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茶旅 静岡を歩く2022(2)登呂遺跡からヴォーリズ住宅へ

そこから緩い上り坂を10分ぐらい上ると、県立美術館前。道路脇が公園のようになっており小さな茶畑があった。ここにやぶきた生みの親、杉山彦三郎が選抜した13種の茶品種が植わっていた。近くにやぶきたの原木もあると聞いたが、それは見付けることができなかった。

その上に県立図書館があり、そこで茶業史関連の資料に当たる。さすが静岡、資料はたくさんあるが、調べるべき人物、事柄も無数にあるので、いくらやっても終わらない。今日はかなり歩いて疲れたので、適当なところでコピーを取り、引き揚げる。帰りは終点新静岡駅まで行き、そこから宿へ。

今日の宿泊先は、出来て2年も経っていないきれいなホテル。一言でいえばコロナ禍でスタートしており、最近人気がある宿のセールスポイントはほぼ取り入れている。中でも驚いたのは、夜の軽食として、カレーが無料で食べられたこと。歩き疲れて外へ出たくない私にとって、大浴場でゆったりと足を延ばし、そのまま夕飯を食べられるのは何とも有難い。

しかもそのカレー、具は殆どないが味は良く、ご飯は自分で盛るので十分な一食となる。サラダも付いている優れモノ。何だかインド山中の三食付き宿を思い出した。ドリンクもセルフサービスで飲み放題。ドーミーインも夜泣きラーメンではなく、夕飯ラーメンにしてほしいと思う。

3月15日(火)登呂遺跡からヴォーリズ住宅へ

朝起きるとまずは大浴場に浸かる。天気も良く、下界が良く見えるのも良い。何とも極楽。この宿を推薦してくれた人が『ここの朝食は並のレストランより良い』と言っていたが、確かに料理の内容は充実していて、これまで旅してきたホテルの食事より良いと感じられた。やはりこの宿、他のチェーンホテルの良いところを多く取り込み、その少し上を行き、それなりの料金を設定しているから、かなり人気がある。

今日は比較的余裕があるので、多く歩くことにした。天気予報は雨だったが、それは完全に外れた。ここ静岡には登呂遺跡があった。登呂遺跡といえば、私が小学校の教科書で出会った初めての弥生時代だ。その印象はかなり強かったが、静岡市内にあるとは思っていなかった。しかも宿から歩いて30₋40分なので、散歩にちょうど良かった。

ほぼ住宅街という道を歩き疲れた頃、登呂遺跡が見えてきた。思ったより規模はかなり小さい。高床式建築が見えたが、その数も多くない。ほとんどが何もない平原だ。博物館があると書かれていたが、分からず通り過ぎた。行きつ戻りつしてようやく中に入ったが、展示物もさほど多くはない。唯一気にかかったのは、木製道具。これはどうやって作ったのだろうか。今まで真剣に考えたことがなかったが、今は木地師を調べているからとても興味が沸く。

外では幼稚園児が運動会?に興じていた。その横を通り過ぎて、海の方に向かって歩いていく。ほぼ海まで出たところに、もう一つの目的地、旧マッケンジー邸があった。1918年にアーウィン商会日本支店に赴任し、日本茶のアメリカ向け輸出に尽力したダンカン・マッケンジーが1940年に建てた洋館が残っていた。

建築設計はあのメンソレータムを日本に持ち込んだウィリアム・メレル・ヴォーリズ。ヴォーリズは英語教師として滋賀の近江八幡に赴任したが、宣教師、実業家、建築家など多彩な顔を持つ男で、建築の分野でも日本各地で相当数の洋館を建てており、先日は京都の実業家邸宅がテレビで紹介されていた。ここに訪ねてくる人もヴォーリズ建築を見に来る人が多いという。

1940年といえば戦争前夜。なぜそんな時期に家を建てたのだろうか。戦争をして欲しくない、その願いからだろうか。結局1943年にマッケンジー夫妻はアメリカに強制送還されるが、戦後又この地に戻る。そしてダンカン亡き後も妻エミリーはここに留まり、赤十字など福祉活動に尽力し、静岡市の名誉市民になる。1972年彼女が日本を離れる際、この邸宅は市に寄贈され、今日まで維持されていた。その記念碑が庭にあった。

海風が強い場合、高波が来た場合など、どうするのかと思うほど、海に近い場所。そして反対側には富士山がきれいに見える。喘息持ちのダンカンがここを選んだらしいが、彼がどんな茶貿易をしていたのか、興味ある所だ。もう少し調べてみたいと思う。茶業者の邸宅なのに、有名なのは建築家と社会福祉家の妻というのは、ちょっと残念な気がしないでもない。

帰りも歩いて静岡駅を越え、また駿府城公園に行く。昨日見つけられなかった杉山彦三郎の像をどうしても見付けたくて寄り道した。今日は公園スタッフもいたので、場所はすぐに分かった。行ってみると4人の像が並んでおり、一番立派な髭の人が杉山であった。やぶきた生みの親、杉山彦三郎については、これから調べを開始したい。

茶旅 静岡を歩く2022(1)静岡市 茶歴史を巡る

《茶旅 静岡を歩く2022》  2022年3月14-18日

1₋2月はコロナ禍でもあり、また寒いので外出を控えていたが、いよいよ我慢の限界がやってきて、静岡を目指す。今回は昨年から続いている調査に、更にご縁が重なり、とても興味深い歴史旅になった。そして何よりも歩いた。歩き疲れるまで歩いたが、それは何とも気持ちの良いものだった。原点回帰。

3月14日(月)静岡市内を歩く

久々の旅に出る日。興奮していたのか午前5時前には起きてしまい、そのまま家を出た。昨年末に青春18きっぷで旅した時と同じような時間に行動を開始。既に路線にも慣れているので、何事もなく新宿、品川、小田原、熱海と来て、何と10時前には静岡駅に着いてしまった。今日もまた天気が良く、富士山もきっくり見えた。ああ、やっぱり新幹線に乗らない旅の方が良い。

