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ある日の台北日記2023その(2)近所散策を開始

何と出てこなかった理由は『悠遊卡』を使ったからだった。3年半使っていなかったカードを恐る恐る使ったところ、ドアが閉まってしまった。パスワードなどが出て来るものと思っていたが、何とカードをかざせば開けられる仕組みだった。そんな勝手な大騒ぎの中、35年来のお知り合いTさんがやってきてくれた。昨晩台北に行くことを告げると『取り敢えず空港に行く』と連絡があった。もう4年近く会っていなかったが、全くこれまでと変わらないの普通の会話となる。何と自然なことか。

それから少しPCなどを触ってみる。空港のWifiはかなり強いので、何でもできるし、充電も可能。座って作業に励む。その内、家主の葉さんから連絡があり、家に向かう。結局タクシーには乗らず、いつものように文湖線で行く。家の前には果物を売るおばさんが全く変わらぬ姿でいたのが印象的。

3年半ぶりに家に入る。一番気になっていたのは荷物だったが、何とスーツケースには入っておらず(前回帰る際にケースは持ち帰っていた)、しかも親戚の子供が来て、私の荷物で遊んでいたというので、カビなどは生えていなかった。それでも3年半全く使っていなかった衣服なので、一部は捨て、残りは明日全面的に洗濯しよう。ここに残してきた資料もみな無事でよかった。涙が出る。

そうなると腹が減った。もう思い付くのは近所の麺屋だ。刀削麺の店で牛肉湯肉絲麺を頂く。この店、ちゃんと開いていてよかった。夢にまで見たモチモチ麺とコクのあるスープ。これが食べられる幸せ。値段も10元程度の上昇。といっても円換算ではかなりの上昇だろうか。まあ食べられる幸せが値段に勝る。他の店もあまり変わっていない。コロナの影響はどの程度だったのだろうか。

4月13日(木)懐かしの店から南機場夜市へ

爽やかな台北の朝。まずは近所をうろつき、いつもの店で総会三明治と氷紅でスタートする。ここも10元ほどの値上げ。特に卵入りは高くなっている。そのままフラフラ行くと、今度は大腸麺線の店がある。美味しそうだな、と思っている間に、足が勝手にそちらに行き、口は勝手に注文している。これはやはりうまい。何とも懐かしい味だ。

そのまま歩いていたら、以前あった古い市場が完全に解体されていた。スーパーもセブンに代わっている。やはり3年半の間には、それなりの変化があったのだろう。その先には新しいきれいな市場が出来ていた。2階には食堂街もあるので、今度機会があれば食べに来ようと思う。敦化南路の街路樹はそのままだった。

今やなんでもオンラインの時代だ。葉さんからもらったURLを開くと、そこではお茶販売の新しい試みなどについて、台湾人とシンガポール人で議論が交わされている。パティシエである葉さんの息子も堂々と英語で持論を述べている。こういう議論に日本人はなかなか加われない。台湾茶業も重大な変革期のようだ。

午後早々に約束を取り付け、双連までMRTで行く。駅から地上に上がると何となく懐かしい。思わず以前も食べた店で肉羹と魯肉飯を注文する。値段は10元ずつ上がっただろうか。ここの魯肉飯は肉がゴロゴロしており、何となく日本で食べるものを思い出させる。食後裏道を行くと、まだまだ古い店がいくつか残っており、何とも好ましい。

茶荘に湯さんを訪ねる。彼女とはもう20年近い付き合いになる。既に店は息子に任せて悠々自適かと思っていたが、知り合いと一緒に理想の高山茶を作るべく、現在も奮闘中らしい。昔はプーアル茶で一目置かれ、その後烏龍茶、紅茶などに取り組んだ茶商さんの追及はまだ続いている。その熱意には心打たれる。

ある日の台北日記2023その(1)3年半ぶりに台北へ

《ある日の台北日記2023その1》  2023年4月12日-20日

実に3年半ぶりに台湾に舞い戻った。荷物や資料は置きっぱなしでずっと気になっていたが、台湾の門は固かった。仕方なくまずはタイで5か月を過ごし、ついに3月には台湾も基本的にコロナ前に戻ったので、出掛けた。それにしても飛行機代が高くなりすぎて、今後はちょくちょく行くことは出来ないような気がした。

4月12日(水)3年半ぶりに台北へ

羽田から台北へ。3年半前まではそれは日常だったが、今回は久しぶりで緊張する。午前10時台のエバエアを予約していたが、8時前には空港に到着した。何しろ保安検査場が激込みでフライトに乗れない乗客が出ているとFBに書かれていたからだ。因みに余裕を持って家を出たので早過ぎてしまい、珍しく渋谷からバスで羽田へ向かう。だがリムジンバスは何と1時間に一本ほどしかなく、ちょうど乗り場に行った時バスが来て何とか乗り込めたのだ。主要駅から空港行バスも激減している東京。

