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青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(3)福井 一乗谷と北の庄

12月15日(水)福井へ

朝ご飯は昨日より格段に良かった。やはり昨日の宿が特殊だったようだ。ゆっくり食べてバスに乗り、京都駅へ。ホームまで行くと敦賀行新快速は遅れていた。向かいの特急も来ていない。まあ急ぐ旅でもない。本当は今日も18きっぷを使いたかったが、各停料金と18きっぷ1日分がほぼ同額なので、ここは温存してSuicaで行く。

敦賀までは琵琶湖畔を走るのだが、徐々に風景が寂しくなっていく。湖西と湖東が近江今津駅でドッキングしてすぐに敦賀となる。だが新快速が遅れており、敦賀から福井行への乗り継ぎが不安になる。車掌に聞いても、さあ間に合いますかな?とつれない返事。1時間半以上掛かって敦賀駅まで行くと何とか福井行に間に合い、また揺られていく。

福井までは1時間弱。途中の駅名がユニークになってくる。眼鏡で有名な鯖江は別として、王子保、大土呂、越前花堂など、何と読んでよいかもわからない。福井駅に到着すると、駅前には松尾伝蔵の胸像と岡田啓介像があった。岡田は首相になった人物だが、松尾はその義弟で、首相秘書官となり、何と二二六事件に際して、岡田と間違われて命を落とした人物だった。

駅前の観光協会に寄って地図をもらう。ついでに一乗谷と永平寺への行き方を聞いた。すると『今日と明日、永平寺はお休みです』というではないか。テーマパークではない、寺がお休み?何と官長が亡くなり、その葬儀が取り行われるため、拝観停止なのだという。隣に座っていたおじさんが思わず、『何と運のない』とつぶやき、皆で笑う。確かに葬儀はそうそうあるものではなく、こんな時に来るとは我ながらすごいと思う。

取り敢えず予約した宿に荷物を置いて、また観光協会に戻る。一乗谷行バスチケットが安く買えるという。駅の反対側から出るのでそちらへ行くと、観光協会の人が追いかけてきて、バスの降りる場所についてアドバイスをくれた。何とも素晴らしいサービスだ。バスまで少し時間があり、駅をうろつくと駅そばがあり、思わず入って食べてしまった。越前はやはり蕎麦だな。

バスは永平寺まで行くらしく、お坊さんが二人乗っていた。あとは観光客数人。30分ほど乗っていると資料館が見えてきたが、現在改修中なのでここで降りないで先へ進め、というのが先ほどのアドバイス。確かにそこから2㎞以上行ったところに一乗谷の見学入り口があった。

一乗谷は朝倉氏の居城として名は知られているが、実は最近発掘調査が行われ、概要が明らかになったという。この間NHKのブラタモリでもやっていたので、興味が沸く。山に囲まれた狭い谷、そこに朝倉氏の屋敷があり、家臣の住居がある。一乗谷滅亡後、埋もれていたものを最近掘り出して、一部が復元されている。

橋を渡って向こう側へ行くと、朝倉氏遺構がある。朝倉義景が暮らした館跡、墓もある。少し上に上がると、庭園跡がある。ここからの眺めは良かっただろう。雨が降り出して足場が悪いので、その上には行かなかったが、横に歩いてみても、それなりの広さがある。ここに明智光秀も度々来たのだろうか。更に歩くと、いくつかの館跡、初代の墓なども見られた。

雨が強くなり、それ以上歩くのは止めて、バスが来るのを待ち、大人しく駅まで戻る。一乗谷の概要は何となくわかったが、やはり解説がないと全体像は分かり難い。ブラタモリを思い出しながらの散歩となった。恐らく博物館が完成すると、そこで掴めるようになるのだろう。

駅へ戻ると雨は上がっており、また歩き始めた。折角なので、一乗谷の後、北の庄へ向かう。ここは柴田勝家の居城で、秀吉に敗れてお市の方と共に散った場所だ。駅からそう遠くはない場所に、柴田神社があった。何とそこには『お市さん モテ祈願』などと書かれていて驚く。更に娘三姉妹の像まである。どうなっているんだ、この神社?

反対側に回ると北の庄跡があり、ようやく柴田勝家像にご対面できる。今や石垣の一部などしか残っておらず、どの程度の規模の城であったかを知ることも難しい。扱いは柴田公園であった。実は時代劇では有名だが、北の庄についてはよくわかっていないらしい。更に先日東京で家の近所を散歩していたら、何と勝家の孫の墓があって驚いた。柴田家は滅亡しておらず、北の庄から落ち延びた孫が家康に認められて、江戸時代を生き延びたらしい。

そこから歩いていくと、グリフィス記念館という洒落た建物があった。外国人教師の洋館であり、中も見学できる。足羽川を渡ると、左内町に入る。越前藩と言えば、やはり橋本左内だろう。近くの公園内に墓所があり、立派な像が立っている。安政の大獄で犠牲にならなければ、もっと名を知られたであろう、活躍したであろう左内。さすがに地元での評価は高い。

青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(2)京都を歩き回る

12月14日(火)京都2日目

本日も京都泊のため電車移動はお休み。一応体調を考えて、毎日8時間乗車などはしない。宿でトラブルが起こる。朝ご飯を食べようと、会場へ行くと『朝食券はないのか』と聞かれる。もらっていないというと、『えー』と言い、フロントに確認して『食べていいそうです』とあっさりいうので、こちらが『えー』となる。渡し忘れたのなら、もう少し申し訳なさそうにしても良いのではないだろうか。

そういう素振りをしたところ、マネージャーなる若者が食事中に現れ、頭を下げる。食事中だからというと、帰っていく。ところがチェックアウト時、この宿は機械で自動なのだが、カードを入れても数分間止まってしまう。フロントに声を掛けると先ほどの若者が飛び出してきて、またひたすら頭を下げる。こちらはバスの時間などを見て動いているのに、お客の都合など一向に気にしていないようなマニュアル対応に、驚いてしまった。