今日の宿は駅前から少し離れているが、歩いて行ける範囲。いつもの宿泊場所とちょっと違うので、駅前の慣れない道を行く。すると幼い徳川家康と今川義元が二人でいる像を見つける。二人の有名人という意味で並べたらしいが、どう見ても子供をいじめる大人の構図に見えてしまう。歴史的な意図がある像なのだろうか。

きれいなお宿に荷物を預けて、飛び出していく。駿府城公園に杉山彦三郎の胸像があるというので行ってみたが、広い公園内のどこにあるのか一向にわからない。徳川家康の像だけが、案内板に出ている。しかも月曜日は入場券が必要な見学場所は全て休みとなっており、聞くこともできなかった。お茶室もあるというので、行ってみるもその付近にも胸像は見当たらず、すごすご引き上げた。

15分ほど歩いて浅間神社へ向かう。ここは平安時代から続く由緒ある神社であり、社殿も非常にユニークな二重構造になっていた。歴史的にも、徳川家康が武田との合戦の際に焼き払ったと書かれており、武田が陣を敷いた背後の賎機山には古墳もあるというから見どころ満載である。

だが私がここに来た目的は神社ではなかった。きれいな池の近くに建つ石碑を見るため、というと怒られるだろうか。『丸尾翁頌徳碑』は明治初期に牧之原を開拓した丸尾文六。その牧之原開拓にも尽力し、旧幕臣から県知事となった関口隆吉の『従三位関口君之碑』。『阪本藤吉製茶之碑』は幕末に宇治茶製法を招聘した伊久美の阪本藤吉。茶業関係の古い石碑が3つも並んでいるのは、実に珍しいがいかにも静岡らしい。個々の人物の業績や生涯については、これから折に触れてみていくことになる。

神社はほぼ見ずに次に歩き出す。道なりに歩いていくと、富春院の前で足が止まる。そこに建つ石碑の中の『中村敬宇 西国立志伝』という文字に目が留まった。幕府の儒者、中村がイギリスに留学して書いたもので、明治初期の若者に愛読された。あの渋沢栄一も大河ドラマの中で読んでいたように思う。その中村はここの出身だったのだ。そしてこの富春院、昔はここに寺があり、今川義元の墓所であったらしい。

その義元の墓がある臨済寺もすぐ近くにある。すごく静かな禅寺であり、義元の知恵袋であった雪斉が開山。竹千代(家康)も人質時代、雪斉の教えを請うていたからこの寺にもよく来たであろう。またここには聖一国師の茶祖堂もあるとのことだったが、一般公開日以外は修行の妨げになるとして、堂に近づくこともできず、引き揚げる。

近所の公園の中に市立図書館を見つけたので寄ってみたが、残念ながら休館日だった。仕方なくとぼとぼ歩いていくと、結構暑くなり、また朝早く起きて腹が減ってきた。ちょうど目の前に蕎麦屋が現れたので、そこで親子丼とそばを食す。年配の女性たちが忙しそうに、しかし楽しそうに働いていてよい。

食後結構歩いて清水山公園に到着。公園入口に大谷嘉兵衛像がはっきり見えた。なぜここにこの像があるのだろうか。資料によれ戦前の1917年に大茶商を顕彰するためこの地に建てられた像は第二次大戦中供出されてしまい、戦後の1965年茶業の復興と共に、行政と有志により再建されたらしい。大谷が静岡茶に果たした役割も、今後じっくり見ていきたいところだ。

静岡には何度も来ているが、しずてつ(静岡鉄道)に乗ったことがなかったので、清水公園の最寄り駅、音羽町から乗ってみた。しずてつは戦前創業で、一時は東急の傘下に入り、あの五島慶太が会長をしていたらしい。台湾で茶業をしていた頃だが、何らかの繋がりがあるのだろうか。まるちゃん列車に乗り、数駅行って、県立美術館前駅で降りた。Suicaが使えるので快適だったが、降りる時、『入場』にタッチしてしまい、Suicaが作動せず焦る?ボケは確実に進行している。

日高・川越日帰り茶旅2022(2)高林謙三と川越

川越で

高麗川駅に戻り、JRで川越を目指した。何とも言えないのどかな電車旅だ。川越は半年前にも何気なく散歩した街だが、今回ははっきりとした目的があり、駅を降りてまっすぐにそこに向かっていく。だが川越が侮れない歴史の町。突然『あんたがた何処さ』という動揺は、幕末討幕軍がここに駐屯した際、近所の子供とのやり取りが歌になったという看板を見る。この地を仙波山という。

そこに中院という立派な寺があり、入ってみると庭がきれいだった。どうも由緒正しい。説明を読んで驚く。『830年伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が一寺を建立し、星野山無量寿寺仏地院の勅号を(天皇より)賜る。この星野山無量寿寺仏地院が中院』とある。更にその横には仙波東照宮という名前も出て来る。なぜこんなんところに東照宮があるのだろうか。徳川家康の遺骨を久能山から日光へ移す際、ここに数日逗留したといい、これを記念して、あの天海僧正が建立したという。中に入っていくと急な階段があり、そこを登ると葵のご門が見える。

東照宮の横に、ようやく目的地、喜多院を見出す。敷地が相当に広い。ここは平安時代に開かれた寺で、先ほど登場した天海僧正も住職をしていたといい、天海像もある。それで家康が庇護した。天海が家康の信頼が厚かったことが分かる。天海は108歳で亡くなったらしいが、その長寿ゆえに時代劇などでは政局を動かす悪役扱いを受けている。五百羅漢などもあり、実に立派な寺である。