まずは荷物があるのでチェックインする必要があるが、何と保安検査場がそんな状態なのに、カウンターはまだ開いていない(2時間前開始)。しかも並ぶ場所も不明確で乗客は混乱していた。何とか荷物を預けると今度は長い長い列が待っていた。まるでセールに殺到する買い物客のようで、係員が『最後尾』のプレートを持っている。

そこから40分ほど死の行軍が続く。外国人も多いが、皆諦め顔で文句を言う人はいない。ただひたすら耐えている。子供連れだと大変だ。どうしてもフライトに間に合わない客は航空会社のスタッフが別に誘導しているから、次回はギリギリに行こうか。何とか保安検査場へ辿り着く。

まあここの作業が遅いのは昔からだが、スタッフもストレスが相当かかっていて気の毒だった。最後に自動ゲートを出て出国スタンプを貰おうとしたら、頼んだところと全く別の場所にスタンプを押して返してきた。こちらは必要があるから場所を指定しているのに、何だか権力を振りかざした、勘違い係官で驚いた。

結局1時間半前には準備完了。とにかく朝から疲れた。ドリンクを飲んでゆっくり休んでから飛行機に乗り込む。先日乗った日系と違い、エバは何とも落ち着く。日本映画を見ながら、美味しい食事を頂き、烏龍茶を飲む。徐々に台湾へ行くというモードになる、何とも言えない気分だ。

気になっていたのは空港の混雑だった。以前は特別ルートから入国できたので問題なかったが、今やその神通力も通用しない。さっさと通路を歩き、入国審査場へ行ってみると、何とほぼ人がいない。むしろ特別ルートの方に何人か並んでおり、それを横目にあっという間に入国完了する。松山空港は便数が限られているからだろう。早過ぎて荷物が出て来るのに少し時間が掛かる。その間、日本からの卵などの持ち込み注意を呼び掛けられる。サンドイッチにたまごが入っていても捕まるらしい。

懐かしの松山空港。まずは夜までここで待機する必要がある。中華電信でいつものシムを買い、作動させる。それから両替。何とタイなど東南アジアで拒否されてきた米ドル旧札の両替が出来たのは嬉しい。一応手数料として1%取られたが、全く両替できないのに比べれば全くマシだった。

次に大きな荷物をコインロッカーに入れた。以前もやったので問題ないと思っていたが、前の人がドアを閉めて処理が完了するとレシートが出てきたのに、私の番になるとなぜかそれが出てこない。なぜか分からず、しかし取り出すことも叶わない。困っていると掃除のおばさんが手伝ってくれ、最後は係員まで呼んできてくれた。これが台湾の親切だ。

静岡茶旅2023(3)藤枝から草薙へ

私が訪ねたのは伝統的な問屋さん。ここに戦前静岡で作られた磚茶が保存されていると紹介されたからだった。ただ問屋さんでは先代社長が退き、代が変わっていたため、お知り合いの問い合わせに対して、わざわざ探してくれていた。だが見せられたお茶は皆戦後の黒茶類であり、残念ながら国産磚茶を遭遇することは叶わなかった。まあ、歴史的に見ても静岡で磚茶が作られた時期はほんの一瞬であり、磚茶自体が知られていないのも、無理からぬことだった。

日が暮れた頃、宿に帰り着き、部屋で少し休む。今晩はお知り合いのIさんとSさんと会う。二人ともお茶の専門家であり、学ぶところは大きい。お店は宿の横にあり、地元食材を使った料理がどんどん出て来て、美味しい。それにしても静岡はお茶王国、その歴史も多過ぎてとても整理できない。

4月6日(木)藤枝から草薙へ

朝はゆっくり起きる。今日は天気がイマイチ。それでも傘をさして散歩に出る。昨日と同じようなルートで30分ほど歩いて行き、蓮華寺池公園を目指した。この付近が東海道の旧藤枝宿。昔は栄えていただろうと思える場所。歴史的な雰囲気が漂うと共に、何となく雨も止んでくる。

この公園には『とんがりぼう』と呼ばれた藤枝製茶貿株式会社の建物が移築されていた。確かにきれいになっており、中は土産物屋などが入っていて、歴史的雰囲気は薄れていた。公園内は非常に気持ちよく散歩できる。さくらも満開でよい。藤枝の茶業関連の碑もここに建てられている。郷土博物館もあったが、今回は入らずに駅まで戻る。

荷物を取りだしてJRで草薙駅へ行く。図書館へ行く前にかつ丼を食べようと、駅から歩いて行くと、思ったよりずっと遠い。そして注文したかつ丼はお母さんが一からゆっくり作ってくれる。味噌汁も熱々。というわけで、美味しく頂いた頃には、既に図書館行バスは行ってしまっていた。バスは1時間一本なので、静鉄で隣駅まで行き、そこからゆるゆると登りを歩いて行く。結構疲れる。