バスに乗り、四条から三条へ移動する。間の悪いことに、同じホテルチェーンの別の宿を予約してしまっていたのだ(京都内の同系列ホテルに宿泊すると特典があると言われて)。そこへ荷物だけを預けてすぐに飛び出す。バスで大徳寺へ向かう。大徳寺納豆の由来書きを読んでから、大徳寺黄梅院に寄る。ここは織田信長が父信秀のために秀吉に建てさせた寺で、信秀の他、毛利元就、小早川隆景、そしてお目当ての蒲生氏郷の墓がある。利休の庭園もあると書かれているが、なぜか入る気になれず、外の庭だけ写真に収めて去る。この扱いを見て、蒲生氏郷の地位が何となくわかる。彼が生きていれば歴史はどうなっていただろうか。

大徳寺を歩いていると色々な歴史が出てきて何とも楽しい。キリシタン大名大友宗麟の菩提寺瑞峯院、墓は十字架に見えるという。三玄院は石田三成ゆかりの寺で、古田織部、小堀遠州、千宗旦、沢庵和尚などが修行したとある。織部好みの茶室、そして墓もあるようだ。高桐院は細川家の菩提寺であり、出雲阿国の墓もあるという。総じて拝観料が高く(高桐院は拝観停止)、お墓の写真を撮る必要もなかったので、立ち去る。

そこから約1時間、鴨川を渡ってテクテク歩いていく。着いたのは宮本武蔵と吉岡一門の決闘で知られる八大神社境内、一乗寺下り松。武蔵のことは以前少し調べたが、ここは時代劇では必ず出て来る場所だった。意外に狭い敷地に武蔵像が建っている。ここで決闘前に神に祈ったという。

だが目的地はここではなく、更に坂を上っていく。詩仙堂、石川丈山が隠棲のために建てたと言われる。丈山は三河に生まれた武士で、徳川家康に仕えていたが勘気を被り?職を辞したらしい。江戸初期のことである。その後煎茶の奥義を極める??など、文人として余生を過ごした。煎茶道の祖とする話も聞いたが、少し違うようにも思う。ただこの落ち着いた空間を見ると、開祖という雰囲気はある。

拝観料500円を払って建物の中に入ると、いい空間が広がっている。そして座敷に座って庭を見ることができるのだが、その何とも言えない解放感、癒しの空間に、多くの人がじっと座っている。鹿威しの高い音が響き渡るが話声はない。庭に降りると、下りになっていて、下に庭がある。何とも贅沢な造りだ。すごく天気が良く、小春日和という感じで、テンションが上がる。ずっとここにいたと思える場所。

そこからまた銀閣寺の横まで歩いていく。哲学の道の脇に石川丈山の碑があった。更に歩いて泉屋博古館に行ってみる。ちょっと疲れたので休むつもりだったが、まさかの休館中。とぼとぼ歩いていると白河院という表示が目に入る。ここは元々藤原良房の別荘。それを白河院に献上したのだという。こういう場所がひょこっと出て来るのが京都らしい。宿の近くまで戻ると、みずほ銀行があったが、ここは三条南殿跡、そして平安博物館跡のようだ。ただ建物は新しくなっているように見える。

今日もかなり歩いて体力を消耗したので、夕飯はとんかつにした。近所のとんかつ屋へ行くと、ソーシャルディスタンスが十分に取られており、とんかつは普通だが、ゆっくり食事ができた。思わずキャベツとみそ汁をお替りした。帰りにコンビニでリプトンが新発売した練乳ミルクティーというのを買ってしまった。疲れた体に甘い飲み物は心地よい。

青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(1)東京から京都へ

《青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021》  2021年12月13-19日

青春18きっぷ、という言葉には若い頃から憧れていたが、実は学生時分はそれほど旅が好きでもなく、この切符で旅に出ようと思うことはなかった。そして還暦を過ぎた、コロナ禍で海外へ出られない今こそ、ラストチャンスと思い?各駅停車の旅を楽しむことにしてみた。

12月13日(月)京都へ

これまで静岡辺りまで新幹線を使わずに在来線で行くことはよくあった。だが基本的には小田急線で小田原まで行って、そこからJRというのが、料金も安く、時間的にも早い。今回はほぼ始発で京都まで行ってみようと試みる。まずは新宿へ行き、ついに18きっぷを提示した。だが、湘南新宿ラインで行けるところまで行こうと思っていた目論見は見事に外れた。新宿からの始発は6時40分、仕方なく品川に回り、東海道線に飛び乗る。

幼い頃、辻堂に住んでいたこともあり、横浜、大船などを走ると、その頃のことをたくさん思い出した。昔の東海道線は混んでおり、小さな体は押しつぶされそうだった。亡くなった伯父さんに連れられて、江ノ島の花火の夜、東京へ行ったことなど、なぜか今でも覚えている。

このまま小田原まで行こうかと思っていると、電車は国府津駅に入る。すると向いに御殿場線が停まっていたので、いきなりそちらに乗り換えた。いつもなら時間と料金から、こんな選択はしないのだが、今回料金は気にならない(時間的には20分ほど長い)ので思い切る。これが青春だろうか。

御殿場線、途中で小田急線とクロスする。学生など乗客は意外と多い。山北など、神奈川の茶産地も通り過ぎていく。御殿場が近づくと、富士山がどんどん大きくなり驚く。沼津に近づくにつれて、乗客がまた増えてくる。毎日乗っている人が多いのか、乗り込んですぐに日よけを下ろしたりする。沼津まで1時間10分ほどの旅だった。

沼津から豊橋行の電車に乗り込む。乗り換えなしで3時間進めるのは、荷物を持つ者としては有難い。この路線は時々利用しているので、駅名にも風景にも馴染みがあり、何となく落ち着く。車内に盲導犬が乗っており、実に大人しくお座りしている。静岡、掛川と過ぎていくと、何となく腹が減る。

浜松で降りてしまった。前回浜松に来た時、うなぎを食べたが餃子は食べなかったので、ランチは浜松にしようと思ったのだ。駅に餃子屋があることも分かっており、途中下車しても料金は変わらないのは気楽だった。ところが餃子屋は閉まっていた。何と11時開店、あと5分だとわかり、並ぶ。チャーハンと餃子10個セットを掻き込み、また電車へ戻る。餃子の味は覚えていない。

