chatabi のすべての投稿

みちのく一人旅2022(6)鹿野、そして盛岡へ

今回の主目的である鹿野先人顕彰館を訪ねた。常設は湖南と和井内貞行(十和田湖養魚事業開発の先駆者)、そして最近民俗学者瀬川清子が加わった。毛馬内出身で子供を持ってから大学に入り、民俗学を志し、柳田国男に師事し、全国を飛び回ったというから、この時代には稀有な存在だっただろう。今年の特別展は先ほども見た立山家。立山林平は東京帝大を首席で卒業した天才数学者だったが、31歳の若さで亡くなっている。なぜこの地からこのような天才が生まれたのだろうか。

顕彰館は和井内貞行誕生の地に建てられていた。湖南生誕の地はすぐ近くにあり、現在は湖南顕彰会が運営している。ここで2003年度に年間展示されたのが、石川伍一。湖南と同じ年にこの地で生まれた男は、民間人諜報活動家、大陸浪人の先覚者で、日清戦争直前、天津で捕縛され、命を落とした。その資料は石川家からこちらに提供され、すべてそのまま保存されていた。伍一はお茶仲間Yさんのご先祖であり、その稀有な人生に大いに興味を持っており、資料なども沢山頂いている。今後中国などへ行き、伍一の足跡を歩きたい。このような人物はもっと知られるべきと考えている。

だが顕彰館によれば、実は伍一だけでなく、湖南ですら地元ではあまり知られていないと嘆く。湖南と伍一、そしてやはり秋田の木村泰治(台北森林北路や東京上北沢を開発)を接点として 台湾時代の湖南を調べたいとの思いが出て来る。そこで十和田図書館で湖南と伍一の資料を探し、コピーを取ろうとしたが、著作権の範囲外だとして、半分しか取らせてもらえず。

ところが図書館を出てから20分して電話があり、やはり全部コピー可能だった?ので、取りに来いというから驚いた。だが電車は2時間に一本しかなく、戻れないため郵送を依頼したところ、何とコピー代を郵送せよ?と言われ、そのお役所仕事ぶりにちょっと呆れ果てる。まあ著作権について調べてくれたのは良いことではあり、結局東京に郵送されてきたので有難いとは思う。

図書館から十和田南駅までは歩いて30分かかった。すぐ近くに菅江真澄の記念碑がある。江戸時代の旅人はここまで来ている。駅前には和井内の胸像もあった。駅は駅員がいて切符を販売しているが、列車到着のアナウンスなどはなく無人と同じ状態。大湯の環状列石までタクシー10分と書かれているのを見ると、25年ぶりに行ってみたくなったが、既にアイムアップ。

電車はこの駅でスイッチバックする。乗員も交代する。きれいな2両車両、そしていい感じの車窓。40分弱で大館駅まで戻る。夜はなぜか汁なしホルモン麺という強烈なジャンクフードを食べてしまった。あまりにこってり、ニンニクどっさりで体調不良に陥り、疲れてもいたのか、11時間寝込む。自分の歳を切実に感じる。

5月22日(日)盛岡へ

朝ご飯も朝風呂もパスした。昨晩の食事でかなりの重症となり、部屋で大人しくカーリングを見て過ごす。時間になり、大館駅から電車に乗る。盛岡行きっぷを自販機で買おうとしたら、2つのルートが出てきて、しかも1つは料金がバカ高い。駅員に尋ねると、岩手銀河鉄道を経由すれば安いという。2640円。自販機は紛らわしいので困る。同時に自分でちゃんと調べてから来るべきだと知る。

電車は昨日と同じ2両列車。乗客は僅か数人。昨日と同じルートを走っていく。途中鹿野花輪駅で28分停車。運転手さんが何と今日で定年とのアナウンスがあり、ゆかりの人が駅まで来て労っている。いかにもローカル線らしくて良い。この駅は25年前にも来たことがあるが、木製改札もそのままでよい。

そこからダラダラ3時間、電車に乗り続けた。普通の人は特急に乗るか、昨日乗ったバスで盛岡へ行くのだろうが、このローカル線の旅は何とも心地よい時間だった。好摩駅からいわて銀河鉄道に入り、そこから30分で盛岡駅に着いた。盛岡駅はJRの駅もあるのでややこしいのだった。

みちのく一人旅2022(5)大館、そして鹿野へ

5月20日(金)大館へ

朝、昨日の余韻で弘前高校に行って旧校舎を見学した。それから寺町を散歩しようとしたが、道を間違えたのか、寺は見付からなかった。それにしても今日の岩木山もきれいだ。弘南鉄道中央弘前駅へ。駅舎とは思えない非常に昭和な建物。1952年開業らしい。切符は自販機で購入するのだが、ただ大館まで行くきっぷ(含むJR)は売っていない?

