が建っていた。1829年この地に生まれた卯三郎は、江戸へ出て貿易商のような仕事をしながら語学を学び、薩英戦争後の交渉では大久保利通らの要請で通訳を務め、何とあの五代友厚を救出したという。大河ドラマで五代が熊谷宿で将棋を指すシーンがあったが、あれは救出した五代が逆に薩摩から追われていたので、この付近に匿ったという話から来ている。

更には1867年のパリ万博では商人代表として、物品を運び、会場に日本茶屋を設え、柳橋芸者を3人連れて行くという前代未聞の荒業をして、好評を博した。ナポレオン3世から勲章ももらったらしい。因みにその芸者たちが日本人で初めてヨーロッパに渡った日本女性らしい。御維新と共に浅草に瑞穂屋を開き、出版業や歯科医療機械の輸入などを行い、1910年に没した。あの勝海舟とも深い親交があったというから、何とも興味深い人物ではないだろうか。

もう少し歩くと、清水卯三郎生誕地という看板がある。今も酒屋か何かを営んでいそうな雰囲気のある家が建っている。卯三郎の時代はどのような暮らしをしていたのか、よく分からないが、酒造業であろう。とにかく羽生は北関東によく見られる、落ち着いた静かな町だった。

少し郊外まで歩いて行くと、正光寺という寺がある。そこに卯三郎の墓があった。これは1999年に東京世田谷烏山の乗満寺から移されたものだった。墓の継ぎ手がおらず、卯三郎顕彰会が尽力して清水家の菩提寺に移したらしい。比較的大きな墓石にはひらがなで『しみづうさぶらうのはか』と書かれている。これはかな文字論者であった卯三郎直筆とも言われており、誰でも文字が読めるようにという彼の志の表れだった。

この寺には歴代清水家の墓もある。『清水哲信墓碑』というものがあり、それによると清水家は小田原北条家に仕えていたが、江戸初期に羽生に移り、酒造業を行い、代々名主の家柄だったという。哲信とは卯三郎の祖父に当たる人物。卯三郎も実家が造り酒屋であれば、商売のことは小さい時からよく知っていたのだろう。

一旦駅付近に戻り、ランチにありつく。何だか久しぶりに外食してちょっと緊張する。居酒屋も今は酒が出せず、ランチに精を出しているようで、思いの外お客がいた。それから図書館へ回ってみた。結構歩いて辿り着いたのだが、何と今日は休館日だった。木曜日に休館はないだろうと思ったが、祝日の翌日休みでは仕方がない。それよりここには歴史館が併設されていたようだが、こちらが見られなかったのは何とも残念だった。

帰りに老舗和菓子屋に寄り、まんじゅうを買ってみる。元治元年1864年創業と書いてあったが、聞いてみるとここは支店で本店は熊谷であった。いずれにしてもこの頃、卯三郎と五代がこの辺を駆け回って(逃げ回って)いたと思うと、何ともおかしい。今回折角だから渋沢栄一の故郷深谷にも足を延ばそうかと思ったが、羽生から深谷は距離的には近いが、鉄道路線がなく、大回りなるので止めた。渋沢と卯三郎はどんな交わりがあったのだろうか。ちょっと気になるところだ。

大分茶旅2021(5)竹田から大分へ

街中まで車で行き、先ずは老舗和菓子屋但馬屋に入った。創業200年、但馬の国ともかかわりがあるらしい。菓子販売部と喫茶部がある。土産の菓子を買い、開放されている店内を見学する。それから生菓子付きのお茶セットを注文して朝ご飯とした。これだけの老舗があるこの街、侮れない。

それから近くにある竹田市歴史文化館へ向かう。ここに滝廉太郎や竹田に関する展示があった。併せて岡藩や中川家の歴史も学ぶ。この文化館の後ろに竹田荘がある。田能村竹田の住まいや墓がある、私のお目当てはこちらだ。ここはかなり高い場所があり、エレベーターで昇った。