だが私がここへ来たのは、高林謙三の記念碑があると聞いたからだ。ところが記念碑はいくつもあるが、文字が消えてよく読めないものがあり、見付けることが出来ない。社務所に確認してようやく場所を突き止めたが、何が書いてあるのかは分からない。隣には川越鉄道関連の石碑が建っており、僅かに読めた文字の中に増田忠順の名前を見つけて満足する。写真は逆光でうまく撮れない。いずれにしても高林がここ川越で顕彰されていることは分かった。

社務所に寄ったのは大正解だった。ついでに高林の墓の場所も教えてもらった。墓は喜多院から数百メートル離れた墓地にあったので、聞いていなければ辿り着けなかっただろう。高林夫妻の墓はそれほど大きくはないが、ちゃんと説明書きが建っており、すぐにわかる。ここでも高林の顕彰が進んでいる様子が窺える。

更に歩いていくと、住居表示が小仙波町となる。ここは高林が茶園を開いた場所らしいが、勿論今やその面影は全くない。日高生まれの高林だが、佐倉順天堂で医学を学んだ後、この地で医業を開業し、藩主の御殿医にもなったのに、茶業者に転換した。何とも劇的な人生ではないか。

川越市博物館に高林の展示があると聞き、川越城本丸跡の横に美術館と共にある博物館を訪ねてみた。受付で『高林謙三』というと係の人が展示場所まで案内してくれ、展示は少ししかないと言いながら、以前開催した特別展示のパンフレットまでくれた。実に親切な対応だった。

高林の紹介は勿論、蒸し器や粗揉機など彼が発明して特許を取得した製茶機械の展示もあり、また河越茶の歴史、川越鉄道に関しての説明もあった。焼き芋屋の屋台の展示など、いかにも川越らしい。昔芋ほりといえば川越だった、川越に来たこともあったはずだと急に思い出す。更に歴史が知りたくなり、図書館にも寄って、資料を探した。時間はどんどん過ぎて行ったが、狭山茶を含めて資料もそれなりに集まり、充実した1日となった。

帰りはJRではなく、本川越駅の方が近かったので、そこから電車に乗る。こちらは西武新宿線。私には地理感覚がなく、頭がごちゃごちゃになったが、これに乗って行けば、新宿まで運ばれていくので安心しながら寝入る。さすがに今日も疲れた。西武新宿から乗り換える際、ついでに蕎麦屋に行き、カレーとそばを食べて締めくくった。

日高・川越日帰り茶旅2022(1)高林謙三を探して日高へ

《日高・川越日帰り茶旅2022》  2022年3月1日

2022年も2か月が過ぎたが、旅には全く出ていなかった。コロナ恐るべし。まん防なる言葉の意味も分からなくなっている。花粉はそれほど飛んでいないのだから、単に寒いから外に出ないというのもある。しかしそれでは体調が悪くなるので、散歩だけは欠かさず続け、スマホの万歩計をインストールして、歩数も図ってみた。

そしていよいよ旅に出る前の練習として、日帰り旅を1回やることにした。場所は埼玉、日高川越。昨年も一度訪ねているが、今回は的を絞っている。あの佐倉順天堂で学んで医師となった高林謙三を探す。

3月1日(火)日高へ

朝8時過ぎ、京王線を新宿とは反対方面の電車に乗る。分倍河原で乗り換え、南武線で立川へ。さすがに通勤時間帯で、乗客は多い。そこから青梅線で拝島へ行き、八高線で高麗川駅まで行く。拝島ハイボール、何と広告を見ると、本当に最近はご当地物の売り込みが多いと感じる。

初めて降りた小さな高麗川駅。確か近くにある高麗神社には行ったことがある。駅の案内板に『製茶機械発明者 高林謙三翁生誕の地 北2.5㎞ 徒歩30分』と書かれているのが何とも嬉しい。

本日の目的は高林謙三の足跡を辿ることだった。取り敢えず生まれ故郷である日高へ来れば何かあるだろう、という程度の軽い気持ちだった。だが駅前にもかなりひっそりと『高林謙三翁生誕の地』という石碑が見付かる。ここで高林はかなりの有名人であることが分かる。

そこから約30分、平沢天神社を目指してフラフラと歩いていく。いい感じの田舎道で、途中に茶畑も少し見られた。天神社の看板を見ながら入ろうとすると、そこでお目当ての『高林謙三生誕之地』と書かれた石碑に出会った。その後ろに申し訳程度に茶樹が一株植えられている。そうか、ここで高林は生まれたのか。天神社にお参りしてから去る。

すぐ近くの住宅の前には、『高林謙三翁 桑田衡平翁 兄弟誕生の碑』という真新しい石碑があった。最近高林謙三を顕彰しようという動きも感じられる。高林の弟桑田衡平も佐倉順天堂に学んで医者となり、地域に貢献した人物だという。貧しい中から優秀な兄弟が生まれている。

そこから駅の方向へ戻ると、古そうな醸造所がある、酒飲みならちょっと寄っていくところだろうが、私には無縁の場所。その先の高麗川を渡ってだいぶん行くと日高市生涯学習センターに辿り着く。そこには実に立派な高林謙三の像が聳え立っていた。これなら地元の人も興味を持つだろう。

そこには図書館も併設されており、そこで高林謙三関連の資料を探し、特許を取得した製茶機械の詳細な内容などを、コピーを取ってもらった。高林がどのような人で、佐倉順天堂とどう繋がり、なぜ医者から茶業者に転身したのか、といった素朴な疑問を解いていく材料が手に入ってよかった。やはり地元にしかない物があるから、やってくるのだ。

何だか急にお腹が減ってしまった。するとセンター近くにかつやというとんかつのチェーン店があったので、思わず初めて入ってしまった。かつ丼セットを注文すると、みそ汁とサラダが付いて、これが安い割に意外とおいしい。所謂コスパが良いのだ。最近のチェーン店の食べ物の質は確実に上がっている(上がっていなければ生き残れない)。だからコロナ禍の要因だけではなく、昔ながらの店が閉店に追い込まれるのかな、と思ったりする。

