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ある日の台北日記2024その4(3)豪華な手抓飯

街中で、天井の高い、きれいなカフェに寄る。60年前は雑貨店だったと書かれており、何と糧票が展示されていた。中国で糧票を見たことはあったが、台湾にもあったのか。まあ日本でも米配給券が存在していたのだから、不思議はない。切符を切るパチンも飾られているのは何となく懐かしい(日本の鉄道を思い出す)。

前回来た時も入った、異域故事館にも連れて行ってもらう。今日はお祭りなので観客が多い。そして泰緬の歴史に詳しい、国旗屋の老板が説明をしている。ここに展示されている資料、見返す度に発見がある。それは私がまだこのエリアの歴史に精通していないということだろう。Aさん、Uさんもそれぞれの観点で、興味深そうに眺めている。すぐにもチェンマイに戻りたくなる。

昼を大分過ぎてから、食事の時間となる。その理由は食堂の人々がモスクのイベントに参加していたため、用意する時間が無かったことによる。そして何と出てきたのは、「手抓飯」だった。それも見たこともないほど豪華で、量も半端ない。ウイグルではポロと呼んでいたピラフのようなものだけでなく、揚げ物、煮物、野菜などがきれいに盛り付けられており、インスタ映えもすごい。

ラープが何とも美味い。これは特別に予約して作ってもらったらしいが、一人400元は安すぎる。腹がくちるまで食べ続けたが、ついに食べ切れず。そこへスープ、フルーツ、デザートまでやってきたのでもう完全に降参だ。こんな豪華な料理、タイ北部にもあるのだろうか?是非探してみたい。

夜のイベントも見るために残る人々と別れて、一人バスに乗って中壢へ戻る。ちょうど国光号の台北行きが出る直前だったので走って乗り込む。後はぐっすり休む。昨日からちょっと疲れた上に腹が一杯過ぎて眠い。日がちょうどくれる頃、台北駅に着く。重い体を引きずりながら帰る。翌日は完全休養日となる。

4月30日(火)阿里山石棹へ

今朝は早くに起きて、荷物を纏めて桃園空港に向かう。台北駅まで行ったが、MRT空港線までの道のりが長い。台北駅から乗るのは何と初めてかも。空港第一ターミナルで降りるが、空港までも意外と長い。何とか空港に上がり、まずはシムカード購入へ(もうすぐ30日が切れるが、山中では買えないので)。ところが中華電信のブースだと思ったところは間違いで危うく違う会社のシムを買う羽目に。山の中でNTT、いや中華電信一択だと思い、少し戻って中間電信オフィスで無事購入。

Kさんと待ち合わせていたが、なんと出口では見逃し、既に両替を終えてWi-Fiルーターを借りていた。朝のフライトがかなり遅れたという情報だったので油断してしまったが、無事合流。そしてすぐにMRTに戻り、桃園方面へ。ただ乗った車両は、次の空港第2ターミナル止まり。意外と難しいぞ。

何とか高鐵桃園駅まで来て、走って高鐵駅へ。実はあと5分で南行きの列車は出てしまう。出来ればこれに乗っておきたいと急ぐ。自販機で切符を買って、ホームへ滑り込むと、列車も滑り込んできた。ただ席はバラバラ、しかも真ん中席しか開いていない。隣の女性は駅弁を買っている。何と日本人女性の一人旅だったが、彼女は私が日本人とは気が付かなかっただろう。

1時間ほど乗って嘉義駅までやってきた。ここから阿里山行バスに乗るのだが、まだ時間はある。それでも確認のためバス停に近づくと、タクシーの運ちゃんが声を掛けてくる。外国人も数人いるが、皆バスを待っている。こういう時に、一人旅はつまらないが、話し相手がいると、すぐに時間は過ぎていく。この駅からバスに乗ると故宮南院にもすぐ行けるようだ。

ある日の台北日記2024その4(2)龍岡の米干節

夜は持木家で働いていたという台湾人女性の娘さんと息子さんに会う。場所は台中の真ん中、新光三越のカフェだった。正直台北の持木御殿で働いていたということで、お茶との関連は無さそうだったが、折角の陳さんの誘いなので、同席することとした。私に気を使ってわざわざ台北からお茶関係者まで呼んできてくれ、お茶を頂く。

