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バンコク滞在記2022 その1(3)スマホ

午後日差しが出ていたので初めてプールに入る。白人女性が一人大胆に寝転んでいるだけ。私は恐る恐るプールに浸かり、恐る恐る泳いでみた。水は暖かく快適。一往復だけで上がり、少し本を読んでから戻る。これからは体力、いや筋力を回復させないと、ちょっとした動作で体が痛くなるのを防ぎたい。

3時過ぎにYさんと出掛ける。最近雲助タクシーが復活しているといい、道路まで出てタクシーを拾う。道路もバイタクならスイスイだが車だと結構混んでいる。プロンポーンまで行き、4年前にスマホを買った店へ行く。店舗に変化はなかったが、スマホの値段は高くなり、また円換算すると日本の方が安いように思われた。更に何と型落ちIPhoneを買おうとしたら、『シムカードはAIS以外使えません』とのまさかのご託宣。慌てて逃げだす。

向かいのAppleストアーでほぼ同じ値段、縛りなしスマホを購入し、データ移行までしてもらった。待っている間、近所のアマゾンカフェに行く。ここは安いチェーン店、客はあまりいない。何だか田舎のサービスエリア以来か。スマホを受け取り、今度は向かいのビルで、アクセサリーを買う。新しいスマホにはイヤホンも充電器のソケットも付いていなかった。

Yさんと別れて銀行へ。通帳記帳などを行う。定期預金金利は2年前から1%下がり、利息も期待できない。これもコロナ経済の現象か。腹が減ったのでエンポリを偵察。上の階のフードコートは一応健在だったが、お客が少ない。まあゆっくりカオマンガイを食べてから帰る。

新しいスマホ、何とLINEも微信も本人認証が必要で、日本の電話に繋ぐ必要があり、困る。部屋はおろか、ロビーすらWifiが繋がらないこの宿ではどうしようもないのだろうか。取り敢えず明日を待って眠れぬ夜を過ごす?

8月11日(木)ご近所で

朝腹が減ったのでコムヤーンの美味い店に行ってみる。この間覗いた時はやっていなかったので心配したが、今日はちゃんと煙が上がっており、何とも喜ばしい。おばさんも私を見つけると、嬉しそうな笑顔となった。言葉はほぼ通じていないが、10年は通っているだけあって、こういう対応は何とも喜ばしい。そしてコムヤーンは今日も脂身が旨かった。代金は10b上がって50b。カオニャオは5bで据え置き。至福の朝が蘇る。

お昼にYさんに付き合ってもらい、近所のロータスへ。AISのシムカードを購入する。2年前も使っていた『1か月無制限 200b』がまだ売っているのかタイ語で聞いてもらったが、販売員の説明がイマイチ曖昧。それでも無事シムカード代50bを入れて200bで新しいスマホにシムが入った。これで万全だったが、やはり微信、Lineなどは新しいスマホでは使えず、困る。

昼ご飯を食べようとロータス内の八番らーめんに行く。ここは今やタイの国民食の一角を占める日本のラーメン店。石川発祥だというが、既に30年以上タイで営業しており、今やどこのロータス、BigCにも入っている。昼時は席を探すのが大変だ。ラーメン餃子セット180b、コーラ付きは高いのか安いのか。ラーメンは特に特徴はないが優しい醤油味。

午後はプールに入り体を動かす。昨年来の肩痛で運動は難しかったが、ここで徐々に慣らしていきたいと思っている。これは今回のバンコク滞在の目的の一つだが、今日は殆ど泳げなかった。その内雲行きが怪しくなり、引き揚げる。部屋に戻ると雷と共にかなり激しいスコールに見舞われる。如何にも南国に来た、という感じがする。

雨がようやく止んだので、夕方買い物に出る。いつも行くパン屋は平常通りやっており、思うものが買えた。近所の高級スーパーも視察?して、何が売っているのか、いや何を売らなくなったのかを確認する。ついでに稲荷壽司95bを買って帰る。まあこれが高いのか安いのか、最近はどうしても円安の影響で考えてしまう。

バンコク滞在記2022 その1(2)日常を取り戻す

8月9日(火)日常を取り戻す

朝Yさんといつものコーヒータイム。懐かしい。宿内のカフェも新しくなっている。2年半前、自分が何を飲んでいたのかが思い出せず。いつの間にかアメリカンがやってくる。2年半の空白を埋めるのは容易ではない。宿のオーナー夫妻に挨拶すると、帰ってきたことをとても喜んでくれた。

とにかく家賃を払うため、銀行へ向かった。プロンポンまでバイタクで行くと速いが、コロナの影響で宿の前にバイクはない。仕方なく通りまで出て探す。バイタクに乗るのも2年半ぶり。大してスピードが出ていなくても、ちょっと怖い。また乗る時に筋力が衰えており、筋肉痛を引き起こす。40バーツを渡すと黙って受け取ったので、昔と料金は変わっていない様子だ。物価高騰の折、バイタク業はかなり厳しい。

プロンポンでまずは銀行へ行き、凍結された口座を解除しようとしたが、何と口座は特に凍結などされていなかった。私のボケの事情で勝手な思い込みがあっただけで、銀行スタッフに諭されると、魔法のようにATMからお金が出てきたので、びっくりした。日本の老人で口座からお金が出ないと言ってきたのは、私だけではないようだ。これもコロナボケ?