親切なスタッフに聞いてみると、色々と教えてくれた。ローカル線の営業努力はやはりすごい。改札は発車の5分前から。ホームは1線しか車両が入れない。2両列車に乗客は地元のご年配の方ばかり。終点大鰐駅まで440円。前半は意外と家がある。後半は田畑中心。何とも眠気が襲ってくる心地よさを感じる。

約30分で大鰐駅に到着。木造の階段を上るとJR大鰐温泉駅へ行ける。一応弘南鉄道の改札があったが無人。JRホームは出入り自由の緩さ。JRきっぷは窓口で購入するが現金のみ。駅員の対応も良くはない。駅の外には足湯あり。ここで温泉に入るという手もあったか。30分待って奥羽本線2両列車で大館まで向かう。590円。ほぼ田園、森林風景。大館駅に着くと駅舎は改装中。そして駅前にはほぼ何もない感じで、観光案内所も見付からない。

秋田犬の里?という建物があり、その前に忠犬ハチ公像があった。そうか、ここはハチ公の生まれ故郷か。その裏には渋谷との繋がりを示す『青ガエル』と呼ぶ電車が置かれていた。予約した宿に荷物を預けたが、フロントの対応は何とも不慣れ。研修生らしい。後で戻ってきてみると、バッグは開いたままで、フロント脇の外に放置されていた。急激なローカル感を味わう。

東大館方面へ歩く。20分ほど歩いて行くと秋田犬会館?があり、ここにもハチ公がいた。隣は桂城公園(城跡)。市役所の建物が実に立派。その横の桜櫓館を見学したが、『気を付けてみてね』というだけで、対応する気はないようだ。3階の展望に行くには非常に狭い階段を這い上る。それから少し歩いて八幡神社まで行く。駅で言えば、この街は大館ではなく、東大館が中心だった。何となく東室蘭を思い出す。

またとぼとぼ歩いて大館駅で明日のバスを確認。宿にチェックインしたが、腹が減った。中途半端な時間で店を探せず、また駅前に戻り、鶏飯弁当を買う。900円で十分満足。名物比内鶏?かな。夜は何と宿で午後7時半から夜泣きラーメンを無料で食べられた。半ライスも付いていたが、さすがに断る。ホテル経営も大変だ。

5月21日(土)鹿野へ

宿はいかにもビジネスホテルで、朝飯の質も落ちる。まあ鶏だし飯をかっ込んだので、文句はないが、色々なホテルに泊まるとサービスの差が良く分かってしまい面白い。今日は駅前から高速バス(盛岡行)に乗って、高速けまないというバス停まで行く。約40分。因みに料金1000円で、 Suicaは使えた。乗客3人のみで、下車場所のアナウンスが2回あって戸惑うも何とか下車。

完全な田舎の高速道路脇のバス停を想定していたので、飲食店などもあり、意外な感じで始まる。ここ鹿野市毛馬内へ来た理由、それはこの地が偉大な東洋学者、内藤湖南生誕の地だったからだ。先月京都で湖南の墓と晩年に隠棲した恭仁京を訪ねたこともあり、ここまで来たらどうしても訪ねて見たくなる。

歩いて10分ほどで、急坂(柏崎新城搦め手口)を上ると内藤湖南先生の旧宅があった。現在も親族の方が住んでいるので表札も出ている。その上に内藤虎次郎郷宅とも書かれている。胸像が建てられており、その向こうには湖南が使ったと思われる書斎の建物さえ残っていた。これはちょっと感激だ。

隣には毛馬内柏崎館という建物があったが、既に閉館しているようでひっそりしていた。ここが城の本丸?だったらしい。道沿いに内藤十湾先生(湖南の父)の碑もあった。もう少し歩いて行くと、仁叟寺といういい雰囲気の寺があり、戊辰戦没の碑なども建っている。そこから下ると立山文庫跡(現十和田図書館)の表示があり、その横には蔵がある。表札によれば立山氏は今も子孫がここに住んでいる。更には毛馬内学校発祥の地と書かれたものもある。この学校は明治初期に開校されたが、湖南も通学したのだろうか。

みちのく一人旅2022(4)弘前を歩く

5月18日(水)弘前へ

朝飯と朝風呂、このセットが習慣化し、心地よい。他にやることもないのでチェックアウトして駅へ向かう。Suicaは使えないのできっぷを買ったが、この駅列車到着10分前まで改札口を開けない?なんだか中国の駅を急に思い出す?団体さんが深浦へ向けて行くようだが、混雑はない。

やってきたのは1両列車。さすがに車内は混んでいる。次の電車は11時台らしい。弘前まで直通でわずか43分。途中川部でスイッチバックがあり、前後が逆になった。リンゴ畑を見ながら過ごす。

弘前駅の観光案内所はてきぱきしていてよい。駅前から市内巡回バスが100円で乗れる。10分に一本あるというから、非常に便利だ。今日の宿まで10分ほど乗り、荷物を置き、すぐに市役所前へ歩いて向かう。ここには立派な観光館があった。郵便ポストには『りんご色の町 弘前』の文字があり、ポストの上にはりんごのモニュメント、背景にはきれいな岩木山で写真を撮る。

2時間に一本しかないミニバスで岩木山神社へ向かう。30分、660円。田舎道を軽快に走り、途中から登りになる。神社は相応に古い。江戸初期か。敷地も相当に広く、荘厳な感じがある。山頂(標高1600m)の奥の院まで徒歩4時間15分との表示があり、断念して参拝する。ここから岩木山は見えないので、横道から遊歩道を歩いてみる。所々に岩木山が顔を出す。リンゴ畑もある。とても気持ちが良い歩道だが、誰も歩いていない、独り占めだ。天気も最高に良い。

更に歩いて行くと寺がある。と見えたのは、津軽4代藩主の廟。近くには殉死した家来の霊社もあった。ちょうど歩道に木が倒れており遮られた。ゴールの高照神社に到着、由緒正しそうだが、宝物殿は朽ち果てていた。横に歴史資料館があったので入ってみる。300円。津軽藩の歴史が分かる場所であり、絵画や茶器なども展示されている。

帰りのバスに乗ろうとしたが、バス停はなかった。それでもちゃんと大型バスがやってきて、25分で市役所へ戻る。570円。宿まで歩く間にいくつも古い建築物が見られた。吉田松陰滞在場所何というのまであった。宿は部屋も広く、風呂がデカい。露天風呂から岩木山が良く見える。