既に70代になる廖さんの話を聞いていると、彼らのお母さんは日本時代に持木の家に住み、確かにお手伝いをしていたようだが、それは奉公人というより、寧ろ花嫁修業だったのではないかと思われた。事実廖さんの家は土城のそれなりの家だったようだから、日本人の家に住み、行儀見習いをして、日本語にも磨きをかけたのだろう。なぜそう思うかというと、持木の人々との付き合い方が、まるで家族のようであったからだ。そしてその付き合いは戦後も続いていたらしい。日本人と台湾人の交流には色々な形があることを知る。

夕飯は高級台湾料理を頂く。正直私は部外者なのだが、持木家の名代のように歓待して頂き、何とも恐縮だった。こんな立派な台湾料理はほぼ食べたことがない水準。話もどんどん出てきたが、その多くが台湾語でよく分からない。ただ分かるのは、持木家と廖家の深い繋がり、そしてそれがここ40年ほど切れていたこと、更にそれが今回復活して喜んでいることだろうか。

食後陳さんの車で高鐵駅へ。廖さんの弟さんとお茶関係者も台北に帰るので一緒に行く。彼らは65歳以上なので、商務車に半額で乗れるらしい。何と私の分まで購入して頂き、初めて商務車両に乗り込む。疲れていてすぐに寝込んでしまったが、どうやら飲み物サービスなどがあったらしい。夢の中で台北まで到着した。

4月28日(日)龍岡の米干節

翌日はまた電車に乗る。実は昨日台中から中壢に来て泊ろうかと考えていたが、台北まで戻った方が楽だったので出直した。中壢で降りてバスターミナルへ行き、ここでAさん、Uさんと合流してバスで龍岡へ向かった。龍岡は以前一度Aさんの案内で来ているが、ここはミャンマーから移住した人々が住む眷村があった。

本日は年に一度のお祭り、米干節を見学に来た。地元の人が案内してくれる。まずはモスクに入る。ちょうど説教の時間だったようで、アホーンのお話を聞くため信者が集まっていた。米干節に合わせて水掛祭りも行われており、多くの人が来ていた。その後皆さん旧交を温め、用意された昼ご飯を取って食べている。モスクの中を見学したかったが、今日もダメだった。いつの間にはUさんはイスラム教徒に交じった服装をして、記念写真を撮っている。

近所の市場も今日は大賑わいだった。タイ、ミャンマー方面の食材もかなり売られている。雲南美食の文字が随所にみられる。ここもある意味で観光地化しているということだ。売っている人たちも、雲南系華人で泰緬方面から移住してきた人々やその子孫であるらしい。今日はお祭りなので、特に屋台も多く出ている。

広場に移るとそこにはこの日のために沢山のブースが出ており、雲南や泰緬のグッズの紹介などがされている。向こうからは民族衣装を着た女性たちが躍りながらやってくる。広場の中でも音楽が鳴り、踊りの輪が広がっていく。これは以前プラーオ山中のリス族の村の踊りを彷彿とさせる。ただ衣装はいくつかの民族の物が着られており、ちょっとしたコスプレ感覚の人もいるかもしれない(泰緬の山岳民族がどれほど台湾に渡ってきたのだろうか)。

楽器を奏でていた男性、メーサローンから移住してきたという。最近も北部タイに行っており、その事情にはかなり詳しい。親族もまだあちらに暮らしているという。きっと複雑な事情があるのだろうが、躍っている時の表情は明るい。我々にも楽しそうに話してくれる。こういう人が今どれだけ龍岡に住んでいるのだろうか。既に移住開始から60年以上、多くの移住者が更に他の場所に移住しているらしい。

ある日の台北日記2024その4(1)魚池の渡辺農場跡へ

《ある日の台北日記2024その4》  2024年4月27日₋5月4日

今回は中部茶旅を中心に。結構クルクル茶産地を回った様子を書いてみる。久しぶりに、歴史的なレア体験を満喫する。これぞ茶旅か。

4月27日(土)魚池と台中で 紅茶の歴史に出会う

高速鉄道に乗って台中に向かった。今日は陳さんが探し当ててくれた渡辺農場関係者の子孫に会うため、魚池へ行く。高鉄台中駅で合流して、そこから車で1時間。懐かしい魚池へやってきた。ただどこをどう走ったのかは分からない。初めての道、山の中へ分け入っていく。

立派な建物が見えた。今は休業しているようだが、ここが目的地だった。渡辺農場で紅茶作りをしていた林火爐という台湾人がおり、今回はその息子、林正育氏、林益輝氏兄弟に会うことが出来た。最上階からの見晴らしは良い。林さんが『ここから見える景色、昔は全て渡辺農場の茶畑だった』と懐かしそうに話す。ここは魚池の茶業改良場とも近く、改良場側から見える山を越えたロケーションだった。

