《北京歴史散歩2008》(10)宣武門付近

【宣武門】2008年5月17日

朝の鍼灸を終わって外を見ると雨が降りそう。しかも肌寒い気温。うーん、偶には散歩しようと決めていたのだが。今週の四川大地震は未だに救助活動が続いている。雨が降っているようだ。私も雨の中散歩を決行することにした。

1. 楊継盛故居
地下鉄2号線、宣武門駅下車。地上に上がると斜め向かいにそごうデパートが見えた。9年前北京に赴任した際、そごうがあるというので一度来たことがある。当時の家からは相当遠かった。結果的にはそれ程の成果が無く(欲しいものがなかった)、空しく帰った記憶がある。

当時既にそごうは傾いていたはず。香港のそごうも名称だけになっていた。しかし今回仰ぎ見るとビルが2つになっており、大きくなっている。一つはそごう百貨、もう一つは庄勝広場とある。どうしてこうなったのか??

 

そのそごうの道(宣武門外大街)の反対側をふっと横に入る。達智橋胡同である。近くに近代的なビルがあるのとは対照的に昔ながらの横丁。小さな店が軒を並べていた。この中に楊継盛故居があるはずだが・・??

すっと通り過ぎてしまった古びた建物、前では野菜を売っているなんでもない建物、そこにプレートが嵌っていた。『楊椒山祠』、楊継盛は椒山と号していた。明代の英雄、楊継盛は科挙の進士に合格し、将来は宰相の器であったが、皇帝のお気に入り、厳嵩の恨みを買い獄に繋がれる。硬骨の士は三年間の苛烈な拷問の果て、祠近くの菜市口で処刑された。

それから230年、清代の1786年、御史によってこの祠は建てられた。現在は中にも人がいて、商売に使われている。この祠が歴史に登場するのが1895年、康有為ら挙人1000名以上が集まって光緒帝に奏上した『公車上書』事件の舞台となる。また裏には1848年建造と言われている諫草亭がある。但し今は入ることが出来ない。諫草亭はその名の通り、楊継盛が厳嵩に関する諫言、『十罪五賊(十の罪と五つの裏切り)』を書いた場所。

芥川龍之介は1921年にここを訪れている。『北京日記抄』の中で「故宅といえば風流だが、今は郵便局の横丁にある上、入り口に小便壺があった。椒山の碑をランプの台に使っているのも滑稽。後生まことに恐るべし。」と書いている。当時既に全く保護されず放置された様子が分かる。僅か30年前に清朝崩壊の先駆けとなったこの場所を何でこんな風にしたのだろう。

2.聶耳故居

東西に走る達智橋胡同に対して南北にクロスするのが校場頭条胡同。この通りは既に新しく改装されており、ちょっと雰囲気が違う。その無機質に近い胡同の中に旧雲南会館がある。特に表示も無く、通り過ぎてしまう。

中を覗くと昔ながらのレンガ造りの家々がある。この中にあの中華人民共和国国歌を作曲した聶耳が住んでいたのかと思うと感慨深いものがある。最も本人は自分が作った曲がよもや共産国家の国歌になるとは思っていなかっただろう(国歌『義勇軍行進曲』は映画『風雲児女』の主題歌であり、抗日の歌でもある)。

何しろ聶耳は1935年24歳の若さで鵠沼海岸で水死しているのである。私は子供の頃鵠沼海岸で育った。確かにこの中国の作曲家の名前を耳にしたことがある。慰霊碑もあるし、毎年7月には慰霊祭が今も開かれている。1912年雲南省昆明で生まれた彼が何故日本で死んだのか??それは友人の援助でソ連に音楽留学する途中に立ち寄ったと言う偶然の産物であったらしい。人の一生とは分からないものである。

雲南生まれの彼が北京の音楽学院を目指して上京した際、郷土の会館に身を寄せたのは当然であろう。但し環境は良くなかったようで、薄暗いかび臭い部屋で練習に励んでいたと言う。(彼は4歳で父を失い困窮の中、音楽を続けていた)現在の旧雲南会館は単なる胡同の1つ。数十世帯が普通に暮らしている。更に歩いて行くと大きな古木が胡同からはみ出すように歴史を刻んでいた。

3.共産党地下印刷所跡

校場頭条胡同の南の突き当りを右に折れると校場口胡同。その中心辺りに洋館風の2階建ての建物があった。現在は鍵屋のようだが、恐らく昔は由緒正しい、何かであったろう。

この付近から定居胡同辺りは極めて昔の風情を残していて心地よい。特に木々が生い茂り、少し曲がりくねっている所に誘惑される。地図を見ずに歩いてしまい道に迷うが楽しい。しかも次に向かう目的地は共産党地下印刷所跡。勿論現存しているはずは無い。80年前を髣髴とさせる路地だけが歴史を語る。

