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静岡、三重、奈良茶旅2021(1)静岡で茶の歴史を学ぶ

《静岡、三重、奈良茶旅2021》  2021年10月16日-21日

コロナ拡大、オリンピック、パラリンピック、そして首肩肘痛など、この3か月は色々とあって、全く旅に出られなかった。徐々に体が回復するにつれて、引き籠りのストレスが徐々に溜まっていった。それを解消すべく、とにかく思い切り旅に出て行った。今回はどんどんどんどん、西へ西へと向かった。

10月16日(土)西焼津まで

今朝はスパッと目が覚めた。やはり旅に出る日の朝はいつもとは違う。体のことも考えて、今回は新幹線に乗ろうと考えていたが、早めに家を出ていくと、ついいつものように在来線に乗って静岡方面を目指した。だがただ目指すのも何なので、小田原辺りにちょっと寄っていこうとか考え、早めにバスに乗って小田急線沿線の駅まで出た。

ところが電車を待っていると、『人身事故発生』のアナウンスがあり、電車が止まったことが分かる。相模大野まで何とか走って、そこから藤沢へ回り、何とか東海道線に乗り込んだ。熱海を越えるとSuicaはエリア跨ぎになるので、藤沢駅で切符を購入。毎度のことながらなんと面倒なことか。そこから熱海まではいつもの風景。そして静岡方面はホームが違うので、荷物を持って階段をバタバタと上り下りして、また電車に乗り込む。最初の目的地は西焼津だったので、途中興津で一度降りて、後続の電車で向かう。

西焼津の駅で降りると、Nさんが待っていてくれた。車でランチの場所へ向かう。最近Nさんとの共通の話題はタイなので、そんな話をしていると10分ほどで蕎麦屋に着いた。そこに旧知のIさんが先に来て席をとっていてくれた。コロナの収まりのせいか、すごく繁盛している店で、お客がひっきりなしに入ってくる。こちらがオーダーした蕎麦もあっちに行ってしまうほどだったが、それを指摘するとすぐに謝りに来てくれ、アイスをおまけしてくれる。

Iさん、Nさんとはお茶繋がりなので、お茶の歴史から現代の茶業まで様々な話題で盛り上がる。お茶素人の私は、基本的な質問(チコちゃん的な)をぶつけていくつも情報を得る。何となく日本茶というのは、世界の中でも特殊な茶に位置づけられるのかもしれないと思ってしまう。同時に静岡の茶業人の歴史に興味を持つが、それは私の仕事ではないように思われた。

掛川で

食後またNさんの車に乗り、西焼津駅に戻ると、ちょうど電車が行ってしまった。次に来る電車を見ると島田行き。何と掛川まで行かないことを知り、慌ててK先生にお電話して遅刻を知らせた。6分遅れて掛川へ駆け込み、K先生と再会する。といっても二人だけで会うのは初めてで、どのように接すればよいか戸惑う。

K先生から『今日は天気が良いから駅前のベンチで話しましょう』と言われ、話を始めた。意外なほど午後の日差しが強く、少し汗ばむ(いや話の内容の面白さで体熱が上がった?)。台湾茶と静岡についての歴史的なお話がどんどん展開していき、今日の本題を忘れて聞き入る。時々本題に戻るのだが、当然のごとく知識と経験があふれ出し、どうしても脇にそれていく。だがその脇の話が面白い。これは歴史の話ではあるが、先生の実体験、生の話だから迫力もある。

アッと気が付くと、夕方五時の音楽が鳴り始めた。我々はまるで小学生のように、夢中になって遊んでいたのだ。はたと我に返り、ペットボトルのお茶すらお渡しもせず、2時間も話し続けていたことに恥じ入る。K先生は今年81歳だというが、全く衰えはなく、次々にはなしが繰り出される。

さすがに夕暮れとなり、風が涼しくなってきた。ベンチから立ち上がり、帰ろうと言いながら、また20分ぐらい話しが続いていくと、本当に暗くなり、お別れの時が告げられた。長引くコロナで人と話す機会も減り、『いいガス抜きになったよ』と言って頂いたが、大変なご迷惑であったに違いない。ただこちらの収穫はとても大きかった。

