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福岡、長崎茶旅2022(3)八女で紅茶の歴史を

6月15日(水)三潴駅へ 

いよいよ博多を離れ、今回の主目的である八女を目指す。今回も茶旅に連れて行ってくれるOさんとは、8年前ここで出会った。待ち合わせ場所は西鉄三潴駅。昨日大宰府へ行った同じ路線を走っていくので気が楽だ。特急に40分ほど乗り、大善寺で乗り換え、三潴駅に着く。何とも小さな駅だが、三潴という名は明治初期、僅か5年間だけ三潴県という県名として見える。そして明所初期の紅茶製造の場として、この三潴が歴史に登場しているのだ。

Oさんと合流して、まず向かったのは黒木。酒屋だった旧松木家住宅がまちなみ交流館となっている。広い土間と立派な梁を持つ住宅。この辺に明治後期に紅茶試験場が建てられたが、すぐに緑茶伝習所に代わったとある。裏には矢部川が流れ、川沿いにおしゃれな病院があったが、あのあたりだろうか。

木屋で江戸時代からの庄屋だったというM家を訪ねた。今も庄屋さんの家という風情を残しており、庭には簡易のお白州が開かれた際の敷石がそのまま置かれている。この家には明治期、県の物産品評会で紅茶部門3等に入賞した賞状が残されている。ただ現在お住まいの方々も、『紅茶製造』については何も聞いておらず、これが短期に終わったことを示している。

八女市役所黒木支所に聞けば何かわかるかも、ということで、訪ねてみる。だが役所が把握している黒木の紅茶作りの歴史は限られており、特に我々が追い求めている明治初期紅茶を輸出した星光社については、分からないという。それでも色々とご尽力を頂き、ついにその方面に詳しい方を紹介してもらった。何とも有難い。昼は美味しい蕎麦を食べて英気を養う。

午後星野へ行く。8年前まさにOさんが最初に連れてきてくれた場所、そこに星光社の茶工場があったというのは驚きだ。その時訪ねたお茶屋さんは既に廃業してしまっていたが、何と偶然にもそこでUさんとばったり再会した。工場は星野川のすぐ横だったと分かる。数年前の水害で、この付近も大変な被害があったそうだ。

それから紹介された専門家の家を訪ねた。さすがに郷土史に非常に詳しく、星光社についても相当調べておられ、蚊に刺されながら、かなりの情報を入手した。星光社のメンバーは広い地域から集まっており、八女出身者ばかりではないことなども分かり、さらに調査を困難にはした。先方にも可徳乾三のことなど、こちらの情報を提供した。

八女市内に戻り、予約した宿まで送ってもらった。驚いたことにこの宿、『コロナ感染者の宿泊は固くお断り』として上で、『コロナ陽性が判明した場合、消毒費用などを別途請求』と書いている。ここまで厳しい規定をこれまで見たことはなく、自分が感染した場合はどうなるのか、不安を覚えた。

夕飯を探しに外へ出た。近くには古い木造住宅や江戸から続く工場などもある。ただ食事をするところが意外となく、最後はラーメン屋に飛び込んで済ませた。留学生かなと思える店員が一生懸命働いていた。夕日が落ちていき、今日一日の成果を思いながら宿に戻る。

6月16日(木)八女許斐園

宿で朝食を食べたがロクなものはなかった。食べている人はほとんどいないが、食券回収箱には券が積み上がっている。なんかの作業する人々が泊り、朝早く出ていたのだろう。

本日は江戸時代から続く九州最古の茶商許斐園を訪ねた。さすがに店舗自体が歴史であり、文化財であった。店主の案内で作業場、そして2階の座敷を見学する。ロシア語の蘭字が張られた茶箱が目を惹く。2階では様々な客が往来したらしい。江戸後期からここで文人煎茶なども行われ、あの田能村竹田らも集ったらしい。この地は九州交通の要所だったということだ。

幕末にはグラバーやお慶がこの地から八女茶の購入、許斐園は輸出製茶問屋として発展する。輸出が不振になると国内に回帰し、九代許斐久吉は玉露の生産、品質向上に尽力し、また『八女茶』の名称に統一してブランド化を図った。いずれにしても200年近い歴史を有するお茶屋は、日本にはそんなにない。そしてその歴史が分かるとなると更に少なく貴重だ。

もう少し質問を繰り出そうしていると、そこに地元ラジオの取材がやってきた。Oさんもラジオに出演しているので、その辺で話が盛り上がり、そのまま退散することとなった。また質問を纏めてリベンジしたいと思う。紅茶についても次回聞いてみることにしたい。

そこから八女の図書館へ向かった。やはり地元には資料があるのではと探してみると、いくつかあった。私とOさんは二人で来たので、二人分のコピーを取りたいと願い出たが、『規則で1枚まで』と頑強に言われる。同じ一人が2枚取るのは問題でも、欲しい人が二人きちんとやってきているのに、1枚しか取らせないという理屈には納得しかねるところがある。仕方なく午後コンビニでもう一枚を取るという無駄な作業を行った。

福岡、長崎茶旅2022(2)謝国明、大宰府

雨を気にしながら、福岡城跡を登っていく。建物はほとんど残っていないが、石垣などは見て取れる。意外と坂がきつく、足元も滑りやすかった。天守台の見晴らしは素晴らしく、昔はここから港を眺めていたに違いない。下に降りると花菖蒲が咲いていた。更にNHK前まで来ると、廣田弘毅像が建っており、広くて、景観の良い大濠公園に続いている。

疲れたので地下鉄に乗り、博多駅へ行く。観光案内所を探したが見つからず(総合案内所で対応。パンフ・地図が置かれるのみ)。もらった地図を見ながら、駅周辺を歩いてみることにした。まず目についたのが、謝国明の墓。大きな樹木が立っており、その中に墓や記念碑が建っている。謝国明は大河ドラマなどにも登場したので知ってはいるが、特に聖一国師のスポンサーだったことに着目した。承天寺は謝の支援により国師が開山した。