林兄弟の父、林火爐は林口茶業伝習所の第6期卒業生。彼は渡辺傳右衛門に見込まれて、伝習所で製茶などを学び、1年後に渡辺農場に戻って製茶の主力として活躍したと思われる。日本時代、紅茶生産は三井の日東紅茶を筆頭に日本人が作っていた、という言い方をよくされるが、実際に手を動かして作業していたのは当然ながら台湾人ではなかったか。

林は戦後も近所に出来た台湾農林の茶工場(日月老茶廠)で茶作りをしていた。紅茶だけでなく、お茶は何でも作っていたのを覚えていると、林さんは語る。そして『給料は安いし、しかも茶産業が衰退していく中で、私たちが茶業を継ぐという選択肢はなかった』ともいう。

林さんは渡辺傳右衛門の写真を持っていた。『戦後も長い間、困窮していた我々に日本から色々な生活物資を送ってくれた。写真もその中に入っていた』という。若い頃はロンドンであの夏目漱石と句会を行っていたという渡辺はダンディーな老紳士だった。もう1枚の写真には、傳右衛門の奥さんの晩年の姿が写っている。この奥さんについては、以前魚池に住む王さんという林口伝習所卒業生から『子供時代、何度も渡辺さんの奥さんからお菓子をもらった。とても優しい人だった』と、聞いたことがある。

林さんたちが、渡辺茶工場があった場所に案内してくれた。宿舎のあった場所には、小さな茶の木がひっそり生えていた。その向こうの茶工場跡にも建物などはなかったが、僅かに煉瓦が残っているところがあり、ここに工場があったということは分かった。尚この地は民間所有となっており、いつまで放置されているかは分からないという。何とも残念な話だが、それも時の流れだろう。

その後車でレストランに連れて行ってもらった。環境の良い場所にある高級レストランだが、週末ということか満席だった。ここは魚の養殖が有名らしい。美味しい魚、今旬なマコモダケなどを頂く。実に美味い。色々と教えてもらった上、ご馳走にもなってしまい、何とも申しわけないが、これもまたお茶のご縁と感謝する。

午後は和果森林に寄る。昨年6月、このメンバーで東京と高知で森永紅茶の歴史を学んだ旅が何とも懐かしい。ちょうど娘のジョアンが東京でプレゼンするとかで、資料整理に余念がなく、その日本語訳のお手伝いをすることになる。何だか話し込んでいると陳さんが『約束に遅れる』と突然店を飛び出し、台中に向かう。

ある日の台北日記2024その3(4)蘆州の名物

蘆州の名物である切仔麵を食す。実にシンプルな麺とスープだが、これがなかなか良い。内臓系に生姜を合わせて食べると、朝から実にすっきりする。この店も100年は続いているらしい。100年前、この辺には南部から移民が増えていたのだろうか。午前9時過ぎてもお客が入れ替わりでやってくる。

蘆州といえば往時、包種茶に使う花の栽培が盛んだったと聞いているが、今は台北市郊外の住宅地という雰囲気で、花畑などは全く見られない。1960年代には消えていったらしい。近所を散歩すると、非常に大きな廟があり、その昔この地がかなり栄えていた証ではないかと思ってしまう。次回来る時はもう少し勉強してから来よう。

4月26日(金)李春生のご子孫と

本日は李春生のご子孫である李さんを訪ねて、お話を聞く。昨年は展示会の会場で詳しい話を聞いているのだが、やはり聞きたいことが出て来る。今回は李家とその他の台湾五代家族の関係など、なかなか分かり難い歴史を尋ねてみる。すると意外な事実が色々と分かってきて(李さんも最近知ったような歴史すらある)、何とも興味深い。また日本に移住した李家の子孫についても非常に勉強になる。

李さんは今や李春生研究の第一人者であるが、そのサポートをしている楊さんとも初めて会った。相当細かい文献なども読み込んでおり、今後出版などの計画もあるようだから、大いに期待したい。ただ残念ながらお茶と李春生についての歴史はどうやってもほぼ出て来ない。何とも不思議なことだが、『台湾茶業の父』なのに無い物はない。

李家をお暇すると時間があったので、数年ぶりに新純香に行ってみる。何だかお店もきれいになり、すっきりした印象がある。店主の王さんは相変わらず元気そうで、サクサクとお茶を淹れながら、今年のお茶の出来などについて日本語で説明してくれた。横で店のスタッフが聞き耳を立てており、お茶の試飲も常に行い、勉強に励んでいるのがすごい。