掛川駅から在来線で浜松まで向かった。ランチが蕎麦だったからか、何だか腹が減る。駅に着くと予約した駅近くの宿に荷物を置き、すぐに外へ出た。予想以上に風があり、ひんやりする。浜松餃子には目もくれず、うなぎ屋に入った。決して安くはないうなぎ屋だったが、午後6時で満席だという。

15分ぐらい待って席に着き、ひたすらうなぎの到着を待つ。カウンターには、SNSに写真を上げようという感じの男性が二人。実は私はサラリーマンを辞めた10年前、一つの誓いを立てた。『10年間は自らうなぎを食べに行かない』と。そして10年が過ぎ、何とかうなぎが食べられる環境なので、ついに還暦祝いと称して食べに来たわけだ。まあ、美味しいには美味しいのだが、やはり私には高級な食べ物だったかな。

佐倉茶旅2021

《佐倉茶旅2021》  2021年10月12日

7月に宮崎から戻った後、コロナも収まらず、私の肩痛も良くならず、オリンピック、パラリンピックをテレビ観戦するばかりで、ほぼ外へも出なかった。9月になり、少し状況が好転したので、外を散歩するようにはなったのだが、どうも体を動かしていないと具合が悪い。まず単発の旅(日帰り)で様子を見ることにした。以前から気になっていた千葉県佐倉へ出向く。佐倉といえば長嶋茂雄を思い出すが、果たして何があるだろう。

10月12日(火)佐倉へ

何となく天候は思わしくなかったが、行こうと思ったときに行かないとどんどん腰が重くなる。今日は千葉県佐倉というところへ初めていく。本八幡まで都営地下鉄で行き、そこから京成線で京成佐倉駅まで、2時間弱で到着する。まずは駅前の観光案内所で地図をもらい、大体の場所を確認する。そうか、佐倉には国立博物館もあるのか。ただそれとは反対の方角へ向かう。

既に昼が近づいていた。朝飯もちゃんと食べていなかったので腹が減り、食堂へ向かう。先日Facebookで見た佐倉の美味しそうな定食が頭に浮かんでいた。だが11時半にその店に着くと、狭くはない店内は、コロナ対応で席数が減らされていたこともあり、既に満員だった。10分以上待つ間、皆が何を食べているのかじっと観察する。

ようやく席に着き、日替わり定食を注文する。刺身がメインで、そこにメンチカツとコロッケ、そして美味しい汁、更には漬物と杏仁豆腐が付いてくる豪華版。持ってくるお盆がデカい。1210円は決して高くはない。テイクアウトの人も多い。なぜここが人気なのか、分かるような気がした。

そこから本日の目的地、佐倉順天堂に向かう。あの順天堂病院はここ佐倉が発祥。佐倉順天堂医院は今もここにある。その横に佐倉順天堂記念館が建っている。渋い木製の門を潜ると1858年に建てられたという建物がきちんと残っていた、庭には創始者佐藤泰全の像がある。

順天堂は江戸末期の1843年に長崎留学を終えた佐藤泰全が江戸で蘭医学塾を開き、その後佐倉に移り住んで開いたオランダ医術の塾だった。ここでは外科手術を中心とした最高の医術が教えられたらしい。ただ泰然がなぜ佐倉に移り住んだか、その理由ははっきりしない。藩主は幕末老中として活躍する堀田正睦であり、蘭学を奨励していた彼の招へいだとする説が語られているが、どうだろうか。

入り口で、今回の主目的である『佐藤百太郎について調べに来た』と告げると、受付の女性が『ああ、百太郎の資料は殆どないと思いますよ』と済まなそうに言う。それはある意味想定内であり、取り敢えず中の見学を始めた。佐藤百太郎は一応家系図には出てくるが、佐倉順天堂としては、あまり取り上げられない人物。順天堂は能力主義だったといわれ、実子でも相当に実力がなければ後継ぎにはなれない。泰然の養子で後継者の尚中を父に持つ百太郎は残念ながら、その道を閉ざされた人だった。

