《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》揚州ーバスごと長江を船で渡り揚州炒飯へ

〈12回目の旅−1987年6月揚州〉 —炒飯を求めてリベンジ

杭州が留学最後の旅だと思い込んでいたが、どうやらそれは違っていた。それまでのチベット、満州里、シサンバンナなどの旅が強烈過ぎて、記憶が薄れていたのだ。そう、前年12月に南京に行った折、バスが故障して行けなかった場所、揚州。そこに行ったはずだ。

1. 揚州まで

揚州までは3度目の上海‐南京線。いや、この列車は南京より先に行く長距離列車だったかもしれない。ただ揚州には鉄道駅はなかった。南京に行く途中の鎮江で降り、そこからはバスで向かう。

鎮江駅に着いたのは午後1時を少し回っていた。駅前で昼ご飯を食べようと思ったが、すでに遅し。どこの食堂もランチタイムが終わり、後片付けの最中だった。何でもいいから作ってくれと頼んだが、無駄だった。この当時、いまだ国営気質が十分に残っており、お客さんのことなどは誰も考えない。自分の仕事時間が終われば、終わりだった。本当にピタッと1時でどこの食堂も停止した。

仕方なくすきっ腹を抱えながら、バスを探して揚州へ。そのバスは途中まで進むと大きな河を目の前にした。長江である。橋などはない。何と渡し舟にバスごと乗り込んで進んだ。今もこんな光景、あるのだろうか。船はかなりゆっくり進み、そして向こう岸に着く。何となくハラハラして記憶がある。何故だろうか、波が高いとも思えない。

結局揚州には2時間近くかかって着いた。ホテルは直ぐに見つかり、チェックインできた。この頃になると、ホテルの部屋の取り方もプロになってきていた。古いが大きな部屋だった。これも国営体質のホテル。当然食堂も午後5時からしか開かない。

2. 揚州
大明寺

腹が減って仕方がなかったが、本当に仕方はないのだ。今なら近所に行けばいつでも開いている食堂があるだろう。だがあの頃はそうではなかった。時間になると開け、時間になると閉まる、当たり前のことだった。

空腹を紛らわせるために、観光に出た。揚州では大明寺にだけは行ってみたかった。大明寺と言えば鑑真和尚。ここの住職だった時に、乞われて日本への渡航を決意、幾多の苦難を乗り越えて日本に渡り、大きな影響をもたらした人物。

揚州は唐の時代、隋の煬帝の切り開いた大運河により、大発展を遂げ、経済の中心となっていた。明代以降は塩の集積地として活発な交易がおこなわれ、富が集まったと言われている。現在の揚州は鉄道からも見放され、長江の北側という地理的にも不利な場所とみられている。江沢民の出身地、ということで、近年は高速道路が通るなど、少しは発展してきているようだが。

大明寺についての印象は薄い。特に他の寺と変わったところはなかったということだろう。鑑真記念堂、という建物があった気はするが、どんなものが展示されていたのか、記憶はない。あの時代、文革後10年、いまだその影響は大きく、仏教もお寺も立ち直ってはいなかったのではなかろうか。日本人は鑑真の名声に釣られて訪れていたが、文革後の中国人にどれほどの信心があっただろうか。

揚州炒飯

4時半過ぎにホテルに戻る。今は6月で1年でも一番日が長い時期。だがその日はどんより曇っていた。私の腹も早く暗くなってほしいと言っている。5時前に食堂に行くとまだ開いていなかった。それでも私は食堂の扉の前に立って、待っていた。それほどに腹が減っていた。

5時ちょうどに扉がいた。すぐに中に入り、席に座る。だが服務員はそんなにスピーディではない。ゆっくりとした足取りでメニューを放り投げるように寄越す。私はメニューなど見ずに『揚州炒飯』と大声で注文をした。すると服務員は一瞬『えっ』という顔をしたが、何も言わずに出て行った。

あの頃、上海で炒飯と言えば揚州炒飯が基本だった。一度は本場の揚州で炒飯を食べてみよう、たったそれだけの理由の旅だった。おまけに昼飯抜き、これは期待せざるを得ない。随分長い時間待たされたような気がするが、実はそれほど待ってはいなかったのかもしれない。

出てきた揚州炒飯は美味そうだった。何も考えずバクバク食べた。腹が減っていたからだろうか、本当に美味かった。他に何のおかずもいらなかった。ただひたすら食べた。あの頃は、無心に食べる、ことがよくあった。若かったからだろうか、それとも食に飢えていたのからだろうか。

揚州炒飯は肉と野菜を適当に混ぜて炒める、日本的に言えば五目炒飯である。あの頃はかなり油っぽかったように思う。服務員に聞いたが『特にこの炒飯が揚州の名物』という雰囲気はなかった。揚州料理と言えば、山東料理(魯菜)、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)と並んで、昔の中国4大料理にも数えられている。他にも美味しいものはいくらでもあったのだろう。私の頭にはそんなことは全く入っていなかった。満腹になると夜もやることはなくすぐに寝てしまった。

翌朝はスッキリ目覚めた。朝ごはんもまんとうを食べた。気分よく散歩に出た。湖があったと思う。その湖畔を巡りながら、留学中に出来事を思い返した。正直かなり痩せた。精神的にもきつかった。でも『生きる』ということを考える絶好に機会が遭遇したことには間違いがない。

帰りも来た道を戻る。船に乗り、鎮江へ出た。鎮江に泊まらなかったということは、その日の上海行の切符が手に入ったことを意味する。今や中国でもネットの時代。行ってみたいと分からない旅、そんなものは遠い昔になった。でもそんな旅が今な何ともなつかく感じられるのも、事実である。

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