ランチは昔時々いったキッチン(洋食屋)に入ってみた。11時半過ぎ、お客はほぼタイ人しかいない。メニューはほぼ変わりなく、ただ料金は定食が200‐220bから250‐270bと20%程度上がっていた。これに円安を加えて円換算すると、1000円ランチとなり、日本人には手が出しにくい価格となったのだろうか。それともお盆休みでいないだけなのだろうか。後で聞くとこの店、日本人が撤退(店舗地変更)して、タイ人が買い取り、そのまま営業しているらしい。そんな店も増えていると聞く。

それから道の反対側へ渡り、ユニクロへ。今回肩痛などのため、荷物をできるだけ減らしたため、Tシャツ、パンツ、水着、靴下などは現地調達することにしていた。ユニクロは日本より高いが、何しろスタッフはほぼ英語が通じるので何かと便利。Tシャツのサイズなども図ってくれた。だがなぜかXLサイズで買ったTシャツが小さい。どうも女性用を買ってしまったのかもしれない??紀伊国屋も健在でよかった。

富士スーパーへ行ってみようと思ったが、意外と人が歩いているので、途中のパン屋に入り(実はこのパン屋が激込みで)、パンを買ってそのままソイを出た。パンの値段も1₋2割上がっているように思う。そこからアソークまで散歩してみるが、昔あった店は大体あるようだった。もっと激変しているかと思ったので、ちょっと拍子抜け。ただ中身はかなり変わっているとの指摘あり。

アソークでMRTに潜り込む。2年半前に使っていたカードではやはり入れず。しかし100bトップアップしてアクティベートできたのでよかった。昼間なのでMRTは空いており、一駅で降りてバイタクで宿へ帰る。宿で1か月分の家賃を納めて一安心。

その後フルーツが食べたくなり、外へ出て屋台を探したがいなかった。仕方なく市場近くまで歩くと八百屋があり、20bのパイナップルが目に入る。カットを頼むと申し訳なさそうに5bプラスと言われた。ところがそのカットが実に入念で10分もかけてやってくれたので、これで5bかとこちらが恐縮してしまった。そして屋台より多くのパインも手に入り大満足だが、人件費、加工賃とは何かを考えさせられる。

8月10日(水)Iphone騒動

朝YさんのYouTubeを見る。同じ建物内で話しているのだが、画面を通してみると当たり前だが東京で見るのと変わりはない。バンコクの屋台が無くなっていくとの話、シンガポールのホーカーセンターにするらしい。確かに衛生面には問題があるが、屋台はバンコックの良い所。しかし国の発展過程では致し方ないことだろうか。

コムヤーンを食べたいと思い、いつもの店へ行ってみたが、店は開いていても煙は上がっていない。これも屋台廃止関連だろうか?一説に豚肉高騰があり、商売が厳しいのでは、との話もあり。10時に掃除の人が来たので、外へ出る。昔から三姉妹?でやっている麺屋が開いており、久しぶりの鶏肉麺。おばさんがコーラも飲むか、と言ってきたので合わせて60b。麺は少し値上がりか?

バンコク滞在記2022 その1(1)2年半ぶりの海外旅

《バンコク滞在記2022(1)》  2022年8月8₋15日

2020年3月、コロナによるロックダウンの2日前、私はバンコクを脱出して東京へ帰った。それから2年と5か月、ついにまた海外へ。しかも場所はバンコク。中国や台湾、香港は全く開かず、東南アジアは突如?フルオープンになったと聞き、まずはバンコクを目指すことにした。しかし2年以上海外へ出ていないと、忘れてしまったことも多い。とにかくパスポートとフライト予約、お金を忘れず出発する。

8月8日(月)バンコクまで

何だかとても緊張する。初めて海外旅に行く気分で、朝も早く起きる。お盆休みに入りかけているのか、電車はそれほど混んでおらず、羽田まで大きな荷物を持って移動した。タイ航空のカウンターは2時間半前に開くのだが、それより早く到着。ただ既に数十人が並んでいる。気合が入っているな?タイ人が多いのは、やはり迄日本人の海外旅行は本格化していないからか。

チェックインで荷物を計ると、わずか18㎏しかなかった。これまで30㎏は持って出ていたので、自分でも意外だ。これも昨年の肩肘痛後、重い荷物を避けてきた結果だ。これからは心も荷物も軽くして旅を続けたい。カウンターではさすがにワクチン接種証明の提示を求められた。このためにだけに接種したのだから、思いっきり提示する。出国も従来通りに自動ゲートだったが、取り敢えずスタンプはもらっておいた。

ラウンジも特に変化はない。いやむしろ乗客で混雑していて驚いた。アメリカやヨーロッパへ行く客がトランジットとして利用しているようだ。また欠航便の表示も多い。やはりまだ安定した飛行とはなっていないように見える。朝ドラを見ようとNHK+にアクセスしたら、何と圏外の表示が出た。確かに出国したがまだここは羽田だ。受信料もちゃんと払っている人に見せないとは怒りと共に、違法性すら感じた。こんな取り締まりに費用を掛けるなら、他にやることがあるだろうと言いたい。

機内はそれほど混んではいなかったが、思ったよりは乗客がいた。日本人客が少ないためか、コロナ以前は乗っていた日本人CAの姿はない。あまりに久しぶりの機内食に新鮮さが溢れ、喜んで食べている自分に驚く。映画を見ながら寝こけていたら、もう着陸だった。5時間半は長いようで短い。

バンコクで

空港に降り立つと緊張感が一気に高まる。果たして無事に入国できるのか。イミグレまでやってくると、何と長蛇の列。顔ぶれはなぜかインド系が目立ち、白人もそれなりにいる。いないのは中国系だろうか。バンコクは既にポストコロナ時代に入っていた。とにかく列はなかなか進まない。やはり色々とトラブルがあるのだろうか。2年以上も海外に出ていない人が多ければ、やはりいつもより時間はかかる。

ようやく順番が回ってきた。握りしめていたワクチン接種証明は全く不要だった。そして何事もなかったかのように、スタンプが押され、ハレて入国した。素直に嬉しい。荷物は既にターンテーブルを何周も回っていた。荷物検査はなく、するっと外へ出た。まずはシムを買おうとブースに行ったが、従来の3日間用はなく、16日間、15GB、299bが一番安かったのでそれを買ってスマホを起動させる。

エアポートリンクも動いているようだったが、荷物もあるのでタクシーに乗る。ここは混んでいなかった。運転手も客が来てよかったという雰囲気だ。高速道路を走っていたが、どこを走っているのか分からず、これまで見たこともない街に来ている感覚に襲われた。なぜだろうか。タクシー代は高速代を入れると400bを超えたから、いつもと違う道だったのだろう。まあ無事に着いてよかった。