図書館ではいつものように歴史資料を漁る。いつ来ても何か発見があるから面白い。ちょっと見たことがある人がいたが、声を掛ける前に居なくなってしまった。きっと静大のK先生に違いない。雨が止んだのでちょっと外へ出る。ドリンクを買ったのだが、それは国産烏龍茶のペット飲料。ついに日本も烏龍茶を自前で作る時代に入ったのだろうか。

裏庭に何と鈴木梅太郎の胸像があると知る。鈴木はビタミンの世界的な研究者で、東大で研究していた他、理科研の創立メンバーにも名を連ねている。牧之原の出身であり、あの山本亮の師匠でもあった。ここでお会いできるとは、何と光栄な。でもなぜここにあるのかは誰も教えてはくれない。

夕方5時を過ぎ、バスに乗って草薙駅に戻る。今晩はタイ人のA先生と待ち合わせ。A先生はティーツーリズムの研究者で、以前タイで出会い、数年前和歌山大に居た時に、シンポジウムにも参加した。彼は今静岡に移っていたので、ちょっと顔を見ようと連絡した。何とも懐かしい。

彼が連れて行ってくれたのは、駅前のタイ料理屋だった。彼の行きつけの店であり、常連さんも多く、皆知り合いのようだった。タイ人がご飯を食べに来る場所なのだろう。奥さんがタイ人でご主人は日本人。奥さんが主に料理を担当している。美味しいチェンマイソーセージなどが出てきて、ご機嫌になる。

A先生はティーツーリズムの本を出版(チェンマイで知り合ったリー先生と一緒に)するなど、精力的に活動している。タイ北部、アカ族の村の事業推進を、ピアポーンと一緒にやっているらしい。次回機会があれば、私もその村へ行ってみたいがどうだろうか。とても有意義な時間を過ごすことが出来た。再会に感謝したい。

夜8時、A先生と別れ、草薙駅から静岡駅へ引き返して、新幹線に乗る。まあ夜帰る場合は新幹線が何といっても便利でよい。窓の景色も何も見えない。ただ目を瞑っていると、あっという間に東京に着いてしまう。これでもう少し料金が安いと有難いのだが、それは無い物ねだりだろうか。

静岡茶旅2023(2)沢水加へ

大浴場で汗を流し、ゆっくりと休んだ。最近は長く歩くことが辛くなってきている。夜暗くなった頃、そばでも食べようとまた出掛けたが、検索で出てきたそば屋が2軒とも閉まっていたのでちょっと驚く。コロナはまだ続いているのだろうか。フラフラしていると開いている蕎麦屋があったので入ってみた。

磯おろしという名の花柄のような盛り付けのそばが何とも旨い。これはこの店のオリジナル商品だと後から知る。ついでにかつ丼をセットで頼んでいるので、かなり満足できる味と量だった。確か夕飯は軽く済ませるはずだったのだが、食べ始めると止まらない。これも良くない兆候だろうか。宿に戻ると、何と1階のスペースでドリンクが飲め、アイスが食べられ、更にはカレーまでセルフで食べられた。知っていれば外には出なかっただろうから、磯ちらしを食べるために伏せられていたようだ。

4月5日(水)沢水加へ

朝ご飯も思ったより充実している。これはもう完全にドーミインを意識した設定だと気が付く。もしこれで料金が安ければ今後使いたい宿だ。まずJRで藤枝駅まで行き、そこで今晩泊まる宿に荷物を預けた。なぜ藤枝に泊まるのか、は正直何かの間違いのような気がする。ちょっと頭に藤枝があったので、宿を予約してしまったが、ここからまたJRで菊川へ向かった。

昼頃菊川駅に着くと、ちょうどテレビ番組のロケをやっている。それを避けて何とかコミュニティーバスの乗り場を探す。駅前には牧之原開拓にも尽力し、初代静岡県知事になった関口隆吉の像がある。バスは以前丸尾原から乗ったことがあるが、料金は僅か100円で有難い。

やってきたバスにはやはり乗客はなく、運転手さんと話すが、私がこれから向かう沢水加の歴史については、特に知らないようだった。まあ地名があまりにも難しくて読めない、ということは誰でもわかる。そんな話をしていると上り坂になり、僅か10分で沢水加公会堂に到着した。この付近前回丸尾原まで歩いた時に通った道だと思い出す。

バスを降りると茶畑が目に入ったが、それほど多くはない。近所に大井航空隊洞窟というのがあったので、脇道を行ってみる。洞窟へは自然災害で通行できなくなっていたが、その付近には古い茶樹がかなりあり、その昔茶業が盛んだったかも、と思わせるものがある。ここは牧之原台地の入り口、道を登れば現在も広大な茶畑が広がっている。

そしてここは明治時代、茶業の先端だった時代がある。この地で活躍した山田治郎蔵という人のことが知りたくて来たが、今はその痕跡は何もない。治郎蔵は茶業を広め、機械の使用にも取り組み、佐倉産の炭を使って茶業の質を上げた人物。彼が作った茶業研究施設が、後の静岡県茶業試験場になったことを見ても、その先見性が分かるというもの。