そうなると承天寺にも行きたくなる。数年前に訪れた時と同じ『饂飩蕎麦発祥之地』『御饅頭所』『満田彌三右衛門の碑』の3つの石碑が建っている。国師一行が大陸より饂飩、饅頭、蕎麦、織物などを持ち帰ったことが記されている。ここに謝国明がどのようにかかわったのかは興味深い。

更に歩くと妙楽寺がある。戦国末期、博多の豪商茶人に神谷宗湛がいるが、彼の立派な石の墓がここにあった。その横には円覚寺が見える。ここは茶道の伝書『南方録』が伝わったとある。そして入宋を目指した聖一国師が最初に滞在した寺ともある。門は固く閉ざされており、中を窺うことはできない。ついでに栄西の聖福寺も再訪した。静かな境内は好ましいが、廣田弘毅の墓は何度探しても見付からない?

雨が強く振り出し、疲れも出てきたので、宿に逃げ帰り、風呂に入って休息する。夜はY夫妻と食事の予定があり、バスに乗って向かう。焼鳥屋さんと言われたが、店の位置が良く分からない。何とか辿り着くと久しぶりのカウンター席。質の高い焼き鳥をお任せで堪能する。鶏肉は本当に美味い。店は満員で酒が入ると皆大声で話し、コロナも何も関係ない。

できるだけ茶の話をしないように心掛けたが、やはり無理だった。何だか自分の視野が極めて狭くなっており、情けない。それでも10時過ぎまで楽しくお話して別れる。帰りのバスは乗客がほぼいない静けさ。まるで宴の後。150円で博多駅まで行き、そこから歩いてとぼとぼ帰る。

6月14日(火)大宰府へ 

朝から雨。宿の前のバス停から西鉄天神へ。そこから急行に乗り、途中二日市で乗り換えると大宰府に着く。何と言っても子供の頃、歴史の教科書で見て以来、一度は行かねばと思っていた場所についに来た。かなりのワクワク感で降り立った。

雨の天満宮はきれいだったが、とても歩きにくい。如水の井戸などがあり、いかにも福岡らしい。雨を避けて九州国立博物館に逃げ込む。常設展をさっと見たが、規模は思っていたほど大きくはない。係員はとても親切で色々と説明してくれた。本当はもっとゆっくり大宰府周辺も含めて廻るつもりで来たのだが、何だか雨に遮られて、その気力が萎え、電車に乗って戻ってしまった。

天神に着くと、雨は上がっていたので、また歩き出す。細い路地に『廣田弘毅生誕地』があった。その先のバス停からバスに乗る。目指すは福岡市立総合図書館。バスは湾外沿いの高架を走るので、景色が良い。そして福岡タワーがそそり立つ。図書館で昨日興味を持った謝国明などの資料を探す。しかし実はあまり資料はない。困った。

またバスに乗って宿の近所まで戻る。商店街にウエストがあったので、ひょいと入ってみた。数年ぶりにごぼう天うどんにありつく。これも国師のお導きか。相変わらず麺はフニャフニャだが、汁とのバランスが良い。宿に帰って、無料のコーヒーなどを飲みながら休息する。

そして夜8時半頃、外出する。こんな時間に一人で外へ出ることは稀だが、今晩は目的があった。その場所に近づくと、出勤途上と思われる若い女性の一団に出会い、また場違い感を募らせる。その店は夜7時半開店の蕎麦屋。知らなければ通り過ぎてしまうほどさりげなく、飲み屋街に存在していた。そして蕎麦屋なのに客のほとんどがかつ丼を注文するというので行ってみたわけだ。

午後9時前、客はそこそこ入っている。見ていると確かにとほぼ全員がかつ丼を食べており(一人だけカツカレー)、新しい客もかつ丼をオーダーした。私もオーダーした。やってくるとゆるふわたまごで閉じたカツが載っていて、いい感じだ。それに沢庵が二切。これで1100円が安いか高いか良く分からないが、博多の夜、〆はラーメンと思い込んでいると、その奥はそうとうに深そうだった。

福岡、長崎茶旅2022(1)筥崎宮と鴻臚館

《福岡、長崎茶旅2022》  2022年6月12₋20日

山口から電車で九州に渡り、博多、八女、平戸、長崎と巡った。茶旅が主ではあるが、それ以外の歴史旅もかなり充実してきて面白い。

6月12日(日)下関から博多へ

朝下関駅から小倉行に乗る。小倉で乗り換え博多へ。日曜日だからだろう、電車はかなり混んでいる。コロナ禍ももう終わったかのように感じられる。スペースワールドって、もうないんだっけ?この電車は快速なので駅をいくつも飛ばして、走っていく。博多に近づくと満員の混雑となった。

今回の宿は博多駅から歩いて10分以上かかった。意外と遠い宿を選択してしまったが、むしろ地下鉄などで簡単に行ける方が速いのだろうか。荷物を預けてすぐに中洲川端駅へ向かい、地下鉄で筥崎宮前へ。中洲川端は昨年も泊まったのに、全く方向感覚がなく、全てGoogleに頼り、フラフラ歩く。情けない。

何十回も博多に来ているのに初めて筥崎宮へ行く。ご縁がなかったのは不思議だ。筥崎宮は『はこざきぐう』と読むと思うのだが、地下鉄の駅名はなぜか『はこざきみやまえ』だった。筥崎宮は921年醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜されたとある。山門にはその文字が今もくっきりと見られる。また元寇防塁、蒙古軍船碇石などがあり、必勝祈願の八幡様ということだろうか。