天気が良いので浜名湖がきれいに見える。新所原駅では天竜浜名湖線の小さな駅が見える。ここから森町まで一両列車に乗ったのも良い思い出だ。終点豊橋で乗り換えるのだが、大垣行へのこの乗り換え時間が異常に短い。乗客も分かっており、皆ダッシュする。息が上がる中、座席にへたり込む。名古屋は素通りして1時間半ほど乗ると大垣まで来る。

昔の18きっぷは東京駅から出る大垣行夜行電車に揺られていったのだろうか。いや、それだと効率が悪かったのだろうか。今やそんなことも分からなくなっている。大垣から米原まで行き、また乗り換えて京都まで2時間。意外に早く着いてしまった感あり。

京都駅からバスに乗り、割引券のある宿に投宿。このチェーンホテル、気に入って使っていたのだが、何だかフロントのサービスがかなり怪しい。とっても腹が減ったので、紹介されていた食堂を目指す。近いと思っていたら、実はかなり遠い場所にあり、歩いて1時間の散歩となってしまった。まあ、一日中電車に乗っていたのだから、歩いた方が体にはよい。

ここでジャンボチキンカツを食べて腹がはち切れんばかりとなる。暗くなっていたが、当然帰りも歩きと思っていると、なぜかポツリと雨が落ちてくる。近くの嵐電の駅まで行って電車で帰る。しかし嵐電の駅は、これが駅なのかと思うほど分かり難く、暗い夜道では探すのが難しい。四条大宮からまたとぼとぼ歩く。宿へ帰って大浴場で疲れを癒す。在来線の旅は良いが、やはり寝床だけはバックパッカー宿とはいかなそうだ。

さしま茶旅2021

《さしま茶旅2021》  2021年12月9日

一昨日浦賀に行ったのには訳があった。それは『日本茶を初めて輸出した男 中山元成』を調べる過程で、中山が何とペリーと幕府の交渉の場に同席し、その様子を絵に描いていたというのを知ったからだ。そして今日は、中山の故郷猿島に赴く。

12月9日(木)古河へ

平日の通勤時間帯に電車に乗るのは久しぶりだったが、昔に比べれば乗客はそれほど多くないという印象を持った。これもコロナ禍のお陰であろうか。古河駅に降りるのは6年ぶりだった。今回もまたYさんが駅まで迎えに来てくれる。何とも有難い。Yさんの家は江戸時代から続く茶農家であり、良質のさしま茶を作り続けている。JR東北本線の車窓から茶畑が見える。

何とも歴史を感じさせる、美味しいお茶が出来そうな茶工場はそのままの様子だが、茶葉を販売するショップはきれいになっていた。Yさんの作るお茶の進化も素晴らしく、日本茶アワードなど数々の賞を取っており、様々なお茶が並んでいた。

昔の写真を見せて頂いた。大正時代に茶摘みから茶作り、製茶競技会までを写真に収めているとは、それだけでも当時の茶業の財力が分かる実に貴重な写真だ。そしてYさんが何気なく言った『この茶畑の端に写っているのは、太田義十さん』というのに驚いた。太田義十と言えば、戦前は熊本や茨城、戦後は埼玉の試験場で活躍した人物であり、ちょうど先日、40年前の彼のインタビュー記事を話題にしていたところだったからだ。

これは茨城の試験場にいた時、こちらに立ち寄った写真だろうか。もっと驚いたのは『横にいる女性は、Y家の人(おじいさんの妹)で、義十さんと結婚したと聞いている』というのだ。このY家は当地では相当のお家であり、仕事で出入りしている内に、そこの娘を見染めたということだろう。この辺については、Yさんのお父さんが詳しいというので、次回はこの話を聞くために再訪することとして、Y家を離れた。

Yさんの車で向かった先は、坂東地域農業改良普及センター。ここに1941年に建てられた中山元成の胸像があった。以前は茶業試験場だったという。元成は1859年、横浜の外国商会にさしま茶売り込みを成功させ、アメリカに輸出された最初の日本茶、という栄誉に輝いた。だがそれだけではなく、明治初期のこの地の茶業に大きく貢献したのだという。

更に元成の故郷、辺田に建てられている大きな『茶顛中山元成翁製茶紀功碑』を見に行く。しかしなぜこんなに大きいのだろうか。後ろに回ると、一面に人の名前が刻まれていた。よく見ると明治の茶業界の錚々たるメンバーではないか。中山元成がどんな貢献を日本茶にしたのかは、このメンツを見ればよく分かる。この石碑は今でも中山家が管理しているという。

昼時となり、近所のお蕎麦屋さんでランチを頂く。鴨そばをつるつる、旨い。こちらが案内してもらっているのにYさんにご馳走になってしまった。申し訳ない。

午後はさしま茶協会のI会長を訪ねて、さしま茶の歴史を聞く。協会では市にも働きかけ、さしま茶の歴史を大学と連携して研究し、中山元成の功績も明らかにしてきたという。更に元成の息子のこと、中山家は外国との付き合いが多かったことなど、色々なサイド情報を収集する。尚先ほど見た『茶顛中山元成翁製茶紀功碑』の名簿の中には、私が調べた知られざる明治の茶業者(可徳乾三や平尾喜寿ら)が数名載っており、その資料をお礼にご提供した。

幕末から明治にかけては、静岡よりもむしろ関東の方が一大茶産地であったというは面白い。確かに輸出が横浜から行われているのだから、港に近い方が良いという道理となる。それが明治30年代に清水港が開かれ、茶貿易は静岡が中心となっていく。それは『徳川慶喜が許され、東京に戻った。それに付随して静岡に茶貿易の利権を移した』という話もあった。更にはさしまで紅茶が作られた歴史がないかなども調べる。