青春18きっぷで行くいわき・山形2021(3)山形から東京まで

12月23日(木)山形から東京まで

今朝も天気は悪くなかった。本当は山寺へ行きたかったが、階段が多いこと、そして滑ることなどを考慮して今回は遠慮した。まずはゆっくり朝ご飯を食べる。ここは初めて泊まるホテルチェーンだったが、郷土料理がふんだんにあり、小皿に分けられているものも多く、実に食べやすかった。従業員の対応も良く、次回からはこのチェーンを使おうと思うが、ただ大浴場が無いのが難点だった。

午前中は山形市内を散歩することにした。まず昨日建物だけを見た郷土館に入ってみる。ここも無料だった。前の建物だけでなく、後ろにも続いており、中庭がある構造だった。内部も非常にレトロな雰囲気で、素晴らしい。元病院ということか、部屋数が多く、展示もかなり多い。

街を歩いていると、古めかしい建物も多く、また古めの教会なども見られ、思ったより楽しい。専称寺まで歩いていく。ここは最上義光の娘、駒姫の菩提寺だという。駒姫は僅か15歳で豊臣秀次に嫁いだが、その後すぐに秀次が切腹。駒姫も三条河原で処刑されるという悲劇の姫である。奥の方にポツンと黒髪塚があるのが何とも悲しい。

駅の方へ戻っていくと、三越があった。地方都市からデパートが撤退する中、何だかホッとする。山形駅は今年120周年を迎えたとある。さあ、帰ろう!まずは米沢へ向かう。山形の次の駅が蔵王。私はスキーをしたことがないので、ここに来ることはなかったが、名前は有名だ。

米沢まで50分弱。ここで福島行に乗り換える。向かいに特急が停まっており、こちらに乗りたい気分だが、そこは18きっぷの悲しさ。そこから1時間強で福島なのだが、この間にトンネルや工場のような屋根に覆われた駅がある。この辺が豪雪地帯なのだと分かり、またなぜ山形市が県庁所在地なのかもよくわかる気がする。このような気づきが各駅停車の旅である。

そしてトンネルを越えると雪国ではなく、快晴の地に出た。米沢‐福島間約50分で、ここまで天候が違うとは驚きであった。福島駅に着くと、東北本線への乗り継ぎに時間があったので、そばでも食べたいと思うのだが、駅の外にあるのだろうか。駅員に聞いてみると何と『新幹線の改札を入ったところにある』といい、また『新幹線改札で蕎麦食べたいといえば入れてくれるから』と人懐っこい福島弁で言われ、何だかほっこりする。

試しに行ってみると、出場券を渡され、確かにすぐに入れてくれた。こういうニーズはあるのだろう。かき揚げうどんを食べたが、ネギもいっぱい入れてくれ、格段に美味しく感じられた。食べ終わると何事もなかったように在来線に戻って、新白河行に乗り込む。意外と混んでいて驚く。

新白河まで約2時間、途中の郡山からは1年前の冬に会津若松から乗った路線だった。ここから黒磯行に乗り換えて、黒磯に着く頃には日が暮れていた(黒磯からは首都圏、が思い出される)。更に宇都宮まで1時間弱の行程だった。今は小刻みに乗り換えなければならず、何となく不便だが仕方がない。宇都宮からは湘南新宿ラインに乗りだけなので、この旅はもう終わったようなものだったが、何となく宇都宮駅の外へ出た。

先日浜松で餃子を食べたので、宇都宮でも食べてみようかと思ったのだ。この2つの都市は長年その消費量1位、2位を争っていたが、今年は宮崎が1番だったらしい。因みに私は栃木市というところで育ったが、宇都宮が餃子で有名な街だと思ったことはなかった。その有名店も駅にあるとのことだったが、意外と駅が分かり難く、何とか別の餃子屋に辿り着く。

狭い店なので、コロナ対策がきっちり行われており、ちょっと緊張する。入ってくる人もほぼ旅行者。それほど腹が減っているわけではないので、餃子シングル(餃子6個)セットを注文するが、なぜはみそ汁がバカでかい。何とか食べ終えて、急いでホームに戻り、次に電車に間に合った。小山を過ぎると、そこからは昔よく乗った路線なので、急に安心感が出て眠り込む。気が付くといつしか池袋、私の終点新宿はすぐだった。

今回18きっぷを5日使い切った。初日の新宿‐京都はかなり儲かったが、その後はそれほど節約にはならなかったように思う。それでもSuicaが使えるかどうか気にすることもなく、また途中下車が自由なので、この切符もこれからまた使えそうだとわかる。ただJRの廃線が続く中、事前にちゃんと調べて行かないと、使えない区間が増えていることは頭が痛い。それより在来線の旅に風情がなくなりつつあるのが、何とも残念だ。

青春18きっぷで行くいわき・山形2021(2)初めての山形市

1時間半ほどで仙台駅に到着した。ここ仙台は私にとっての鬼門。18歳での失敗以降、どうしても足が向かない場所(先月も新幹線で通り過ぎた)。前回この駅で降りたのはちょうど25年前。それも確か乗り換えただけ。そして今回も乗り換えのみ。腹が減ったのでエキナカの駅そばで『鶏唐揚げカレー南蛮』を頂く。何だかいい所取りしているうどんで、しかもご飯が付いており、カレー汁をご飯にかけて食べるという贅沢品。完全に腹が苦しくなるまで食べ続けた。

18きっぷは途中下車自由なので駅の外へ出て少し散歩する。確か伊達政宗像があったなと探したが見つからない。本当に駅の周りを一周したが目ぼしい物もなく、過去の記憶もなく、すぐにホームへ行き、山形行電車に乗る。仙台‐山形が各駅停車で僅か1時間20分というのは今回初めて知る。それほど近い距離、利便性の面から海沿いではない山形市に県庁が置かれたのだろうか。