受付の女性がやってきて、『それでも何かあるかもしれない』と言いながら、色々と探してくれたのは何とも有難い。こういう対応は実にうれしい。その結果百太郎のものではないが、明治初期の佐倉の士族授産事業などについては、資料を見ることができた。そして『佐倉茶の歴史だったら、小川園さんが調べていた』と教えてくれた。

佐藤百太郎は順天堂の後継者から外れ、祖父泰然が横浜へ伴って英語を学び、幕末にアメリカに渡った。明治になってニューヨークで事業を起こし、日米貿易を開始した男だ。その貿易品の中に佐倉茶が含まれていたというのが今回の旅の発端だった。有名な狭山茶と並びもし佐倉茶も輸出されていたのであれば、今ではピンと来なくなってしまった千葉茶業の歴史も見直すべきではないだろうか。

尚ウキペディアによれば『対等な日米貿易については、百太郎の親類(義兄)である大野秀頴(8代目・大野伝兵衛)による東金町(現在の千葉県東金市)東金茶の輸出が走りである。 茶園の名を東嘉園と言い、有栖川宮熾仁親王が命名した。 1874年頃まで東嘉園(東金茶園)の営業成績は良好な状態をつづけていた。横浜貿易における茶の輸出状況が良好であったからである。 秀頴は商売についてはかなり進取的なところがあり、アメリカとの直接取引を企図したのである』として、狭山茶より佐倉茶の方が直輸出は早く始められたというが、この辺もぜひ調べてみたいところだ。

因みに狭山、入間の近く、日高に高林謙三という医者がいた。彼は途中から医学ではなく、茶業製茶機械の発明に努め、大いに貢献した人物で、茶業史の名を留めている。彼もまた若い頃順天堂で学んでおり、繋がりがあると思われるが、高林の製茶機械はこの地で使われただろうか。

記念館の裏に回ると、そこには2つの石碑が建っている。1つは1890年に3代目瞬海によって建てられたという佐藤泰全の碑。もう一つは1902年にその瞬海の60歳を祝って弟子たちが建てた碑だった。石碑はいずれも古びており、文字は擦れて良く読めない。

記念館の前の道、名前は蘭学の道らしい、を戻り、途中で曲がり、旧堀田邸に向かった。ところが道を間違えてしまい、周囲を大きく一周する羽目になった。こういう時、Googleは役に立たない。入口がうまく表示されないと、こういうことが起こる。またここはある施設の中にあり、それを知らなければ入口を見つけられないとの問題点もあった。

堀田邸は明治に堀田家が東京から移り住んだ場所で、静かなところだった。家屋内に展示があり、明治のころの様子がわかる。農事試験場にもなっていたようだから、茶業とも無縁ではあるまい。庭もまたなかなか趣があり、茶室もあるようだ。

そこから町中に戻る。趣のある建物がいくつも見られる。そんな中に小川園があった。先ほど聞いていたので、思い切って中に入る。するといきなり目に飛び込んできたのが、佐倉同協社と書かれた看板と全景の絵だった。思わず『これは・・』と店員さんに話し掛けると、丁寧に対応してくれた。いくつか質問しているうちに『社長に聞いてもらった方がいいかも』と言って、電話を掛けてくれると、なんと社長が駆けつけてくれた。

社長は佐倉茶の歴史を調べると同時に茶園の復活、観光協会の活動を通して佐倉の町の振興にも力を入れているという方だった。アメリカに最初に直輸出された日本茶は狭山茶と佐倉茶だったという歴史についてお話を伺う。そしてそこに順天堂佐藤家出身の佐藤百太郎が絡んでいる。実に面白い話であり、更に突っ込んで色々と質問した。明治初期には佐倉の人が掛川に茶の指導に行った、などの話は、実に興味深い。幕末から明治も初めの方は、千葉、埼玉、茨城の茶業はかなり発展しており、横浜からかなりの茶が輸出されたことだろう。