だが今回ここへ来た目的は参拝ではなかった。その目的地は何と少し離れた駐車場にあるというので、行ってみる。途中茶道会館などが見られた。駐車場脇には、最近建てられた第七代台湾総督明石元二郎の顕彰碑があった。その横には李登輝さんのメッセージまで添えられている。明石といえば日露戦争の諜報活動が有名ではあるが、現役台湾総督で唯一亡くなった明石が故郷で認知されたような雰囲気である。

近くに県立図書館があるというので寄ってみる。何気なく星光社の資料を尋ねたのだが、係員の方がとても熱心に探してくれ、かなりの資料が集まった。そしてこの会社の本社が博多にあったのだが、何とその現在の位置を割り出してくれたのには驚いた。しかもその地図を見て、更に驚きが増した。

宿に戻ってまたスポーツ観戦。今回の旅は何だかテレビを見るのが一つのリズムになっている。そして夕方、Sさんが宿まで来てくれた。Sさんとは35年前、上海留学で一緒だったが、彼は大学院生、私は企業派遣生と立場も異なり、それほど親しく話したことはなかった。

だが4年前台湾でBさんを介して再会し、中国文学を専門としている彼の話が面白くて、こちらからまた連絡した。予想に違わず、いきなりタイのメーサローン話で盛り上がり、彼が非常に幅広い華人小説家を追っていることを知った。中国文学というと魯迅や老舎ばかりが目に付くが、現代文学、そして巷の作家たちにまで目を向けているのはすごい。おでんを食べながら、長い時間話を聞いて帰り難い思いだった。

6月13日(月)博多散歩

また朝ご飯を食べ過ぎた。すぐに散歩に出る。宿の近くには櫛田神社があった。博多総鎮守府、祇園山笠で有名な神社。今年は3年ぶりに山笠が行われるようで、昨日も練習の人が見られた。那珂川に架かる西中島橋までやってきた。ここは明治期、博多の中心街だったらしい。赤煉瓦文化館というレトロな建物がある。元は生保の支店だった。その横の菅原道真ゆかりの水鏡神社も古めかしい。

道を渡ると勝立寺という寺が見えた。これが目印。星光社の本社があった場所はこの寺の横であり、そこには現在日本銀行福岡支店がデーンと建っている。思わず中に入り、建物について聞いてみると、現在の位置に支店が移ったのは戦後の昭和25年。更に建物はその後建て替えていることが分かる。同時に戦前の事情については何も分からないらしい。それでも仕事中に対応してくれただけでもありがたい。少なくとも星光社は博多の一等地に事務所を構えていた期待の星だっただろうことが分かった。

小雨が降ってはいたが、涼しいので鴻臚館跡展示館まで歩いて行ってしまった。ここは福岡城跡地であり、まずは福岡城むかし探訪館に入って、その歴史を見る。名城といわれた福岡城、その城を築いた黒田官兵衛・長政父子などについての展示がある。雨は止んでおり、広い敷地を歩いて鴻臚館跡へ。2つとも入場無料で有難い。

中に入ると、発掘当時の遺構や出土品を見ることが出来る。新羅人、唐人との往来における接待所であった鴻臚館の役割などを学ぶ。平安初期までここは筑紫館と呼ばれていたこと、そして1047年の火災による焼失で歴史から消失したことなど、これまであまり考えなかった歴史を知る。この辺りの古代史は資料が乏しく、不明な点も多いが、更に学んでみたい領域だ。

山口歴史旅2022(6)いざ巌流島へ

所々に金子みすゞが見えてくる。公園には金子みすゞ碑が作られ、勤めていた書店跡までプレートが嵌っていた。みすゞの小径などという文字も見える。下関は金子みすゞを観光で売り出している。長門から下関に移り住み、ここで詩の才能を開花させたからだろうか。何と言っても2011年の東日本大震災の時のテレビコマーシャルが非常に印象に残っており、そのお陰でこのようなことになっていると思われる。その先に国分寺と書かれた寺があったが、あの奈良時代の国分寺とは無縁のようだった。

旧英国領事館の建物に入ってみる。1906年に建てられたもので、如何にも英国という感じがした。そしてついに巌流島へ向かう時間が来た。昨日門司港へ行ってしまったので、単純に巌流島往復で900円。小型フェリーで僅か10分、小雨のため乗客は僅か4人。それでも何だか気持ちは高揚する。

意外と大きな島だった。大正時代に埋め立てが行われたらしい。昭和48年に無人島になったというが、現在は観光地として草がきれいに生えている。少し歩くと関門橋をバックに武蔵と小次郎の像が置かれ、撮影スポットになっている。武蔵が渡ったのと同じような小舟が展示されている。残念ながらこの島は一周することができない。対岸に見える三菱重工の工場、そう三菱がここの一部を所有しているらしい。

それにしてもなぜ巌流島というのだろうか。古来負けた方の名前を付ける戦場などあるのだろうか。一体なぜこの島で、何のために決闘が行われたのか。1612年に行われたのは本当なのだろうか。全てが謎に満ちており、吉川英治だけが独り歩きしているように思える。しかし島に渡ってみても何一つ答えてはくれない。1時間後のフェリーで引き揚げるしかなかった。

唐戸商店街を歩く。その先には田中絹代文化館(新しい)や旧宮崎商店があった。そこからフェリー乗り場方面へ戻ると、何やら不思議な建物が見えてきた。洋館風なのに、屋上に純日本家屋の屋根が見える。ここは何だろうと急ぎ訪ねてみると、秋田商会ビルだった。大正期に建てられた洋館で、屋上に素晴らしい庭園と日本家屋が現存している、世界的にも珍しい建物であった。