この辺の地名も読みにくい。秋保温泉はその昔の旅行ガイド試験で覚えたので読めたが、その駅名『愛子』は読めなかった。作並という駅にはニッカウヰスキーの蒸留所の広告が出ていた。面白山高原は何ともおもしろい名前だ。この辺から雪が積もっているのが見える。山寺という駅では思わず降りたくなったが、山寺までの所要時間、後続電車などを調べていなかったので、まずは山形へ向かう。

山形で

山形駅の通路には舞台『マイフェアレディ』の広告が出ていたが、そこに神田沙也加の名前を見て複雑な思いとなる。わずか数日前に命を絶った彼女。生きていればここで公演していた筈だった。駅前の宿へ行くと、新しい建物で非常に対応も良く、かなり気分が晴れた。山形に雪はなかった。それにしても山形駅の裏側は、広々とした敷地、ゆとりの空間が広がっており、心地よかった。

宿に荷物を置き、晴れた山形の町を歩く。宿から駅と並行に行くと、山形城跡があった。今は公園になっているが、本丸跡の公開は冬は行っていない。城跡に山形市郷土館という洋館が建っている。明治初期の偽洋風建築、もとは県立病院だったという。城内には最上義光像が建っている。馬に乗り如何にも戦国武将といった格好だ。関ケ原の戦いの折、会津上杉勢と戦い、その進軍を食い止めたのが最上だった。その功績は大きい。城の堀も深いし、城門も立派だ。

城外へ出ると最上義光歴史館があった。実は最上は連歌に優れ、茶の湯もたしなむ文化人だったので、その歴史と人脈を知りたかったのだが、あいにく休館中だった。この時期観光に来る人などほとんどいなのだろう。歴史館の前に建つ最上義光像は戦国大名ではなく、文人として描かれているのが面白い。

もう少し行くと病院の敷地の脇に『イザベラバード顕彰碑』があった。イザベラバードと言えば、明治初期に日本などを旅した有名なイギリス人女性旅行家だが、1878年にここ山形を訪れ、その発展の様子を著書『日本奥地紀行』に記しているとある。バードは日本各地を歩いたと思われるが、このような顕彰碑を見たのは初めてだった。彼女の著書を読み返してみようか。

山形県郷土館、文翔館に立ち寄る。ここは大正時代に造られたレンガ造りの旧県庁。館内の展示は予想をはるかに上回る充実ぶりで山形の歴史、特に江戸期の物流、明治以降の変遷に興味深い内容があり、満足した。おまけに入場無料だから驚く。山形というところは意外に文化都市なのではないだろうか。

次に出羽国分寺薬師堂へ行く。聖武天皇の命で全国に建てられた国分寺。ここは当時の最北端ではなかろうか。国分寺の場所については諸説あるらしいが、江戸時代にはここ柏山寺に薬師堂が移されていたらしい。芭蕉の記念碑や戊辰戦争の薩摩戦没者の碑などもある。それからちょっと最上川(馬見ヶ崎川)を眺めに行く。

最後に教育資料館を訪ねたが、既に時間が遅く閉まっていた。ここも立派な建物だった。そこからテクテク30分以上かけて駅まで戻ってきた。駅内に平田牧場というとんかつ屋があり、何と6時まではとんかつ定食が660円(通常1210円)で食べられるとのことで、思わず食す。平田牧場も山形の会社、地元のおいしい豚を頂き、至極満足する。夜は大人しく、きれいな部屋で休む。

山形県に宿泊するのはこれが初めてとなる。これで1泊もしたことがない県は、47都道府県中埼玉と香川の2県のみとなる。2022年度中には全県制覇の見通しだ。

青春18きっぷで行くいわき・山形2021(1)初めてのいわき

《青春18きっぷで行くいわき・山形2021》2021年12月21-23日

青春18きっぷを使った旅。何と北陸にJRの姿はなく、更に雪で長岡から逃げ帰り、切符5枚の内、使ったのは2枚だけという惨状となる。期限もあり、正月も近いので、すぐにもう一度態勢を立て直して出掛けた。今回は元々行く予定だった福島いわき、山形をちょっと回るだけの2泊3日。そして3日間で青春きっぷの残りを使いり切る。

12月21日(火)いわきへ

冬の関東は毎日いい天気だ。一昨日長岡から逃げ帰ったが、すぐに気を取り直して出掛ける。実は今日の夜、元々の予定でいわきの宿に予約を入れていたので、これを生かすべく、いわきを目指した。前回と違って朝ゆっくりと新宿へ行き、更に東京駅に回った。常磐快速で水戸へ向かう。

師走と言いながらも平日。車両は15両もあるが、乗客は少ない。上野、北千住、松戸、柏あたりまで、懐かしい駅が続く。大学生の頃、毎週松戸までバイトに出掛けていたことが思い出される。茨城に入ると、急に地名が分からなくなる。水戸まで2時間強。ちょうど1年前、水戸に一泊したが、謎の頭痛で偕楽園も見ずに引き返したのが思い出される。

水戸から直ぐにいわき行に乗り換える。乗っているのは高校生が多い。景色は冬枯れの田舎。嫌いではない。勿来、などという駅名を見るとちょっと降りたくなる。途中から海沿いを走る。先日の日本海側とは同じ海とは思われないほど、風景が明るい。約1時間半でいわき駅に到着した。

取り敢えず予約した宿に荷物を置き、ランチを探す。残念ながら駅前に目ぼしいところはなく、ショッピングモールの上の食堂へ行く。海鮮丼を注文したが、これが予想外に立派で美味しく、コスパも良く、大満足。駅の観光案内所へ行ってみたが、昼休憩なのか人がおらず、地図だけもらう。