家がきれいに残っている。茶室もある。敷地が思いの外、広い。頼山陽など多くの客人がここに泊まったのだろう。竹田の文化人らしい様子がよく見える。石碑類も沢山あり、その中にはちょっと気になるものもあったが、さすがに古いものは文字が読めない。何気なく受付に居た方に聞いてみると、何と文化館に資料があるはずだと言って、自ら下へ行き、コピーを取ってきてくれた。何とも有難い。

竹田の墓はこの家の裏山の中にあるというので、一度外へ出てまた登っていく。かなり急な坂があり、更に横道を入っていく。かなり奥の方にその墓はひっそりとあった。表示がなければそこへは行かないだろうという場所だった。如何にも竹田らしい眠り方かもしれない。

その山道を降りて行かずにそのまま歩いて行く。何故か『広瀬武夫の墓』という表示を目にしてしまったのだ。あの日露戦争で英雄になった広瀬は竹田の生まれだった。ところがその表示からかなり歩いても辿り着けなかった。Oさんは車を取りに戻り、後から来てくれた。茶屋の辻、というこの場所は、西南戦争の激戦地であり、薩摩も政府も双方多くの兵が亡くなった、千人塚と呼ばれる塚があるところだった。

実は広瀬家もこの戦いで家を焼かれて、飛騨高山へ引っ越したという。ようやく見付けた記念碑は『広瀬武生誕の地』だった。そしてその先のちょっと高い場所にその墓が現れる。広瀬はロシア語が堪能で、ロシア娘との恋も伝わっている。柔道六段。そしてそこから車で街中に戻る。巻き寿司が評判という店で買い込んで、ふと振り返ると、そこは広瀬神社であり、広瀬の像も建っている。彼はいつの間にか神になっていた。

大分で

駅まで車で送ってもらい、Oさんと別れた。ここから大分まで電車で行く。先ずはホームで巻き寿司を頬張り、電車に乗り込んだ。そこからのどかな田舎を眺めながら、揺られていく。乗客も多くはない。全く何のストレスもない春の日、思わず目を閉じてうたた寝してしまう。

大分駅に着くとそこは都会だった。ちょっとそのギャップに悩む。駅では大友宗麟の像が出迎えてくれた。キリシタン大名宗麟については、非常に興味がある。そこから荷物を引っ張って、宿まで歩いた。いつもよりちょっといい宿が安かったので泊まることにしたのだが、駅近の方が楽だっただろうか。

荷物を置くとすぐに外へ出た。先ず向かったのは大友氏の館跡。今は庭園など一部が復元されていた。これからその遺構が整備されるのだろう。それから城まで歩いて行く。今日はワクチン接種会場となっており、中を見ることはできず、外堀だけで終わる。急に腹が減ったので、とんこつラーメンと餃子を食べる。そして広いお部屋、大きなバスタブに帰って、ゆっくりと休んだ。偶には広い、快適な部屋で寝るのもよい。

4月10日(土)大分をフラフラ

翌朝はゆっくり起き上がる。特にやることもなかったが、フライトは夕方だったので、朝から歩き回る。駅の反対側のなだらかな丘を登ってみる。大友氏の拠点の一つ、上原館跡に碑が建っている。その向こうに宝戒寺が見える。弥栄神社は荘厳な雰囲気があった。恐らく普通の観光客は行かないだろう場所を巡った。

それから図書館に寄って、大分の茶業、そして田能村竹田などの大分出身の偉人の資料を見た。農学者大蔵永常が気になる。それにしても腹が減ったが、周囲に食べるところがない。図書館内のカフェでオムライスを頂く。何故大分まで来てオムライスなのかとは思うが、腹が減ったから食うのだ。