定宿というのは有難い。フロントに知った顔があり、『おー、ついに戻ってきたか』と喜ばしそうだ。部屋も前回と同じで、まるで2年半前の続きをしているようだ。宿を一回りしてみると、洗濯屋が無くなり、コインランドリーになっている。やはりコロナの2年には、色々なことがあったのだろう。

取り敢えず腹が減り、外へ出た。周囲も思ったほど変化はないようだ。なぜかパッタイが食べたくなり、その店へ行くとちゃんと開いている。料金は10bほど値上がりか。お客がどれだけ来ているのか心配だが、コロナを耐え抜いていた。カキオムレツまで食べてしまった。お決まりのコーラも飲む。バンコクに来た、という気分になり何となく楽しい。

それからロータスで買い物。いつの間にかテスコが撤退して、名前はロータスだけになっている。ここでお菓子やドリンク、そして食器などを買い込み、これからの3か月の生活に備える。取り敢えず前回持ち帰ったタイバーツがあったので、今日のところは無事に過ごせた。

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第二十四篇 印尼 华人大茶商 郭春秧

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第二十四篇 印尼 华人大茶商 郭春秧

    尽管调查印尼的茶叶历史颇有难度,但线索到底还是来自于华人,上期也略有提到,特别是二战前,台湾茶的进口尤其引人注目。本期我想向大家介绍一下作为印尼华人取得成功,之后从事台湾茶贸易的郭春秧。

    郭春秧1860年出生于福建泉州同安。早年丧父,生活贫困,18岁时移居叔父郭河东所在的荷属东印度(今印度尼西亚)爪哇,经过数年拼搏,在制糖业取得成功,之后被誉为爪哇四大糖王。

    1887年,他看到了台湾茶特别是包种茶的商机,便开始在日治前的台湾从事茶叶贸易。当时,他在台北开设了锦茂茶行。同时,在爪哇和斯里兰卡成立了郭河东有限公司(锦祥),还在爪哇开办了数家分店,又在上海、汉口、天津和厦门等中国主要茶叶出口地开设分店,开启了大规模的茶叶贸易。

    日治时代开始不久的1898年,台湾成立了自发组织“台北茶商公会”,郭春秧就任第一代会长,但据说这是总督府劝说的结果。总督府的目的是渐渐排除此前的华人茶商(主要是一些从事包种茶生意,不会为日本带来利益的商人),掌控茶界主导权。

    郭春秧从很早之前就和总督府建立了人脉关系,就任会长对双方都很有利。他还主动加入了台湾籍(除此之外,还拥有荷兰国籍和英国国籍),和华人茶商合作,拓展了势力范围。此外,之所以能够和总督府以及日本政经界建立良好关系,也离不开当时发挥其秘书作用的堤林数卫的巨大功劳。出生于日本山形县的堤林1896年应征总督府监狱看守,由此来到台湾,获得学习语言的机会,并受到郭春秧的关注。堤林评价郭春秧称:“他是一个拥有罕见人格魅力的杰出人物。”堤林后来也去了爪哇,但似乎在事业上并没有取得成功。

    1900年,郭春秧卸任会长,将职位让给了吴文秀。当时,锦茂茶行申请注册了六种包种茶的商标,这令其他茶商很是震惊。而此时郭春秧本人并未在台湾,所以想必一切事务都由堤林全权处理。由此,其他茶商认识到了商标的重要性,也竞相注册。

    彼时,郭春秧因从事面向南洋的包种茶贸易,从而以压倒性的贸易量自夸。甚至有说法称,鼎盛时期,从台湾出口的包种茶有三分之一都来自锦茂茶行,且最大的出口对象国是印尼。当初,包种茶被定位于专供华人饮用的茶叶,后渐渐走入印尼百姓的生活,成为不可或缺的饮料。郭春秧对于包种茶在印尼的普及可谓立下赫赫功劳。

    然而,1918年第一次世界大战后的经济萧条,导致印尼发布了进口外国茶的禁令,这让台湾茶商陷入困境。郭春秧不愧是印尼华人,和台湾茶商公会的吴文秀理事一起,以三宝垄茶商公会会长的名义充分发挥影响力,和当地政府交涉,解决了问题。

    19世纪下半叶,印尼在进口包种茶的同时,在荷兰的主导下,引进了印度阿萨姆茶种,红茶生产如火如荼。然而,1929年爆发的全球金融危机导致世界经济萧条,茶叶需求骤降。1933年,印尼和印度、斯里兰卡等国签署了红茶出口协议,爪哇茶的出口持续低迷。与此同时,1932年,印尼提出了本国茶叶保护政策,进口茶被征收高关税,然而台湾茶却在茶商公会和总督府的携手助力下摆脱了危机。

    此前不久,我从郭春秧的子孙那里听说,厦门鼓浪屿还保留着郭春秧的别墅,便前去探访。如今,该别墅已成为宾馆,只有入住的旅客才能进入其中。无奈之下,我只能从外侧眺望这座庄严的建筑。建筑内设有庭院,有客人正坐在里面优雅地品茶。除此以外,还有一条可能是取自春秧茶庄名称的狭窄街道——锦祥路,但我还是没有找到和茶相关的蛛丝马迹。

    1920年,郭春秧的事业迎来转折期,开始投入精力开拓台湾以外的市场,比如着手开发香港北角的土地等。然而,主业制糖业由于砂糖价格暴跌,再加上原本准备继承家业的儿子去世,致使其晚年的事业发展并不如愿。1935年,郭春秧在台北大稻埕锦茂茶行安详地走完了75年的人生路。

    郭春秧的事业转折,直接影响了台湾包种茶的印尼出口。取而代之,台湾茶商开始大展拳脚,上世纪20年代,面向印尼以外的越南、泰国等地的出口陆续增加。这也意味着总督府开始主导台湾茶的出口。抗日战争爆发后,台湾茶的主要出口地变为今天的中国东北、冲绳和泰国等地,印尼的名字逐渐从中消失。