その地図を見ていると、ちょっと遠くに国宝白水阿弥陀堂があったので歩いてそこを目指そうとしたが、ちょうど駅前からバスが出ていることを知り、慌てて乗り込む。ローカルバスは色々と分かり難いが、今回は運転手が親切で、阿弥陀堂の最寄りで降ろしてくれた。それでもそこから10分ほど歩いていく。

田舎道を行くと、突如向こうに浄土が見えた。だがその前まで行くと、何と拝観休止中。これがコロナの恐ろしさだが、仕方がない。外から外観を見るだけでも素晴らしい浄土庭園が広がっている。国宝阿弥陀堂を中心に池と山を拝した借景も美しい。写真を撮るには絶好の場所だった。

それから近所のパワースポット神社を参拝する。またバスで戻るのはつまらないので、いわきの隣駅、内郷駅まで歩いてみる。30分ぐらいだが、夕日がいい感じで、気持ちの良い散歩となった。駅は下校する高校生で溢れていた。ここでも18きっぷを使い、無駄な支出を防ぐ。

いわき駅まで戻り、まだ明るかったので、駅の裏手の小山に磐城平城跡を回る。城は全くないので、あくまで跡だけだった。宿に行ってチェックインしてから、夕飯を食べに行く。この辺にはあまり食べるところがないとわかっていたので、迷わず中国料理をチョイスして、久しぶりにレバニラ炒め?を思いっきり食べる。

12月22日(水)仙台経由で

今朝は早起きした。宿のご飯を食べるとすぐに駅へ向かう。8時前に電車に乗り、仙台方面へ向かう。地方都市は登下校の時間帯には電車があるが、その後数時間空白が生まれることがある。今回はそのため通学時間帯に乗る。原ノ町まで1時間ちょっとだが、その間にJビレッジ、富岡、双葉、浪江などの駅名が続いていく。2011年の東日本大震災以降、ずっと見てきた名前だった。駅は何となくきれいになっているが、周囲ではまだ復興が続いているとの印象だった。

原ノ町で40分ほど待ち時間があったので、少し街を散策。ここは相馬野馬追で有名。それから仙台まで乗った電車での出来事には、ちょっと涙してしまったが、詳細は別のところに書いたから、ここでは敢えて書かない。少なくともいえることは、震災復興は10年経っても道半ばであり、更に言えば、『みんな流されちゃったのよ』という言葉、失われてしまったものを取り戻すことはもう不可能だということだ。それでも人間は生きていく、とはどういうことかを、車内で考えさせられた。

青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(6)雪の長岡で奇跡の遭遇

12月18日(土)長岡2日目

今日は雪の予報だったが、朝起きて外を見ると降ってはいなかった。取り敢えずゆっくり朝ご飯を食べて様子を見る。朝からへきそばからデザートまで食して大いに満足。そして急いで外へ出る。昨晩少し雪が降った跡があった。歩いて数分の昌福寺という寺へ行ってみたら、突然すごい勢いで雪が降り始めた。まさにあっという間に積りだして驚いた。屋根の下に逃げ込んだが、雪は降る降る。

これが雪国なのだろう。無理して道路を歩くと、路面から水のようなものが噴出しており、これが雪を凍結させないための知恵なのだとは分かったが、非常に歩きにくくて難儀した。それでも何とか河井継之助の墓がある栄凉寺に辿り着き、その墓に参った。ここが継之助の墓だという表示がわざわざ建っている。墓を作った当時、河井継之助という名前を彫ることが出来ず、戒名だけで表示したせいではないだろうか。その頃にはもう完全な雪景色になっており、墓石にも雪が積もる。

もう帰ろうかと思ったが、山本五十六の墓だけ参って行こうと線路を越えて更に歩く。それほど遠くないところに長興寺があった。まず目に入ったのは詩人堀口大学の墓。その近くに山本家の墓がいくつも並んでおり、五十六の墓が特に大きいわけではない。山本家は武田信玄の軍師、山本勘助の系統とあり、五十六は養子に入っている。

更に雪は強くなり、宿へ帰ろうとしたが、寒さのためか尿意に堪えられず(歳は取りたくないもの)、公園のトイレを借りた。出て来ると、目の前に立派な建物があり、そこが図書館だとわかった。どうせ宿に帰っても何もすることがないので、図書館で疑問について調べてみることにした。

この建物、1階に図書館があったが、郷土史関連は2階だと言われ、上がっていく。そこは互尊文庫という場所だった。学芸員の方がおり、私が知りたかった『梛野家』に関する資料を求めると、いくつもの本を出してきてくれた。実は台北に住む友人の先祖がこの一族らしいと聞いていたからだ。

更に河井継之助の妻が明治にどうなったか、も意外な展開(札幌農学校校長に付いて札幌に移住)があり、驚いてしまった。全てが茶の歴史調査に重なる部分なのである。私は何と図書館に4時間以上もいた。それほど興味深い歴史が見えたのだ。そして極めつけは最後に、『そういえば、長岡でも明治初期に紅茶を作っていた記録がある』と言われ、その現物を見て絶句した。これは大久保利通が命じた紅茶製造指示に呼応した結果だった。雪がもたらした恐ろしいほどのご縁である。

外へ出ると、何と晴れ間が見えていた。ここを訪ねたのは、やはりお茶の神様がくれた奇跡だったように思う。それから駅近くの、長岡城跡を巡り、駅でうどんを食べてから、ゆっくり宿に帰った。お城は今、イベント会場になっており、バスケットボールの試合が行われていたようだ。宿の風呂場、お湯が実に柔らかく心地よい。