村を歩いてみても古い家が見えるだけだった。途中に有名な洋食店があったが、残念ながら閉まっていた。その先に西宮神社がある。ここの脇に『入会地奪還記念碑』があって驚く。この地は明治初期、牧之原開拓に来た武士と地元住民が土地を巡り争った場所らしい。その中で死んだ、大谷内龍五郎という人の墓もここにある。明治という時代は、我々が思っているよりずっと複雑ではないだろうか。神社の周りをグルっと回ったが、それ以上の発見はない。

コミュニティーバスは1日数本しかなく、路線バスのバス停まで歩くとかなりある。ここはいっそ下りを利用して歩いて菊川駅まで戻ることにした。花粉症ではあるものの、気候的にはとても歩きやすい。途中所々に茶畑が見えて、何ともテンションが上がる。日本の春はさくらもあって、とても良い。

JRに乗って藤枝まで戻る。駅前の観光案内所で聞くと、藤枝にも茶町と呼ばれる場所があるというので歩いて行ってみる。徒歩約30分、途中川べりに見事なさくらが咲いている。その先は住宅街だったが、ポツンポツンと茶問屋の姿が見える。観光案内所では『Tea Seven』と呼ばれる、7つのお茶屋さんが藤枝茶を売り出していると言っていた。確かに小売り向けにお茶やお菓子が楽しめる店もあった。

静岡茶旅2023(1)相良へ

《静岡茶旅2023》  2023年4月4₋6日

ソウルから戻り、台湾へ行くまでの間にやるべきことがあった。静岡へ行かなければならない。何だかちょっと疲れ気味だが、そこは何とか張り切って行ってみる。茶歴史の宝庫、静岡!今回は何が出て来るのだろうか。楽しみだ。

4月4日(火)静岡へ

疲れていたせいだろうか。何だかすごく早く起きた。起きたらすぐに出掛けた。朝5時前に出て、小田急+JRルートで行くと午前9時台には静岡駅に着くことは分かっていた。これなら新宿発のバスよりも先着する。今回は駅から線路沿いに新しくできた宿を予約してあるので、そこまで行き、荷物を預けて駅前まで戻る。

そしてバスに乗る。今日は初めて相良へ行ってみる。バスの乗車時間は約1時間。20分に一本程度出ている静鉄バスのメインラインだ。それでも一本早く乗りたくて早足になるのは何ともおかしい。バスを降りると、小堤山公園を目指す。ここに今日のお目当て、山本平三郎の胸像があるという。

山本平三郎は相良物産の社長であり、地域にも大いに貢献した人物。茶業についても熱心で、『深蒸しの父』と称されることもある。地域の人々と茶業発展のために尽くしており、その結果この胸像がある。尚彼の弟が私の常に意識している山本亮台北帝国大学教授だということは付け加える必要がある。紅茶の香りを研究した山本教授とその実家はどのような関係にあったのだろうか。そういえば平三郎は東京農大を出ているが、戦後弟が農大教授になったのも関連があるのだろうか。

公園内はサクラが満開で美しい。胸像の向こうには10を超える記念碑が建っている。その中には森町の村松吉平のものもある。吉平は明治初期の茶業者だが、その後相良油田にも関わったことで、こちらに碑が出来たものと思われる。その他郷土の偉人や天皇関連などが一区画にまとまっているのは珍しい。

この公園の脇にトンネルがある。小堤山トンネルと呼ばれ、1970年に廃線となった静岡鉄道駿遠線がここを通っていたという。1923年頃に造られたかなり古いトンネルであり、既に無くなってしまった鉄道を知る生き証人と書かれているのが面白い。100年前のトンネルを潜ってみる。

相良物産は様々な事業を行っており、今も茶業部がある。会社の前に行ってみると、木造建築のいい感じのお店でちゃんとお茶を売っている。それから腹が減ったので定食屋で食事をして、そのまま海岸へ行ってしばしボーっとしていた。明治期は相良港から茶葉が運び出されたというが、今は実に静かだった。

帰りもまたバスに乗る。本数が多いバスに乗るのは何とも気が楽でよい。何とこのバス路線、直接渋谷に行くバスもあるという。鉄道は通っていないが、人口はそれなりに居るということか。1時間で静岡駅まで戻ったが、そのまま新静岡まで乗って行き、最近できた静岡市歴史博物館へ行ってみる。お城のところにきれいな建物が建っていたが、何故かエネルギー切れを起こし、何も見ずに宿へ戻る。

宿は出来たばかりのオープンセールで安く泊まれたが、大浴場もあり、部屋のベッドも良かった。これから静岡ではこのチェーンを使ってみようか。実はバンコクにもあると聞いていたので、1度泊まろうと思い、今回実現したのだ。サービスもいくつかの宿のいい所を取っているので良い。

関釜フェリーで行く韓国2023(7)青瓦台

記念館を後にして、ランチを探すことにした。ふらふら歩いていると、何故か一本の横道に入ってしまった。そこにはなんと9年前に気に入って2度も行ってしまったとんかつ居酒屋があって、心底驚いた。これは完全に惹きがあったということだろう。今から東京へ帰るのにとんかつもどうかと思ったが、これもご縁と入る。するとそこには9年前と同じようにシンさんが座っていた!