その間、こちらで販売している白折茶を淹れてもらったが、すっきりして非常に飲みやすい、美味しいお茶だった。小川園は市内外に何店舗も有する大きなお茶屋さん。今日訪ねたお店は2階に喫茶スペースまであったが、コロナ禍で休止中だった。それを知らずにやってきた若夫婦がいたが、社長は休止を詫びながら、サラッと小袋のお茶を渡していた。こういう気づかいは心に残り、彼らはきっとリピートするだろう。

それから何と社長が車で茶園まで連れて行ってくれた。そこは駅を挟んで反対側の高台にあり、『佐倉茶発祥の地』という看板が立っていた。開墾には苦労があっただろうな。佐倉の士族授産事業の歴史、もう少し調べてみたくなる。幕末茨城付近のさしま茶をリードした中山元成などとの関連もあるようで、今後調べてみたいテーマである。

今日と取り敢えず桜を散歩してみるだけのつもりだったが、思いがけず佐倉茶の歴史に触れることができ、感激した。突然お訪ねした方々にはご迷惑だったとは思うのだが、これこそ、茶旅だった。千葉、埼玉の茶、更に狭山茶の茶貿易の歴史を調べて、まとめてみたいテーマだったが、果たしてその資料はあるのだろうか。

熊本宮崎茶旅2021(3)宮崎のキーモン種

その畑の持ち主は、ご主人が既に亡くなっており、奥さんが対応してくれた。あくまで伝え聞いている話として、『60年以上前に試験場から分けられたキーモン種がここに植えられている。自分たちはその土地を譲り受けているので、当時の状況はわからない』とのことだったが、勢い良く伸びている茶葉はキーモン種かもしれないと思わせた。冷たくて甘い紫蘇ジュースを頂き、のどがとても潤った。

そこからまた1時間ほど車に揺られる。最後の訪問先は宮崎県農業試験場茶業支所。川南分場として、戦前に作られ、様々な品種改良を行ったことで知られている。ここに戦前戦後に勤務した森薗市二さんに関して、情報を得ようとした。Oさんのアレンジで、OBのFさんが来てくれていた。

Fさんは森薗さんと1960年頃一緒に働いていた人で、その人となりに関して、色々と話してくれた。そしてFさんは宮崎県茶業史を監修した人でもあるので、そのあたりの歴史についても、色々と教えを乞うた。ついでに試験場の初代所長、堀地重義氏についても情報を得た。やはり現地に来なければ分からないことが多い。これは大変有意義な面談だったが、何しろコロナ下でもあり、時間が限られてしまったのはちょっと残念だった。

Aさんに宮崎市の宿まで送ってもらった。『明日はお助けマンが来るから』と言い残して、Aさんは熊本に帰っていった。今回はAさんのお陰で旅が続いた。本当にありがたい。もう夕飯の時間だったので、宿の近くでチキン南蛮など鶏料理を食べた。小雨が降ってきたので、早々に引き上げ、ちょっと疲れが出たので、ゆっくり休んだ。この宿には大浴場があるので、気持ちが良かった。

7月22日(木)都城へ

翌朝宿で朝ご飯をたらふく食べた。そうこうしていると、迎えが来た。お助けマンTという。なんと靴など履かず、裸足で生活しているらしい。若いがとてもユニークな人で、その経歴もかなり面白い。世界を放浪した旅の話を聞いているだけで一日終わりそうだ。車は都城の方へ進む。TさんはAさんの指示通りの場所へ向かったが、私にはそこに何があるのか、あまり理解していなかった。いつの間にか行き先を理解していない二人が旅をするという珍道中となっている。これまた面白い。

最初は茶畑を見に行く。事情があって詳細は述べないが、三股町にある。だがそこへ行こうとすると道路工事が立ちはだかる。何とかそれを躱してたどり着くと、そこには古い茶工場もあり、色々と興味をそそられる。歴史的に表に出てこない茶があるということか。

