台湾南部ぶらり茶旅2015(13)鹿野 バイクを追っていく茶園

食べる場所がない夕飯

車で民宿へ送ってもらうと外はもう暗かった。この宿には朝食は付いているが、夕飯は付いていない。奥さんが、門を出て2分の所で食べられるよ、と教えてくれたので、そこへ行ってみたが、そこは食堂に見えず、最初は雑貨屋か何かだと思ってしまう。よく見ると奥にテーブルがあり、食事ができるようになっていた。だがお客は誰もいない。おばさんと娘が暇そうにテレビを見ていた。

 

『何か食べるのか?』と聞かれたので、『何ができるのか』と聞くと、そこに貼ってあるもの、と言われた。良く分からないので炒飯と野菜炒めを頼むと、ちゃんと出てきた。そしてそれが意外とウマイから面白い。台湾というところは何気ないものが美味いと時々思うのだが、まさにそれに当たる。

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腹も減っていたので、思い切りかき込んで、支払いをすると100元だった。安い!店を出て少し散歩してみたが、何とこのメインストリートにレストランはおろか、食堂と呼べるものすら1つも見付からなかった。おじさんたちは自宅前で酒を酌み交わしている。唯一神社の横に立派なホテルがあり、そこなら食事ぐらいはできるだろうが、とても一人で入っていく感じではない。既に宴会でも始まっているのか、カラオケの音が外まで鳴り響いていた。

 

鹿野では夜は全くやることがない。シャワーを浴びてしまうと、ネットは繋がるので、メールを返信したり、旅行記を書いたりして過ごす。ここのオーナー一家も奥の部屋に引っ込み、階下の家族もとても静かなので、早めに寝ることにした。涼しいし、快適なベットに潜り込み、眠りは深かった。

 

11月15日(日)

翌朝は当然早く起きた。散歩に行こうかと考えたが、民宿の庭をくるくる回るだけで十分満足した。それほど広い訳ではないが、手入れが行き届いており、ベンチに腰掛けてみたり、深呼吸してみたり。そんな朝があってもよい、と思わせるような雰囲気があった。その内に朝食の用意が整い、台南の家族と一緒のテーブルに着く。子供が三人。車で来たという。

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自家製のパンと、庭で採れたフルーツ(グアバかな)を頂く。これは大そうなご馳走だった。この一家は『半分農業をやりながら、田舎で暮らす』ということを実践するため、6年前に台北から移住してきたのだとか。近くに土地を借りて、野菜なども作っているらしい。そんな生き方もあるな。

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バイクの後ろから

食事が終わって少しすると、奥さんが『行こうか』という。今日もまた知り合いの茶農家を紹介してくれるらしい。奥さんはバイクに乗る。奥さんの後ろに乗るのかと思っていると、私には自転車を貸してくれた。奥さんが公道に出る。私は慌てて後を追う。平地とはいえ、これは結構きつい。

 

勿論奥さんはゆっくり走ってくれているのだが、そこはバイクのスピード。こちらは全速力で漕がざるを得ない。バナナ畑などのどかな道を走って行くが、風景などは見に入らない。写真を撮る余裕もない。何とか帰り道を覚えて、ひた走る。僅か15分ぐらいだったと思うが、この涼しい鹿野で全身に汗をかく。いい運動ではあったが、後日の足の痛みが怖い。

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紅烏龍の茶農家

何とか追い付くとそこには茶園があった。新峰茶園。茶工場があり、その前には茶園が広がっているが、取り敢えずは奥さんについて、店舗に入っていく。そこでご主人、廖さんに紹介され、奥さんは『帰りは廖さんの軽トラに自転車を載せて、送ってもらうように頼んだからね』と言って帰っていった。どこまでも親切な人だ。お言葉に甘えて、そこに残った。

 

店には先客が三人いた。台中から遊びに来たおばさんたちで、久しぶりの再会らしく、かなりうるさい。廖さんはお茶を淹れながら、質問に1つずつ丁寧に答えている。別に彼女らはお茶をやっている訳でないので、相当に基礎的な質問やこの地域に関することなど、私から見ればどうでもよいことを話しながら、ケラケラ笑っている。ようは仲良しが、女三人旅を楽しんでいるだけなのだ。お店も商売だから、ずっとそれに付き合っている。台湾的だ。

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また廖さんが『聞きたいことがあれば聞いて』と言ってくれるのだが、この状況下、なかなか難しい。商売の邪魔もできない。彼は本を取り出してきて、『これが鹿野の村史だよ』という。眺めてみると、日本人が入植してからの歴史および写真が多く載せられており、大変参考になる本だった。特に1915年に入植後、入植人数はそれほど増えなかったこと、日本人の周囲には客家の人々が既に相当数住んでいたことなどが分かって興味深い。この時期、日本人と台湾人、そして原住民や客家などは、どのように共存して暮らしていたのだろうか。支配者である日本人とは言っても、移民である彼らの立場はどんなものだったのだろうか。

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