京都茶旅2015(4)神護寺と文覚上人

西明寺

高山寺を出て、道路沿いに歩いていく。ガイドブックによれば、西明寺という寺まで歩いて15分ぐらいかかることになっている。ゆっくり行くと、道端に『茶山栂尾』という石碑があったりする。清滝川が横を流れている。やはりこの辺に茶が植えられたのだろうか。橋を渡ると、いい雰囲気の横道があり、そこを気持ちよく歩いていく。人は誰もいない。静寂の秋。

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すると私の横を1台の車が通り過ぎ、西明寺に入る橋のところに停まった。台湾人カップルがレンタカーを借りて、この辺を回っていた。指月橋、この付近は緑が濃くなり、実に美しい。これは絵になる風景だと言える。台湾人も、この誰もいない静かな風景にしばし見とれて、橋の上に佇む。苔のむす階段を上がっていくと、そこに西明寺の門が見えてきた。

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西明寺は三尾の名刹の1つ、また紅葉の名所だとある。ここも来月には人で埋まるのだろうか。私は紅葉も見たいような気もするが、今の、この誰もいない光景を更に愛する。本堂の右手にきれいな庭があったので、そちらへ入ろうとすると、奥さんが出てきて『そちらは開放していません』といわれてしまう。それでは仕方がない。脇から写真に収めて立ち去る。

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左の方へ行くと、墓石が並んでいた。ここが寺院であることをうっかり忘れてしまっていた。その前には茶の木が少し植えられている。恐らくは寺の僧侶が年に1度ぐらい摘み採って茶を作っているのだろう。元々京都の各寺には茶園があり、こんな風に育てていたのかな、と思う風景だった。高山寺が最古の茶園かどうかは別として、茶と仏教の繋がりを考える。

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神護寺

寺の裏門を出て、そこからまた川沿いを歩いていく。もし2つの寺だけ見るであれば、道路に出てバス停を探すのだが、せっかくここまで来ており、まだ時間も相当に早いので、3つ目の寺を目指した。神護寺、そこはかなりの急な階段を登っていく。長い参道、既にかなり歩いており、これは疲れる。しかしここも明恵上人所縁の場所であり、歯を食いしばって登る。

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神護寺といえば、文覚上人が空海ゆかりの寺が荒れ果てているのを悲しみ、その寺の再興を後白河法皇に強訴したところ。文覚自身は罪に問われて対馬に流され、死んでいくが、その弟子上覚によって再興がなる。上覚の甥が明恵であり、彼も一時、神護寺に滞在している。

 

ようやく山門にたどり着く。門を潜ると、意外や平地があり、金堂、多宝塔、大師堂、鐘楼などが見える。この寺は、道鏡によって流罪となった和気清麻呂が、和気氏の私寺である神願寺を建立したことから始まるらしい。清麻呂の墓があるというので、そちらに歩いていく。山に登る道があり、『文覚上人の墓』という表示があったので、まずはそちらへ行ってみる。ちょっと登れば墓に着くと勘違いしていたのだが、これが大変な山道を20分以上登り続けた。途中で断念しようとも思ったが、何だか文覚上人に導かれてしまったようだ。

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何とかたどり着くと、そこは見晴らしの良い山の頂近く。何とそこには後深草天皇の皇子の墓もあり、宮内庁管轄となっている。その横に文覚の墓も並んでいた。墓自体はシンプルだが、寺を再興した文覚の位置付けが良く分かる。文覚は源頼朝に決起を促したり、後白河法皇とやり合ったりと、日本の歴史上に名を残す、重要な人物だと思うのだが、その彼がいつ死んだのかさえ、定かではないというから、本人はさぞや無念の最後であったろう。

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帰りはまた急な坂道を下りていく。そしてふもとまで来て、道を変え、和気清麻呂の墓へと向かう。こちらはすぐそこにあった。かなり疲れていたのでホッとする。いくつか墓石が見えたが、最終的に見つけた清麻呂の墓は、何となく古墳を連想される、盛り上がった造りとなっていた。高貴な人物の墓は奈良時代でもこのようだったのだろうか。ちょっと興味が湧く。

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神護寺の鐘楼を横目に見ながら、山門を潜る。あの階段は急すぎて降りたくないと思い、車が通れる別の道を下りてみる。下まで降りていくと、川沿いの景色がとても良い。自分の体力を自問すると、『まだ大丈夫』ということで、川沿いにトレイルを開始した。実は既にこの時、体力的にはかなり消耗しており、また昼ご飯も食べていなかったので、無謀であったことを後で思い知ることになる。

 

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