風呂から上がって大相撲を見る。極楽だ。終了すると腹が減り、検索で見つけたとんかつ屋へ向かった。バイト男子が面白い。『ご飯です。味噌汁です。とんかつ定食です』とサーブする。サラッと揚がった、なかなか満足できる『ろうすかつ』だった。なめこ汁もうまい。帰りは夕暮れの赤レンガ美術館の横を通る。更にはレトロな教会もあり、その向こうは何と中央弘前という駅だった。言われなければ駅舎とは思わなかったかもしれない。

5月19日(木)弘前市内で

また朝風呂。そして豪勢な朝飯。特にせんべい汁うまし。本日は大谷の二刀流を見るため午前中お休みとした。偶にはこういう日が必要だ。昼前にようやく部屋を出る。宿の近くに五重塔が見えた。最勝院、江戸初期に津軽氏によって建てられたらしい。境内には大工の棟梁の記念碑があった。これは珍しいのではないか。横には八坂神社もある。そこからいくつも寺がある新寺町を歩いた。

更に中心街とは反対の方へ向かう。弘前学院大学の校内にある宣教師館。同大学はキリスト教関係者が設立し、アメリカから婦人宣教師を招いたようで、この建物はその宿舎だった。弘前には他に、弘前大学外国館(今はカフェとして使われていた)など、意外と外国人用の建物が残されている。

太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)にも行ってみる。ここは弘前ペンクラブが管理しているとのことで、そちらの方から30分説明を受ける。太宰は青森中学から旧制弘前高校に進学、親戚の家に下宿。太宰が青森中学に行ったのは母親が浅虫で療養していたかららしい。弘前に移っても青森に芸者遊びに行っていたというからすごい(金木の実家を見れば資金力に問題なし)。そして2階の太宰部屋を見ていると『ここが初めて自裁未遂した部屋』と言われて驚く。 

昼も過ぎていたので、土手町の銀水食堂でかつ丼570円を食す。まさに昭和の食堂。午後2時でもお客はかなりいる。赤カブの漬物、そして濃い番茶。食後は弘前公園へ行き、天守閣に登る。320円。かなり広い敷地、石垣積み工事をやっている。図書館などレトロ建築がいくつもある。古い建物が残っているのは、弘前が空襲に遭わなかったことが理由であるらしい。

夕方部屋に戻り、コインランドリーで洗濯しながら、風呂に入り、また相撲を見る。チェーンホテルのいい所は『ここには必ずコインランドリーがある』と分かっていること(ここは洗濯機使用は無料、乾燥機は有料)。それにより、何を着るかを計算出来てとても助かる。夕飯は抜いて、夜泣きラーメンを食して寝る。これもまた良い。

みちのく一人旅2022(3)金木を歩く

5月17日(火)金木へ

宿の朝飯を食べに行ったら老人男性4人組がいた。何と4人掛けの席に1人ずつ分かれて座り、食べているのだが、お互いの声が聞き取りにくいらしく、どんどん大声で話しながら食べている。こういう光景は滑稽としか言いようがなく、今の日本を象徴しているようにも見えた。

今日は津軽鉄道に乗ってみる。JR駅の隣に如何にも木造の古めかしい駅舎がポツンとある。中に入ると『乗車ですか』と声を掛けられ、切符を買う。ホームへ行くと鉄オタさんと間違われ?写真スポットを案内された。有名なストーブ列車は冬だけ運行だという。1両列車に乗り込むとテレ東の取材あり、乗客に出演を促しているのは何ともうざい。まあ番組制作スタッフも大変なのだろうと思うのだが、旅情を削がれる。

電車に女性ガイドさんが乗り込んできた。テレビ番組用かと思っていたがそうではなく、津軽鉄道の人らしい。八甲田山や岩木山を紹介しながら、手作りパンフと津軽方言を織り交ぜて、一生懸命ガイドしている。こういう努力は称賛したい。それにしても岩木山はきれいな山だ。田んぼに水を張る季節になっている。

金木まで25分、560円。金木で列車通過儀式があったが、私はここで降りた。駅からぽつぽつと歩き始める。太宰疎開の家というのがあり、その先で道を間違えてしまい、神社から三味線会館へ入った。まずは斜陽館(太宰生家)を見学。思ったより大きな家で驚く。金貸し業の部屋まであり、戦前の津島家の財力が良く分かる。

戦後の農地解放で津島家はこの家を手放し、小説の名を取った斜陽館という名で旅館が経営された。津軽ヒバの大豪邸には洋間もある。一度は泊まってみたい宿だった。今日は高校生の社会科見学か、案内がうるさくて紹介ビデオが聞こえず、ちょっと残念だった。

次に共通券(1000円)で三味線会館へ向かう。中では津軽三味線の生演奏が始まる。弦をたたく?独特の音が会場に鳴り響く。津軽三味線は明治からと意外に新しい。仁太坊という人に始まる。生きていくための芸という言葉が響く。弦楽器はインドから?三味線は500年前のサンシンが起源らしい。もう少し伝来の歴史を調べるべし。吉幾三の父で民謡歌手の鎌田稲一や三橋美智也の名が出て来る。

三味線会館の向かいにある雲祥寺は太宰がタケに連れられて遊んだ寺だと覚えている(小説『津軽』)。山門が格好良く、津軽大観音もある。そのまま太宰ロードを歩いて金木小学校まで行く。天気が晴らしく、更に芦野公園を探してまた道を間違える。ようやく公園へ入ると、三味線発祥の地、太宰像と記念碑を見かける。吊り橋を渡って、駅の方へ回っていく。