入っていくと係員の人が一生懸命説明してくれ、好感が持てる。1階の展示で秋田商会のあらましを掴む。秋田寅之助という人が日清戦争後海運業などで財を成し、台湾や朝鮮、満州などに拠点を持って、木材などを中心に貿易を行っていたらしい。このような地方の会社、台湾にも色々と進出していたであろうと想像され、興味が沸く。

2,3階には畳部屋の大広間がある。部屋数もすごく多い。洋館に畳の大広間、このギャップが何となく大正を感じさせる。ここで大宴会が開かれたであろうことは想像に難くない。洋間もごく一部あるようだが、開放されていなかったので、余計に畳の印象が強くなる。屋上は現在開放されておらず、日本庭園を見ることは残念ながらできなかった。

雨は強く降らなかったので、そのまま散歩を続けた。駅の近くに大歳神社があった。ここは源義経が先勝祈願した場所、そして高杉晋作が奇兵隊を結成、旗揚げの軍旗を奉納した場所と説明されているが、階段があまりに急激で、登るのは遠慮した。下関はやはり源平と幕末が交錯する町なのだ。ついでに奇兵隊結成の地、白石正一郎邸跡にも行ってみる。やはり記念碑が建っているだけだったが、白石については司馬遼太郎情報以外にも、もっと知りたい。

さすがに疲れたので一度宿に戻り休む。夜はいかにも町の定食屋という店に入り、鯨汁定食を食べた。焼サバと大量の鯨汁で900円。汁がとてもいい味を出していて、すっかり飲み干し大満足。近所の常連さんが一人のみ、数人のみをしており、コロナのことなど忘れてしまうようなレトロな雰囲気が漂う。

山口歴史旅2022(5)門司港を行く

門司側で地上に上がり、少し歩くと海峡沿いに和布刈(めかり)神社があり、何やら人が集まっていたが、何気なく通り過ぎてしまった。実はこの神社の歴史はかなり古く、1800年ほど前、神功皇后が朝鮮征伐に乗り出し、その勝利により創建されたとある。まさに九州最北端の神社である。往時は相当広い敷地であったと想像される。

それからもらった地図を頼りに、海峡沿いを歩き、下関側を眺め、門司関址の碑がある公園を抜ける。ここから電車も走っているようだが、構わずに歩く。ここに和布刈神社の大きな鳥居があったには驚く。そこから町の中心に向かい、古い建物などを巡った。酒屋さん、NTT、門司税関などが続々と現れて楽しい。大連友好会館はその形が美しい。海峡から吹く風が心地よい。商船三井の立派な建物があったが、三井倶楽部は全面工事中で入れなかった。

商船三井ビルの斜め向かいにこじんまりしたビルが建っている。ここがホームリンガー商会。今も船舶代理業務をやっている現役のビル、現役の会社。先ほど藤原義江記念館で『リンガー商会なら何か資料があるかも』と言われたので、思い切って入って聞いてみた。社員の方も突然の訪問に驚いて『ここは観光地ではないので』と言いながら、色々と探してくれたが、結局資料はなかった。観光地ではないのだが、観光地図に載っているため、時々間違えて入ってくる人がいるようだ。

更に歩いて行くと、大連航路上屋があった。関門海峡ミュージアムの隣だ。戦前ここから大連に向かう定期船が出ていた。門司港出征の碑が港と向かい合っていた。そしてその横には出征軍馬の水飲み場もあった。日露戦争から第2次大戦まで、日本全国から集められた馬たちが、ここで最後の水を飲み、戦地に送られ、2度と帰ってこなかったという。その数は100万頭と書かれている。このような歴史はほぼ語られることがないが、全国に出征馬の碑があるのを思い出す。

下関に帰るには、フェリーか鉄道がという選択肢があった。折角なのでJR門司港駅から電車に乗ってみた。この駅舎もなかなか味がある。下関駅までならSuicaも使える。20分に一本出ているので便利だ。門司駅までは博多方面へ行く電車に乗る。かなり長い車両編成で驚く。門司での乗り換えは少し間があく。そして電車はまた何気なく九州から本州へ渡り、下関駅に着く。3駅、280円。下関駅では駅うどんといなりを食べてみたが、味が薄く感じられた。

駅前から閉まってみる店が多い商店街を通り抜け、高杉晋作終焉の地に行ってみた。今は記念碑があるだけ。高杉は27歳でこの世を去っている。何だか引かれるようにそこから坂道を登り、更に丘をダラダラと登っていき、日和山公園までやってきた。ここに建てられている高杉晋作像は何ともでかい。ここからは下関が一望できる。

疲れ果てて宿に戻り、大浴場にゆっくりと浸かる。そして今日もテレビで日本陸上選手権を見る。更にはサッカーキリンカップ、日本対ガーナも観たが、なんだかなという試合だった。そしてまた夜泣きラーメンで一日を終える。

6月11日(土)巌流島へ

本日は雨の予報。傘をさして昨日と違う道を歩いて行く。光明寺という寺が気になり、石段を登ったが門は閉ざされていた。説明によれば『久坂玄瑞が結成した有志隊が寄宿。1863年玄瑞は身分が様々な約50名からなる同士を光明寺に集め「光明寺党」を結成。彼らは海峡を通過する外国船に最初の砲撃を行い、長州藩の攘夷決行の火蓋を切って落とした。後にこの光明寺党は、高杉晋作の結成する奇兵隊の母体となる』とある。何とも重要ではないか。この道は『晋作通り』と名付けられ、胸像も置かれている。

日銀下関支店は近代的な立派な建物だった。その向こうの山口銀行旧本店のレトロな雰囲気とは対照的。そしてこの日銀西部支店(大阪以西の最初の支店)初代支店長があの高橋是清だった。是清を記念するものが最近作られたと聞いたが、それは現在の明治安田生命ビルにあった。ここが元々の日銀だったということだ。是清の数奇な歴史は、常に興味深い。