Yさんは用事があって途中で帰ってしまったが、その後もずっとI会長と話を続ける。息子さんがチャレンジしている烏龍茶なども面白い。最後は車でわざわざ駅まで送ってもらった。境町の最寄り駅は東武動物公園。実は妻の実家の墓がこの辺にあり、車でその脇を通った。利根川が蛇行していることは知っていたが、昔は茶が運ばれていたことを初めて知る。

東武線も久しぶりで懐かしい。帰りはなぜか北千住で降りた。特に当てもなかったが、若い頃、この駅を毎日通り過ぎていたことがあった。その辺の食堂に入ったが、コロナのせいかお客はあまりおらず、ホルモンやレバーを黙々と食べた。

浦賀日帰り茶旅2021

《浦賀日帰り茶旅2021》  2021年12月7日

1853年ペリーがやってきた場所は浦賀だった。昔から時代劇に良く出て来る地名だが、行ってみようと思ったことすらなく、今日に至っている。冬の一日、今回は何となく浦賀に向かう。更には常々気になっていた金沢文庫にも寄ってみる。何かいいことはあるだろうか。

12月7日(火)浦賀

品川からいつも乗る京急。羽田空港に行く時使うので、蒲田以南は滅多に行かない。今回は特急に乗り、京急久里浜駅まで行く。駅前には商店街があり、そこをまっすぐ抜けて行く。15分ほど歩くと海まで出る。そこは久里浜海岸だったが、ペリー公園があった。ペリー上陸記念碑が実に大きい。そして片面に日本語(碑の文字は伊藤博文)、裏面?には英語が書かれている。米友協会(明治憲法にもかかわった金子堅太郎が会長)が資金を集めて明治34年に建てたという。

公園内にはおしゃれなペリー記念館もある。入口にはペリー提督と戸田伊豆守氏栄の胸像があった。戸田は浦賀奉行としてペリーを迎え、翌年には日米和親条約を結んだのだから、ペリーのカウンターパートである。2階建ての館内にはペリー来航時関連の展示が無料で見られる。

昼前となったので、公園近くの『黒船食堂』に入ってみる。お客は誰もいなかった。この名称の食堂だから、てっきり『ペリーカレー』なんてのがあるのかと思っていたが、全く普通の食堂メニューで逆に好感が持てる。私も普通のアジフライ定食を注文して、美味しく頂いた。

それから海岸沿いをずっと歩いてみる。ペリーが来航した時は、どんな風景だっただろうか。30分ほど歩いて灯明堂跡までやってきた。ここは江戸初期に作られた灯台?で、明治初期に廃止になった。この丘の上には台場が設けられ(週末のみ見学可)、1837年のモリソン号来航時に、最初にここから砲撃したと書かれている。またこの地は浦賀奉行所の処刑地でもあったようで、仏像や慰霊碑なども見られた。

そこから浦賀奉行所跡に回る。そこは何もない更地になっていて、何ともポカンとしている。以前はどこかの企業の敷地だったようだが、今後は何か建てる予定なのだろうか。一応説明書きがあるので、その場所だとわかるが、日本の近代が開かれた歴史スポットとしては、何とも味気ない。

浦賀駅の方に向かうと、海が青い。入り江に船番所跡など浦賀奉行所の出先があったことも表示されている。対岸に渡る、渡し船もあるようだが、『乗船の方はボタンを押して』と書かれていると、ちょっと興を削がれる。浦賀駅まで来ると、昨年が奉行所開設300周年だったことが分かる。

浦賀造船所はこの駅の目の前にあったという。ペリー来航後一度作られた造船所は、小栗上野介らが横須賀造船所を作ったため廃止されたが、その後時を経て復活。100年に渡って戦艦などを作り続け、住友重機械工業旧浦賀工場跡地として、最近横須賀市に寄贈された。

金沢文庫

浦賀駅から電車に乗り、雨も降らなかったので途中の金沢文庫駅で降りた(金沢八景で降りる人は多いが文庫は少ない)。歩いて10分ちょっとで金沢文庫に到着。鎌倉時代金沢北条氏によって収集された貴重な書庫であったが、幕府滅亡後書籍は散逸したらしい。お隣にある称名寺という寺と共に有名である。金沢北条氏と言えば、大河ドラマ『太平記』で児玉清が演じた執権北条貞顕が思い出される。

きれいな金沢文庫の展示を見学後、そのまま図書室に入り、資料を見せてもらった。鎌倉時代の茶に関する資料があると聞いていたが、過去の特別展などのカタログなどをいくつか見た。私は日本茶の歴史に詳しくないので、その価値はよくわからない。もっと的を絞ってから来るべきだったと後悔する。

称名寺にも行ってみる。こちらは非常に落ち着いた雰囲気があり、ちょうど紅葉が終わったところで人影もまばら。寒くもなく散策にちょうど良い。山門やお堂も、雰囲気はいかにも鎌倉だった。もとは金沢北条氏(北条実時の像がある)の阿弥陀堂だったが、その後大造営が行われたという。特に金沢貞顕が作った浄土庭園は非常に趣があり、歩いていると心地よく、その雰囲気は今に繋がっている。

鎌倉幕府滅亡と共に激動の時代となり、江戸時代にはその維持も難しくなったと説明されている。室町、戦後時代に金沢文庫の書籍も持ち去られてしまうが、庭は残ったということか。中世史というのは、実はあまりよく理解されていないが、この辺りと茶の関連は興味深いのかもしれない。時間が許せば調べてみたいが、果たしてその時間はあるだろうか。

東北、北海道を行く2021(8)初めての旭川で

そこでちょっと休んでから、Tさんに会いに行った。Tさんも北京繋がりだが、東京でも何度も会っていた。お茶の関係で札幌に来る機会は少ないので、このチャンスに会いたいと連絡すると、平日は非常に忙しいという。彼も定年で転職し、今はコロナ関連の助成金申請作業などをしているという。

Tさんが連れて行ってくれたのは小さな居酒屋。コロナ禍もあり、きっと経営は大変なんだろうが、私はあまりお酒を飲まないうえ、昨日の食べ過ぎもあって、それほど店の売り上げに貢献できなかった。Tさんとは昔話などを楽しくお話して別れた。その足で宿に戻り、荷物を持って札幌駅へ向かう。