芦野公園駅は無人だが、旧駅舎を利用したカフェは有名だ。駅舎珈琲を注文して周囲を眺める。雰囲気は新しい。ここでドリンクだけでなく、きっぷを買うことができる。ダラダラしていると、さっきの取材が来るというのですごすごと退散した。だが結局取材はなく、カフェのオーナーが大きく手を振って列車を見送ってくれた。ガイドさんがまた登場して、細かい情報をくれる。まさにありがとうという思いだ。そして相変わらず岩木山はきれいだ。

五所川原で降りると、マルコーセンターで『のへ丼』を食べてみる。5年ぐらい前に始めた新サービスだというが、150円でご飯を買い、別に好きな刺身を魚屋で買って、のっけて食べる。テーブルで座って頂く。650円で満腹だった。更にアテンダントさんからの情報で、『あげたい』にも挑戦。タイ焼きを揚げるのだが、ご主人は一言『こっちの方が絶対旨い』と。130円で開運祈願? 

立佞武多会館にも寄ってみる。正直あまり期待していなかったが、実際に見るとその迫力はすごい。立佞武多は1998年失われたと思われていた設計図が見付かり、80年ぶりに復活したという。今は1年に一回、夏祭りに登場する。4階でビデオを見て、そこからスロープを降りながら歴史などを見て1階まで歩く。予想外の立ち姿、その巨大さに十分満足。650円。

疲れたので宿へ戻り、風呂に入って相撲を見る。夜は食べるところが見付からず?腹が減ったところでコンビニへ行き、冷やし中華を買ったつもりが??なぜかごまだれ味のご当地中華だった。正直シンプルな冷やし中華が食べたかった。

みちのく一人旅2022(2)三内丸山遺跡から五所川原へ

5月16日(月)三内丸山遺跡

朝早く目覚め、朝ぶろに入る。今日も湯船が明るい。朝飯も一人ご飯。あの仲居さんに励まされて?美味しく頂く。卵にみそ焼が何ともいい味で旨い。青森だからか、漬物など発酵食品が多いという特徴もあった。食後時間があったのでホタル池まで2㎞ほど散歩した。特に何もなかったが、よい腹ごなしとなった。

9時に宿から車で駅まで送迎してもらった。コロナだけでなく3月の大地震の影響もあって、客足は戻らないという。次回はいつ来られるだろう。25年前ここの仲居さんに『三内丸山遺跡にでも行ってみたら』と言われてJRに乗ったのだが、今やそのJRはない。青森まで25分で到着。青森駅は改修中で、ちょっと道に迷う。駅前のコインロッカーに荷物を押し込み、観光案内所で地図を貰い、遺跡への行き方を教えてもらう。

ちょうどバスがやってきて乗り込む。310円。平日だが意外と乗客が多いと思ったら、殆どが遺跡の一つ前の美術館で降りて行った。終点で降りると、目の前の立派な建物に驚く。25年の進化を感じる。世界遺産に登録され、更に発展している。中を見学すると、土偶や土器など様々な発見が続いていることが良く分かる。25年前は発掘調査が始まって3年程度しか経っていなかったので、取り敢えず基礎調査段階だったが、それでも我々が学校で習った縄文時代とはあまりにかけ離れていて、十分に驚いたのを思い出す。

11時から見学ツアーがあるというので、参加してみた。学芸員の方が案内してくれ、20名ほどが参加していた。建物から外へ出て、広い敷地内を約1時間、説明を聞きながら散歩する感じだった。説明は非常に分かりやすく、しかも縄文ロマンが感じられる。以前より木々も茂り、展示物も増えている。酸性土壌は土が赤茶けるという説明は印象的。あの象徴的な六本柱の建造物はそのままだが、他の住居などはどの程度作られていたのか記憶がない。この25年で縄文時代の概念も変わり、狩猟生活だけではなかったこと、ある程度きちんとした農業が行われていたことが明らかにされているが、そのきっかけはここの発掘だった。

ツアー終了後、バスに乗って引き返した。駅近くでバスを降り、街歩きを始めた。太宰治、棟方志功、沢田教一などこの街にゆかりのある人々に関する場所が表示されているが、建物は何も残っていない。これも空襲のせいだろうか。県立博物館は閉館中で見られず残念。古めかしい善知鳥神社は何となく懐かしい。菅江真澄の碑がある。

青森港付近を散策すると天気も良く海がきれいだった。青函連絡船関連の史跡、八甲田丸が停泊し、その横に津軽海峡冬景色碑がある。近づくと突然石川さゆりの歌が流れるという趣向にビックリ。青森駅から五所川原へ移動する。ここはJR線だが、残念ながらSuicaは使えない。改札口には北海道プロモーションの一団が陣取り、迷惑この上ない。

川部という駅で乗り換えたが、停まっている快速リゾートしらがみには誰も乗らない。何となくそんな気分になり、突然乗り込んで車内で急行券を購入した。25分で追加料金530円なら地元民は乗らないだろう。残念ながらほぼ乗客はいなかった。4人掛けの立派な半個室があり、各シートもかなり広い。窓も大きいので、外が良く見える。りんごの木が目立ってくる。

五所川原駅に着くとまずは観光案内所へ向かった。だが出てきた男性は『金木以外ほぼ観光地はない』と実に素っ気ない。偶にいるんだよな、この手合い。きっとやりたくない部署に回され、郷土にも愛着がない役人体質の人。宿にチェックインして、相撲を見てから夕飯を食べに行く。なぜかカツカレーが食べたくなり、検索した店に行ってみたが、何と既に売り切れていた。普通のポークカレーを勧められたので食べてみたが、甘さと辛さが絶妙で、量も多い。これで550円は幸せだ。宿に帰り浴場へ。狭いが気持ちはよく入る。