山口歴史旅2022(4)下関歴史散歩

そこには洋館が建っていた。旧リンガー邸と書かれていてようやくここへ引っ張られた訳が分かった。リンガーとは幕末から明治に掛けて、長崎で茶貿易をしていたリンガー家であり、確かに下関にも支店(瓜生商会)があった。ここまで来たのだから中を見学しようと思ったが、開館には少し早かったので、庭から少し林に入ってみた。

そこには意外にも墓が2つあった。一つは白石正一郎、もう一つは真木和泉の息子の墓だった。白石は廻船問屋にして明治維新の影の立役者。長州藩を財政的支えた人物で、自らの家財をつぎ込み、維新後は赤間神社の宮司になったと聞いている。真木和泉は勤王の志士、その息子菊四郎も父に従ったが、この地で暗殺され、葬られたという。しかしこんなところになぜ、とは思うが、それはこの林の道が赤間神社に続いているからだろうか。

10時になると藤原義江記念館を管理する赤間神社宮司夫人がやってきた。何とこの地は40年ほど前に神社所有になっていたのだ。ここの所有者だった藤原義江は世界的なオペラ歌手。そして父はリンガー商会下関の総支配人リード。母は日本人芸者で、大阪で生まれ、リードに認知されなかった(藤原という人が戸籍に入れたため日本国籍を取得)ため、義江がここに住んだことはないらしい。

ここは元々リードと従業員の木造住宅であった。後にリードは門司港に別邸も持ったが、今はその邸宅はないという。目の前の建物は1936年、フレデリック・リンガーの息子が建てた。展示を見ながら、色々と話を聞いたが、目に留まったのは晩年義江が出演したテレビドラマ『オランダお稲』(主演:丘みつ子)のシーボルト役。一昨年長崎でお稲、お滝、シーボルトの足跡を訪ね歩いたのが思い出される。

そこから赤間神宮へ向かう。途中に講和条約地である春帆楼が見える。今は立派な建物で、そこに記念碑、更には伊藤博文、陸奥宗光の胸像があった。赤間神宮は壇ノ浦で沈んだ安徳天皇が祭神だが、その阿弥陀寺陵は閉ざされていた。独特な形の水天門を潜ると、記念撮影をするタイ人団体に遭遇。脇には平家一門の墓があり、知盛や時子の名が見られた。

先に進むと壊れた船がある。これが源平合戦時代に使われたサイズの船だという。こんな小さな船だったのか。その先にはなぜか大連神社がある。この神社は日露戦争後大連に建てられ、第2次大戦後、ご神体をソ連軍に保護されて帰国したとある。この歴史はもう少し調べてみたい領域ではある。しかし気になることを全て調べていては、茶の歴史調査は前に進まないことは経験上良く分かっている。

更に歩くと関門海峡大橋が見えてくる。バス停や漁協に壇ノ浦の文字が見える。橋の下を越えると、『壇ノ浦古戦場址』の記念碑が見られ、安徳天皇御入水之処などの石碑、そして平知盛と義経の像などがあるが、全て新しく、800年の時の流れとは無関係に見える。ただこの地に立つと、確かに狭い海峡、潮の流れが速そうだとは思う。『馬関開港百年記念』の碑の方が古びている。

ここで止まればよかったのだが、昨日の観光案内所の人が『前田台場跡』と繰り返していたので、そこまで歩いてみた。これが意外と遠い。途中に『平家の一杯水』と書かれた看板を見る。合戦に敗れた平家方武将が、最後の水を求めたと伝わる場所。これは門司側にもあったので、いくつも伝承があるに違いない。

前田台場跡は少し小高い場所にあった。160年前はこの前は海だったに違いないが、今は道路が通り、その向こうに建物もある。前田台場は幕末の攘夷戦で長州藩が建造した砲台だった。無謀にも四国連合軍に戦いを挑み、砲台は占拠されてしまう。ここから長州は開国に舵を切り、明治維新に繋がると思えば、極めて歴史的な史跡ではあるが、今やその名を知る人もほぼいない。勿論見学しているのも私一人であり、案内所の歴史好きの人が私を見込んで紹介してくれたことに複雑な思いであった。

関門海峡大橋まで戻ると、そこに関門トンネル人道入口を発見した。エレベーターで地下に降りると、そこには地下道があり、歩いて門司側に渡れる。しかも無料だというので、何となく歩いてしまった。歩いている人は結構いる。観光名所なのだろうか。途中に山口福岡県境の表示もあり、思わず写真を撮る。約3㎞ぐらいだったろうか。楽しかったのですぐ着いてしまった。本州から九州への横断はいとも簡単に達成された。

山口歴史旅2022(3)山口から下関へ

県立図書館で資料を調べ、最後に亀山公園に登る。暑い中、結構坂がきつい小山で堪える。明治期に銅像公園として毛利家の歴代当主の像が建っていたらしいが、今は敬親の像だけが真ん中にぽつんと建っている。この付近は大内を継いだ大友宗麟の弟が毛利元就と戦った場所でもあるらしい。

そしてその下には昨日も見たザビエル教会がある。丘から降りていくと大内義長の裁許状の碑があった。義長は大友宗麟の弟で、大内義隆の死後、大内家を継いだ人物。九州でザビエルにも会っており、ザビエルの後継者であるトルレス神父に布教を認めたのだろう。この辺の流れから、天正少年遣欧使節団派遣までは興味ある所だ。横には国木田独歩の詩碑もある。独歩は山口中学に通っていたらしい。

それから教会内に入ってみた。入場料が必要だったが、係員はいない(帰りに入場料を払うと、ちょっと意外な顔をされた?)。時間がないので仕方なく先に見学を始める。2階にはザビエル像、そして礼拝堂がある。1階はザビエルの生涯、日本での布教の様子などがかなり細かく展示されており、参考になる。15年以上前、ザビエルが死んだ島、広東省の上川島(展示ではサンチャン島)へ行った時のことが思い出される。確かあそこに山口ザビエル教会の記念碑があったように記憶している。