店には日本人客が何人も入って来て、サクッと試飲してどんどんお茶を買って出て行く。『今日あたりからゴールデンウイークのお客さんが増え始めた』と王さんは説明する。日本人が海外に出なくなったと言われて久しいが、台湾だけは特別のようで、まだ日本人観光客向け商売が僅かに成り立っている。

夕飯を食べに、懐かしい客家料理の店へ行った。7時に予約したと聞いていたが、案の定7時には誰も来ない。すぐにSさんが駆け込んできたが、その奥さんとH母子は当然のように遅れてくる。大きな買い物袋を提げた人々がやってきたのは30分後だったが、まあ許容範囲だろう。

このメンバーは北京で一緒だったので、何となくその行動様式は分かっているが、会うのは実に久しぶり。特に娘のAちゃんは、子供がそのまま大きくなったような雰囲気でビックリする。今やデザイナーの端くれらしいと聞くと、なんだか北京のおじさんとしては喜ばしい。

ここの料理は前回同様美味しい。特に味付けが良くご飯が進む。お客は常に満員御礼で、席はかなり狭い。それでも客が押し寄せるというのは、やはり美味しいからだろう。隣で台湾人のおじさんが酔っ払って大声で話しているが、あまり気にならない。ビールは自分で冷蔵庫から取ってきて自分で飲むスタイルだ。こういう店もだんだん少なくなっていくのだろう。

ある日の台北日記2024その3(3)台湾白茶の歴史

4月22日(月)台湾白茶の歴史

先日寄った台湾紅茶の東門店へ再度向かう。今日は予め羅さんに連絡しており、彼と話すためだった。『台湾白茶の歴史』について、事前に調べたい内容を伝えておいたら、大変興味を持ってくれた。羅さんの実家では、紅茶や煎茶作りが多かったと思うが、お茶全般に関しても、様々な知見がある。

更に羅さんに質問をぶつけていると、ちょうどいい人がいると電話してくれた。そしてすぐに頼さんがやってきた。彼は包種茶などに詳しいそうだが、1950₋60年代に一般台湾人がどんなお茶を飲んでいたのか、などを話してくれた。『元々台湾人はどんな茶を飲んでいたのか』は私の重要テーマであり、貴重な話を聞く。

この話しの中から、香港に輸出された台湾白茶の正体も見えてきた。白茶というか、日本で言う番茶のようなものは、日本時代から既にあり、台湾では『大鍋茶』などとも呼ばれ、飲まれていたのだろう。これで何となく謎が解けてくる。やはり現地にいることによるアドバンテージは大きい。コミュニケーションも進み、解決してくれる人も見付けやすい。

調査に責任を負っている訳ではないが、何となく肩の荷が下りた気分だ。気持ちが落ち着くと、腹が減る。ということで、自分へのお祝いに台湾メシをたくさん頼んで、思いっきり食べる。こんなことも偶には必要だ。台湾メシの歴史も知りたいテーマだが、人の一生は短いだろう。

4月23日(火)台湾図書館で

今回の花蓮地震からちょうど20日経ったが、実は余震(又は新たな地震)は結構続いていて、眠りは浅いままだった。今朝はちょっと大きめな揺れが来て、また地震を思い返す。日本人は台湾に来て、台湾を元気づけようというニュースも流れているが、日本と比べても少しリスクが高いのでは、と考えてしまう面もある。

昼前に最近お気に入りの弁当屋で食事を取り、そのまま図書館へ向かった。台湾図書館の上の階は1年間閉鎖のはずだったが、なぜか6階は開いているという。それで6階まで上がってみたが、台湾日々新報の閲覧は出来ないというのだ。ではなぜ開放しているのだろうか。更に1週間前は2階で閲覧できたPC検索、何故か1階に移動したという。そこで1階で聞くと、奥の方にある別室に案内されたのだが、何とそこではUSBへの取り込みが出来ないというのだ。

さすがに変わり過ぎていて驚いてしまった。係員にそれを告げると、どうも図書館内のシステムに問題がある、ということらしい。そして最終的に1階の一般閲覧で、全く普通に閲覧し、取り込みも出来てしまった。何ということだろうか。よく分からないが、それから4時間ほど、取り込みに勤しんだ。元々知りたかったことは、上手く見付からなかったが、他の資料が色々と出てきて面白い。今日も帰りにお祝いの牛肉麺を食す。