宿まで歩いて戻り、荷物を引っ張ってまた駅前まで来た。大友宗麟だけでなく、フランシスコ・ザビエルの像も建っていた。宗麟はザビエルを招き、そこからキリスト教が広まったという。ここから空港行きのバスに乗る。行きは空港から中津まで2時間も掛かったが、今回は1時間も掛からない。飛行機に乗ると、なぜか宮崎の茶が配られた。

本当は今回、別府温泉に浸かり、フェリーで四国愛媛に渡る計画も立てていたのだが、コロナも怪しくなり、また自分の体力にも問題が発生してしまい、帰ることになったのは、残念だった。

大分茶旅2021(4)木浦から竹田へ

Tさんから聞いた話の中に、吉四六さんが出てきた。確か大分焼酎の名前として聞いているが、九州ではとんちの一休さん並みに有名な人らしい。彼が茶にも関係あるかもしれないというので、普現寺という寺にその墓を探しに行く。寺は鎌倉中期創建とあり、非常に落ち着いた山間のいい景色が見られた。吉四六さんの墓は外にあったが、吉四六とは代々受け継がれた庄屋、廣田吉右衛門のことで、一人を指すのではないらしい。

ランチは街道沿いの食堂に入る。とり天が食べたいと思っていたが、チキン南蛮や唐揚げも頼み、皆でシェアした。昼からどう見ても食べ過ぎの旅になっている。鳥の天ぷらが意外と美味しいことに気が付く。東京ではなぜあまり見かけないのだろうか。

午後は木浦を目指す。途中の看板に『ととろ』という文字が出てくる。私は見たことはないが、ジブリアニメ『となりのトトロ』のバス停があった。ここは撮影スポットらしく、カフェまであったが、平日でお客はいない。とにかくかなりの山の中へ入っていく。そこから1時間ほどで何とか木浦に着いた。

今回大分に来たメインはここだった。1875年政府の要請で紅茶伝習所が開かれたのが、熊本の山鹿とここ木浦だったのだ。この伝習所は翌年人吉でも開かれたが、残念ながら成果が上げられなかった。その後はインド風製法で再度伝習が行われているが、それも明治でほぼ消えてしまった。国産紅茶の歴史は失敗が多く、残念ながら地元でもほぼ知られていない。現在『木浦』で検索すると、韓国の『モッポ』が出てきてしまい、国内での木浦の知名度は高くない。

Oさんが事前調査してくれ、伝習所の場所は郵便局の裏とのことだった。土産物などを売る町の施設が隣にあり、聞いてみると、その横だった。ただそこは川沿いの空き地で草が生えているだけ。郷土史家が作った本によれば、確かにここが伝習所となってはいたが、そこに『インド風』の文字が見られたので、最初の場所ではなく、数年後の伝習所だった可能性もある。

戦後共同工場が出来るなど、一時は茶業が盛り上がった時期もあったが、現在は茶農家が2-3軒あるだけらしい。その中で、『宇目紅茶』というブランドで、紅茶作りをしている人もいい、小さな茶畑は川沿いに見えたが、残念ながら会うことはできなかった。街の人に聞いてみると『木浦は鉱山で栄えた町。恐らく明治初期は鉱脈を掘りつくし、他業への転換が必要だったのではないか。結局その後三菱が鉱山経営に乗り出し、イギリス人も招かれ、近くには洋館もある』とのことだったが、茶については首を傾げた。

そこから山道を抜けて竹田市を目指した。途中に神楽の里という道の駅を通ったので、何か食べるものはあるかと物色するも、店はほぼ閉まっていた。仕方なく2時間かけて竹田市に着く。予約した宿へ行ったが人影はない。かなり大きな宿だが、今日泊まるのは我々4人だけらしい。自慢の大浴場も閉まっていた。部屋は狭く、居心地が良いとは言えなかった。