图片说明

  1. 郭春秧
  2. 台北茶商公会会长郭春秧(前排左数第六人)
  3. 香港 春秧街
  4. 厦门鼓浪屿 昔日的郭春秧别墅

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第二十三篇 印尼 抢占先机的安溪茶商

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第二十三篇 印尼 抢占先机的安溪茶商

    关于东南亚的华人茶商,迄今为止我介绍了几个国家,但是漏掉了一个大国,那就是印度尼西亚。实际上,印尼在我的探访之旅中,算是一处棘手之地。本期我就为大家讲述一下我的印尼之旅。

    很多年前我曾因茶旅机缘到访印尼。当时,去了1955年万隆会议的举办地万隆郊外的茶园。那里有荷兰殖民时期保留下来的广阔茶田和茶叶加工厂,工作人员加上采茶者远超千人,其规模令人惊叹。在殖民地的茶园经营中,印尼不逊于印度和斯里兰卡。

    据说印尼的茶业发展,始于17世纪末荷兰东印度公司从中国带来茶种,19世纪需求增多后,便开始摸索生产。有记录显示,19世纪20年代,长崎荷兰商馆的植物学家西博尔德受命送来茶种。同期,印尼派人赴中国,带回了茶种和工匠,50年代开启中国式生产。70年代以后,开始种植阿萨姆种,红茶生产如火如荼。即便今日,印尼也是世界上屈指可数的茶业生产国,但已无从寻觅华人踪迹。

    翻阅台湾茶的历史,必定会有面向印尼出口的记录,所以,我便依此到访了印尼第二大城市泗水和第四大城市棉兰。在拥有2.4亿人口的印尼,华人占比很低,仅为5%左右,并且因数次发生排华运动,苏哈托政权禁用中文30年,导致印尼的汉字招牌很少,现在30~50岁的华人也不学中文。

    我想探询有关茶叶的历史,但泗水没有一家经营中国茶的茶庄。可能到上世纪60年代苏哈托镇压华人以前,所有的私人茶庄就已消失殆尽。现在,印尼华人,特别是老年人饮用的茶叶,都是超市里出售的本地产廉价茶。

    要想寻找华人踪迹,最有效的途径是去地方会馆。然而,安溪会馆20多年前才刚刚建成,会员中并没有茶商。有说法称,原本泗水的华人比例就不高,所以更无人兴建茶庄。我也试图探访福建会馆,最终没有找到。到底还是苏哈托时代影响巨大,昔日资料已经荡然无存,华人自己好像也对那段历史漠不关心。可以明确地讲,如果没有一定数量的学者从事相关研究,想要追寻华人茶商的足迹是很困难的。

    我又去了棉兰。这座城市中有华人聚居区,和泗水相比,华人的存在感更强一些。然而,说到茶,并没有得到满意答复:“棉兰虽然华人不少,但饮用中国茶的人不多。听说郊外有茶田,但也没什么深刻印象。”我又询问台湾人,回答说:“在印尼,生产台湾茶都在棉兰郊外。”我原本以为,到了棉兰无论如何会找到蛛丝马迹,但其实并没有那么乐观。

    我想起为了调查铁观音茶的历史,去铁观音发源地福建安溪时听说的事。安溪县西坪镇南岩村茶农的祖先王三言家代代从事制茶业。19世纪70年代,王家曾挑着茶叶到因对外开放而经贸繁荣的厦门和漳州卖茶,1875年,在厦门开设了梅记茶行。基于茶叶运输很辛苦,以及略微弯卷的茶叶售价更高等销售上的经验,80年代,王家在传统制茶法的基础上,创造出茶叶的布巾包揉技术。

    这一手法渐渐广为人知,王三言的子孙将销售市场从中国拓展到亚洲各地,积累了巨大财富。1945年,王三言的后代王联丹配制的铁观音茶“泰山峰”,在新加坡举办的茶王赛中获得金奖。梅记也在经历了国有化之后,东山再起。如今,第五代传人王曼尧和其子智送在南岩村守护家业。工厂旁边,是据说由王三言兴建的泰山楼,这座建筑历经120年岁月的洗礼,见证着王家茶业的发展历史。

    20世纪初,王三言为了扩大经营规模,将安溪茶推广至东南亚。1906年,派其子王金玉赴台湾,开设了泰山茶行。与此同时,其孙王炳炎在印尼雅加达开设了梅记,开始从事茶叶贸易。据安溪华侨志记载,光绪年间,安溪西坪尧杨村的王量、王称兄弟等人在台湾收购茶叶,运往印尼,在雅加达、泗水和三宝垄开分店销售。

    或许,他们销售的就是19世纪80年代开始在台湾投产的包种花茶。也可能是通过上文提到的王金玉和王炳炎,在台湾收购包种茶(也可能自己生产),在印尼销售。此时,是台湾茶出口印尼的鼎盛期,实际上许多福建茶商以及印尼华人,都因从事茶叶贸易获得了巨额财富。

图片说明

  1. 泗水 超市中销售的茶叶
  2. 棉兰 华人豪宅
  3. 福建安溪 梅记茶庄
  4. 安溪 泰山楼
  5. 梅记第五代传人 王曼尧

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第二十二篇 越南 越南生产的普洱茶

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第二十二篇 越南 越南生产的普洱茶

    说到普洱茶,现在一般指云南生产的黑茶,却很少有人知道其实越南也曾生产过普洱茶。查阅《普洱茶图鉴》可知,的确在上世纪50年代,记载有河内生产的名为“河内圆茶”的普洱茶。只不过,这种茶涩味浓重,似乎没人认为其是好茶。然而,为何河内会生产普洱茶呢?