今晩は旭川に移動だった。何と駅ネットで特急を予約すると、45%割引と書いてあり、迷わず予約しておいた。ほぼ1時間に一本、札幌‐旭川間には特急カムイが走っているのは便利だが、その利用率は残念ながら高くはない。一応指定席だが、またガラガラの車両に揺られていく。途中富良野という文字が見えると、『北の国から』を思い出す。

1時間半弱で旭川駅に到着した。かなりきれいな駅舎だった。さすがに北の夜は寒い。今晩は駅前の宿を予約していたが、行ってみるとかなり若者向けな感じの宿で、チェックインも自動で行うようになっており、そのフロアーは広い共有スペースになっている。今日は土曜日の夜で特にお客が多いようだ。大浴場も完備しているが、かなり混んでいた。

11月21日(日)旭川で

旭川の朝は寒かった。そして小雨が降っていたので、ゆっくりと朝ご飯を食べて天候回復を待つ。この宿の人気の秘密は朝食ビュッフェにあるようだ。何しろ海鮮丼を自分で作れるように、イクラやサーモンがふんだんに置かれている。汁物もうまい。そして普通の朝メニューも充実している。昨晩は気が付かなかったが、家族連れ、老人たちも多く泊まっている。

取り敢えず雨が上がったので、街へ出てみる。旭川へ来た理由は特にない。来たことがなかったので来てみただけ。きれいな駅の観光案内所で地図をもらい、南の方へ歩き出す。川を渡って、旭川市博物館を見学する。正直あまり期待していなかったが、かなりの展示量があり、アイヌから開拓の歴史まで、充実した内容で、勉強になった。

それから駅の北側へ移動する。Google地図に『スタルヒン居住地』との表示が出たので、行ってみたくなる。実は多くの人が旭川といえば『動物園』が思い浮かぶらしいが、私が思い浮かんだのは『スタルヒン』だったのだ。戦前戦後のプロ野球で年間42勝、通算300勝を挙げた白系ロシアの血を引く大投手だが、既に忘れ去られているらしい。因みに駅前のバス乗り場に行列が出ていたのを見たが、それが動物園行だと気が付いたのは、帰りに空港に向かう時だった。

スタルヒン住居地はなかなか見つからなかった。ようやく見つけた表示板は、どこかの住居の柱にプレートが嵌っているだけだった。だがその通りには『八条スタルヒン通り』と書かれており、旭川はスタルヒンを忘れてはいなかった。彼は僅か40歳でこの世を去ったと書かれている。

もうこうなるとスタルヒン球場まで歩いていくほかない。途中石狩川を越えていく。球場の手前に、珍しい建物が建っていた。北鎮記念館と書かれているので、中へ入ってみると、ここは何と陸上自衛隊が運営(隣が旭川駐屯地)しているようで、受付の人からして、きびきびしている。

館内には屯田兵や旧陸軍第七師団の歴史が詳細に展示されていて、かなり興味を惹かれる。北海道に関する、松浦武四郎から北海道開拓、そして日清、日露戦など、様々な資料があり、時間を忘れて見てしまった。これで入場無料とはすごい。記念館の斜め向かいに球場があり、スタルヒン像を見ることができる。年に一度はここでプロ野球の試合もあったはずだが、今はひっそりとしている。その横には北海道護国神社が立派に建っていた。

そこから3㎞ほどをゆっくりゆっくり歩いて宿に戻る。さすがに今回の旅も歩き過ぎでバテテしまったので、早々に大浴場で体を休めた。そして夜、せっかくなので旭川ラーメンを食べようと、近所のラーメン屋に行く。麺にコシがあり、スープにコクがあり、うまい。これならもっと食べておけばよかったと後悔するがもう間がない。

11月22日(月)旭川2

今回の旅の最終日。朝からたらふくご飯を食べて、風呂に入ってホテルライフを満喫した。近所を少し散歩してから、空港行のバスに乗り込む。本当は郊外のアイヌ関連の施設にも行きたかったが、車でないと難しいと言われて今回は断念した。

空港に着くと、思いのほか乗客が多い。よく見ると、今日は平日だが明日は祝日なので、今日が休めれば4連休だった。そんな浮世とは隔絶した今回の旅、予想以上に面白かった。茶旅だけではなく、それ以外の歴史旅もどんどんやっていこうと思うが、果たしてコロナはどう動くだろうか、などと思いながら飛行機は東京に向かって飛んだ。

東北、北海道を行く2021(7)クラーク博士を追って行く

11月19日(金)北大2

翌朝は空いている時間に風呂に入り、朝食を取る。そして今日もまた小雨の中を北大へ行く。もう慣れたので、文書館での作業も順調となる。昨日色々と質問をしたところ、何とその追加資料まで揃えて頂き、感謝感激。今日は特に、卒業生の思い出などを調べる。その人物の人となりを知るには経歴だけでは分からない。

バタバタと資料を眺めていると、時間はどんどん過ぎていき、お昼になってしまった。今回の調査はここで終了として、お世話になった皆さんにご挨拶して去る。予想以上の収穫に驚いており、いつかこれを文章に残さねば、と思うのだが、どうなるだろうか。取り敢えずは内輪の勉強会で発表しよう。

今日のランチは北大近くで旧知のIさんと久しぶりに会う。何と札幌に来たのに、博多料理?とは意外性がある。そして何となく本日のランチ、油林鶏定食を注文する。北海道ならザンキだろうと言われそうだが、ここは博多なのだ。それにしても、日本で油林鶏が出てきたのはいつ頃なのだろうか。これは広東料理の油林鶏とはちょっと違う気がしているのだが、いつだれが持ち込んで流行らせたのか。

Iさんとは北京時代に一緒だったが、その後故郷に帰り旅行業に転じて驚いた。更に最近はコロナを予感したのかのように旅行業から新たな転身をしており、何とも興味深い。それでも中国からは縁が切れないようで、中国の話で盛り上がる。外へ出ると雨は完全に上がっていた。