宿から歩いて5分ぐらいのところに食堂があるというので出掛けた。この宿の付近は街の郊外にあり、食べるところがちょっと心配だったが、それは杞憂に終わる。唐揚げで有名な店の支店があり、昼に続き唐揚げ、チキン南蛮、そして鳥スープと鶏肉のオンパレード、鶏肉好きとしては大満足。1日でどれだけ鶏肉を食べたのだろうか。店の個室に入り、お茶談義に花が咲く。

木浦の繋がりで言う竹田とは、授産事業で紅茶会社が出来たとか、明治中期に開かれた木浦の伝習所に派遣された教師が竹田の人だったとかいう、断片的な情報だけだった。現在茶業関係のものを見付けることはかなり難しい。

4月9日(金)田能村竹田と広瀬武夫

朝早く起きた。今日は朝食も出ないが、まだ腹が一杯なので、散歩に出た。取り敢えず駅の方に向かって歩く。川に朝日が昇っていくのがよい。豊後竹田駅の後ろは崖になっており、水が落ちている。明治期に建てられたという妙見寺の山門が実に見事だった。駅舎の中には滝廉太郎の像がある。滝廉太郎はこの地で一時期を過ごし、そしてあの荒城の月を作曲した。今回はその舞台、岡城は横を通っただけになった。

駅前には田能村竹田の小さな像が建っている。竹田市に来た理由、それは江戸期の煎茶文化に大きく関わった竹田の故郷を見たかったからだ。駅前から続く通りには、竹田の南画がいくつも表示されていた。取り敢えず一度宿に戻る。Oさんは少し遅れるとの連絡があり、後の二人は既に宿を出てどこかへ行ったという。

大分茶旅2021(3)杵築から野津へ

その辺を歩いていると、和田豊治の看板がある。朝吹英二や中上川彦次郎らについで留学し、富士紡績を立て直した人。中津には福沢人脈があり、明治期の日本を支えた人物を多数輩出している。その福沢の旧宅も残されており、記念館もある。諭吉の母、順を主人公にした朝ドラ政策を嘆願する動きもあるという。記念館の展示も立派で、その家系と人脈の凄さはもっと勉強すべきだと思った。

宿に帰って一休み。それでも昼ご飯を抜いていたので、腹が減り、近所の食堂へ。生姜焼き定食600円、安い。満足。旅をしているとどうしてもご当地名物を食べようとするが、私は旅が日常なのだから、普通に食べたいものを食べるのが良い、という基本を思い出せてくれた。その後近所を散策して、腹ごなしをする。

4月7日(水)中津を歩く2

今日はOさんが迎えに来てくれ、茶産地へ行くことになっていた。だが佐賀から来るので到着は昼頃とのことで、朝ご飯をたくさん食べてから、午前中は引き続き中津を歩くことにした。黒田官兵衛が宇都宮氏をだまし討ちにした際、その家臣を襲って血塗られた元合寺の赤壁、河童の墓がある円応寺、中上川彦次郎生誕地などを歩き回る。

天気が良いと気持ちが良い。最後には江戸時代に本格的な中華料理の解説書を書いた田中信平なる人物まで発見して、ちょっとびっくり。中津というところは実に多彩で面白い。結構暑くなる中、トボトボ歩いて何とか宿に戻る。少し待つとOさんがやってきて、車に乗り込んだ。

先ずは中津市内のお茶屋さんにOさんの知り合いを訪ねた。創業100年を越える丹羽茶舗。看板には宇治茶と書かれ、店舗も由緒ある雰囲気だった。隣には喫茶部と書かれた建物もあり、ラテなどのドリンクテイクアウトにも対応しているが、かなりお店に格式がある。お茶の歴史の話をすると、奥の座敷に売茶翁関連の掛け軸があるというので、早速拝見した。老舗茶荘らしい、中庭も見える。ただ店舗内はかなりおしゃれな雰囲気もあり、そのバランスが良い。

