ミャンマー紀行2003(10)パガン 漆工房で悩む

(4)漆工場
取り敢えず暑いので、屋内の漆工場の見学に向かう。金箔をふんだんに使った絵、黒を基調とした漆の椀などを器用に作っている。非常に根気の要る作業だ。特に私が足を止めたのは、馬の尻尾の毛を使って、1つ1つ織り込んで器を作っている女性の前である。日に1つか2つしか出来ないであろうその作業を、彼女は何年やっているのか?何か楽しいと思うことはあるのか?更に彼女が作った器の原型を塗り固め、漆を塗って1週間後に初めて商品となる。我々のように日々時間に追われる人間にとっては、気の遠くなるような作業だ。

 

その馬の尻尾の毛を使った椀(4重に重ねられる菓子仕入れ)を買いたいと思い、工房に隣接した売り場へ。値段を聞くとUS$15だと言う。この値段はミャンマーの物価からすれば極めて高い。直ぐ現地の物価に馴染んでしまう私は即座にUS$5に値切ってしまう。相手の女性は全く話しにならないと横を向いたが、その対応が中国的であった為、私も少し粘ってみた。最終的にUS$7で決着。しかし冷静に考えてみるとこれを作った女性の作業は果てしも無いもの。それをたったUS$7で買ってよいのだろうか?売り手の女性と責任者の女性もニコニコ笑って、お茶とラペトゥを勧めてくるが、本当にこれでよいのか、考えさせられる。

 

ここパガンは観光地である。雨も少なく耕地も少ない。収入の多くを観光客に頼っている。しかし今年(2003年)はイラク戦争、SARSと続き、日本人は殆ど来ない。ヨーロッパ人など外国人もあまり来ない。何処のパゴダでも観光客相手の商売はあがったり、である。若者、子供が一生懸命に土産物を勧めてくるが、私はこれからシャン州にお茶を買いに行く身。不要なものを買っても持っていけない。漆工場も経営が苦しいに違いない。そんな中たった1つしか買わない旅行者である私が値切ってしまったことに、少しずつ罪悪感を覚える。

 

午後もパゴダ巡りをした。兎に角パゴダの総数は2,000以上と言われている。主なものを見るだけでも1日では無理である。オールドパガンより南下しミンガバー村を通過して直ぐにマヌーハ、ナンパヤー両寺院がある。何れもアノーヤター王の捕虜となり、連行されてきたモン族の王、マヌーハが1059年頃に建立したと言われている。マヌーハ寺院は何と言っても涅槃仏である。非常に大きな涅槃仏が狭い建物の中に窮屈そうに横たわっている。これは幽閉されたマヌーハ王の心境を表しているといわれているようだ。しかしガイドブックにもあるように、涅槃仏を下から見ると怒っているように見え、横から見ると微笑んでいるように見えるのは確かである。マヌーハ王の本当の心境は一体どこにあるのだろうか?

 

隣のナンパヤー寺院には、柱に素晴らしい彫刻が施されているという。内部は非常に暗く、採光も考えられていない。一説ではここは幽閉されたマヌーハの住居であった。建物の真ん中辺りに四本の柱があり、この柱の表面に花を手にしたブラフマーが描かれているのだが、勿論暗くてよくは見えない。この壁画のお守をしている?老婆が懐中電灯で照らしてくれる。この老婆の非常に物静かな、暗い、何かを憂いて、こちらを覗き込む表情が忘れられない。

ミャンマー2003 114

 

マヌーハ王の国、トタン国は上部座仏教(小乗仏教)を信奉し、文字を持ち、仏典も多数所持していたようだ。しかしパガンのマヌーハ、ナンパヤー寺院には、ヒンドゥー教の影響と思われる壁画などもあり、王がヒンドゥー教徒であったとの話もある。これは一体何を意味しているのだろうか?

 

再び木陰の涼しいところでTTと話す。教育問題。彼女が学生の頃は、学校に行っている子供は少なく、1家族の子供の数も非常に多かった。最近やっと家族計画が奨励されてきたが、この辺りはやはり無計画に子供を作る。その子供たちには仕事が無く、物売りになるしかない。TTの子供は1人であり、教育にはお金を掛けているという。同時にこの辺りの子供も何とかしなければいけないが、何ともならないのが悔しいともいう。問題意識の高い女性である。

ミャンマー2003 113

 

1975年にパガンで大地震があった。この時多くのパゴダが被害を受けたが、民家の被害は少なかったという。その理由を見に行った。民家は今でも多くが、竹で出来た高床式のものである。竹製は極めて柔軟性が高く、地震の揺れに対応できる。この知恵が何とか日本に応用できないものかと思う。あれだけ地震の多い日本で、画期的な地震対応住宅が出てこないのは、気候のせいなのだろうか?竹も沢山あるので、ぜひ日本に竹の家を、と思ってしまう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です