午後はお茶屋さんに行くことにした。もう5年以上前、前回札幌に来た時に講座をさせてもらった日本茶専門店を訪ねた。トボトボと歩いて20分以上、途中道に迷いながら、何とか辿り着く。店には平日午後にも拘らず、お客さんが沢山いた。中には講座に参加して頂いた方もいて、ちょっとびっくり。

お茶も何と先日大分で訪ねた茶農家さんのお茶が出てきてまたびっくり。お客さん同士も知り合いが多く、コロナ禍の雰囲気はなく、和気藹々の楽しいお茶会のようだった。オーナーは学校の後輩という気安さもあり、ちょっと長居しながら、皆の話を聞いていたが、先ほどまでやっていた北大の調査が忘れられず、『札幌農学校と台湾茶』の触りをお話してしまったら、興味を持った人もいたようだ。ご当地ネタとしてやるのも良いかもしれない。

オーナーのAさんが、『隣にも行きますか?』と聞いてきたので、え、と思っていると、何とお隣に中国台湾茶を扱う店があった。そういえば2016年に来た時は、お店を作っていたのを突然思い出す。Aさんに連れられて行くと、何と出てきた人が『台北以来ですね』というではないか。

完全に忘れてしまっていたが、こちらのオーナーAさん。台北でMさんと三人で食事をしていた。こちらはちょうどお客さんがいなかったので、台湾茶を頂きながら、思いっきり?台湾茶の話を始めてしまった。気が付くとかなりの時間が経っており、申し訳ない思いだ。

帰りも歩いて行ったが、クリスマスイルミネーションがきれいだった。それを見て写真を撮っていたら、急激に腹が減り、またラーメン屋に飛び込んだ。今回はチャーハンまで付けたので、完全に食べ過ぎ状態となる。まあ満足ならよいか。

11月20日(土)札幌散歩

札幌最終日。今朝はゆっくり起きてゆっくり朝ご飯。さすがに疲れが出てきたので、ギリギリまで宿にいてチェックアウト。取り敢えずバスに乗って羊ヶ丘展望台を目指す。羊ヶ丘は結構遠かった。何とか辿り着くと、そこにはあの有名なクラーク像(あのポーズ)があり、多くの人が写真を撮っている。

ここにはクラーク記念館もあった。札幌五輪の時はバイアスロン競技が行われたらしく、その記念碑もある。非常に広々とした空間で、天気も良くなってきて、北海道を感じさせる風景だった。帰りもバスに乗り、札幌駅付近まで戻る。取り敢えず北大の植物園でも見学しようかと行ってみると、何と冬季休館に入っており、来年3月頃まで入れない。

そこで3日連続北大へ行き、博物館を見学することにした。レトロな館内の展示が新渡戸稲造やクラークだけでなく、札幌農学校を理解するうえで予想以上に為になる。有難い。そうなると、札幌農学校時代の建物が残っている、キャンパスの一番北まで歩くしかない。そこまで行くと、古い建物がいくつも残っており、さすが北大キャンパスと思わせる広い敷地だった。

今日は一日クラーク博士の日だなと思い、最後にクラーク博士住居跡を訪ねることにした。既に日は沈み、薄暗くなっている。Googleの地図を頼りに随分と歩いた。そしてついにその記念碑を見つけたのだが、何とそこに建っていたビルには、昨日訪ねた2つのお茶屋さんが入っており、心底驚いてしまった。思わず中国台湾茶のお店に入り、Aさんにそのことを告げると、『全く知らなかった』と言っていたが、やはり何かの縁で繋がっているのだろう。

東北、北海道を行く2021(6)北大で台湾茶業に従事した日本人を調べる

それから歩いて宿まで戻り、荷物を引いて駅へ行く。今日は珍しく特急に乗ってみる。JRの仕組みが良く分かっていなかったが、先日検索して初めて、駅ネットで予約すると割引がある場合があるということを知る(今まで何やっていたんだか?)。だがこの駅ではSuicaなどが使えず、自動改札できず、切符は事前に駅の自販機で取り出す。

出発20分ほど前にホームに行くと、列車は入ってきたが、そこから車内清掃が始まった。1両に一人が乗り込み、一斉に清掃している。何とも日本的だが、その間乗客は外で待つ。晴れているのに、意外と風が寒く感じられる。残念ながら乗客は少なく(バスの方が安い)、この路線の今後が心配になる。

出発すると五稜郭、新幹線の新函館北斗駅を過ぎるとすぐに街は消えて、原野を走る。途中から海沿いを走り、眺めは良いが、人家は見られない。長万部駅で停まったが、周囲には何も無さそう。日が暮れてしまった洞爺駅は本当に寂しいところだった。以前行った東室蘭を経由して、札幌に到着したのは4時間後だった。

今晩の宿は札幌駅傍の馴染みのホテルだったが、何と同じ名前のホテルが2つ並んでおり、1つに入ると私の予約はもう一つだと案内された。何とも紛らわしい。部屋に入ると急に腹が減り、札幌ラーメンだと思い、駅に取って返して、店を探して食べる。たまに食べるラーメンは何とも美味い。宿へ戻って大浴場に行くが込み合っている。部屋の作りも今一つ。函館の宿と比べるとコスパはかなり悪い。いや、函館の2泊が良過ぎただけだから、比較してはいけない。

11月18日(木)北大へ

翌朝朝ご飯会場へ行くと満員盛況でソーシャルディスタンスも保てない。一応込み合う時間を避けたつもりだったので、その旨を係員に伝えると、非常に恐縮されてしまい、その後はずっとケアーしてくれた。ホテル自体に問題があるのだが、それを従業員が必至でカバーする、いかにも日本的手法だったが、彼女には好感がもてた。

本日はこの旅のメイン、北大文書館に行く。宿から歩いて10分と近くてよい。少し早く着いたので、まずはクラーク博士像にご挨拶し、更にきれいなポプラ並木を横目に、新渡戸稲造像の写真も撮る。下北半島より函館は暖かいように思えたが、さすが札幌まで来ると、それなりに寒い。