中津から杵築に向かう。本日のメインは杵築紅茶の歴史を学ぶこと。大分の紅茶といえばきつき紅茶であり、きつき紅茶といえばAさんというぐらい、国産紅茶界では有名な方からお話を聞いた。とても気持ちの良い外のテーブルに紅茶と奥さんお手製のお菓子を頂き、とても良い気分でお話を聞く。マスクをしているので花粉症も気にならない。

医者であった奥さんのお祖父さんが戦後朝鮮半島から引き揚げてきて、無医村だったこの地に招かれ、村を豊かにするために奨励したのが、きつき紅茶の始まりだという。だが最終的に1971年の紅茶自由化で紅茶事業は頓挫してしまう。そしてAさんが奥さんと結婚して、この地にやってきて紅茶作りを始めたのは、それから20年以上経っており、実はお祖父さんともほとんど会ったことがなく、紅茶作りを教わったわけでもないらしい。これは意外な歴史だった。それにしてもべにふうきで作られた紅茶、すっきりした透明感があって美味しい。

お祖父さんの像が、元自宅付近に建っていた。やはりこの村に功績があったと讃えられている。茶工場があった場所にも行ってみたが、今やその痕跡はない。どこでも同じような状況なのだが、50年前に紅茶作りに投資した人々はそれなりに損失を出し、借財の清算に追われたようだ。

そこから車で約2時間、本日は佐伯に宿泊する。ここは魚などが美味しいとのことだったが、Oさんは夜、オンラインミーティングがあり、夕飯の時間が少なかったので、目についた中華食堂に入る。地方都市にはよくあることだが、ここも量が多い。というか、料理2品を選んで定食にする形式になっており、料金も高くない。かなり美味しく、コスパは抜群だったが、胃はもたれた。

4月8日(木)臼杵から木浦へ

翌朝はゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯を食べる。出発まで時間があったので、佐伯の街を歩いてみる。ここは海軍の街で、海軍航空隊の基地があった。港の近くに濃霧山という場所があり、基地はそこにあったらしいが、今は公園になっている。港は非常に穏やかな入り江になっている。

本日午前は臼杵野津町の茶農家を訪ねる。2代目のTさんにお話を聞く。こちらは煎茶ブームの頃に茶業を始め、この周辺でも20-25年前はかなりの茶農家があったが、今は減少傾向にあるという。最近は紅茶を作っていると言い、専門家であるOさんと色々な話をしていた。その後茶畑も見学する。北九州からやってきたMさんらが合流した。Mさんはバーテンダーだが、昼間は和紅茶を出すバーをやっている。

大分茶旅2021(2)宇佐八幡から中津城へ

4月6日(火)宇佐神宮へ

朝も早めに起きた。宿の朝食を食べに行ったが、食べている人は殆どいなかった。やはり宿泊客は多くはないようだ。9時に駅前へ行き、観光案内所で情報収集する。だが宇佐八幡付近の様子はよくわからない。先ずは昨日のバスに乗って、宇佐八幡まで向かう。40分乗って910円、地方のバス料金は安くない(大分空港-中津は1550円)。補助金次第か。

このバスにも乗客は二人しかいない。この路線今後も続いていくのだろうか。宇佐八幡の一つ前、八幡の郷というところを過ぎると、何と県立博物館があった。なんだここで降りて、博物館を見た後、歩いて八幡へ行けばよかったと思ったが後の祭り。次で降りて観光案内所へ行く。ここで大体のルート計画を立て、神宮のお参りへ向かう。

宇佐八幡は広大な敷地を持っており、歩くのは大変だった。先ずは外側から攻めてみたが、何しろ記念碑などが多い。最澄が中国へ行く前にここにお参りし、天台宗を開いた後、また参拝したとか、宮本武蔵と関係があるとか、かつて宇佐参宮線で使われたSLなども置かれている。

広い境内に踏み込むと、木々がいい感じで生えており、雰囲気が良い。『仏様と神様が日本で初めて出会った場所』などと書かれており、面白い。きつい階段を上がると、立派な社殿が現れる。参拝者は殆どいないので、静かにお参りする。下宮もあり、大きな池やきれいな庭園もあり、その歴史に豊かさも見える。