4月24日(水)蘆州へ

今朝はMRTに乗って大橋頭駅へ。前回木柵を案内してもらったUさんとのグルメ散歩第2弾である。大橋頭駅で待ち合わせ、更にMRTに乗って蘆州方面を目指す。終点の蘆州の一つ前の駅で降りる。今日は天気が悪く、残念ながら雨が降っていたので傘をさす。大きな通りからちょっと入ると、そこはレトロな街並み。その一軒で朝ご飯を食べることになる。

ある日の台北日記2024その3(2)ミャンマー街の正月

仕方なく他を当たる。しかし意地でも上海料理にしようということになり、かなり歩いてもう一軒に辿り着く。ここは昨年1度来た所。土曜日の昼でほぼ満席だったが、奇跡的に2人席が空いており、滑り込む。店がきれいで場所も良いのだが、意外と安くてうまい、という穴場だった。

味付けが濃い目のタウナギや菜飯などを食べていると、何となく37年前の上海が蘇る。Bさんと当時それほど接点があった訳でもないが、同じ空気を吸っていた、そして今も同じ空気を吸っていることに、必然性を感じてしまう。当然上海時代の話しに花が咲く。あれから随分と時間が経ったが、今の上海はもう我々の知る場所ではない。

その後カフェに移って更に話を続ける。Bさんは俳優や歌手などをやっているが、なんとラジオパーソナリティーというのもやっている。今度その番組に出て欲しいと言われ、何となく承諾する。ラジオでお話しするなんて、もう10年以上なかったかもしれないので、ちょっと興味が沸く。

4月21日(日)ミャンマー街の新年

タイの正月はソンクラーン、水掛祭りだが、何と台湾でも水掛祭りがあると聞き、興味本位で出掛けてみる。場所は例のミャンマー街。かなりの規模のイベントが開催され、人々が集まっていた。中には北タイから来た華人などもおり、その繋がりが思い起こされる。国民党議員など政治家も来ており、テレビ中継が入っている。やはりここは政治が絡むのだろうか。

開幕イベントの背後の限られたスペースで、子供たちが水掛けに夢中になっている。バンコクなどでは、道を歩いていても無作為に水を掛けられ、バスに乗っていても乗り込んできて水を掛けるので、不愉快極まりない祭りという印象だったが、こちらは可愛らしいものだ。常連のAさんもカフェの椅子に陣取って状況を眺めている。先日のUさんは当然のように来ており、約束無しでもいつの間にか合流する。

それから台湾大学の学生(留学生を含む)が我々に合流した。ミャンマー街という響きに興味を持ったのだろうか。水掛祭りが気になったのだろうか。市場を抜けて昼ご飯を食べに行く。だが行きたかった店は、既に麺が売り切れとなっていた。すぐ近くの店が開いていたので、そこで麺を啜る。

私がお茶の歴史を調べていると告げると、中国から来た留学生がいきなり、自分の知っている茶芸館の話をまくしたててきた。正直私の方が茶の歴史知識はあるはずだが、彼はお構いなく一方的に話を進める。同室だという台湾人は黙りこくって下を向いていた。実に久しぶりにこういう中国人に出会った。私が簡単な質問をすると彼も黙ってしまい、本当に残念だ。日本人留学生は私が北京にいた頃、母親と共に北京にいたらしい。共通の知人が多い。食後は疲れたので、一人帰る。

夕方また外へ出た。日曜日は近所の食堂は閉まっているところが多いので、新規開拓を目指した。横町を入ると鴨という文字が目に入り、吸い込まれた。暑い日だったので鴨肉乾麺を注文したら、乾麺に鴨肉を乗せるのは美味しくないぞ、と店主が行ってきた。別々に注文したら、代金は倍になってしまった。美味しかっいたから許せるとはいえ、何なんだろう、このモヤモヤは。店主は私を日本人と見抜いており、そこがちょっと。

ある日の台北日記2024その3(1)潮州料理を食べに行き

《ある日の台北日記2024その3》  2024年4月18日₋4月29日

今回は引き続き台北での活動。どうしてもご飯を食べる話ばかりになるが、これもまた仕方がない。

4月18日(木)広方園へ

ちょっと疲れてきたので、お休みする。だが腹は減る。昼は近所の弁当屋へ行く。12時過ぎているのでかなり混んでいる。どうしようかと思っていると、何と2階があることを発見した。2階に上がるとかなり広いので驚いた。上まで弁当を持ってきてくれ、出汁の効いた味噌汁も自由によそえる。ここのご飯は悪くない。これからはここで食べよう。