コロナ禍で大変だったようだが、何とか乗り切り、今は夜の居酒屋にもお客が戻っているらしい。取り敢えずつくし定食を頼んだところ、何とカツが2枚とエビフライが付いている。昔は食えたこの定食、今やいくら何でも多過ぎだよ!値段もほぼ変わらずとは、どうなんだろうか。驚きの連続攻撃を浴びる。

つくしを出て、地下鉄で昨日と同じ景福宮を目指す。駅からは昨日も来たので慣れている。今日は宮の後ろにある青瓦台に向かう。ここは現在の大統領になってから一般開放されたと聞いていた。ただ人数制限があり、予約が必要ともネットには書かれている。だが行ってみるとパスポート提示で簡単に入れてくれた。無料だ。

中に入るとテレビでは見たことがある青瓦台の建物が見えた。建物内に入ると立派なロビーがあり、階段で2階へ上がる。歴代大統領(大統領夫人も)の肖像画、執務室など見学する。ここで大統領が北朝鮮問題などで重大な決断をしたのだろうか。公邸の方は木造建築。庭がきれい。周囲のサクラも美しい。

景福宮のすぐ前に国立歴史博物館もあるというので、ちょっと寄ってみた。結構立派な建物だったが、コンテンポラリーヒストリーミュージアムと書かれており、何となく現代アートのような感じだった。景福宮とここの間では大規模工事が行われているが、何が作られるのだろうか。

そこから懐かしの道を歩く。もう30年も前になるが、毎年4回ソウル出張があり、この辺は良く歩いていた。勿論相当キレイになっており、雰囲気も変わっている。定宿だったホテルはかなりきれいな4星ホテルに昇格している。李瞬臣や世宗大王の座像から遠くの山を眺める景色は相変わらずかな。

結局ソウル駅まで楽しくお散歩。預けていた荷物も無事に取り出す。そこから金浦空港まではエアポート鉄道で行く。インチョンまでの速い電車には乗れず、各駅停車でゆっくり進む。料金は僅か150円と安い。時間的にも30分は掛らない。何とも便利な空港だ。羽田よりずっと良い。

空港に着いたが、殆ど人がいない。羽田などと比べてもフライト数が少ない。そして私が久しぶりに乗る日系空港会社のカウンターは2時間半前からしか開かない。しかもWebチェックインし、預け荷物が無くてもここに寄らなければならないという。航空券を貰い、荷物検査、出国審査は実に簡単に終わってしまった。あの羽田空港の大混雑は一体何なのだろうか?

だいぶん待ってようやく機内へ。日系だからサービスは良いだろうと思っていたが、機内食を下げる際、何と私の膝に食べかけの物が付いた蓋が落ちてきた。CAは全く気付かぬふりで通り過ぎてしまう。さすがに『何か拭くものありませんか?』と声を掛けたが、それでも申し訳ない、の一言すらない。床には若干残飯が散らばっていたが、それすら拾わなかったので驚いた。正直食事の質も落ちており、これならアシアナに乗るべきだったと後悔したが後の祭り。これで高い料金を取れるのだからすごい。

羽田には早めに到着。前回バンコクから帰国した際のドタバタを思い出したが、今回は預け荷物すらないので、あっという間に入国し、外へ出て電車に悠々と乗って帰った。短い海外旅だったが、それでも意外と疲れたのは歳のせいだろうか。

関釜フェリーで行く韓国2023(6)戦争記念館へ

ようやくタッカンマリの店に到着した。この付近にはタッカンマリ屋が数軒、そして旨そうな臓物屋まである。入口の女性に日本語で声を掛けられて入店。店内はほぼ満員御礼の盛況。8年前はここに一人で入ったのか、我ながら度胸あるな。早々に鶏鍋が運ばれてきて、はさみで鶏肉が切り分けられる。ここのスープは実に旨い。林さんも黙ってずっとスープを啜っていた。満足の証だな。

帰りも地下鉄に乗るが、途中の乗り換えが全く分からず焦る。慣れれば平気なのだろうが、ソウルの地下鉄もかなり複雑で困る(東京で電車に乗る外国人に気持ちが痛いほど分かる)。乗り違えると大変な方向に行きそうで怖い。林さんが物おじせず、韓国人にルートを尋ねているが、彼らさえも混乱している。思い出したのが、電車の切符は交通カード(Suicaのようなもの)を買えばよかったのだ。今頃遅い。何とか宿へ帰り着く。