みちのく一人旅2022(1)25年ぶりに浅虫温泉へ

《みちのく一人旅2022》  2022年5月15₋23日

もう25年も前、1997年に一度『みちのく一人旅』をしたことがある。その時は出会った人に『どこへ行ったらいいか?』と聞いて、言われた通りに行く、という企画?だった。新幹線の故障、小雪の舞う浅虫温泉、三内丸山遺跡、そして大雪の十和田湖行、大湯のストーンサークルから平泉、多賀城まで、よく行けたなと思う。

だがあの時本当は青森市から津軽半島、下北半島を目指したかったのだ。昨年ついに下北半島を訪ねたので、今回は25年ぶりの浅虫温泉、三内丸山遺跡から、そのまま津軽へ行こうと決めた。更に秋田の鹿野、ここもちょっと気になっていたところなので、ちょうどよいと出掛ける。茶旅ではない旅もまた楽しい。

5月15日(日)浅虫温泉へ

東京駅でのり弁を買った。最近流行りらしいが、あまりにも立派なおかずに戸惑う。いつもは大宮から乗る新幹線だが、今日は25年前を思い出して、敢えて東京駅から乗る。空いている新幹線を見ていると、25年前の、あの故障の日を思い起こす。今日は勿論そんなこともなく、新幹線はぐんぐん進んでいく。

八戸で乗り換える。八戸は昨年1泊しているので素通りして、そのまま青い森鉄道に乗る。この鉄道は切符を買うのが現金のみ、と昨年学習済み。前回はこの路線で下北へ向かったが、今回は野辺地で分かれて、青森方面へ向かう。料金は一番前で精算、三沢など大きな駅だけドアを開けて降りられる(乗るのは自由)。

1時間ほどで浅虫温泉駅に着く。25年前、小雪が舞う中降り立ったこの駅だが、今日のイメージはちょっと違っている。あの時は宿の人が迎えに来てくれたが、今日は歩いて椿館へ。途中の経路には全く記憶がない。温泉卵場などで卵を茹でている人がいる。10分ほどで椿館の前に来た。

こんなに大きな宿だったかな。雰囲気も中身もかなり変わっている。25年前だから当たり前か。フロントに聞くと2年前に改装したと言っていたが、私のイメージにある階段の棟方志功の大きな版画は、1階に飾られている。ロビーは大きく広がっている。部屋にはトイレもあり、居心地も良い。

早速温泉に入ってみる。あの時は夜だったこと、雪が降っていたことから薄暗かったが、今日は実に明るい。私一人で湯を独占する。ここの湯は鈍感な私でもわかるほどに柔らかい。露天風呂も健在だったが、明治天皇行幸碑は見付からない。地元の人が温泉に入りに来るのは前と同じようだ。実にいい湯に浸り、満足する。  

風呂から上がってもまだ陽が高い。夕方の散歩でサンセットビーチと書かれた海岸へ行く。 それにしても何もない。その誰もいない浜が良い。湯ノ島がでっかく前に立つ。遠くに裸島が見える。サンセットまでは時間がかなりあり、ゆっくり落ちていく。カップルがじっと夕日を眺める場所という感じで、早々に退散した。

夕食の時間、食事会場へ行くと一人で食べるのは私だけらしい。老夫婦か老齢の親を子が連れてくるパターンが多い。温泉夕飯の一人はやはり寂しい。しかも酒も飲まないのだから、間が持たない。だがここの仲居さんには救われる。何とお客と方言のタメ口で話すのだが、その会話は実に楽しく、人の心をとらえる芸術的な話術を持っている。単に料理の紹介をしているだけでも、すぐにみんなと会話が成立してしまう。

ついつい楽しくなって、出ていた料理を次々平らげる。陰に隠れて残した物でも、彼女は料理を紹介しつつ食べさせてしまう。決して『食べないの?』などと言わないのがすごい。彼女はここの名物仲居なのかもしれない。後で聞くとコロナ禍でかなりの人が辞めており、残った彼女は非常に忙しいが、それでもそのさりげない気づかいには恐れ入った。

2階の部屋はトイレ付の8畳間。庭も見えていい感じだ。25年前に比べれば料金は1.5倍ぐらいだろうか。珍しく茶葉があったので、急須に入れてがぶがぶ飲む。こういうお茶が意外とおいしい。たださすがに飲み過ぎたのか、夜はよく眠れず、夜中に何度かトイレに起きてしまった。

滋賀中心の関西茶旅2022(10)

何となく六波羅蜜寺へ行く。以前も来たことはあるが、振り茶の歴史に空也上人が登場したので、それに関したものはないか探したが、残念ながら見つからず。近くに轆轤町という町名を見て、何かを感じる。そのまま歩き、南禅寺まで進む。そこをさらっと見た後、横道から寺を出ると、野村美術館に出た。

普段なら通り過ぎるのだが、今年は千利休生誕500年ということで、ここでも利休展をやっており、中に吸い込まれてしまう。私は茶道のことは何も知らないので、何を見てもいい勉強となる。続いて昨年訪ねた時休館中だった泉屋博古館にも入ってみる。こちらはゆったりした空間の中、旅する絵画という特別展をやっており、田能村竹田などの絵を見ながら、ちょっと旅した気分になる。

そしてサクラがきれいな哲学の道を歩き、法然院まで行く。ここは予想以上に古びた、静かないい感じの寺だった。私がここに来た理由、それは昨日も別荘を訪ねた内藤湖南の墓があるからだった。驚いたことにここには有名人がかなり眠っている。湖南もそういうご縁の中でここへ来たのだろうか。