さすがに歩いて宿へ帰る気分ではなかったので、何とかバスを探して戻る。日本のバスは遅れても数分なので、バス停などを間違えなければ暑くても安心して待てるのが良い。JRバスだったのでSuicaで乗れるのも有難い。昨日歩いた道をどんどん追い抜いていく。こうなると少し元気が出て来たので、宿を乗り越して次のバス停で降りる。

最後に向かったのは周布政之助の墓。公園内に大きな石碑が建っていた。周布は幕末長州藩の重臣で、高杉、井上らを庇護、藩政に尽くしたが、最後は謹慎、自刃。公園横の墓地にある周布の墓石には、麻田公輔という名前が刻まれている。これは謹慎後も周布が別名で藩政に従事したからだと書かれている。そして42歳でその生涯を終えた。彼のような幾多の人物の上に明治はやってきたのだ。因みにこの辺りには周布が謹慎した吉富家があったという。

時間調整のため、中原中也記念館をさっと見る。それほど期待はしていなかったが、やはり彼の詩には趣があり、引き込まれる何かがある。また幼少期、広島や金沢に住んでいた頃の展示もあり、興味を惹かれた。それから荷物を引き取り、駅へ向かう。新山口駅行に乗り、昨日と逆向きに走る。この時間帯は高校生の下校時。3分ほど遅れて新山口に着いたが、何と下関行列車はちゃんと待っていてくれたので、慌てて乗り込む。それから1時間ちょっとで下関まで来た。

駅の観光案内所に寄る。歴史的な場所を知りたいというと年配の男性が登場して、これでもかというほど資料をくれて、説明もしてくれた。こんなに本格的な歴史スポットの紹介及び資料提供を受けたのは初めてかもしれない。そして下関への期待が非常に高まる。取り敢えず予約した宿まで歩いて行き、荷物を置く。

今日は陸上日本選手権をテレビで見るため、準備に走る。近所のセブンイレブンでドリンクと夕飯を調達する(近くのラーメン屋などは軒並み閉まっている)。後はテレビを見て、大浴場に浸かり、ゆっくりと疲れを癒す。

6月10日(金)下関散歩

朝飯を食べ過ぎてしまい、腹が苦しい。すぐに歩いて唐戸桟橋へ向かった。取り敢えず巌流島行フェリー情報を聞きに行く。平日は巌流島‐門司港‐唐戸ルートの船は無いと知り、予定を変更して下関を歩き始めた。ここは1895年の下関講和条約の締結地。この条約により、台湾が日本領になったのだから、台湾茶業史上も重要な街と言える。全権大使李鴻章の宿泊先である引接寺の階段が何となく印象的。寺自体は新しい。

更に行くと李鴻章道という道があった。李鴻章は下関滞在中に暴漢に襲われているが、それはこのあたりだろうか。李鴻章道と並んで藤原義江記念館という表示も出ていた。特に興味もなかったが、なぜかそちらに引っ張られるように進んでしまう。そこは非常にきつい階段があったにもかかわらず、最後まで登り切る。

山口歴史旅2022(2)山口散策

いよいよ市内中心部に到着。約3㎞歩いた。藩庁門跡の向こうには大きな県庁が聳え立っている。どこの県庁も立派過ぎるとは思うのだが、ここは一段をその感を強める。その横の県政会館も素晴らしい。これぞ山口、長州藩といった雰囲気が漂う。県政会館は自由に見学でき、歴代県長の2代目に関口隆吉(明治初期、静岡牧之原開拓に尽力)の名を発見。山口の特産物コーナーには小野茶があった。

その裏を歩いて行くと洞春寺があった。山門に『菩提樹開花中』と書かれており、花が咲いていた。初めて見たかもしれない。奥の方の墓地へ行くと、井上薫、武子分霊の墓などがある。井上聞太も湯田温泉の出身だった。隣の香山公園には毛利家歴代の墓があり、国宝瑠璃光寺の五重塔がいい雰囲気で午後の光の中に建っている。人が少なくてとても気持ちの良い夕暮れを迎える。

公園内には枕流亭(幕末薩長連合推進のため薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛らとの会見場)や露山堂(敬親の茶室で討幕密議の場)など、幕末関連の建物が移築されており、一部展示などでその様子が分かる。釜揚げ蕎麦という珍しい店があったが、何と5時閉店で食えず。トボトボと歩いて宿の方へ向かう。

途中に高い塔が見えたので寄っていくとザビエル教会があった。フランシスコザビエルは1550年に山口経由で京に上り、翌年戦乱の京から山口に戻り、布教を開始。この教会は真新しく、往時をしのぶものはないが、ザビエル像が建っている。もう日暮れが近いので教会には入れずに去る。

帰り道、瓦蕎麦を謳った居酒屋があり入ってみる。『酒は飲まない、瓦蕎麦が食べたいだけ』と言ったのに、何の説明もなく、お通し代500円を請求され、驚いてしまい、そばの味はよく覚えていない。やはり居酒屋は怖いから行かないことにしよう。

まだ陽があったので、宿の裏の井上公園にも寄る。高校生が野球するほど広かった。幕末の七卿落ち石碑や井上像がある。ここが先ほどの井上薫の生誕地で家も復元されていた。ここにも中原中也の石碑が見られる。更になぜか山口にも外郎屋さんがあったので、入ってみる。山口にも外郎渡来説があるらしい。夕方で普通の外郎は売り切れており、ラムレーズン外郎を買って帰る。宿は近代的な建物だが、大浴場は2か所あり、さすがに温泉宿だ。屋上の露天風呂でゆったりする。実に広々としていてよい。 