    清朝时期,法国将魔爪伸向越南,中法战争结束后,1885年将越南划为保护国。法国进而企图从越南边境入侵矿产资源丰富的云南,以此对抗准备从缅甸入侵云南的帝国主义对手英国。有资料显示,中日甲午战争爆发时,侵占云南南部茶叶产地思茅的法国,曾在因普洱茶闻名的易武也设立海关,对茶叶征收重税,导致茶叶产量一度锐减。

    此时,云南茶的供给中止了,将此视为商机的越南和老挝,开始在中越中老边境地区生产普洱茶。这种普洱茶叫做“北越茶”,曾一度垄断香港、澳门和东南亚市场。只不过据资料显示,1921年开通了从易武到越南边境老街省的运茶通道后,北越茶的需求开始下降。

    实际上法国在上世纪初就修建了从越南海防市途经老街省到达云南昆明的滇越铁路。据说易武茶要么途经老挝丰沙里省南下(即金三角路线),要么从越南老街省经滇越线到达越南,再出口海外。然而,到了上世纪30年代,由于中国国内发生战乱,云南茶产业开始衰落,法国人开辟的茶叶贸易通道被封锁,茶工厂倒闭。到第二次世界大战时,越南又被日军占领。

    1949年新中国成立后,越南国内重新开始生产普洱茶。这就是文章开头提到的河内圆茶。据说,在香港等地云南茶还很罕见的时期,河内圆茶通常被掺杂在其他茶叶中出售。因为据当时在河内从事茶叶生意的法国人讲,北越茶到底涩味浓重,体现了独特的越南风味,所以很难单独销售。最终,北越茶没能在市场上占有一席之地,逐渐走向没落,自此进入60年代越南战争时期。

    从越南普洱茶,能够联想到越南战争结束,西贡更名胡志明市之后的事。上世纪80年代,效仿中国改革开放,越南也开始实施相关政策,热情接纳外国投资。当时,一个香港人开始在胡志明市指导普洱茶生产,他就是在香港和广东一带被称作“普洱熟茶教父”的卢铸勋。卢铸勋1927年出生于广东顺德,抗日战争时期逃难到澳门,在英记茶庄学习制茶。此时,见到了普洱熟茶制法的原形。

    1954年,卢铸勋与英记茶庄老板的女儿结婚,并以此为契机,移居香港长洲岛,开办了茶工厂,正式开工生产普洱熟茶,在香港、东南亚一带销售,甚至经由印度出口西藏。这一事实说明,抢占河内茶销售市场的竞争商品是由香港生产的。50年代,广东也开始生产广东普洱,由此得知,普洱熟茶的发明始于此时,而并非70年代的云南。

    说到70年代,正值中国发生“文化大革命”,但卢铸勋1975年却在曼谷素坤逸路生产熟茶,这令人很惊讶。据说是因为香港经济进入增长期,成本上升,所以从降低成本的角度,首选了泰国。这符合该专栏“第十二篇 泰国曼谷的建峰茶行和集友茶行”中,集友茶行掌柜王国星所言“排斥华人的浪潮也席卷泰国,为了消耗多余茶叶,便开始生产普洱熟茶,店里是从上世纪70年代开始保存普洱茶的”。

    进入90年代,如前面所言,卢铸勋又开始进军越南胡志明等地。越南和中国云南、广西接壤,由此也有很多剩余原料。据卢铸勋讲:“越南是共产主义国家,我受朋友之托,承包了茶叶生产。”虽然制茶主要靠农业,但制茶行业重视的是工业化。就像日本企业为了追求低成本开拓亚洲市场一样,卢铸勋生产熟茶的动因很耐人寻味。

    能够和普洱熟茶的历史见证者在其晚年相见于香港长洲岛,我感到非常荣幸。然而,听说拥有迷人笑容的卢铸勋已于去年辞世,享年93岁。也是因为新冠肺炎疫情的原因,如今我既不能到访宁静的长洲岛,也不能赴越南追随卢铸勋的足迹,真是万分遗憾。

图片说明

  1. 《普洱茶图鉴》中有关河内圆茶的介绍
  2. 有关北越茶的介绍
  3. 卢铸勋(左)在越南茶田
  4. 晚年卢铸勋

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第二十一篇 越南 波澜壮阔的华人传

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第二十一篇 越南 波澜壮阔的华人传

    既然去越南也无从了解越南茶的历史,我便尝试迂回战术,打算到上世纪二三十年代向越南大量出口茶叶的台湾去寻找线索。事实上,如今有数十万越南人到台湾打工,追溯他们的过往,让我触摸到了越南战争结束后,逃往国外的华人的历史。

    台北茶商工会的总干事为我介绍了越南华侨林少英女士。林女士现在在台湾教音乐,虽然她表示对茶行业的历史不是很了解,但她向我推荐了一本她伯父撰写的书。从中得知,她的祖上曾在台湾日据时期在汕头落脚,开设了一家大茶行,从台湾向东南亚出口茶叶。台湾光复后,又经由香港向越南出口茶叶,全中国解放后,其家人逃往越南胡志明,林女士便是在胡志明出生的。

    她在位于胡志明市郊外的唐人街堤岸度过了童年。她记得自己曾经见到过如何制作大叻红茶,由此对越南南部的茶叶有些许了解。伴随越南战争结束,林女士一家被迫逃往海外,部分人去了美国,包括她在内的其余人则移居台湾。

    林女士自报家门是客家人。而我们当时聊天的地方是台北的一家茶庄,茶庄老板听闻后回应“我也是客家人哦”,随即拿出从上海淘到的陈茶(香港荣新茶行)对林女士说:“这个包装上的大象商标是你们那里的吧?”这让我着实大吃一惊。茶缘真是妙不可言!