法然院から下るとこれまたいい感じの洋館が見える。これもヴォーリス建築だという。一体どれだけあるのだろうか。橋本関雪記念館の前を通り過ぎ、辿り着いたのは駒井家住宅。公開日ではないので、外から眺める。これもヴォーリスか。この付近、閑静な住宅街でちょっと京都とも違う雰囲気を感じる。

歩き回って相当疲れてしまい、バスに乗って宿へ戻る。宿の横の寺には平重盛の石碑があり、平家ゆかりの寺らしい。早めにゆったりと大浴場に浸かり、これまでの長かった旅の垢を落とす。ついでに洗濯したかったが、宿内にコインランドリーがなく、歩いて15分もかかるという。雨も降ってきたので大人しくしている。

4月14日(木)京都最終日

今朝も豪華な朝飯に喜びがある。この宿の特徴はこれだ。雨が降る前に府立図書館を目指して歩いた。もう少しで到着というところにふと見ると『山中商会』の文字が見えた。先日NHKの番組で取り上げていた、清朝の秘宝を買い取った日本商人はここだったのか。さすが京都、歩いていれば歴史にぶつかる。今もきれいなパビリオンがあるようだが、まだ閉まっていた。今はどんな商売をしているのだろう。

府立図書館は平安神宮のところにある、実に立派な建物だった。1909年当地に建てられたらしい。明治末期の建物だった。中も非常にレトロだが、レファレンス対応などは非常に機敏であり、大変有り難い。ただ京都府の茶業関連の歴史はそれほど資料が無いようで、調べ自体は苦戦。

それから何となくフラフラ歩き回り、気が付くと先斗町あたりへ出た。そこにあった瑞泉寺。豊臣秀次一族の墓所があった。秀吉により切腹させられた秀次。その際、妻妾、幼児ら39名も三条河原で処刑され、そこに埋められたらしい。それを江戸初期、高瀬川を開削中の角倉了以が発見し、お堂を建てたという。この寺の近所には了以の顕彰碑も建っている。供養塔の中には駒姫の名前をみえる。僅か15歳、輿入れしたばかりでこの悲劇に遭ってしまった。

実は瑞泉寺にはなぜか『岩瀬忠震宿所跡』『橋本左内訪問地』などとも書かれている。岩瀬はあの日米修好通商条約を井伊直弼にも黙って調印したと言われる人物。実は朝廷の勅許をもらうため京都に来て泊った宿がここだったらしい。幕末の志士、左内は安政の大獄で獄死。岩瀬も閑職に追いやられ憤死した。

最後に辿り着いたのが、旧近江屋。ここは坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われ、命を落とした場所である。今はその説明書きが出ているが、目を止める人は多くない。近くには土佐稲荷があり、真新しい龍馬像も置かれている。ここは土佐藩邸にも比較的近い。そして我が宿にも近かった。

さすがに疲れ果てたので、京都を失礼することにして、京都駅までバスに乗り、そこからはまっすぐ新幹線で帰った。今回も実に盛りだくさんの旅だったが、まだ行けていない場所がいくつもあったようで、次回への持越しは更に続く。

滋賀中心の関西茶旅2022(9)恭仁宮,そして善光寺

4月12日(火)恭仁宮へ

翌朝も善光寺捜しを続ける。検索して何とか見つかったもう一つの善光寺。ちょうど行きたいところがあったので帰りに寄ることにした。まずは京都駅から奈良線に乗る。これは宇治へ行く時いつも使う路線だ。木津駅で乗り換えて、加茂駅で降りる。思い出してみると昔和束の茶畑に向かった際、ここで降りてバスに乗ったのが懐かしい。

今日はここから歩いて恭仁山荘を目指す。古い街並みを抜けて木津川を渡ると、畑が見えてきて、極めて静かな田舎の風景に出会う。更に進んで少し登ると到着した。ここは旧内藤湖南邸(大学退官後隠棲した場所)だが、現在は関西大学の管理となっており、中を見ることはできない。門の前には記念碑が建っている。京都大学の教え子、貝塚茂樹、小川環樹(共に湯川秀樹の兄弟)などの名が見られる。これだけでも湖南がどんな人物かが少しわかる。

内藤湖南については、彼がジャーナリスト時代、植民地初期に台湾に1年ほど滞在したことに興味を持ったが、今や『志那論』など読むべき書を残した人物として認識している。現代中国を見る上で、その歴史を詳細に解析しており、その論には腑に落ちる点が多い。そんなこともあり、何となくここへ来て見たくなったわけだ。現在でもかなり静かなところだから、昔は相当な田舎であっただろう。湖南を訪ねて駅から歩いてくる人がこの山荘から見えたという。何となく『在家出家』という言葉を思い出される。

戻り路、きれいに整備された茶畑を発見する。よく見ると山の方も含め、周囲にいくらかある。さすが和束に近い。まっすぐ駅には行かず、国分寺跡に寄り道する。恭仁宮は聖武天皇が作った宮だが僅か4年で終わり、その跡地を利用して、山城国分寺が出来たとある。広い空間に支柱跡が点々と残る。その横に小学校があり、子供の声が聞こえるのは何となく幻想的な光景だった。学校の裏にも太極殿跡などがあり、かなりの規模であったと思われる。この付近は古代史の宝庫だろうが、その知識がないと何も分からない。