1921年創立の中国共産党は当初非合法地下活動が中心。機関紙を発行し、その主張を人づてに伝えていく。1925年に僅か半年ではあるが、機関紙『響導』を印刷した場所が広安西里という如何にも目立たない小さな胡同の中にあったという。

1925年と言えば第一次国共合作が成立していたものの、3月には孫文が亡くなるなど、極めて不安定な時期。この印刷所が果たした歴史的な役割は意外と大きかったのかもしれないが、今では誰も知る人はいない。

本日訪れてみるとその目印と言われる、槐樹の大木は胡同の中ほどに見えたが、そこには既に建物は無く、取り壊されて建替え中であった。周囲は昔ながらの人々が住み、雨が降りそうな薄暗い中、そこ彼処に立って、まるで共産党を守るように、よそ者を監視していた。

 

 

4.康有為故居
雨が降ってきた。傘を差して菜市口大街を東へ渡る。昔はその名の通り菜を売る市場があったのだろうが、今では通り沿いには近代的なビルが建っている。東南の角には大型開発が行われており、近い内に巨大ビルが出現する。

目指す米市胡同に入り込もうと道を探すが大通り沿いからは一切入れなくなっている。全てが開発対象なのである。僅かに残る昔風の建物には『取り壊し』の文字がペンキで空しく書かれている。

やむ終えず交差点に戻り驢馬市大街を東に歩き、米市胡同の入り口を探す。この胡同は幅が比較的広い。背の高い煙突が見える。しかし両側の店は殆どが閉まっている。康有為故居(旧南海会館)は一段下がった右側にさり気無くあった。しかしこの周りの建物も全て取り壊しマークが付いている。ここだけは保存するつもりかマークは無いが??

南海会館は1823年在京の南海官僚が資金を出し合い、朝廷高官の旧宅を購入。190室、13の庭を持つ地方会館の中で最大の規模を誇る。

広東省南海出身の康有為が初めて北京にやって来たのは1882年、科挙の試験を受けるためであった。その時から1888年、1895年と上京し、郷土の会館であるここ南海会館に住んだ。『康南海先生』と称される所以である。

康有為は若くして科挙の地方試験に失敗、香港で植民地の実態を体験、自国の遅れに気が付いた。北京でも清国の弱体化を知り、変法運動へと進む。1895年には先程の楊継盛故居で光緒帝に奏上した『公車(挙人)上書』事件を起こし、注目を浴びる。時は日清戦争の後、下関条約で屈辱的な講和を迫られた自国に対して、講和を拒否する内容。

1898年の変法運動は皇帝の権力を高める立憲君主制を主張したが、西大后によるクーデターより僅か100日で潰え、康有為は日本へ亡命する。その後はアメリカ、カナダ、インドを経て、辛亥革命で帰国するも、清朝復古運動に参加した程度、最後は青島で死去。

菜市口大街を挟んで反対側には譚嗣同故居がある。譚嗣同も変法運動に同調し、逮捕され、処刑された人物。尚南海会館も取り囲まれ、康有為の弟康広仁も逮捕され、譚と同じ道を辿っている。康有為、譚嗣同の活躍は浅田次郎『蒼穹の昴』に詳しい。

譚嗣同は康有為の弟子、極めて繊細な人物として描かれている。湖南省瀏陽の出身でこの故居は瀏陽会館であった。幼い頃に家族を亡くし身寄りがなく、一人生き残った彼は『復生』と称される。

変法失敗後、逃げることも出来た譚嗣同は自ら捕まり、『改革の礎になる』として処刑される。清廉潔白、高潔な人物である。

 

5.法源寺

譚嗣同故居より西に向かう。この辺りの開発は激しくビルの建設現場を通り抜ける。そして西磚胡同という昔風の胡同を南へ。しかしこの胡同、外壁は綺麗になっており、しかも道の真ん中を工事中。胡同の保存が進んでいるのはわかるが、道の真ん中に掘削車が放置されている光景は何とも醜い。

そして法源寺へ。唐代に創建されたこの寺の正門は決して広くは無い。脇の門を潜り中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。小雨にも拘わらずお参りに来る人々がいる。線香がたちこめる。

左右に鼓楼、鐘楼が配される典型的な寺院。獅子像が並ぶ天王殿、中には綺麗な3つの観音があり、その奥の大雄宝殿には布袋様が安置されている。ここには先日の四川大震災の冥福を祈る大法会の横断幕が掲げられている。私もこのお寺に導かれて来た者として、深く手を合わせる。

法源寺は唐の太宗が高麗遠征した際の戦死者を弔うために創建されたといわれ、その時の名前は憫忠寺(境内には憫忠閣という建物もある)。唐代、安史の乱を起こして都を占拠した安禄山と史思明は節度使として北京に駐在。この寺に塔を建てたと言う。

また北宋の徽宗は金との戦いで捕虜となり、この寺に幽閉された。金代には女真族の科挙の試験も行われたようだ。1734年の大改修後に現在の名前となる。

更に奥には観音堂、そして一番奥に法堂がある。法堂には涅槃仏が横たわり、周りには古い仏像が多く安置されている。大銀杏の木が生い茂り、鬱蒼とした印象。何だか鎌倉の寺を思い出す。ここは禅宗なのである。