    根据林女士的介绍,我很想了解她的祖先,于是接触到了台湾包种茶。包种茶当年是和乌龙茶齐名的台湾两大出口商品之一,在福建,乌龙茶里会掺入香花,成为台湾特产后,甚至开发出了发酵茶中不掺香花也散发自然花香的台湾包种茶。

    上世纪二十年代,从台湾向东南亚出口包种茶异常活跃,代表人物是商号名为护记泰昌(商标为三只羊)的陈护臣。据悉他是林女士的外祖父。另有商号为协盛的陈师平等人也很活跃,当时陈氏一族数人都是茶叶贸易据点台北大稻埕赫赫有名的业界名家。其茶叶的主要出口地是越南和泰国。

    追溯台湾茶的历史,在台北茶商工会1915年的会员名单中,记载有丰盛号陈协宜和悦记号陈秋生二人。我猜想他们或许也是以汕头为据点从事茶叶贸易的陈氏家族成员。据记载,他们垄断了从台湾向越南和泰国的包种茶出口。

    然而,虽然他们占据大量出口份额,在工会干部的名单中却无二人姓名。这可能是因为当时占据台湾的日本总督府排斥因茶叶贸易获得巨大利益的华侨,于是工会会员逐渐限定为台湾籍商人。又或许上世纪二十年代陈护臣加入了台湾籍,定居大稻埕后开始经营茶叶生意。

    台北丰盛号陈协宜的店铺,在汕头叫护记,在越南叫宽记,在泰国叫美和,名称各不相同。然而,悦记号陈秋生的店铺,无论在汕头、越南还是泰国,都使用悦记这同一个名字,很是有趣,但原因尚不清楚。

    上世纪三十年代,台湾包种茶出口增多,出口地也发生了变化。受到全球经济大萧条的影响,以及各地逐渐被战争氛围所笼罩,包种茶出口开始转向伪满洲和冲绳等日本的势力范围。在茶商工会1937年的会员名单中,护记和悦记等均已消失或许就是这个原因。

    不过,台湾茶商工会也曾接到总督府指示,在泰国和越南等地开拓台湾茶市场,进行宣传推介。1939~41年间,台湾茶商工会曾赴泰国参加了三届博览会。还有记录称,曾雇用泰国美女免费给顾客上茶,供其试饮。1941年在越南河内,1943年在胡志明博览会上也曾推销过台湾茶。这可能是因为泰国是中立国,而越南因被日军侵占,此时尚在日本统治下。

    查看战后新组建的台北茶商工会名单(1949年),陈协盛茶行名下出现了一个叫陈传治的人。陈传治1914年出生于潮州凤凰,曾就读于潮安县立中学,1929年放弃学业,走上茶商之路。在香港设立了信成茶行,之后继承父业,经营潮安协盛茶行。也面向华侨提供运输和电汇服务,取得巨大成功。

    陈传治1949年从潮州前往越南,之后成为越南最大的茶商。战后,经由香港继续出口台湾茶。虽然在台北打出了陈协盛的招牌,但实际业务由祥泰茶行代理,确保了茶叶的供应渠道。

    陈传治移居胡志明几年之后就在茶叶界取得成功,之后又进军食品和塑料行业,成为越南屈指可数的华商。然而,越南战争爆发,1975年西贡沦陷,他只好再度移居美国。此后一直在南加州生活,担任当地潮州会馆的最高顾问。到此为止,有关茶叶历史的线索完全中断。

图片说明

  1. 胡志明堤岸 今日的茶馆风景
  2. 香港荣新茶行 印有大象商标的包装
  3. 越南华侨林少英(右)
  4. 台北市茶商业同业公会会史
  5. 陈传治

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第二十篇 越南 流传河内的功夫茶

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第二十篇 越南 流传河内的功夫茶

    为了了解茶叶历史,近几年我曾数次前往越南。但无论是在河内还是在胡志明,当地人都告诉我说“因为没有相关资料,所以不了解以前的事”。这可真令我沮丧。在东南亚,原本任何一座城市都有唐人街,但受到越南战争和对越自卫反击战的影响,大约40年前,华人都从越南离开,河内已经没有唐人街了。胡志明市据说也只有堤岸地区算是唐人街,但在那里我也没能探寻到茶叶的历史。

    最终,我拜访了位于河内的越南国家智库——越南社会科学院喃汉研究院。据说这里是越南研究中国问题的最权威机构。研究员用中国制造的茶壶给我沏了一壶浓茶,告诉我说:“这是越南的传统绿茶。”虽然茶很浓,但有一丝丝甜味,并不难喝。

    然而,研究员开口便说:“由于战乱,资料几乎遗失殆尽了。”又进一步拒绝道:“越南研究历史的学者非常少,更没有什么人研究贸易史了。”他甚至提到法国殖民时代,说在巴黎的法兰西远东学院沉睡着大批资料,无人整理,所以去了估计也是白去。总之,他的结论是,当代越南人只顾眼前利益,没有时间回顾历史,我们的谈话也只好到此为止。

    听朋友说:“在越南发现了相当古老的茶树。据说比中国的茶树还要历史悠久,难道茶叶的发源地不是中国,而是越南?”我于是探访了中越边境,但遗憾的是,只看到了树龄500年的茶树。我猜想,以前山里没有划分国界,由此确认那一带从古时就开始种植茶树了。

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    我又去了位于河内郊外的太原省。这里种植着相当多的苦涩绿茶。在日本,很多人误解“越南人都喝莲花茶”,实际上在河内等越南北部地区,当地人很喜欢喝浓绿茶。为了探寻原因,我拜访了一位年逾80的老茶人,喝着他为我准备的浓缩绿茶,原准备和他聊聊这个话题,结果他只说了句“这是自古以来的习惯”。

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    后来,我和一位在香港经营了50多年茶馆的店主(潮州人)说起河内浓茶的事,他毫不意外地说:“那是潮州人的习惯吧”。潮州是现在广东省的一部分,但从文化上来说和福建南部同源。泰国的华侨很多出自潮州。香港直到今天都有很多潮州料理,吃饭前一定会呈上装有浓浓铁观音茶的小茶杯。简直就像餐前酒一样,成为一种饮食习惯。