帰りに桃山駅で降りて、懸案の善光寺に向かう。お寺に声がけするとわざわざご住職が自らお墓に案内してくれた。『佐藤百太郎の墓』は大きくて目立つ。千葉の佐倉順天堂に生まれながら、ニューヨークへ渡り、貿易商社を興し、日本で初めて日本人の手による、アメリカ向け日本茶(狭山茶、佐倉茶)輸出を成した人物だ。明治初期の茶業史でもっと扱われてよいと思うのだが、今やだれも知らない。だが最終的に結果が伴わず、失意の帰国となり、理由は解明されていないが、京都に住み、そこで最期を迎え、ここに葬られている。周囲には佐藤家の墓がいくつか見られ、百太郎の子孫が今も墓を見ているという。

京都駅まで戻り、宿で荷物を引き取り、バスで四条へ行き、今晩の宿を探して荷物を預けて、またバスに乗る。午後は久しぶりにIさんを訪ねることになっていた。Iさんは体調を崩し、入院していたが、最近退院したので、金閣寺近くまで顔を見に行った。まだ万全ではないと言いながらお茶を淹れてくれ、久しぶりに楽しく会話した。夕方四条に用事があるというのでIさんと共にバスで出掛け、デパートへ行き、夕飯もその辺で食べた。長期入院すると色々と用事がたまっているという。やはり健康は大切だ。

4月13日(水)京都街歩き

宿の朝ご飯が立派でうれしい。この宿、実はお寺とくっついており、お寺見学などコラボ企画もあるという。そして何と朝飯時に『目覚めの煎茶』なるものが出される。ただ出てきたお茶が掛川茶でビックリ。全国の煎茶を紹介するというオーナーの発想らしいが、京都で掛川茶は何とも珍しい。

今日もフラフラ街歩き。鴨川に出ると、東華菜館という立派な建物が見える。中華料理だが、建築はあのヴォーリズだと聞く。スパニッシュ・バロック、ヴォーリズ唯一のレストラン建築とある。1926年建造。ここで一度料理を食べてみたいが、一人では無理かなと、先へ進む。

滋賀中心の関西茶旅2022(8)敦賀、そして京都

4月11日(月)敦賀の町

昨日は敦賀を歩かなかったので、まずは気比神宮に向かう。実はこの街、商店街は銀河鉄道999で詰め尽くされている。松本零士の出身地かなと思ったが、何だか違うようだ。その商店街を抜けると気比神宮があった。大鳥居の写真を撮ろうと思ったら、修学旅行の一団がその場所を占拠している。尚この大鳥居、明治に国宝に指定されたが、現在は重要文化財とある。格下げってあるんだね?

仕方がないのでその横をすり抜けて、神社内へ。神社はさすがに貫禄があるが、なぜかここにも芭蕉の像があり、句碑もある。そこから少し歩くと永賞寺という寺があり、そこに大谷刑部の供養塔があった。あの関ヶ原で散った西軍の猛者もこの地の出身だった。更に金ヶ崎城跡を目指して歩いて行く。

敦賀と言えば真っ先に思い出すのは、織田信長が袋のネズミになった、あの金ヶ崎撤退戦だろう。だが掲示板を見ると、何と南北朝時代、後醍醐天皇の御子と新田義貞の長男がここで戦死しているとある。金ヶ崎には意外な歴史があるようだ。まずは階段を上り、金崎宮へ詣でる。

そこから更に上っていくときれいに咲くさくらの下に、尊良親王御墓所見込地と金ヶ崎城跡の表示が見える。尊良親王は実際にはここに埋葬されることはなかったようで、この名称になっているのだろう。新田の軍勢300人余りと共に自刃したらしい。そして退き口の説明書きも見える。こちらは多くの時代劇で扱われているので、知っている人も多いと思われるが、殿を引き受けた秀吉が活躍する話となっている。

更にきつい登りを上がると、頂上には金ヶ崎古戦場とあり、そこからの日本海の眺めはかなり素晴らしい。帰りは別の山道から降りていくこともできた。下まで降りて歩くと、レンガ倉庫が見えてくる。その先には旧敦賀駅舎が資料館として建っている。敦賀は大陸との重要な接点であり、杉原千畝が助けたユダヤ人難民もここに上陸した。

中の展示を見ていると、新橋‐金ヶ崎は戦前週3本走っており、そのまま敦賀港発ウラジオストク行定期航路に連絡していたとは全く知らなかった。そもそも敦賀港はウラジオストクでシベリア鉄道の建設が始まったことで開かれたらしい。この時代にはこんなダイナミックな発想があったんだ。敦賀港を開いたのは、大和田荘七という人だという。市役所前にも立派な像が建っている。

港の近くには今でも木造の旧家がいくつも残っていた。敦賀城の跡を探すと真願寺という寺になっており、そこにも大谷吉継の名が出て来る。またこの付近にも芭蕉逗留の宿跡がある。芭蕉は旅の記録を残しているから、300年以上前の人間とは思えないほど、顔を出してくるのが面白い。

最後に本勝寺へ行くと『水戸烈士幽居之寺』の石碑があった。1864年武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵したが、最終的にここ敦賀で捕縛され、300名以上が処刑されるという悲惨な末路を辿った。処刑場所とお墓は別のところにあるようだが、そこまで行く時間はなかった。

京都へ

宿で荷物を引き取り、京都行の電車に乗る。来る時は湖西を走り、今回は湖東を走っている。先日訪ねた比叡山や坂本を通り過ぎ、1時間半で京都駅に着いた。敦賀と京都は歴史的にも近い。京都駅前の宿に荷物を置くと、すぐに本日の行動を開始する。Googleで善光寺という寺を探すと京都から一駅だと分かり、さっき降りたホームからまた乗る。