実はこの寺を訪れた3日後、一つの仏縁がありました。以下私のメルマガです。

縁は確実に繋がっている、そう確信する出来事がありました。昨年末あるホテルからカレンダーが届きましたが、そのホテルは北京には無く不思議に思っていると、このカレンダーをくれたのは、事務所の斜め向かいの会社にいたLさん。彼はこの会社を辞め、新しく北京に出来るそのホテルに転職。しかしトイレで偶に会い、笑みを交わすだけだった彼がなぜ??セールス??そこに本人から電話が。『実は私7年前は○○ホテルに勤めておりまして・・・』、あー、思い出した!!そうだ、彼、Lさんは7年前私が北京で開いた大学の同窓会のクリスマスパーティーをホテル側で仕切った人。道理で見たことがある。

彼の方も『トイレで会った時は思い出せなかったが、ホテル業界に復帰したら思い出した。』と。彼と出会った7年前、なぜ高級ホテルでパーティーを開いたのか??それは21年前に上海に留学した際、同時期に留学していた女性がセールスをしていたから。えー、あのOさんはどうしたんだ??彼女は当時パーティーのアレンジはしてくれましたが、その後産休となり、後を託されたのがLさん。この7年Oさんとも連絡していませんでした。

Lさんから早速アドレスを聞きバンコックのいると言うOさんにメールすると『1月にバンコックに来るなら会いましょう。但しその日北京に引っ越しますが。』と。驚いたことにOさんは何と私がバンコックにいる日に北京へ引越しするところ。何という偶然、しかもそんな忙しい時にも『午前中会いましょう、飛行機は午後ですから。』と言い、チャイナタウンを案内してもらいました(http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/thai/bangkok01.htm)。そして今では毎回北京のお茶会に7年前出産した息子と来てくれています。

そして先週末、地震災害への祈りを捧げるために、唐代からある由緒正しい法源寺に初めてお参りに行きました。その3日後、約1年ぶりにLさんと再会。法源寺の話をすると、何と何と彼は15歳からこのお寺で修行していたのです。しかも取り出したお寺の手帳を開くとそこにははっきりと『仏縁』と書かれていました。私がミャンマーに惹かれるわけが少しずつ解明されてきています。

 

法源寺を出ると横に中国仏教学院がある。ここでは20名の学生が仏教を学んでいる。どうりで法源寺の境内で若いお坊さんを見かけたわけだ。更に学院の横には何故か雑技団のオフィスもある。修行と関係あるのだろうか??

 

 

6.礼拝寺

輸入胡同という不思議な名前の道を通り(牛肉解体業者が軒を連ねている)、牛街に出る。この辺りにはイスラム式の食材を扱う『清真』のスーパーやレストランが並ぶ。大通りに『回民小学』と言う建物がある。牛街一体はイスラム色が強い。因みに牛街の名の由来はイスラム教徒が豚を食さないことから来たものではなく、この一帯に昔柳の茂る湖(柳湖)があったことから、柳(Liu)が訛って牛(Niu)となったと言う説があるようだ。

礼拝寺は996年にアラブの学者ナソルディンによって創建された北京最古のイスラム寺院。明の時代に礼拝寺と名付けられた。寺院の殆どは1442年に建造されたもの。寺院の裏には元代にこの地で亡くなった二人の伝道師、モハメド師とアリ師の墓がある。

元代には『色目人』と呼ばれたアラブ、ペルシャ商人が多く滞在していた。彼らと漢族、蒙古族が混血して回族が生まれたそうだ。回族は現在全国に700万人以上の人口を持つ。清真料理は豚肉の入らないあっさりした料理。22年前の上海留学中、外国人未開放地区などを通ると、食事は必ず清真であったことを思い出す。清潔であっさりがよかったのだろう。

入り口は小さい。中に入るとおじさんが『チケット?10元』と英語で声を掛けてきた。そして『日本人か、よーし』と何故か日本語が。カメラOKなど親切に教えてくれる。外国人慣れしている。恐らく一般の中国人は来ないのだろう。

本殿に向かう小道が素晴らしく綺麗。特に小雨が降る様子がよい。鮮やかな花壇。そこを抜けると伽藍があり、1273年創建の喚礼楼がそびえる。2階に上り四方に向かってコーランを叫ぶ場所だとか。

その前には礼拝殿がある。1000人を収容できると言われているが、残念ながら信者以外は入れないとのこと。一日5回のお祈りのときは大勢の人が集まるのだろうか??今はひっそりしている。因みにイスラムは男女の区別に厳しい。寺の後方には女礼拝堂が別途ある。

寺の入り口には物乞いの女性が二人。さも当然のように手を出してくる。イスラムは女性に厳しい社会なのであろうか??

 

 

 

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