更に少し外れた丘を登っていくと、和気清麻呂の碑があった。そうか、ここは奈良時代に起こった宇佐神託事件の場所だったか。「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、朝廷が混乱し、和気清麻呂が派遣される。最終的に道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育において持ち上げられ、このような碑が建立されているのだろうが、史実はちょっと違うようだ。

道鏡は下野の国に流されており、栃木に住んでいたわが父は、道鏡についてかなり詳しく調べていたのを思い出す。だが残念ながら、その資料は既に私の手元には無く、結局何がどうなったという話も、上の空で聞いてしまい、今や記憶の片隅にもない。確か栃木では道鏡顕彰会などが、道鏡は悪くないという説を唱えていた。

観光案内所に戻るために歩いていると、敷地内には宮や寺の跡などもある。『日本書紀には、』のフレーズで始まる説明書きが多い。またきれいな橋が架かっていた。呉橋と呼ばれており、呉の人が架けたという。近くには夏目漱石の句碑などあるが何とも新しい。観光案内所でレンタサイクルを借りる。1日300円。何と電動自転車でちょっと困惑。初めて乗ったが、こんなラクチンなものとは知らなかった。

電動自転車は急坂もあっという間に上ってくれる。その勢いで3㎞先にあった県立博物館まで行った。バスは一日数本しかないのでとても助かる。そして何より天気が良い。博物館で宇佐八幡の歴史やこの地域のことなど、色々と学んだ。本当はもっと居たかったが、中津に戻るバスの時間を考えて、見学を制御した。

自転車を返した。昼ごはんを食べたかったが、バスを優先する。トイレの壁に『双葉山の里』というポスターがあった。あの69連勝の横綱もここの出身だったか。彼は絶頂期が太平洋戦争中で、昭和20年に相撲が再開された瞬間に引退した悲劇の人だったと聞いている。

バス停で待ったが、時刻表から20分遅れてようやくやってきた。それでも運転手は『遅れてすみません』などとは言わない。この路線は昨日空港から乗ったものだが、今日は飛行機でも遅れたのだろうか。やはりこの路線を使う人は殆どなく、中津駅までほぼ独占状態で戻る。

中津を歩く

駅前には福沢諭吉の像が建っていた。駅前から中津市博物館まで歩いて行く。ここで中津の歴史を学ぶ。中津といえば黒田官兵衛だが、その後は細川が入っているのが面白い。立派な中津城の石垣も見られ、説明も受ける。それから中津城に登る。このお城、かなり格好いい。一番上から見ると、市内も、そして海もよく見える。如何にも官兵衛、海に近く情報を取り易かったらしい。関ケ原の合戦の情報もいち早く得て、九州から天下を狙おうとしたとか。

中津の偉人として、解体新書の前野良沢なども登場している。また江戸期の城主、奥平家は、あの長篠、いや設楽原の戦いの際の、長篠城主だったと言い、そのエピソードなども語られている。それから転封を繰り返し、ここに落ち着いたらしい。お城の撮影スポットには、小さな官兵衛像があって、観光客は城をバックに写真を撮る。

大分茶旅2021(1)中津へ

【大分茶旅2021】 2021年4月5日-10日

2021年も暗いスタートとなってしまった。年初に緊急事態宣言が発令され、また旅を止めてしまった。結局2か月半も緊急事態は続き、もはや緊急事態が常態化した。それでもオリンピックをやると言い、聖火リレーの日程のため、緊急事態は解除されたが、ちょうど花見、お彼岸、卒業式などと重なり、コロナ感染者はむしろ増えていった。

昨年12月の会津以来、旅はできていなかった。どうしようかと思っていたが、Oさんよりお誘いがあり、大分から茶旅を再開することになった。これまで九州には何度も来ているが、何と大分には一度も来たことがない、通過したこともない、未知の場所だった。果たして今回は何が見られるのだろうか。