午後はMRTに乗って双連へ。1年ぶりの広方園へ行く。新しい店員が座っているなと思っていたら、何と袋詰め待ちのお客さんだった。湯さんとはいつものようにお茶の歴史の話で盛り上がる。台湾には外に出ていない秘められた歴史がいくつもあるものだ。プーアル茶の歴史について聞くつもりだったが、時間切れに終わる。

4月19日(金)潮州料理を食べに

台湾白茶の歴史調査が難航していた。文献や統計資料にはない話なので、調べようもない。イライラすると腹が減る。久しぶりに安い弁当屋へ行く。相変わらずの大盛りで、大盛況だ。昨年より10元上がって80元になっているが、それでも安いので、11時には老人たちで溢れかえっている。

夕方また外へ出た。今晩は先日ミャンマー街、そして政治大学で一緒だったUさん、Aさんと潮州料理の店に行くことになっていた。台湾には潮州料理の店は沢山あるが、今やどこも高級店。そうでなければ戦後外省系潮州人が持ち込んだ料理であり、戦前から居る潮州人の料理屋はすでに消えてしまったと昨年認識していた。

今回は恐らく外省系ではあるが、その中でも潮州人が集まると言われた店を訪ねた。1960年創業とあるから間違いはない。汕頭の文字も見えている。店自体は改修済みなのか、とてもきれいで拍子抜けした。沙茶牛肉乾麺がお勧めらしい。沙茶の由来も諸説あり、その歴史は難しい。取り敢えず牛肉は美味しい。店に来る人も、勤め人が帰りがけにさっと食べて帰るファーストフード店のような感じで、潮州人が集まって食べているという雰囲気はない。まあこれが現代台湾の潮州だろう。

食後デザートを食べに行く。ところがその老舗は客が外まで溢れていて、断念。後で聞けば、ここはインドネシア華人が始めた店だとか。台湾にはまだまだ知らない複雑な華人の歴史がある。近くのおしゃれなカフェに入り、話し込む。このメンバー、いつまでも話し続けられるのが良い。気が付くと11時半を過ぎていた。もうMRTもバスもない。『歩いて帰れば』と軽く言われて、歩き出す。夜風が気持ちよい、ほぼ人がいない道を歩く。こんなことは最近なく、新鮮な夜だった。

4月20日(土)上海料理を食べながら

週末は外に出ないでお勉強、は今回完全に崩れている。今日もまた出掛ける。同じ時期に上海に留学し、今も付き合いが続いているBさんと会うために。今回は懐かしの上海料理を食べようということで待ち合わせたが、店は開いているのに、店の外にBさんがいた。何と店主一家は海外旅行から今さっき戻ったばかりで、今日は臨時休業だという。今店で食べているのは、家族の食事だと説明されると諦めざるを得ない。

ある日の台北日記2024その2(5)台湾大学植物標本館、そして畲族

なぜ標本館へ行くのか。それは1935年に谷村愛之助(試験場場長)と持木壮造が中部の山中に分け入り、茶樹の原生種を発見したと言われているが、その原本がここに保存されていることを陳さんが突き止め、見学の予約をしてくれていたのだ。私は以前持木のご子孫からこの時の写真を見せてもらっており、当時の茶業界にとっては非常に重要だと考えていた。

それにしても標本館はレトロだった。レトロというか、昭和というか、日本時代に設立されて以降、何も変わっていないかのように見えた。その重厚な室内を縫っていくと、そこに標本が用意されていた。確かに谷村の文字がある。徐々に自分が興奮してくるのが分かる。まさか90年も前の物を目にすることが出来るとは。

谷村の後、台北帝国大学の植物学者が2度ほど山中に分け入っていた。それも残っている。更には戦後橋本実氏の調査団が収集した標本も保存されており、何とも驚いた。植物学とはなんと面白い学問なんだ。この標本館の中には一体どれだけの標本があるのだろうか。同時にどれだけの資料が残されているのだろうか。取り敢えず日本時代に活躍した植物学者について学ぶ。

標本館を出て次に向かったのは、磯小屋。蓬莱米の磯永吉の研究室が展示場になっている。そこに入ると、案内人が説明をしてくれる。磯が使った物などが残されている。戦後も長く台湾に残ったこともあり、磯の名は知られている。私は磯永吉と山本亮の関連を知りたくて、訪ねてみたが分からない。ただ磯永吉に関する本が出版されており、それを今回ゲットできたのでゆっくり見てみたい。