3月30日(木)ソウルをぶらぶら

朝8時前にロビーへ行く。林さんが上海に行くため、飛行場へ向かう。我々観光客はタクシー予約が難しいが、フロントの若者が自分のアプリで予約してくれた。実はこのホテル、朝のフロントサービスは無いのだが、特別にやってくれていた。林さん、荷物が多いので助かったはずだ。

彼女を見送り、私は散歩に出た。今朝は幸州山城を目指す。ここは駅の向こう側にあるのだが、駅を通り抜け出来ず、かなりの遠回りとなる。最後は登り坂を何とか登って城跡まで着く。ただ開場は9時からで早過ぎたのだが、何故か開けてくれたので中へ入る。今は公園となっており、入り口付近に権慄将軍の像がある。

この城は朝鮮の役に際して、1593年2月に権慄が立てこもり、日本軍と対峙した場所だった。日本側は小西行長を筆頭に石田三成、黒田長政、宇喜多秀家らも参戦したらしい。ただ朝鮮側はすぐに撤退したという。この戦いに坊さんや婦女子も参加したとされている。現在は緑の多い、実に静かな良い所だ。時間があまりなかったので、途中で引き返す。

10時前に宿を引き払い、荷物を持ってソウル駅に向かった。ところがまたまた電車で迷う。一本早い電車に乗ると、それはソウル駅には行かないらしいと分かり、急遽途中で降りて、何とか難を逃れ、ソウル駅まで辿り着く。1925年に建てられたソウル駅は実に立派な姿を今日も見せている。

まずは荷物をコインロッカーに預ける。だがその方法が分からない。すると後ろにいた黒人男性が丁寧に英語で教えてくれて助かった。でもなぜかドアがちゃんとしまっていないようにも思えて心配する。そのまま駅から歩き出す。地下鉄2駅分歩いて、戦争記念館だった。ここで70年前の戦役について、もう一度勉強する。

朝鮮戦争では、勿論朝鮮人に多大な犠牲者が出ているが、実は各国軍にも被害は出ていた。アジア系ではフィリピンやインド、そしてタイの犠牲者がいた。トルコもかなり多い。イスタンブールに行った時、韓国とは戦友だ、と言われたのを思い出す。尚当然日本人は出てこないが、本当は何人の方が亡くなったのだろうか。

この記念館は非常に広い。建物も大きい。そして古代から行われてきた戦争について多く展示されていて、勉強になる。白村江も朝鮮の役も、そして近代の朝鮮併合に関する歴史も韓国側の視点で克明に出て来る。勿論朝鮮戦争についてはかなりのスペースが割かれており、詳細な内容が語られている。その展示をじっと見つめている軍服姿の若者が非常に心に残った。外には戦闘機などの展示もある。

関釜フェリーで行く韓国2023(5)統一展望台から北朝鮮を眺める

朝ご飯を抜いていたら、迎えに来てくれたK社長がキンバを用意してくれ、車の中で頬張る。何とも旨い。本日は私の希望で、統一展望台に車で連れて行ってもらうことになった。元々一人で板門店へ行こうと思っていたが、手続きなども面倒そうなので、展望台に代わった。

ソウル郊外からだから40分ほど走ると、烏頭山(オドゥサン)統一展望台に着いた。ここは他の地域と違い、事前の許可なく、外国人でも入ることが出来、写真撮影も許されている。何と日本から修学旅行生も来ていた。そして漢江(ハンガン)と臨津江(イムジン川)の合流点にある展望台から北朝鮮側を眺める。私が北朝鮮を肉眼で見るのは、2009年の延辺朝鮮族自治区(中国)以来、実に14年ぶりだったが、対岸に人の気配はない。

外に出ると風が強く、帽子を飛ばされそうになる。70年前この付近でも様々なことがあったはずだが、今やそれを窺い知るものはない。ただ説明では厳冬期に歩いて川を渡って韓国側に来る脱北者は常にいるらしい。朝鮮戦争について説明するビデオが流れる中、何とも言えない気持ちになる。何となくイムジン川という昔のフォークソングを思い出す。

そこからすぐ近くに、K社長の会社があるというので、行ってみる。そこは出版社が集まる一つの巨大な街だった。政府の政策で集められ、もうかなりの年月が経つらしい。当初ソウル市内からは不便であり、評判は良くなかったが、今や郊外の環境の良い住宅地にもなっているようだ。しかし出版業界が38度線近くに集結しているのはどうなのだろうか。面白い形の建物がいくつもある。

市内に戻る途中、林さんの希望で、ランチにカンジャンケジャンを食べに行く。私は正直カニを積極的に食べることはないが、ここのカニは実に見事な見栄えで、分量も多く、しかも抜群の味で驚く。更に釜炊きのご飯、とんかつ、キムチ、うまい汁などがずらっと並ぶ。これで値段も手ごろというから、皆食べに来るはずだ。満腹でかなり苦しい。