4月5日(月)中津まで

羽田空港に行くのは、いや飛行機に乗るのは昨年の10月以来だった。これまで10年間、あれだけ乗ってきた飛行に乗るのが何となく怖い。憂鬱だ。これはコロナ禍だからだろうか。歳を取ったのだろうか。そろそろ出掛けなければという時間に、なぜかメジャーリーグで大谷のリアル二刀流をやっていて、出るに出られない。しかも家を出る時小雨が降っており、眼鏡も服も軽く濡れた。それがとても嫌だと感じた。

京急線は遅れているとのことだったが、かなり早く出てきたので、慌てる必要はなかった。品川駅でうどんを食べて、ゆっくり羽田に着いた。それでも時間は余る。外は相変わらず小雨が降っている。ANAで大分行をマイレージで予約したが、フライトはソラシドエアーだという。因みになぜかマイレージは通常の6000マイルではなく、僅か3000マイルで乗れた。キャンペーンだというが、いよいよ航空会社も厳しいのだろうか。

機内も乗客は7割ぐらいだろうか。私の隣も空いていて快適だ。昨年と違い、特に煩い感染予防策はなかった。フライトは1時間半、提供されたスープはアゴユズというご当地物だった。話し声もなく、皆静かにしている。大分空港に接近した時、その動きは面白かった。機体は海上を相当ゆっくりと180度旋回してランディングした。

空港を出ると空港バスのカウンターに行く。今日はこれから中津まで行くのだが、検索したところ、バスで途中まで行き、そこから少し歩いてJRの駅へ行き、そこから電車で中津駅へ向かうルートしかなかった。そのバスもすぐ出るのでどうしたらよいかと聞いてみた。答えは簡単で、『中津行バスもある』だった。しかも料金は高くない。これだとチケットを買って、バスを探すと、何と乗客は私一人、しかも中津駅まで2時間掛かるという。しかしもうチケットは買ってしまったし、そのまま乗っていく。

大分空港は海辺の端にあった。そこから山沿い、狭い田畑を通っていく。車もほとんど通っていない。夕日がのどかさを増して見せる。このバスは空港バスと言いながら路線バスでもあり、乗り降りは自由にできるが、1時間乗ってもだれ一人乗ってこない。ようやく母子がベビーカーを持って乗ってきた。だがたった一停留所で降りてしまい、また運転手と二人となる。

豊後高田市街地を通過して、宇佐駅を過ぎる。そして何と宇佐八幡に至る。私はいつか宇佐神宮には行きたいと思っていたが、検索しても鉄道路線、バス路線共に見いだせず、もし行くとすれば歩きしかなかった。ところが今、その神宮が見えている。やはり地方都市の路線については、来てみないと分からない。明日はここに来よう。

それから宇佐市街地、そして中津市街地を通る。国道沿いには牛丼やうどん、ハンバーガーなど多くの全国チェーンが並んでいた。中にはなぜかタイのタイスキMKの文字すら見える。大分名物のから揚げの看板も多い。そんな中、やはり2時間かかって中津駅前に到着した。まだ夕日は沈んでいなかった。

駅の反対側、予約したチェーンホテルにチェックインした。時刻は午後7時、夕飯を食べるところはあるだろうか。唐揚げで検索すると『ぶんごや』というところが有名なようなので、そこまで10分ほど歩いて行ってみたが、何とそこはショップであり、既に今日の営業は終わっていた。

途中にあった店に入るも『うちには唐揚げ定食なんてないよ』と追い出された。仕方なく宿の食堂に戻ると、何と『ぶんごや唐揚げ定食』があった。食べてみたが、唐揚げはかなりあっさりしていた。あとは部屋で休んだが、久しぶりの旅のせいか、いつものようにすぐに寝付くことができず、少し体調が心配になる。