一駅で降りて歩き、善光寺に到着したが、そこは実に小さなお寺で、墓石がいくつか見えるが墓所はない。おまけに人は誰もおらずに尋ねることもできない。私は『佐藤百太郎の墓』を探しあぐねてしまったが、如何ともしがたい。仕方なくまた電車に乗り、京都駅へ戻る。

ちょっと急いだのには訳がある。駅の裏側にある店でうどんを食べたかったのだが、何と午後5時に閉まるとある。もう4時過ぎていたので、慌ててその店に辿り着くと、まだ暖簾が出ていて助かった。中に入ると、この時間でも結構客がおり、お稲荷さんなどは売り切れていた。

迷わずに『名物きつねうどん』を注文。お揚げとネギがたっぷり入り、生姜の効いたあんかけ汁が異常に美味しい。600円は満足できる値段。隣の客は横浜から食べに来たと言っていた。店のおばさんたちも笑顔で何とも愛想がいい。もうちょっと遅くまでやっていてくれれば、今後もチャンスがあるだろうが。

今日の宿は函館で泊って気に入っていたところだが、京都駅前は部屋も大浴場も狭いし、朝食もビュッフェはなく、簡単な定食でちょっとガッカリ。道理で駅前なのに安いわけだと理解したが後の祭り。まあ荷物を置くにはとても便利な場所ということで。

滋賀中心の関西茶旅2022(7)敦賀から小浜へ

4月10日(日)敦賀から小浜

朝ご飯を食べるとすぐに宿を出て石山駅からJRに乗り込む。米原までは何度か乗っている路線だが、日曜日の朝、しかも天気が良いので乗客が多い。更に米原から敦賀行に乗り換えると、何と満員電車並みの混雑で驚く。既にコロナも過去のものになったのだろうか。ただ長浜でかなりの人が降りてしまい、後は普通に戻った。長浜は秀吉が築いた最初の城(町)で興味があるので、次回訪ねてみることにしたい。敦賀まで2時間の電車旅は何事もなく過ぎていく。

敦賀駅に着くと、駅にある観光案内所で周辺の情報を仕入れる。ちょうど小浜方面に興味があったので、そのまま向かうことにした。荷物だけ宿へ置いて、すぐにJR小浜線へ。ここではもうSuicaは使えないので切符を買う。1時間ほど、車窓から田舎の風景を見ながら過ごす。ところどころにサクラが見える。日本は本当にいい国だな、と思う瞬間である。

小浜駅に着くと、観光案内所で地図を貰い、食文化館へ向かう。途中海辺に出ると、ここが拉致被害の現場ではなかったのかと急に思い立つ。全く穏やかな田舎町で一体何が起こったのだろうか。食文化館は無料だが、係員も誰もいなかったので質問することもできず、ただ見学するだけとなったのは、残念でならない。なれすしなど発酵文化に関する展示があり、興味を惹かれる。また京都までの鯖街道の起点でもあり、この付近が日本発酵食品の発祥地と言えるかもしれない。これと後発酵茶は何か繋がるのだろうか。

ついでに小浜城跡にも行ってみる。ここは酒井忠勝が川越より移封されてきた土地だった。それだけ重要性があったということだろう。小浜と言えば、あの杉田玄白や幕末の梅田雲浜が小浜藩士であったことは決して偶然ではあるまい。市内にはこの二人に関する記念碑などがいくつか見られたが、地元の人も雲浜などはどの程度知っているのだろうかと思ってしまった。

バスで隣の東小浜駅へ行こうと思ったが、国分寺跡があることが分かり、そちらへ向かう。運転手にどこで降りたらよいかと聞くと『おにゅう』という。漢字で書くと『遠敷』、まず読める人はいないと彼も笑っていた。国分寺のある場所は盛り上がっていた。きっと古墳に違いない。その向こうに復元された現在の建物がある。私は全国でいくつの国分寺跡を巡ったのだろうか。ほとんど何もないのだが、なぜか惹かれてしまう。

東小浜駅の近くに歴史博物館があったので、ちょっと見学する。それから駅へ行ったが、ここはICカードが使用できない上、切符の自販機もないため、窓口で駅員から切符を買わなければならない。敦賀へ帰っても良かったが、三方に寄ることにしてそこまでを買う。Suicaならどこで降りるかを降りる時決められるのだが。

三方駅まで行く。ここで降りたのはズバリ、若狭の黒茶を調べるためだったが、何のツテもないので、取り敢えず図書館へ行ってみることにした。図書館の係員2人は共に私よりは年上と思われたが、ここで黒茶が作られた歴史を知りたいと言ってみても、何と『黒茶はおろか、この地域で茶を作っていたことも知らない』という驚きの回答だった。

ただ非常に協力的な人々で、様々な資料を探してくれたり、県立図書館に問い合わせをしてくれるなど、極めて有難い対応であった。この地域では昔から番茶が良く飲まれており、黒茶も番茶に含まれていたかもしれず、またこの付近は明治期はどこでも茶を作っていたらしいという話になった。またご多分に漏れず、町村合併などで、昔の地名が分かり難くなっていることもよく分かる。

まあ突然やってきて成果が上がるほど甘くはないとは分かっていたので、落胆はしなかったが、50年以上前の歴史とは言え、予想以上に茶に対する関心がなかったことが、何とも不思議に思われた。歴史はそんな簡単に消えてしまう物なのだろうか。帰りに駅で電車を待っていると、夕日が落ちてきて、サクラと相まって幻想的な風景が出現した。これを見られただけでも今日は良しとしよう。敦賀駅でにしんそばを食べて長い一日を終える。