6月9日(木)山口散策

朝入る露天風呂はやはり極楽。地下一階にも大浴場があると聞いてはいたが、やはり明るい日差しの中で入りたい。朝飯はビュッフェだが、かまぼこ、はんぺん、肉じゃがなどが並んでおり、お粥と食べるととても健康的な気分になる。

朝から日差しは厳しかったが、歩いて井上薫遭難の碑を探す。井上は幕末、藩の政策を巡って対立した藩士に襲われ、瀕死の重傷を負っている。その石碑は大きい。井上を救った医師、所郁太郎の像は昨日井上公園にあった。地元のヒーローを救ったヒーローといった感じ。ずっと歩いていくと商店街アーケードへでた。朝方のせいか、とても静か。この付近は江戸時代には人の往来が多く、幕末の志士たちも駆け回っていたらしい。

アーケードを突き抜け、少し北へ向かうと十朋亭維新館という建物が見えた。元々大店の醤油屋さんらしいが、どうもきれい過ぎて歴史感覚がなく、入る気が起こらなかった。むしろその先の龍福禅寺に興味を持ち、入っていく。なぜかこの寺の入り口付近に、西田幾多郎の旧宅があった。西田は山口高校の教員で、教え子に鮎川義介がいたと書かれている。ここで『禅の研究』をしたのだろうか。

この寺は大内氏の菩提寺で境内には資料館もあった。陶晴賢の反乱により大内義隆は死に、事実上大内氏は滅亡した。荒廃したこの寺を再建したのは毛利家だったと書かれており、大内義隆の供養塔もあった。そしてこの地は大内館跡でもある。ボランティアの男性が懸命に除草剤を撒いている姿がなぜか印象に残る。

そこからまた歩いてザビエル記念公園に向かった。この地は1551年大内義隆から布教の許可を得たザビエルが住んだ大道寺跡らしい。明治になってビリヨンという神父がこの地を発見し、ザビエル碑が建てられると共に、ビリヨン胸像も建っている。その横は今、自衛隊駐屯地になっている。

どんどん歩いて行くと、歴史ある八幡宮や神社が出て来る。その先には菜香亭という建物が青空の雲の中に見える。この付近は幕末の混乱時に藩主であった毛利敬親の隠居所だったらしい。そして明治維新もここで論議されたとか。更に行くと雪舟のアトリエ?があった雲谷庵が復元されている。誰もいない室内、外に猫が一匹眠っている。雪舟も色々と興味深いが今日はやめておこう。

山口歴史旅2022(1)湯田温泉まで

《山口歴史旅2022》  2022年6月8₋11日

4月は茶旅したが、5月は東北へ茶旅ではない歴史旅をした。そろそろ海外へ出ても良いのではないか、との声が大きくなり始め、8月には東南アジアへ出掛けようかと考えている。その前にやっておくべき茶旅、それは九州紅茶の歴史を完成させることかもしれない。今回福岡に入るのに、まずは山口を訪れ、その歴史旅を楽しむことにした。

6月8日(水)山口まで

東京は早くも梅雨に入っていた。昨日は嵐のような雨が降っていたが、今朝は曇り、そして涼しい。京急は事故で少し遅れたが、随分早くに家を出たので、何の心配もなかった。羽田空港のフライトは実に半年ぶり。徐々に人が増えている印象で、乗客は6₋7割は埋まっていたかな。

山口宇部空港に定刻に到着。乗客はバスやタクシーに乗って皆去ってしまったが、私は一人、空港内をうろうろした。この空港、海辺にあって実に景色が良い。快晴の空、雲の形が良い。空港からテクテク歩き出す。何と空港を出た、道路の向こうに草江というJRのローカル線の駅がある。

空港から歩いて出て行くのは、タイのメーホーソン以来だろうか。空港と町が近いというのは何となく面白い。だがフライトと電車に何らの接続もなく、1時間以上来ない。駅舎は小さく、勿論無人。周囲を見回しても住宅があるだけなので、ここは諦めてただひたすら空を眺めて過ごす。向こうの方に空港の建物が見える。

単線の電車は定刻にのどかにやってきた。乗車は1両目の後ろから。そこで整理券を取って乗り込む。この整理券が実質的な乗車券なので重要だ。乗客は思ったよりは乗っている。取り敢えず前の方に陣取る。30分後新山口での乗り換え時間は僅か3分しかない。車掌さんに精算の仕方を聞いたが『とにかく降りる駅まで整理券を持って乗って行ってください』と一言だった。

草江から新山口へ。定刻に到着したが、何と乗り換え電車のホームは端と端でかなり遠く焦る。ダッシュして何とか山口行電車に滑り込む。何で1時間に一本もない電車の乗り換え時間がたった3分なんだ、と思わず毒づく。よく見るとGoogleでは乗り換え間に合わないとなっていた。切符をやはり買う暇はなく、整理券を持って湯田温泉まで走る。駅で駅員に引き渡され?駅員が自販機で切符を買ってくれ??無事に到着した。このローカル感はすごい。

この駅、駅前に大きな白狐のモニュメントがある。歩いて数分行くと温泉街へ。鄙びた旅館ではなく、立派な建物が多い。井上公園の向こうの宿に滑り込む。午後2時台でもチェックインOKで有難い。すぐに外へ出て、観光案内所で地図を貰った。『自転車で回るとよい』とアドバイスがあったが、現在体の関係で自転車を止められているので『自転車は乗れない』というと、係のおばさんにバカにしたように笑われた。無意識の差別とはこのような場面から来るのかもしれない。人にはそれぞれ事情があるのだ。