都城は現在宮崎県ではあるが、地理的には鹿児島県にも近く、歴史的には微妙な場所らしい。そんなことを考えながら、都城市内の島津邸に行ってみる。ここに島津家の足跡があるのだ。立派な庭に出迎えられ、建物に入ってその歴史について聞いてみると、2階に簡単な図書室があるというので、そこで資料探しが始まる。勿論戦国時代の島津氏も重要だが、明治以降も気になるとことだ。

それが済むともう昼になったので、ランチ場所を探す。Tさんは実はビーガンだというので、ちょっと頭を巡らす。インドカレー屋を探すとちょうどあったので、そこに入る。そしていきなりビーガン用カレーを作ってほしいとお願いすると、奥からネパール人が現れ、『茄子のカレーでいい?』と聞いてくる。このあたりの臨機応変さがよい。このカレーが肉入りよりもおいしく感じられ、また店の人々も親切で食事が進んだ。

本来はもっと色々と調べたいこともあり、宮崎市内に戻って図書館へでも行くべきだったのだが、何となく疲れてしまい、Tさんに頼んで早めに空港に送ってもらった。すると都城から1時間で宮崎空港に着いてしまった。Tさんの異色な経歴話はまだ終わっていなかったので、次回また聞きたいと思うが、会うチャンスは果たしてあるだろうか。

ちょうどアップグレードポイントの有効期限が来ていたので、今回はビジネスクラスで東京へ戻った。軽食が出る他、天気の良い空が良く見え、久しぶりに写真を撮った。東京ではすでに実質オリンピックがスタートしているが、コロナの影響で無観客試合が行われている。明日から2週間はテレビに張り付いて、オリンピックを楽しもう。そして合わせて体調を徐々に回復させていこう。

熊本宮崎茶旅2021(2)熊本から宮崎へ

7月20日(火)熊本市内2

今日から宮崎へ行く予定だったが、一緒に行くはずのOさんが都合により行けなくなってしまった。Oさんは事前アレンジに奔走してくれており、今回の旅を一番楽しみにしていたのだから、さぞ無念だっただろう。まあこういうこともある、仕方ないと心に整理をつけ、さてどうしようかと思っていると、『代わりにAさんが連れて行ってくれます』と書いてくる。え、実は今月愛媛で会う予定だったが、肩痛でキャンセルしてしまったので、何となくバツが悪いが、一生懸命アレンジしてくれたOさんの無念さを考えると、宮崎を訪ねて報告しなくてはならない。

ただいきなりの交代なので、Aさんは今日の夕方から動けるようになるとのことで、午後までは熊本市内で時間を潰すことになった。豪華な朝食も今朝はちょっと変わったものを思い、サンドイッチを注文したが、これまたボリューム満点でうまい。ここに来てから、ホテルの朝食の重要性に大いに気づかされた。これからのビジネスホテルは魅力的な朝食で売り出し、国内客を引き付けるのではないだろうか。

今日の元々の予定では、朝のうちにホテルの近所にある西岸寺に阿倍野利恭の墓をゆっくり探しに行くことになっていた。その寺は徒歩10分ほどのところにあったが、寺自体が閉鎖されているかのようになっている。これもコロナの影響で、長居はできない。仕方なく、自ら墓石を眺めて探すと、思いのほか、新しい墓であった。これも継承者の関係で合同となった結果らしい。これからはこういう墓が増えていくのだろう。

それから水前寺成趣園にも行ってみる。天気も良く、池と庭の取り合わせがよい、写真写りが良い風景だ。細川藤孝像など、見るべきものもかなりある。歩いていて何となく楽しい。ただ結構暑いので、休み休み歩くも疲れる。その後ホテルに戻り、荷物を取り出して熊本駅へ向かう。Aさんとの待ち合わせは新八代駅になったので、そこへ移動する。一昨日水俣へ行ったばかりだから、ルートは先刻ご承知だ。