昼ご飯を食べると為、銀座という店を探した。和食屋かと思いきや、何とベトナム華人が開いたベトナム料理屋。しかも店の看板メニューはカレーだというから驚きだった。混雑する店で何とか席を確保してカレー麺にありつく。店主は3代目で、初代が子供の頃、ホーチミンのショロンに住んでおり、近所にあった日本人経営の食堂で食べたカレーが忘れられなかったとの由来を聞く。

それからAさんとバスに乗る。今日は忙しい日だ。ずっとバスに乗り、木柵まで行く。政治大学でUさんと待ち合わせて、政治大学の先生に会う。Uさんが先日話していた畲族の女性だった。まさか台湾に畲族がいるなんて、本当に思い掛けない出会いだった。だが彼女の専門はモンゴルであり、万里茶路については知っていたが、畲族の歴史は研究したことがないという。畲族とお茶に関しては何も分からないらしい。

それでも台湾には全土に藍氏宗親会が存在し、交流しているという。そして最大の驚きは、先祖が200₋300年前に渡って以降は、ずっと漢族として生きてきており、自らが畲族だと知ったのは、1980年代の改革開放期に、故郷を訪ねて初めて分かったという事実だった。そう考えると台湾に渡って人々の中には漢族だけではなく、少数民族など様々な人がいただろうことが容易に想像できる。そして『台湾人とは一体?』という疑問が大きくなっていく。

まさに衝撃の出会いだった。大学を後にしてもボーっとしていた。突然思い出したのは、この近所に張協興茶行があるはずだった。店は昔と変わってはいない。しばらくすると老板が出てきて、歓待してくれた。お茶を飲みながら懐かしい話をする。彼のお父さんに話しを聞いたのはもう5年も前のこと。残念ながら3年前に亡くなられたというから100歳の大往生だ。またバスに乗り、長い、そして濃い1日を振り返りながら、ゆるゆると帰る。

ある日の台北日記2024その2(4)東門の台紅へ

午後はネットで台湾のバラエティ番組を見てみた。ジョンドッドが台湾烏龍茶の父、李春生はやはり台湾茶葉の父、そして新井耕吉郎は台湾紅茶の父として紹介されていた。とにかく何でもかんでも、父を造り出したいらしいが、史実を検証しているのだろうか。それが視聴者に分かりやすいということだろうが、如何に修正していくかが課題だろう。更に姜阿新まで登場してきたのは、ドラマ『茶金』の影響が大きいのだろう。まあ、茶の歴史が一般人に知られるようになること自体は悪いことではない。

4月16日(火)東門の台紅へ

何だか以前から気になっていた馬租麺の店に入ってみた。馬租には行ったことがあるが、そんな有名な麺はあっただろうか。台北市内でいくつも見ているので、これはチェーン店ということだろう。店内ではおじさんが3人ほど食べていたのだが、誰も麺を食べていない。皆が炒飯を頬張っている。私も急に方針転換して、炒飯を注文する。ただ炒飯といってもカレー炒飯だ。ついでに福州魚丸湯も頼む。ここはやはり福州系の店なのだろう。このカレー炒飯、日本で言えばドライカレーというべきか。これは実にうまい。スープも旨いので、これで十分。おじさんたちが食べている理由もわかる。

フラフラ歩いて行くと、そこに古本屋があった。日本では以前はよく通った古本屋だが、台湾で入ったことがなく、ちょっと覗いてみることとした。地下に潜っていくと、そこは意外にきれいな空間だった。そして思ったより本の数が多い。分野もきちんと仕分けされていて探しやすい。

お茶関連の本もいくつかあり、しかも昔私が図書館でコピーした本まであったので、思わず購入してしまった。2冊購入しようとすると、係員が『500元以上買えば、次回から2割引きですよ』と促し、もう1冊買ってしまった。次回があるかどうかわからないが、また来たいとは思ってしまった。

そこからまたフラフラと歩く。青田街辺りはどんどん日本家屋が改修され、きれいになっている。カフェなども増えている。歩いていて気持ちが良い。そして永康街まで歩きつく。そうだ、東門に羅さんたちの店が新しくできたと言っていたから行ってみよう。鼎泰豊のすぐ近く、パン屋の2階、絶好のロケーションに、その店はあった。