北大文書館には、札幌農学校、北海道帝国大学時代の資料が多数保管されていると聞いた。事前にメールで連絡を入れ、調べたいことを伝えたうえで、予約を取っての訪問だった。このような正攻法の調査はほぼ初めての経験で緊張する。今回の調査対象は『札幌農学校と台湾茶』であり、日本統治時代の台湾で茶業に従事(主に試験場)した卒業生、山田秀雄、谷村愛之助、新井耕吉郎らの情報を得るのが狙いだった。更に関係者として大島金太郎、山本亮なども対象となっている。

何とこの分野でこれまで何本もの論文を書いているY先生が自ら、資料を提示してくれた。更には私が疑問に思っていた点について、いくつもの的確な回答を用意してくれていた。これは本当に有り難く、とにかく与えられた資料を全力で読んでいき、必要箇所のコピーを取らせてもらった。

一通り区切りをつけて、午後は数名の卒業論文を見せてもらうため、それを保管している農学部図書館へ移動した。まさか100年以上前の現物が見られるとは思っていなかったので感激する。私が学生時代卒論を書いていないが、自分が書いた論文が歴史となって保管されているのは、感慨深いものがある。ただ農芸化学の卒業生と言っても、茶に関する論文を書いている学生はほぼいない。

根を詰めて文章を見過ぎたので、北大キャンパスを散策する。私が通った大学があまりにも小さかったので、広大な敷地を持つ大学がうらやましい。というか、本当であれば私の第一志望は北大だったのだが、何を間違ったのか、来ることはなかった。やはり寒いのは嫌だったのだろうか。

一旦宿に引き揚げ、6時半に再度文書館に行く。以前お世話になったSさんと会う予定だったが、待ち合わせ場所を文書館にしていたからだ。文書館は図書館だと思い、夜までやっていると勘違いした結果だった。そこから近所に寿司を食べに行く。やはり北海道のネタは新鮮でうまい。また汁ものも豊富でうまい。Sさんは転職で札幌に来ていたが、余暇に『紙の歴史』を研究しているという。紙の歴史、実に重要であり、また茶にも何らかの関連がありそうなので、今後も情報交換していきたい。

東北、北海道を行く2021(5)函館を歩き倒す

そこでまた歩き出す。近所には古めかしい建物が、観光スポットになっていた。ツタが絡まる函館郵便局舎。更に行くと函館港と倉庫群に出る。いい天気で海が青くて雲が白い。近くには日本最古のコンクリート電柱、謎と書かれたものもある。修学旅行生がいるのは新鮮だ。

今日のお目当ては高田屋嘉兵衛。やはり蝦夷地、北前船と言えば、嘉兵衛が一番に思い付く。函館は高田屋にとっても重要な交易地。立派な像が建っている。江戸後期ゴロウニン事件を解決した手腕も評価されている。高田屋屋敷跡も近くにあった。ここは高田屋全盛期、嘉兵衛の後を継いだ金兵衛(弟)が広大な屋敷を建てた場所だった。

なぜか坂本龍馬の記念館や像もある。龍馬自身はここに来たことはなかったようだが、蝦夷地開拓の夢を語っていただけで、有名人は像が建つ。最後に駅の向こうまで歩いていき、土方歳三最後の地に詣でる。ここは8年前にも来たことがあるが、大河ドラマの影響もあり、取り敢えず五稜郭とセットと考えた。午後4時前、朝市まで戻ってくると、腹がグーと鳴る。開いている店で立派な海鮮丼を食べてから、宿へ向かう。

宿は高層ビルで、眺めがとてもいい。簡単な流し台があり、皿なども用意されている。何と驚いたことに、洗濯機まで置かれている。これは完全に部屋で過ごすことが前提に作られているコロナ対応部屋だった。そして大浴場が用意されていて、いい眺めの中で、ゆったりと湯に浸かれる。これぞ極楽だ。夜は大画面のテレビを見ながら洗濯をして過ごす。そして函館の夜景を見ながらゆっくりと眠りにつく。

11月17日(水)函館2

この宿の朝ごはんは朝市の12の食堂から選んで食べに行くシステム(店がやっていれば朝でなくても使える)。部屋にその店とメニューがあり、狙いを定めて向かう。確か8年前は、朝市前の古びた宿(市場の仲買人が泊まりそうな宿)に泊まり、やはり朝ご飯は朝市だった。だがこの8年の間にこの付近もかなり変わり、きれいになっていて、今はそんな木賃宿はない。更にはコロナの影響もあり、閉まっている店も結構ある。そして外国人観光客の姿はない。

お目当ての食堂へ行くと、かなり込み合っており、前の客が食べた皿が残っていた。『時間が掛かりますが』と言われたが、『暇なんで』と返して、座る。思ったより早く料理は出てきた。昨日に続く海鮮丼、それに焼き魚、卵焼きなど豪華な朝飯だった。大満足で宿に戻り、備え付けのコーヒーを頂く。

名残惜しい宿をチェックアウトして、昨日も歩いた方面へ歩き出す。途中に高田屋嘉兵衛の記念館があったが、既に閉館しているようだ。北方民族資料館や民間の資料館など、歴史展示館が多くのあるのも函館の特徴だが、訪れる人は少なく、お休みのところも多い。もう少し行くと、同志社大学を設立した新島襄が1864年にアメリカへ密航した海外渡航の地碑があった。私にはとてもできない海外旅行だ。

その近くには高田屋の本店もあったらしいが、今はその表示だけ。近所の店は今も古風な状態を保っていて、旅館になっている。それから端まで歩いていく。称名寺というお寺に、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があり、また高田屋一族の墓もあった。そこから更に上っていくと、外国人墓地がある。華人やロシア人の墓があり、更には幕末の函館を守護した南部藩士の墓などもある。