なんとか合流して、Aさんの車で今晩の目的地、高千穂へ行く。2時間ほどかかって高千穂の宿に着く。ここは本当に山の中で、車で来ないと夕飯にもありつけない感じだった。すでに夜の7時を過ぎて、暗くなっていたので、チェックイン後速やかに食堂を探しに出た。案の定結構閉まっているお店が多い。ようやく中華料理屋を見つけてご飯にありつく。ここで中華、よかった。

7月21日(水)宮崎茶旅

本日はOさんのアレンジしてくれた日程をAさんと訪ねる。まずは五ケ瀬の釜炒り名人Kさんのところへ行く。これは私が5年前からKさんに『一度伺います』と言ってオオカミ少年になっていたものを、この機会に払拭するためお訪ねしたものだった。だが当然ながら名人の茶作りは多彩で、次々と珍しいお茶が登場し、同じ茶農家のAさんは目を輝かせて頷きながら、感心して飲んでいる。そして『私はここに来られただけで十分です』と感動している。

五ケ瀬の釜炒り茶は昔から作られていたが、周囲が蒸し製に切り替わる中、ずっと残ってきた。それは地産地消的な感覚なのか、交通が不便で蒸し製緑茶を売るに至らなかったのか、非常に興味深いテーマだろう。そんなことを、この実に眺めの良い、いい風が吹くKさんの茶屋で考える。奥様が私の原稿を読んでくれているという、喜ばしいお話も頂き、すごく満足。Aさん共々立ち去りがたい。

そこから車で1時間山道を行くと、美郷町に出る。ここの山中に茶工場があるというので訪ねてみたが、既に使われなくなってかなり経っている廃工場がようやく見つかった。この付近には茶畑も少しだけ残っており、植えられている品種も独特のようだった。Aさんは早々茶畑を眺めて、しきりに品種を見分けようとしていた。

昼時になったので食事場所を探したが、なかなか見つからない。何とか食堂があり、そこで肉うどんを食べた。最近食べ過ぎだったが、今日は朝ご飯も食べず、昼もヘルシーで体が軽い。午後は美郷町役場の方を訪ねる。ここにあの、中国安徽省からもたらされたキーモン種が植わっているとの情報があり、そこに一緒に行ってもらった。

熊本宮崎茶旅2021(1)熊本リベンジ散策

《熊本宮崎茶旅2021》  2021年7月18日-22日

コロナ感染は激しくなった。オリンピックは開催されるが無観客となった。それでも開催するには、それなりの意味があるだろう。私の方は首肩肘痛が激しくなり、ブログも書かず、散歩もままならなくなっていた。とうとうカイロプラクティスに通うようになる。鬱々とした生活が続き、余計に悪化していく。

そんな中、茶旅も愛媛におじゃまする計画が残念ながらとん挫した。オリンピック直前、最後のチャレンジでもう一度九州行きが浮上する。原稿の締め切りも迫っており、何とか出掛けることにした。今回は宮崎へ行くのだが、なぜか集合場所は熊本になった。2か月で2度目の熊本、よほどご縁があるのだろう。

7月18日(日)熊本へ

先月に続いて熊本へ向かう。もう見るところもないだろうと思ったが、フライトの関係もあり、早めに東京を離れた。肩肘に痛みの様子を見る必要もあった。午前中にオンラインの勉強会を開催して、そのまま夕方のフライトに乗る。なんだかサラリーマン時代の出張が思い出される。先月と同じルーティンで熊本空港からホテルに入る。夕飯も同じようにとり、同じように眠った。いつの間にか、熊本に慣れ、親近感を持つようになっていた。

7月19日(月)熊本市内散策

朝も前回同様、おいしい郷土料理をゆったりとしたスペースで頂く。やはり宿泊客は少ないのだろう。とても満足して、部屋に戻り、市役所に電話した。前回は閉鎖されていた石光真清記念館、入ろうと思ったら、役所に事前連絡する必要があったからだ。ただ電話に出た担当の人も石光や石光にかかわった人々(例えば阿倍野利恭など)についてあまり知識がなく、ちょっと残念だった。郷土の先達、もう少し知らしめてほしいところだ。