そこから車で最寄りの地下鉄駅まで送ってもらい、K社長と別れた。K社長には今回大変お世話を掛けてしまったが、そのお陰でとても有意義なソウル旅が出来た。感謝し、次回の再会を願いたい。林さんと二人地下鉄に乗って景福宮を目指す。かなりの時間乗っていたので、その距離が分かる。

すごく天気の良い景福宮。何と今日は無料開放日だとか。そして各国の観光客、在住外国人が韓国伝統衣装を身にまとい、桜が咲き誇る庭を歩き回っている。この衣装も無料だというから、韓国のインスタ映えを考えたコマーシャルの上手さ、には感心するしかない。話し掛けた外国人の中には日本人もいてお互いビックリ。

そこから歩いて仁寺洞に行ってみる。以前何度か通ったお茶屋を探したが、見つからなかった。ここも外国人観光客が多く歩いており、既に韓国もインバウンド復活を感じる。疲れたのでお茶を飲む。最近仁寺洞にはお茶を売る店、飲ませる店がとみに増えている。これも観光客用だ。我々が入った店も英語が通じる。花茶を飲んでお菓子を頂く。

そこから更に歩いて行く。今晩はタッカンマリが食べたいと思い、以前行った店を目指していく。途中広蔵市場が目に入る。その中を歩いて行くと、既に路上に沢山の店が出て、多くの人が酒を飲みながら、巨大チジミなど美味しそうなものを食べている。思わずここで沈没しそうになりながら、何とか堪える。林さんも、フルーツだけ買う。次回はこの市場を目指すことになるだろう。漬物が豊富で、楽しそうだ。

関釜フェリーで行く韓国2023(4)ソウルの電車で困惑?

昼前に宿をチェックアウトして、プサン駅へ向かう。駅弁はなく、腹も減っていないので、いきなりホームへ向かう。KTXは以前から改札がない。全席指定なのだろうか、車掌が回ってきて、不審な場合のみチケットをチェックするというきわめて合理的な手法を取っている。車両は何となく古びた感はある。外国人も乗り込んできてほぼ満席のように見える。

そこから約3時間、列車は郊外の道を走り抜けるように主要な駅を通って、ソウルまでやってきた。窓から外を眺めていても特筆すべきことはない。ただ70年前北朝鮮軍が南下した道はここだったろうかなどと考えてしまう。車内では原則まだ皆がマスクをつけている。

ソウル駅で降りたが、8年ぶりで方向が全く分からず、反対に歩いてしまうなど手間取る。何とか旧ソウル駅の駅舎から入り、京義線へ。ところが切符がなかなか買えず困る。何とか30秒前にホームに飛び込み、辛うじて乗車した。もしこれを逃すと直通列車は1時間以上なかったので緊張する。

この京義線は日本時代の産物らしい。朝鮮半島から満州方面へ向かったのだろうか。車内には軍服を着た若者が何人か乗っていた。韓国ではいまだに戦争は終わっていないと感じる。駅のホームはほぼ二重ドアが設置されている。20分ほど今回の宿泊地、幸信(ハンシン)駅に到着した。

ここで大問題が起こる。ソウル駅で買った切符を使ってみたが、残高不足だと機械が日本語で言い、外に出られない。チャージしようにもそのような機械設定もない。周囲にはほぼ人がいない。このままでは大声で誰かを呼ばなければならないが、言葉は通じるだろうか。そう思っていると、一つの改札口に非常ボタンがあったので、押してみるとちゃんと英語が通じた。そしてチケットの磁気の問題らしいと判断され、外に誘導され、窓口で保証金の返還を受けて開放された。進んでいるようでアナログな韓国の一面。

駅前は整然としており、ソウルの郊外に来た、という感じだった。歩いて5分ほどのところに予約したホテルがあった。新しくて若者向け、ちょっとおしゃれ。だが電源に繋ぐコンセントがない。韓国はコンセントが違うとは全く思いつかなかった。フロントで聞くと、何とか一つ貸してくれて、充電出来た。実は3月末ということか、ソウル中心部のホテルは予約が難しく、郊外に泊まることになったのだった。

そんなことをしていると、今回会う予定のK社長が迎えに来てくれた。K社長は実に9年ぶりの再会だろうか。何とも懐かしい。更に私の上海時代の中国語の先生、林さんも登場。この3人での再会が今回の主要目的だった。昔話や近況を話していると、K社長の知り合いでYouTuberとして人気の花緒さんも加わった。何だか面白いメンバーで、韓国の話から中国台湾、東南アジアまで幅広い話題に花が咲く。

その後ホテル近くの食堂に移動して夕飯。焼き魚、チゲ、焼き肉など、豪華な料理がテーブル一杯に並び、どんどん食べてしまう。おまけにキムチなどのサイドデッシュが充実しており、いくらでもお替りできてしまうので、腹一杯になるまで詰め込んでしまった。何とも有難い。ご馳走様。

