フラフラと沖縄2015(5)辺野古へ行って感じたこと

4月24日(金)

明け方の浜で

ヨーガの合宿中はちょうど朝陽が上る時間が瞑想と重なり、見ることが出来なかったので、今日は浜へ行ってみることにした。交流館の前から左へまっすぐ。一番近い浜へ行くと、そこは何と、初日に島へ来てすぐに何かに引っ張られたと感じた場所だった。ここには浜の名前すら表示されてない。何となく朝の爽やかな風が吹いてくるだけだが、妙に気になる。

 

浜へ行くと、まだ朝陽は上っていなかった。いや、今日は曇りで見られないのかもしれない。周囲は既に明るくなり、太陽を待つばかりなのだが。そこに一筋の雲?がスーッと流れていた。これは飛行機雲なのだろうか。こんな朝早く飛行機が飛ぶのだろうか。何故か分からないが、この雲が気になる。そしてついに日の光がかすかに見える。サンライズ、というにはちょっと違うが、この僅かな光が何となく心を落ち着かせた。

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この浜には誰もいないだろうと思っていたが、実は先客がいた。ヨーガ合宿にも参加していたSさん。静かに浜の岩の1つに座って、海を眺めていた。彼女は助産師さんで、日本で有名な、自然に丈夫な赤ちゃんを産むという、愛知県の医院に勤務していた。『うちの医院、すごくいい顔をした赤ちゃんが生まれてくるんです』という言葉が、この浜の朝とマッチしていた。彼女は久高島に助産師仲間と何回も来ているという。何か繋がりが感じられるのだろう。

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何となく長居した浜を後にして、交流館に戻り、朝ご飯を食べる。ここで朝ごはんを食べるのは初めてだ。納豆、卵など日本の朝食が並んでいた。これもまた喜ばしい。朝からご飯とみそ汁をお替りしてしまった。健康的な朝だった。それからまた一人で島の中を歩き回る。迷路のような石垣の家々をめぐり、港で舟を見て、ピサ浜で貝を眺める。

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そして交流館に戻ると、団体さんが入って来て、展示物をチラッと見て、すぐに帰っていった。久高島に興味のある観光客がたった5分しか貴重な写真を見ない、ちょっとおかしな気がしたが、その謎は港へ行って解けた。何と今日は沖合に大型クルーズ船が来航し、そこから続々とボートで上陸していたのだ。この島を目指したのではなく、偶々島に上陸した人々、老人が多かったが、何のために船に乗っているのか疑問だった。島側も大勢の観光客が来るというので歓迎ムードで迎えたが、少し勝手が違ったようだ。私も久高を離れる時間となり、フェリーに乗り込み、島を後にした。

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4.辺野古

イタリアンレストラン

安座間の港には元勤務先の1年後輩Hさんが待っていてくれた。彼も既に退職し、沖縄に移住していた。入社以来ずっと知っている人なので、お世話になることにした。彼からは『沖縄でどこへ行きたいか?』と聞かれていたが、思いつく所もなく、何となく辺野古、と答えていた。車は一路辺野古を目指した。私はそこがどれくらい遠いかも分かっていなかった。1時間半ほどして、ようやく到着したその街は、正直かなり寂れていた。Hさんが『まずは昼を食べましょう。場所はイタリアンレストランで』と言ったので、耳を疑う。辺野古でイタリアン?どういうことだろうか。彼の説明では女優の黒木メイサの出身地が辺野古で、彼女がよく通ったレストランだというのだ。

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小さな街のレストランは直ぐに見つかった。地元の人向けの洋食屋さん、という感じで、イタリアンではなく、中華、和食もあった。お勧めはランチセットだというので、一番ボリュームのあるAセットを選ぶ。何ととんかつ、エビフライ、ハンバーグ、チキンカツ、ポテトが並んでいた。スープとご飯も付いている。これはすごい!それでも食べ切ってしまう。

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メニューは日本円と米ドル建ての2つが表示されていた。これが基地や米軍を連想させた。70年代ベトナム戦争の頃は、この街も米兵で溢れたのだろうか。街には今は開いていない飲み屋の看板がいくつも見られた。これが今の辺野古の現状なのだろうと思われ、ちょっと複雑な感覚になる。店には黒木メイサのポスターやサインが飾られていた。ブラジル人の父と日本人の母、彼女の家は直ぐ近所だったと、店のおかみさんが言っていたが、ここでどんな暮らしをしていたのだろうか。基地と結び付けて考えるのはあまりに短絡的だろうな。あの独特な雰囲気はどこから生まれたのだろう。

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辺野古反対派が週末デモをするという浜辺へ行ってみた。今日はほんの数人が浜にいるだけだったが、誤解を受けるといけないので遠くから浜を眺め、そして海を眺めた。バス停からここまで来る近道の順路が示されており、自然に人が集まるというより、動員されてきているようにも思えた。キャンプシュワブのゲート前を車で通ると、多くの人がテントを張り、道行く車に『基地反対』のプラカードを差し出す。

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『実は地元の人は移設に対して、条件付き容認。でも外から来た人達が反対を叫び、ここの生活秩序を乱している部分もある。地元民に賛成とは言えない雰囲気にしている』という声を聞いた。勿論もろ手を挙げて賛成の人はいないだろうが、この街の現状をこの目で見ると、いい悪いは別にして、条件付き容認、という苦渋の決断には頷けるところがある。結局外から人たちは地元民の生活を考えている訳ではなく、自分の主張を表現しているだけではないか。この問題、実に根が深く、複雑だ、と言わざるを得ない。通りすがりの私はそんな印象を受けた。

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2 thoughts on “フラフラと沖縄2015(5)辺野古へ行って感じたこと

  1. 私は1960年半ばこの基地開設の時関係していました。その当時から外人向けレストランがありました。Aセットは地元ではAランチと呼ばれる最高級の定食です。この基地は海兵隊の基地だけでなく原潜の補給施設もあり、核魚雷核爆雷などの貯蔵庫もあります。沖縄復帰で核ミサイルは撤去したが、これ等はどうなったか私は知りません。普天間基地の移転なんかより、この基地はもっと深い問題を持っている筈です。

  2. 大浦湾のさんご礁の一部は原潜を接岸させる水路としてこの時私が地元サルヴェージ会社を指揮監督してTNTで爆破してあります。反対運動など何もありませんでした。工事人達は大浦の公民館に宿泊、役場の婦人会が炊事をしていました。当時の基地拡張反対運動は、ワシントンでの計画を知った日本本土の活動家が、琉球大学の学生や一部の労組を扇動してデモするだけで、何ヶ月か1年ほど経って実際に着工する頃は誰も現れず、何が作られるのか知る人聞く人ももいませんでした。

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