9時半に約束して現地に向かうと、草むしりしている人しかいない。ちょっと待つと警備会社の人がやってきて、鍵を開けてくれた。今や市役所が警備会社に委託して管理しているということだ。もう一度来てもらうのも悪いと思い、待っていてもらって、中をさっと見学する。

木造2階建て、1階には石光家についての様々な情報が展示されていた。更には過去の石光真清顕彰会の会報などが置かれており、かなり詳細な内容で大変参考になった。石光についての資料はこれまであまり見られなかったので、喜ばしい。ここでいくつか新しい発見があった。

それから熊本城に登った。これまでは地震の影響、そしてコロナ禍での閉鎖で、見学する機会がなかったが、今回は普通に入ることができた。ところどころ城壁が崩れたままであるなど、地震の影響が感じられるが、見事に復元してきている。石垣がすごい。そしてなんといっても城自体が立派だ。見栄えが良い。場内の展示物も見ごたえがあり、参考になる。観光客も少なく、見学には最適だった。

せっかくここまで来たので、先月閉まっていたところをすべて訪ねておこうと思い、バスに乗って泰勝寺に行く。今回は中に入り、細川ガラシャ(藤孝、忠興も)の墓に詣でることができた。ガラシャの人生に思いを馳せる。とても気持ちの良い庭園が広がっている。茶室は改修中で見られなかったが、十分に堪能できた。

そこから歩いて桜山神社へ行く。雨が降り出したのでさっと見学する。ここは神風連の乱で亡くなった人々の墓がある。西南戦争の直前、熊本の人々も立ち上がった戦い。首謀者といわれる太田黒伴雄以下、ずらっと並んでいる墓を見ていると、明治初期は何が善で何が悪かよくわからないが、勝てば官軍ということだろうか。

雨を避けてバスに乗ったが、すぐに止んだので、今度は県立図書館へ行く。ここで再度茶資料を探す。同じ建物の中には、熊本文学歴史館があった。そこで没後40年横溝正史展というのをやっているのがなんとも意外だ。取り敢えず見学する。最近目が悪くなり、展示物の説明をきちんと読むことができない。裏側に回ると、庭園が見える。ここも元は細川家の敷地だったらしい。熊本には至る所に細川家が出てくる。本当にお殿様がいたようだ。

路面電車に乗って帰ろうと道に出ると、向こうに食堂があった。食事は朝食べたきりだから、早めに夕食をとる。たくさんのおかずから選んでトレーに載せていくカフェテリア方式。ついつい煮物など余計に皿をとってしまい、結構な量を食べることになる。夕日と共にゆっくりとご飯を飲み込んだ。

熊本佐賀福岡茶旅2021(5)糸島へ

伊万里駅前にも太一郎の銅像があった。この像は私も数年前に見た、肥前さが幕末維新博事業で製作されたものが、ここに寄贈されたらしい。佐賀というところは歴史的に実に面白いところであるが、それほど知られていなのは残念だ。今回の大河ドラマでは大隈重信も活躍するだろうから、もっと広く知られてほしい。

森永太一郎の碑がある苑にも行った。森永公園という場所もあった。こうして回ってみると伊万里は森永一色?のようだ。それは太一郎がつらい過去を持ちながらも故郷のために様々な行動をとったからかもしれない。それはキリスト教的精神だったのだろうか。

最後に唐津に向かい、和菓子屋さんに行った。ここはOさんの紅茶などを使っているお店で、お茶とお菓子を頂いた。今やお茶とお菓子のペアリングは普通に言われているが、太一郎は洋菓子を作りながら、それに合うドリンクにも心を砕いていたはずだ。そして森永紅茶は生まれた、と勝手に考えている。