入ってみると羅さんはいなかったが親戚の男性がいて、親切に対応してくれた。店内は台湾紅茶の輸出の歴史などが展示されており、お茶を飲むこともできる。永康街で疲れたら、ここで休むのが良いかもしれない。パン屋さんとのコラボ企画でもあり、既に日本人観光客も多数訪れているという。ここなら、わざわざ新竹まで行かなくても、気分が味わえる。

4月17日(水)台湾大学植物標本館、そして畲族

今日は朝から張り切って台湾大学へ向かう。今日は台中から陳さんもやってくる。Aさんも参加する。台湾大学植物標本館に集合した。私は過去何度も台湾大学に行っているが、ここは全く初めてだった。周囲には学生寮がいくつもある。古めの建物が目を引く。天気も良いので、つい付近を散策してしまう。

ある日の台北日記2024その2(3)ラマダン明けのお祭りへ

4月14日(日)ラマダン明けのお祭りへ

今日は午前中からお出掛け。近くにある大安森林公園で開催されるラマダン明け祭りに行くことにした。Aさんと待ち合わせていると、公園に続々と参加者が入っていく。その顔は華人系もいるが、東南アジア系、中東系など実に様々で驚いた。そしてみな、楽しそうに記念写真などを撮っている。

会場には多くのブースが作られており、食べ物が沢山売られていた。ただお客さんの方が多くて、Aさんが食べたかった弁当は売り切れていた。中国回教教会というブースがあり、2人の女性がいた。聞いてみると、1人は親が1949年後に台湾に渡ってきた河南の回族。もう一人は以前留学で台湾に来ており、今回は内戦で2年前にこちらに避難してきたというミャンマー華人の女性だった。とにかく子供が心配だったという言葉が刺さる。

モロッコの雑貨、トルコのスイーツ、インド系のカレーなど、多くのブースが賑わっている。ただ一番多そうなのはインドネシア系だろうか。人口も多いし、台湾への出稼ぎ者もかなりの数に上る。公園のベンチでランチの麺を食べるのは何とも気持ちが良い。このままボーッと芝生に寝転がりたい気分だ。

人々が集会場に集まっていく。何らかのイベントがあるようだ。後ろの方から歓声が上がり、まるでアイドルスターが登場するように、女性たちに囲まれた人がやってきた。蒋台北市長だった。蒋介石一族で若手のホープだと聞く。開幕式典が行われ、市長とインドネシア代表が挨拶していた。インドネシア勢の勢いを感じると共に、蒋市長に台湾の将来を見る。果たしてよい未来だろうか。

一旦宿に戻り休息。夕方また出て行く。MRT頂渓駅で降りて、10数分歩く。もう完全な住宅街だな、というあたりにその店はあった。今日は黄さんと会う予定で、また老舗レストランを紹介してもらう。黄さんの奥さんも一緒だった。上海料理の懐かしい味がしてきた。有名人も来るという店で、落ち着きがあってよい。

黄さんからは、台湾に居る民族について、多くのヒントをもらった。台湾は小さな島かもしれないが、実はかなり深い歴史がある。特に民族については、多くの疑問があり、そう簡単に片付けられる問題ではない、と感じている。より深くこの問題を突き詰めるつもりはないが、私の茶歴史勉強にはその辺の理解が欠かせない気がする。

4月15日(月)茶商公会へ

毎年台湾に来るたびに訪問している茶商公会へ今年もお邪魔した。昨年は台湾最古の茶商について有益な情報を得たが、今回は『台湾白茶の歴史』について聞いてみる。こちらに置れている資料などにも当たるが、残念ながら台湾白茶の輸出は統計資料にもない。なぜだろうか。

公会オフィスの入り口のところに、李春生の写真が飾られている。そこには『台湾茶業の父』という文字が見えたが、よくよく見ると『茶業』の業という文字が後から貼られていた。聞いてみると元々は『茶葉の父』だったようだが、それはおかしいということで、ようやく『茶業』に収まったという。歴史というのは何とも不思議なものだ。何かを発見すればそれが歴史になるが、それがまた違っていた場合、その修正は難しい。

昼ご飯は昨年も行った店に入る。何を食べようかと迷っていると、何だかどんどん印をつけてしまい、気が付いたら、テーブル一杯に料理が並んでしまった。昔ならおばちゃんが『あんた、一人でそんなに食べる?』なんて声を掛けてくれただろうが、今は配慮が大切なのか、そんな声は聞こえない。とにかくできるだけ食べる。腹が一杯で動けない。