私は山口市に泊まりたかったので、当然山口駅近辺の普通の宿を探したのだが、出て来るのは湯田温泉ばかり。仕方なくここに宿を取ったのだが、それは正解だったようだ。歴史的な物がかなりこの周辺に集まっている。まずは立派な松田旅館。ここは薩長同盟の会談場所だと観光案内所で聞いた。宿の前にはその表示はないが、門構えは非常に由緒を感じる。旅館の裏は長州藩関連の建物の跡や坂本龍馬像など盛りだくさんだった。

またここには山頭火もしばらく逗留したらしく、句碑などもいくつか残っている。また詩人中原中也の生誕地もここであり、記念館が建っているほか、各所に句碑が建っている。中原は大学の大先輩ということで以前より注目していた(勿論その詩と生き方も)が、地元では予想以上の持ち上げようだった。

そこからかなり歩いて木戸神社へ向かった。山口市中心部に近づくが、周囲には何もなく驚く。木戸神社はその名から分かる通り、木戸孝允を祭っているが、説明書きに寄れば、この付近の土地を木戸が分け与えたことに対する地元民の感謝の神社らしい。維新の三傑などとも呼ばれるが、桂小五郎の幕末はとても興味深い。境内の石碑は三条実美が書いたようだ。

少し行くと普門寺という小さな寺があった。ここには大村益次郎が山口で宿泊した観音堂が残されていた。村田蔵六は医者だったが、幕末長州の軍事を作り上げ、維新に大いに貢献した。何となくその昔の大河ドラマ『花神』を思い出す。その先には山口市歴史民俗資料館があり、『獅子頭』の特別展示があるというので入ってみた。獅子頭という文字を見ると今や食べ物(上海料理)を思い出してしまうとは、どうしようもない。

みちのく一人旅2022(7)盛岡の偉人たち

まずは腹が減ったので、盛岡駅でアナゴ天そばを食べたが、あまり美味しくはなかった。なぜだろうか。荷物を引いて駅前の道を渡ろうとしたが、横断歩道は一つもなく、地下道を通らないと渡れない。何という不便さだろう。その後町の方に向かった時も、この不便さは付きまとい、街歩きを楽しむのに大いに困る。時々車社会の地方都市にみられる現象だろうか。

宿はとてもきれいで愛想も良い。観光用地図を貰ったが、岩手全域の観光用であり、慌てて駅の観光案内所へ駆け込んだところ、親切に歴史的な場所を教えてくれ、地図をくれた。何とも有難い。しかも駅前には新渡戸稲造の胸像が置かれており、製作者は何と台湾の許文龍と書かれていて驚いた。あの日本統治時代に台湾に貢献した日本人を顕彰るため作られた像の1つだった。

地図を持って街を歩く。夕顔瀬橋から見る岩手山は雄大できれいだった。そこから旧盛岡農林学校へ向かう。今の岩手大学だ。ここは宮沢賢治ゆかりの地で、ミュージアムもあったが既に薄暗い時間となっており、残念ながら閉まっている。次に金田一京介生誕の地に行ってみると、そこには薬局があり、漢方薬を扱っているらしい。この横に旧藩校作人館があった。

帰りに啄木新婚の家の前を通りかかったが、実に太い木があった。尚啄木の実家は盛岡ではなく、先ほど電車で通った渋民という地だった。賢治も花巻出身。それでも盛岡は啄木と賢治で溢れている。何だか腹が減り、駅の中にあったお店でハンバーグを食べた。久しぶりに食べると、ハンバーグとは美味いものだと感じる。

5月23日(月)盛岡散歩

今日は旅の最終日。午後東京へ戻るので、それまで盛岡の町を歩いてみる。商店街のアーケードを抜けて行くと、盛岡城跡に出る。その先に岩手銀行旧本店の洋風建築が見えた。近くには啄木賢治青春館という不思議な建物があり、中で彼らの足跡を細かく知ることができる。

盛岡城跡は公園になっており、水と自然が美しい。啄木歌碑、新渡戸稲造、宮沢賢治碑も建てられている。近くには賢治の下宿先などもあった。そこから目指すは新渡戸稲造生誕地。思いがけず立派な場所に、立派な像が置かれている。私は台湾と新渡戸の関連について興味があるが、日本ではお札になって少し認知度は上がったものの、依然それほど知られていない。が、さすがに地元では、色々なところに名前が出てきて嬉しい。

南昌荘というお屋敷を外から見学し、米内光政、原敬の墓所へ行ってみる。一昨年菅義偉が総理となり、久々の東北出身と言われたが、それまでの4人は全て岩手出身、原敬(第19代)、斎藤実(第30代)、米内光政(第37代)、鈴木善幸(第70代)というのが面白い。何だか昨今の野球(メジャーリーグも)を彷彿とさせる。その米内と原の墓所、墓自体にはそれほど派手さはないのだが、観光地並みの、思いのほか大きな看板が珍しい。

歩いていると腹も減ったので、ランチをやっている和食店にふらっと入るとお客で満員だった。ランチはカレーしか残っていないと言われ、牛すじカレーを食す。これがなかなかいいお味だったが、一緒に和菓子が出てきたのにはちょっと驚く。

盛岡八幡宮の境内に行くと、何と明治天皇の立像があった。これは意外と珍しいのではと思ったが、調べてみると全国にいくつもあるようだ。境内の別の場所には米内の立像もあるが、こちらの方が立派かもしれない。近くには米内の居住地跡もある。天満宮に行くと大工事中だったが、啄木望郷の碑は避けられて行くことができた。浅田次郎の『壬生義士伝』の主人公も盛岡の人だったと知る。

最後に金田一京助の墓に詣でて、駅に向かった。盛岡は思ったより歴史的であり、様々な人が登場して面白かった。芸がないと思いつつ、新幹線で大宮へ向かった。ただ折角なので25年前を思い出して、はやぶさではなく、各停のやまびこで各駅を眺めながら帰った。