東唐津という駅まで送ってもらい、Oさんと別れ、一人周船寺という駅を目指す。先ず筑前前原まで行き、そこで乗り換え、ダラダラと進む。このルートは昨年唐津から博多へ出た時に既に通っている。約1時間で周船寺に着く。先日熊本で出会ったSさんが迎えてくれた。

まずは元々訪ねる予定だった宮崎安貞の家と墓に行ってみる。駅から歩くと20分ぐらいかかる場所だったが、車で連れて行ってもらい助かる。江戸の三大農学者といわれる宮崎安貞が後半生を過ごし、『農業全書』を著わした場所である。お墓の場所は森の中にあり、何とも森厳な雰囲気が出ている。

そこからほど近い場所にある平原弥生古墳に行く。ここは魏志倭人伝より約100年早い時代の古墳だ。日本で発見された最大の鏡も出土しており、天皇家の故郷だと唱える人もいるという。魏志倭人伝でいう伊都国は糸島ということか。古代史ファンには興味深い場所だろう。

更にSさんの家の方へ行くと、怡土城跡がある。奈良時代の山城と言われており、あの吉備真備も造営に関わり、中国・朝鮮への防衛のために築かれたらしいが、詳細は分かっていない。今は私有地ということで一般の立ち入りはできないが、Sさんの案内で、中へ入っていく。

私がここに来たのは、その奈良時代、ここに茶が植えられたとの話があったからだ。薬として入れられたものかもしれないが、あってもおかしくはない。静かな森林、神社などがあり、荘厳な雰囲気が漂う。古代を考えるにはふさわしい場所だった。そして知られていない遺跡から、新たな発見があるような気がしてならい。今回の旅では、博多以前、大陸から渡る船はまずここに入り、この地が中心だったことを想起させる内容だった。

Sさんの好意で、姪浜まで車で送ってもらった。糸島は博多からも近い場所だと実感する。そこから電車で中洲川端まで乗り、本日の宿に入る。ちょうど午後8時、殆どの店が閉店となり、夕飯を食べる場所を失った。仕方なく、チェーン店のテイクアウトで凌ぐ。コロナ恐るべし。

6月5日(土)福岡で治療

翌朝宿の朝ご飯を食べた。かなり本格的な和風ビュッフェで感激した。思わずマネージャーに聞いてみると、福岡でも人気のお店がここに出店しており、朝ご飯を提供しているというから、ちょっと驚く。ステイホームの時代、間違いなくこのような宿が支持されていくだろう。

それにしても昨日から寝る時の首の痛みが半端ない。これはダメだと思い、今日会う予定だったYさんに連絡しておいた。彼は現在マッサージを生業としており、昨年一度施術を受けていた。宿からバス一本で行けそうだったが、コロナで時刻表がずれていて、いつ来るか分からない。歩いて行ったら道に迷った。首痛による集中力の欠如だろうか。

かなり入念に施術してもらい、何となくすっきりした。ちょうど昼時になったのでY夫人とランチに出掛けた。近くのとんかつ屋?でちゃんぽん?を食べた。お店は大繁盛で、外に待っている人達がいた。ここのちゃんぽんが美味しいと評判になったそうで、多くの人の注文がちゃんぽんだった。

その後コーヒーショップでお茶を飲みながら、ケーキも食べてしまった。とりとめもない話をして、時間がどんどん過ぎてしまった。コロナ禍とは思えないほど、お客さんがいたのには驚いた。ウイズコロナの時代に入ったのだろう。とにかく楽しい時間を過ごしている間は、首の痛みはない。帰りは地下鉄の駅まで歩いて行ったが、痛みは出ない。

6月6日(日)福岡治療2

一旦よくなったと思った痛み。やはり夜中に出てしまい、もう一度Yさんのお世話になりに行く。しかし2日続けてやってもよくなるものではないらしい。やはり年齢的なものなのか。今日はバスに乗って帰る。これからの活動がどうなってしまうのか、心配ではある。取り敢えず痛みは和らいでいるので、荷物を持って空港に向かうが、東京へ帰る気持ちはかなり重かった。