更にスタバに場所を移して、話し続ける。花緒さんのYouTubeは今や2万人の登録者がいて大人気。韓国だけでなく、上海、台北などの滞在経験もあるので、中国語も出来る才女だった。K社長の出版社もいつの間にか韓国で最大手になったというから驚いた。林さんも不動産事業を拡大しており、お気楽なのは私だけ、という場違いな感じがまた良い。

3月29日(水)国境へ

朝はゆっくりと目覚めた。林さんは昨晩あれから韓国サウナへ行ったらしいが、私は疲れていたので早々に寝た。今朝はちょうどよい感じだ。散歩に出た。さほど寒さもなく、歩きやすい。この街には若干古い建物が残っている。教会は周囲に3つもあった。どんな成り立ちでここは出来たのだろうか。朝鮮戦争とも関連があるだろうか。

関釜フェリーで行く韓国2023(3)プサンの倭館

龍頭山に登る。無料エスカレータがあるので助かる。今は公園になっているが、その昔は草梁倭館が置かれていたという。高いタワーの前には、あの救国の英雄、李瞬臣像が建っている。周辺のサクラが見事に咲いていて美しい。高台からはプサン市内が良く見える。下に降りて歴史的建造物の歴史博物館に行ったが、月曜は休みだった。

立派な教会の建物写真を撮っていたら、老夫婦に韓国語で話し掛けられた。とっさに韓国語出来ません、と手を振ったが、先方は『何と不親切な』という感じだった。もしかしたら日本語を口から出せば、通じたのかもしれない。この付近には華人の高級な家が立ち並んでいた。

宿のチェックインには少し早かったので、急に地下鉄に乗ってみた。自販機で切符を買おうと思ったが、意外と手間取る。昔ソウルで地下鉄に乗ると、表示が全てハングルでどちらに乗った良いかかなり迷ったものだが、今は英語と漢字があるので、間違えることはない。中国人が増えてから漢字も増えたので感謝しないといけない。

中央駅から佐川駅まで乗った。1350ウォンなのだが、切符カードのデポジットで500ウォン取られる。これは駅に着くとリファンドの機械があるので、そこに入れれば戻ってくるが何とも面倒だった。佐川駅でコンビニに入り、ポカリを買う。何と日本円で240円もして驚く。コカ・コーラも同じ値段だったので、韓国のドリンクの高さが目立った。なぜだろうか。

歩いて行くと古びた建物が見えた。鄭公壇と書かれている。朝鮮の役で殉節した釜山僉使・鄭撥将軍と共に戦死した部下や民らを追慕して建てられた祭壇とある。境内には鄭将軍とその他の人々の墓碑が並んでいる。そこからかなりの坂を上っていくが、何故か目的地に行けない。Googleも役に立たない。

細い住居道を登り続けて相当に疲れた。目的地である豆毛浦倭館は1600年以降、朝鮮との往来が再開されて作られた倭館。数十年で先ほど訪ねた草梁倭館に引き継がれたため、知る人もあまりいない。そこは現在公園になっているが、韓国語しか表記もなく、何も分からない。ただサクラがきれいに咲いているのみ。

帰ろうと別ルートで降りてくると、何と坂を上り下りしなくても良いエレベーターが設置されていた。これは住民用だろうか、老婆がその乗り方を手招きで教えてくれた。確かにここに住む人々にとってエレベーターはどう見ても必要だろう。何とも有難い。疲れはピークに来たので、ホテルへ向かってまた地下鉄に乗る。

宿の部屋は思っていたより広く、かなり快適だった。ソウルはホテルが高くて取り難かったが、プサンはかなり安い印象。少し疲れを取って休んでいると、また腹が減ってくる。ポッサムが食べたいと思い、検索して近くの店へ向かった。だがその店には韓国語表記しかなく、店員のおばさんたちも無論日本語など話さない。仕方なく食べる仕草をしたら、分かったと出てきたのがゆで豚(スクユ)。ついでに麵も頼んで大いに食べる。これ、時々食べたいな。

まだ陽があったので、プサン駅へ行く。明日のソウル行の切符を買うためだったが、なぜか私が検索した時刻のKTXはない、と英語で言われてしまう。仕方なく言われるがまま切符を買う。6万ウォンというのは日本の新幹線の半分ぐらいの料金だろうか。駅構内を散策して驚いたのが、駅弁屋が一軒もないこと。コロナの影響だろうか?明日の楽しみが一つ消えた。

3月28日(火)ソウルへ

ソウル行のKTXは昼発なので、ゆったりと起きる。朝ご飯でも探そうかと街歩きをしていると古い建物や市場が出てきて面白い。なぜか何軒かミャンマー食堂や食料品店が見られる。出稼ぎ者が多いのだろうか。残念ながら朝飯になるようなもの巡り合えず、折角なのでパン屋に入ってみる。8年前韓国はパンブームだったような気がするが、今や定着したようでどこにでもある。値段も日本よりは高い。2つばかり買って部屋で食べる。