そこから市内中心に戻りつつ、旧ロシア領事館の建物などを見た。現在修復工事中。更に戻ると元町公園、函館公会堂が見えてくる。その下にはペリー提督来航記念碑があり、周辺には古い建物がいくつも見られる。その先に正ハリストス教会があるはずだったが、全面改修中でその姿は見えない。その向こうには英国系の聖ヨハネ教会、その下にはフランス系のカトリック元町教会がある。10歳の山川捨松はこの辺りに住んだいたのではなあいだろうか。

この教会の向かいには『亀井勝一郎生誕の地』という石碑が見える。亀井というと何となく関西のイメージがあるが、生まれは函館だったのか。今日は午後札幌への移動があるので、ランチを食べることにした。折角なので五島軒へ出向く。創業は1879年、創業者の若山惣太郎と、旧幕府軍として箱館戦争を戦った初代料理長・五島英吉が函館で出逢い、誕生した洋食屋だった。

だが訪ねてみると満席。それでも30分ぐらいで空くだろうというので、護国神社などその辺を散歩してから、席に着く。気になっていた『明治のカレー』を注文するも、さすが老舗。出て来るまで30分はかかる。その間、内装などを観察して待つ。カレーは何だか懐かしいお味がした。

東北、北海道を行く2021(4)大間からフェリーで函館へ

フェリーで函館へ

ここからフェリーに乗ろうと思ったのには訳がある。会津藩家老の娘で斗南藩に移住した山川咲という少女がいた。彼女の家も困窮しており、ついに末娘を函館の預けることにしたというのだ。彼女がどのようにして函館に渡ったかは分からなかったが、青函連絡船もない今、このフェリーに乗ることで少しは雰囲気が分かるのではと思ったわけだ。

因みに彼女こそ、その後岩倉遣欧使節団に同行した5人の女子留学生(津田梅子が有名)の一人、山川捨松であり、10年のアメリカ滞在を経て、帰国後薩摩の大山巌と結婚して鹿鳴館の花ともうたわれた大山捨松である。津田梅子が次期5000円札の顔に決まったことで、山川捨松、永井繁子もちょっとは注目されるのではないかと思っている。

きっぷは簡単に買えた。出発まで1時間。バスはフェリーの時刻に合わせて運行されていた。家族連れなども乗ってきたが、会話を聞いていると『函館までちょっと買い物』という雰囲気だ。船内の一般席は床に座る。上等な席は椅子だが、座席指定であり、床に思い思い座る方が快適だ。だが私は体が硬くなっており、床にごろ寝するのにも難儀する.歳はとりたくないものだ。元気な若者たちは2階で寝ころんでいたが、私は荷物があるので1階で、膝を抱えている。

フェリーはゆっくり進んでいる。海を眺めていると、何となくずっと陸が見えているようだ。Wi-Fiも普通に繋がっており、電波が届く範囲を航行していることになる。1時間も経つと遠くに函館の町が見え始める。だがそこからがとても遠く感じられた。海上に雲が広がったかと思えば、夕日が光る。ちょっとした絵画のようだった。

ようやく着岸したが、車優先社会。徒歩の人は最後に降ろされた。このターミナルには観光案内所もなく、市街地から少し離れているので、バス停で路線を確認して乗り込む。20分ほどバスに乗り、五稜郭近くで下車。今日の宿に何とか辿り着く。老舗ホテルで部屋も広く、大浴場もあり実に快適。それでいて安いから言うことはない。

まずは腹が減った。朝食を食べて以来、何も口に入れていない。外へ飛び出すと5時だがもう暗くなっている。慌てて近くのどんぶり物屋に入り、メニューを見ると、丼はみなミニサイズ。東京なら麵と丼のセットメニューのはずだが、店主に聞くと『適当に組み合わせて、自分で選んで』と言われ、かつ丼とカレーうどんを食す。これが意外とうまい。夜は浴場にゆったり浸かり疲れを癒す。ここのお湯、何だかすべすべして気持ちが良く、長風呂となった。

11月16日(火)函館散策

朝はゆっくりと目覚める。正直下北半島の旅は思っていた以上にハードで疲れを覚えたので、今日はのんびり行こうと思う。函館の方が暖かく感じられるのは天候のせいだろうか。それとも気のせいか。まずは朝食だが、ここのビュッフェは刺身から郷土料理までずらっと並んでおり、実に豪華。更にデザート、フルーツも充実しており、この料金でこんなのあり、という充実ぶり。食事代と入浴だけで元が取れそうで、気分がとても良い。

宿をチェックアウトして、荷物を預け、ゆっくりと五稜郭を目指して歩く。そう遠くはないので良い散歩となる。まずは記念館に入り、土方歳三像にご対面する。それから五稜郭タワーを横目に見ながら周囲の堀をグルっと歩き出す。ランニングしている人が意外と多い。

天気は曇りだが、広々としていて視界が開けている感じだ。ちょうど反対側まで来ると『男爵薯』の碑があった。明治末の終わり頃、北海道七飯の農場主、川田龍吉男爵がアメリカから輸入した芋の品種から、この名が付いたという。川田と言えば、父親は日本銀行総裁になった川田小一郎。本人もイギリス留学経験があり、大会社に重役をしていたが、北海道の農業に賭けて移住したらしい。

更に歩くと、函館図書館が見えたので、ここで調査を開始する。今回のテーマは『山川捨松は如何に函館に渡り、ここでどう過ごしたか』だった。これをそのまま図書館に伝えると、学芸員さん?が『時々ありますよ、こういうご質問』というではないか。だから彼女も何度か調べており、実態はほぼ分かっていないとの結論を持っていた。それでも当時の函館における教会関係や坂本龍馬の従弟、沢辺琢磨などの資料を出してくれ、色々と参考になった。こういう調査は意外と面白い。

そこから宿に戻り、荷物を取り出して路面電車に乗る。函館駅までやってきて、明日の札幌行列車のチケットを取る。それから今日の宿へ向かう。そこは函館朝市の横にあり、その向こうは海だったので、風がとても強かった。宿は新しくできたばかりのようで、きれいだったが、まだ時間が早く、チェックインできず。8年ぶりの函館朝市、ずいぶんきれいになった印象である。