    的确,河内的茶和潮州料理的餐前茶很类似。那么,这一习惯是怎么传入越南的呢?上面的老店主再次风轻云淡地告诉我:“当然,我也不是很了解自己出生以前的事,大约200年前,潮州一带的人们曾大量移民海外,估计就是那个时候走过去的吧。”然而,从潮州到河内,怎么看也不可能是简单能走到的距离。

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    我在河内拜访了继承茶馆的第六代店主,曾经身为著名媒体人的苏昂(音译)先生。店内陈列着一幅第一代女店主在路边卖茶的绘画作品。从这幅画中,我多少感受到了一些和华人的关系。我一边品着他为我沏的极品浓缩绿茶,一边提及潮州人餐前饮茶的习惯,他竟然告诉我说“在河内,餐前也有饮用浓茶的习惯”。果然如此!由此,我对自己的推测更加确信了。

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    前几天,我又和一位著名学者请教此事,学者说:“那或许和瑶族有关。”瑶族原本是生活在湖南一带的少数民族,后向东方慢慢迁移,以火田农业为生。由于他们移居时带来了茶叶,所以和茶有着非常重要的关联。

    据这位学者讲,瑶族迁移到广东一带后分为两路,一路南下越南,另一路来到潮州一带,成为畲族。若果真如此,河内和潮州可以说是通过瑶族紧密相连,所以,并不是汉族从潮州走到了河内,而是瑶族的生活习惯在这两地扎根。

    另外,在潮汕一带,从清朝开始,就流行喝功夫茶。功夫茶因为要用小茶壶泡浓茶饮用,所以这也和河内人的饮茶习惯一致,不禁让我觉得离真相更近了一步。只不过瑶族等少数民族制作的茶叶多为发酵茶,绿茶则是汉族所擅长,包括这一点在内还有许多疑点尚未弄清楚。

    补充说明一下,据说功夫茶有些地方酷似日本的煎茶道。难道潮州的功夫茶和畲族一起东渡日本,结合煎茶,取得了独特发展?这样想来,还真是脑洞大开。

图片说明

  1. 在越南社会科学院喃汉研究院
  2. 安沛市郊外树龄500年的茶树
  3. 在太原省的茶农家
  4. 河内街头饮用浓缩绿茶的老茶人
  5. 河内拥有200年历史的茶庄中陈列着描绘第一代店主的绘画作品

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第十九篇 泰国人饮用“泰茶”的历史

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第十九篇 泰国人饮用“泰茶”的历史

    此前虽然用几个篇章介绍了泰国的茶叶历史,但几乎都是华人茶的历史。要是向普通泰国人打听茶叶的故事,他们往往会说:“泰国人从来就不喝茶。”果真如此吗?

    走在曼谷街头,在街角处的小商亭里,常会看到有一款橙色饮料出售。原来这就是被称作“泰茶”的泰式奶茶。泰国百姓这不是也喝茶嘛!不过老实说,这款茶无论颜色还是气味,都和日本人喜好的茶有显著不同。为什么泰国人喜欢喝这种茶呢,这个问题勾起了我的兴趣。

    为了探究这个秘密,我来到了经营泰茶的老字号“国际泰茶有限公司(Cha-Thai社)”曼谷办事处和其位于泰国北部的工厂,采访了社长林先生。国际泰茶有限公司创建于1945年,是一家已经有76年历史的老字号。这家老字号目前在泰国市场占据了半壁江山,可以颇有底气地宣称“我们的对手是咖啡”。

    林先生的祖先90多年前从中国广东来到曼谷,据说是从事茶叶相关生意的潮州人。从“如果能让泰国人饮茶,这将会是一个巨大市场”这一典型的华人思维出发,其家族经过反复尝试,发明了泰茶,没想到一炮打响,自此事业飞速发展,这一经历令人惊叹。

    如今的工厂,建于30多年前,当时为寻找最方便采购茶叶的地方,最终选定了位于清迈和清莱之间,公交车往来频繁的公路沿线。因为作为生产原料的茶叶,是从泰国北部的清迈或清莱郊外,以及南邦和夜丰颂的茶农家直接运来的。这里每天要消耗数吨原产于印度的阿萨姆种生叶,生产红茶和绿茶等。工厂由林先生和其长子经营,在生产管理方面下了大力气,而曼谷办事处则由林夫人和其女儿负责市场和销售管理等。这是一家典型的华人家族企业。工厂里雇佣了很多工人,为解决当地就业也做出了卓越贡献。

    需要说明的是,泰式奶茶的橙色正是其成功秘诀。实际上,泰国人“感觉橙色看起来比茶色更美味”,所以大胆地在红茶中加入了食用色素做出橙色效果。在日本,看到橙色可能会有些抗拒,但也有专家说“女高中生等年轻人或许能够接受这种新奇的颜色和独特的口味”,据说东京已经有了销售这种茶的店铺。

    该公司除了向街头小商亭批发外,在曼谷市内的主要车站、高级超市等也不断开设分店,旨在凭借华丽的店内氛围吸引年轻人。虽然该店销售的半数饮品都是味道一成不变的泰茶,但最近绿茶奶茶的销量也开始稳步上升。基本上就是在奶茶中加入冰块,作为冷饮饮用,为了迎合泰国人的口味,还会放入一点茉莉花调味剂,看起来像酱汁。此外,还出售泰茶冰激淋,人气颇高,需要排队购买。

    其实泰国也有星巴克,但泰国年轻人推崇的饮品并不是咖啡,而多是抹茶拿铁冷饮和绿茶拿铁。国际泰茶有限公司的绿茶奶茶冷饮如果是在街头商亭购买,只需花费星巴克价格的三分之一。这一差价,让不受景气影响的国际泰茶有限公司拥有了意想不到的优势。

    不过,以泰国为首,随着收入的增加,关注健康的人越来越多。林先生表示:“健康固然重要,但并不是说控糖就可以了。东南亚属于热带地区,泰茶的需求不会消亡。并且亚洲还有很多人需要价格便宜、味道好喝的饮品,所以打算维持这个口味,继续满足市场需求。”