12月19日(日)東京へ逃げかえる

本来であれば、今日こそは18きっぷを使って、山形方面へ向かう予定だった。しかし天気予報は雪、しかも荒れ模様とのこと。朝見た感じでは問題なさそうだったが、昨日の雪を見てもどう転ぶかわからない。しかも新潟から山形方面の在来線は、海沿いを走り、一旦荒れると運休もあり得ると駅で言われてしまった。ここはネタを取るためにも。敢えてチャレンジすべきだったが、車内に閉じ込められる恐怖に、どうにも気力が沸かず、何と東京に逃げ帰ることを決意する。

朝ご飯を食べてすぐに駅へ向かい、水上行きの電車に乗る。小千谷あたりで少し吹雪く。それでも電車は止まらない。その先の風景を見ると、家々に雪が覆いかぶさっており、相当に雪が降ったことが分かる。ところが途中山を越えると急に晴れ間が出て、2時間かかって何とか水上駅へ着いた。そこでは雪のため電車の遅れが発生しており、日曜日ということもあってか、多くの人がホームにいて驚いた。

新前橋で両毛線に乗り、高崎から湘南新宿ラインに乗る。高崎で降りて、ちょっと散歩でもしようかと考えていたが、そんな気力もなくなり、ただただ揺られていく。それにしても長岡からのあの寒空に比べて、埼玉の何と暖かい日差しだろうか。これが雪国と関東の違いだとしみじみ感じながら、心地よく転寝する。新宿に着くと、なぜか『豚肉と玉ねぎのカレーそば』が目に入り、それを啜って帰宅した。私の青春は敢え無く、いやあっけなく終了した。

青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(5)青春できない JR廃線を行く

12月17日(金)長岡へ

翌朝、実は3つある朝食の選択肢(近所の市場で朝食など)、私は説明をされなかったので、館内で立派なご飯を食べた。そして電車の時間を見計らってチェックアウトしようとしたが、ここでもまた出来なかった。係員を呼ぶと、何だか宿の偉そうな人が名刺を差し出し、昨日のことを謝ろうとしていたが、私には彼に構っている時間はなかった。振り切るような格好で雨が降る外へ飛び出し、何とかバスを捕まえて駅へ向かった。このホテルチェーン、京都でも同じことがあったが、なぜお客のことを優先(お客の時間に配慮)して考えられないのだろうか。さすがにひどい対応だと言わざるを得ず、久しぶりに憤る。

駅に着いて、今日こそ18きっぷを使おうと思ったが、何と私が向かう富山方面に行くJRは新幹線しかない。窓口で聞くと、『金沢から18きっぷは実質使えない。どうしても使うなら、米原方面に戻り、東京から回るしかない』と言われ唖然とする。確かにきっぷをよく見れば、この路線が使えないことは書かれているが、老眼の私は注意書きをいちいち確認しなかった(還暦は青春できない)。確か8年前はJRで富山を旅したのだが、その後新幹線開通と共に、第三セクターに移行していたのだ。

仕方なく、切符を購入して(切符も途中の市振までしか買えない)IRいしかわ鉄道に乗る。行き先は泊。あの懐かしいバタバタ茶の町だった。高岡、富山と過ぎていき、途中からあいの風とやま線に入る。終点泊駅まで約2時間、そして直江津行ときめきえちごライン(名前が今風)への乗り換え時間20分。この駅は2番ホームに金沢行と直江津行が同居している。

直江津までは1時間ちょっと。その間、日本海を眺め、山を眺めて過ごす。確か筒石というトンネル内に駅があったが、今回は気が緩んでいる間に通り過ぎた。直江津までは新幹線を避けて各駅停車の旅をしたが、18きっぷを使えないのだから、ダラダラ鈍行に乗る必要性はなく、直江津から長岡は特急に乗った。途中雨が強くなり、日本海は全く見えなくなった。

長岡で

今回長岡に来たのは、一度も来たことがなかったという理由だけだった。ただ長岡と言えば二人の英雄がいるので、行けば何かあるだろうという程度のノリだった。駅にある観光案内所に立ち寄り、『河井継之助と山本五十六記念館に行きたい』と告げると、何と電話を掛けて予約を取ってくれた。これもコロナの影響だろうか。そして地図をくれて、親切に色々と教えてくれた。

取り敢えず予約した宿に向かった。駅前は冬の対策か、雨に濡れないようにアーケードなどがある。それに沿って歩いて行ったが、乗るエレベーターを間違えてしまい、変な所へ出た。何と市役所だった。そこで宿の場所を尋ねると、係の女性がわざわざ私を正しいエレベーターまで誘導してくれた。長岡の人は親切だ。

宿に荷物を置いて、早々に出掛ける。まずか河井継之助記念館へ。小雨が降る中、徒歩10分で到着する。ちょうど団体の見学が終わったところでよかった。この記念館は、河井継之助邸跡に建てられているらしい。河井と言えば、幕末幕府側として戦った長岡藩のリーダーであり、郷里の英雄。

だが明治初期は、長岡をどん底に落とした男として恨まれていたらしい。それを司馬遼太郎が『峠』で、その崇高な精神を褒め称えたことから、今では英雄扱いになっている。来年また映画化されるらしい。1階と2階に展示があり、戊辰戦争までの経緯や、如何に戦ったかが、詳細に説明されている。

だが興味を惹いたのは戦死した継之助ではなく、生き残った妻(すが)だった。名前からして興味を持つが(西郷隆盛の最初の妻もすが)、彼女の実家は梛野家だったことだ。そして彼女はどうなってしまったのか?取り敢えず、写真撮影が許されている継之助像を撮って退散した。

そこから5分ほど歩くと、今度は連合司令長官山本五十六の記念館がある。こちらも、戦死した際搭乗していた機体の一部など、五十六関連の展示品が多くあった。だが私が興味を持ったのは、藤原銀次郎からもらったという茶道具。学芸員の方に尋ねてみたが、五十六が茶人として有名だったとの話はないとのことだった。そしてここでも五十六の知人に梛野という人物が出てきた。近所に山本五十六の生家跡が公園になっており、庭に像があった。