    目前,该公司不仅立足泰国国内,也在谋划打开周边东盟各国的市场,向区域伙伴批发商品。口味和饮食习惯比较相近的柬埔寨、老挝、缅甸自不必说,人口众多的越南以及伊斯兰文化圈的印尼等国也开始喜欢上了该公司生产的泰茶和绿茶。据说无论甜度,还是其独特的口味,甚至加入炼乳都可以被接受。如果这一倾向持续扩大,“泰国原生泰茶”占领东盟市场也将指日可待。

    在逐渐追求高品质生活的亚洲,虽然也出现了控糖倾向,但依然有几个国家喜欢低价和甜味,由此泰茶也被认为是极具魅力的饮品。采访最后我问林社长:“不准备向中国这个巨大市场进军吗?”他回答:“完全没想过,但从中国南方会有生意来。”他的回答给我一种印象,因为是华人,所以不会局限于在中国取得商业成功。中国市场很难开拓,相比之下东盟更容易立足。

图片说明

  1. 泰茶
  2. 国际泰茶有限公司曼谷办事处
  3. 在国际泰茶有限公司的茶工厂前和林社长合影
  4. 泰茶冰激淋

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】第十八篇 泰国北部 原国民党华人制茶(3)在湄宏顺府和拜县

【中国与亚洲 通过茶叶探究华侨&华人的今昔】
第十八篇 泰国北部 原国民党华人制茶(3)在湄宏顺府和拜县

    前两期介绍了美斯乐,除此以外,在泰国北部还有许多当年国民党军队和其家属的移居地。此次,我将带您探访位于泰缅边境城市湄宏顺府郊外的密窝村,以及位于湄宏顺府和清迈之间拜县郊外的国民党村,介绍那里的茶业发展。

密窝村

    湄宏顺府地处偏僻,从清迈乘汽车要走7个小时。但如果从曼谷乘坐飞机,一个多小时即可到达。并且,出了机场,旁边就是市区,非常方便。此地曾有段时期被缅甸占领,所以能看到很多受缅甸文化影响的寺院等,弥漫着一股边境城市特有的气息。

    从湄宏顺府市区驱车约1个小时,行走45公里后,就到达了密窝村,茶田映入眼帘。只不过这里的茶田和其他应用现代化管理的茶田不同,茶树之间间隔很大,体现了昔日的种植特色。当然,这无疑也是人工栽培,但肯定不是台湾人来开垦的现代化茶田。

    村子中央有水池,环境幽雅。我来到近旁的店铺,品尝了茉莉花茶和乌龙茶,说实话,品质一般。虽说是从30多年前开始种植茶叶,但似乎没有像美斯乐那样经历过残酷竞争。村子里也可以看到几处台湾援建的建筑物,有的建筑上还有汉字标识,由此可以确认这里是国民党残余部队居住过的村庄。据说,村中人口(约500人)中9成是中国籍,到处都可以听到汉语。

    村里食堂上方的茶田中茶树间隔狭窄,使用的是现代化种植方式。其间建有房舍,询问得知这是一座打算出售的观光茶园,为了能更好地观赏茶田才修建了这些房舍。周边有几家卖茶的店铺,也可以用汉语交流,但我没有从中获得有关茶叶历史的有价值信息。似乎当地人都将制茶看作是工作,却没有当其是一种文化。

    驱车5分钟左右上山路,可直达泰国边境大门。因为不能进入缅甸,我们打算返回,没想到这里不归缅甸政府管,于是我和导游毫不费力地穿过大门,走到对面和当地百姓聊了几句。这让我深切感受到,缅甸的少数民族问题真的不简单。同时,也让我重新思考何为国境,何为领土。对于我这个生长在岛国的日本人而言,这是一次难能可贵的体验。

在拜县郊外

    从湄宏顺府乘坐小型巴士沿山路走上4个小时左右,就到达了拜县。拜县位于清迈和湄宏顺府之间,以前曾是公交车中转站,给人感觉是非常适合背包客歇脚的田园小镇。然而,走上一圈发现,这里发展迅速,已然成为观光地,老实讲并没什么特色。夜市的规模也相当大,这让我有点儿意外。

    我用一个小时时间慢悠悠地走到距市区约5公里的乡间小路上。穿过一个写着山地村招牌的大门后,忽然发现汉字牌匾多起来。视线前方是一处宛若遗迹的宽阔场所,坐落着一个类似主题公园的村庄。这是哪里啊,我不禁意外。刚感叹这边有一座中国风的高大建筑和大门,就看到那边还配置了一个略带古风的水池。一个远离国民党村庄的中华世界浮现在眼前。难道泰国人对中国的印象是这样的吗?

    走进一看,一家茶店映入眼帘。里面传来用汉语打招呼的声音:“欢迎来品茶!”我满心庆幸地走进去。这里仍然是国民党军队当年移居的村庄,但据说店主和国民党没有任何关系。他说:“是我爷爷从云南移居至此的。他是一个走南闯北的商人,我父亲也继承了爷爷的生意。”

    这里主要出售乌龙茶,是从前面提到的密窝村和山对面的美斯乐附近运来的,此处没有茶田,也不生产茶叶。店主坦言:“因为这里成了名为中国人村的观光地,所以我才开始卖茶。泰国人会为了买便宜茶特地来这里。”这让我意识到,以前,他可能并不经营茶叶,而是做更赚钱的生意。他的妻子是当地人,所以他才在此定居。

    村里有一个类似食堂的店铺。菜单贴在墙上,上面是汉字。因为有云南米线,我毫不犹豫地点了一份,里面竟然有大块的带骨鸡肉,味道不错,性价比很高。我深刻感到,到底因为地理关系,泰国北部的华人很多都是云南人,所以,有必要再深入学习一下泰国北部和云南之间的历史渊源。

图片说明

  1. 密窝村 旧式茶田
  2. 密窝村 观光茶园
  3. 密窝村 泰国边境大门
  4. 拜县山地村
  5. 山地村的茶店