暗くなり始めたので、宿に戻る。腹が減ったので外へ出たが、雨模様だったので、駅のところでチャーシューメンを食べて退散した。宿は函館で泊ってよかったチェーンを使ってみたが、函館ほど快適ではなかった。それでもゆったりと湯に浸かれるのは、この寒さでは有難い。

青春18きっぷで行く京都・福井・金沢・長岡2021(4)33年ぶりの金沢

12月16日(木)福井2

朝は宿でたらふく朝食を食べた。そばやすし等、立派な朝だった。午前中は福井の町を歩く。まずは福井城へ向かう。今は県庁になっており、家康の息子、結城秀康の像がある。福井城は結城氏、そして松平氏の居城だった。今はその石垣の一部が残されているだけ。折角なので、郷土歴史博物館へ行く。館内には橋本左内と共に弟の橋本綱常の胸像もある。綱常は明治初期にヨーロッパへ留学、軍医総監、初代赤十字病院長などを歴任、早くに亡くなった兄に代わり、名を残した。そして表には松平春嶽の像も見られる。

更に歩いていくと、公園に『山本条太郎誕生地』という碑を見つける。山本条太郎は明治期に三井物産で頭角を現し、その後満鉄社長なども務めた人物。お城近くに戻ると福井神社があり、立派な松平春嶽像がある。やはり幕末史では、もう少し橋本左内と松平春嶽の活動を評価すべきではないかと常々思っている。

広場に岡倉天心像もある。そして熊本から招いた横井小楠の教え子、三岡八郎(由利公正)もここの人だった。新政府では財務担当、あの『五か条のご誓文』を起草したと言われる。さすが福井は様々な人物を輩出していると感心するが、現在あまり知られていないのは残念だ。

金沢へ

昼前にJRで金沢を目指す。今回も僅か1時間半の旅で、18きっぷの出番はない。金沢駅にやってきたのは、実に33年ぶりではないだろうか。特に用事もなく、訪れる機会がなかったので、金沢にも1泊しようと考えた。新幹線の開業した金沢、駅もちょっと複雑になっていた。取り敢えず観光案内所に立ち寄ったが、都会の案内所という雰囲気で効率重視。今日の宿までのバスを聞いても、『後ろの掲示板を見て』と言われ、そこには分刻みでバスが出発しており、どれに乗ってよいかわからない。何だか第一印象は良くない。

なんとかバスに乗ったが、Suicaは使えなかった。新幹線で東京方面とのリンクを謳っている割に、仕組みができていないと感じる。宿に荷物を預けて外へ飛び出す。午後は雨の予報なので、雨が降るまで歩いてみようと少し焦る。

宿を出るとすぐに尾山神社があった。神社に用はないと思ったが、その異様な、洋風な建物に思わず引き込まれ、階段を上る。神社の祭神は前田利家とまつだと書かれており、二人の像もある。そこから裏を回っていくと、いつの間にか道路を隔てて、お城に辿り着く。

金沢城に来るのも33年ぶりで、全てを忘れている。加賀百万石の、かなり広い敷地を無暗に歩き回って疲れる。前田利家以降の前田家の歴史、もっと勉強しておけばよかった。と言ってももう遅い。お城の脇から兼六園が覗いており、吸い込まれるように入る。ここは本当に立派な庭園、日本三名園だ。昨年偕楽園に行こうと水戸に泊まったが行かなかった。岡山後楽園は2度行った。

兼六園も2回目だ。ここを歩いていると、なぜか癒される。庭がこれでもかと出て来るので、ついつい歩いてしまう。木々は雪支度をしているが、降っていないようだ。疲れたので、あんころ餅を食べてお茶を頂く。何とも幸せな時間だった。

兼六園でも雨は降らず先に進む。金沢の歴史を知るために石川県立博物館に行ったが、何と休館中で入れなかった。ここは赤レンガミュージアムと呼ばれており、歴史的建造物の中に博物館があるので、入ってみたかった。今度は鈴木大拙館を目指す。博物館から近いとGoogleは言っていたが、実はかなり急な坂を下りたところにあった。ところがここも展示替えで臨時休館だった。これは誰のせい?コロナ?更に雨でも耐えられるように、県立図書館へ向かったが、何とここも移転のため閉館中とある。さすがに諦めて宿に戻る。

そして事件は起きた?宿でチェックインしようとしたが、フロントの女性は私に館内や朝食の説明を全くせず(隣の女性客には懇切丁寧に案内がされている)、こちらから要請するも、まさかの『お部屋に置いている説明書きをご覧ください』と私を追いやった。さすがに驚いて、マネージャーなる人に説明を求めたが、最初は『それでは今から、私がご説明します』という頓珍漢さで、対応に苦慮した。まあ、もうどうでもよくなり、流れに任せることにする。

夕方雨の中、高岡在住のYさんと会った。今回は富山を素通りしますと、連絡したのだが、金沢まで来てくれるとは何とも恐縮。そして彼女の車で向かった先は、何とモンゴル料理屋さんだった。実は以前富山でパキスタン料理を一緒に食べに行ったこともあり、この意外性には驚かない。

Yさんとは北京繋がりだが、こちらのオーナー、モンゴル族のAさんも北京繋がりだという。ご縁があって日本にやってきて、金沢の方と結婚したらしい。スーヨーティーがめちゃくちゃ懐かしく、何杯も飲んでしまった。そして羊肉のソーセージやボーズが異常にうまい。自分が羊に飢えていたことを実感する。

Aさんはユニークな人で、モンゴルやチャの話だけではなく、様々なことに興味を持っていた。翻訳業などもしているようで、非常に幅広い知識を持っていて、話していて飽きることはない。何とも楽しい、意外性のある一夜を過ごすことができたのはやはりYさんのお陰だ。