四国・和歌山・静岡茶旅2015(3)愛媛 幻の石鎚黒茶

3月11日(水)

朝のお勤め

朝は6時からお勤めがあるというので、5時半に起床。まだ暗い中、本堂へ向かう。お遍路さんが数人、外国人が一人、そして我々も参加して読経が始まる。椅子に座っているので足は楽。外が空けていく中で聞く読経は清々しい。そして住職の講話が始まった。実は我々の前には遺影が飾られている。朝からお葬式でもあるまいし、と不思議に思っていると、住職が話の冒頭から『昨年家内が亡くなりました』という。お坊さんのお話し、というイメージからちょっと外れる。

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実は住職と奥さんは、外からこのお寺にやってきて、かなり苦労したらしい。そしてようやく今の立派なお寺を作り上げた後、二人同時に癌にかかってしまう。住職は回復したが、奥さんは返らぬ人となる。住職いわく『亡くなって初めて、家内の有難味が分かった』と。そして夫婦でお遍路している奥さんに『ご主人は大切にしてくれていますか?』と聞く。私も日頃、大切にしているとは言い難いので身につまされる。他の人達もそのように問われると、耳が痛いのでは。

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それにしても朝、お寺でお坊さんから亡くなった奥さんへの切実なる愛情表現を耳にするとは思わなかった。タイであればそれこそ『執着』という言葉で片付けられるのではないだろうか。いや日本においても、お坊さんが公にこのような話をすることは稀だろう。普通なら『家族を大切にしろ』と説教はするが、自分個人のことを話しはしない。K和尚も『こんな率直な住職は初めてだ』と感心していた。

 

私はいつも『日本の仏教は堕落している、いや既に無くなっている』と思っているのだが、この住職の話を聞き、このような『情愛』という感覚が日本人の心に触れ、そしてそれが求められているように感じる。これこそ日本の仏教ではないだろうか。であるとすれば、今の日本の坊さんは『檀家に説教する』のではなく、『檀家と一緒に率直に語る』姿勢があれば、信じる者を引き留められるのかもしれない。ふと、そう思う朝であった。

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そして朝ごはん。お粥に漬物、爽やかな朝に相応しい食事だった。食べ終わるとお遍路さんが出発していく。次の目的地に関する情報交換も行われている。住職と話す機会があったが、『宿は1年中、開けていなくてはならない。朝は早く、夜も遅い。お客さんが来るとは限らない。経営は難しく、辞めていく宿も増えている』と。先ほどの講話なの中でも『今日は沢山泊まって頂き、宿坊も黒字のようです』との話があったことを思い出す。特に民間施設とも少し違う、お寺の宿坊の難しいさがあるかと思う。ただこのような場所がお遍路さんにとって重要であるとも強く感じる。皆が必要なものは皆で支えていく、と言った発想が必要ではないか。

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天狗黒茶

そしてお寺を後にする。もう少し居たい場所だったが、次の予定に進む。山を下り、車は平地を走る。そしてなぜか高架道路を行くと、途中でカーナビが終了を告げる。どうやら大きく道を誤ったらしい。S君は首を傾げる。機械に頼るのを止め、地図を頼りに自力で行くことにした。実は四国ではカーナビが機能しないことが時々あるようだ。

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30分後にようやく社会福祉法人障害者事業所ピースに到着した。ここは障害を持つ人達が働く場。工場内に入ると何やら箱詰め作業が行われていた。特にお茶関係の施設ではないが、黒茶復活のため、年に1度、7月頃に天狗黒茶の生産に関わっているという。今は生産の時期ではないので、実際の作業を見ることはできないので、写真などを見ながら製造工程を説明してもらう。ミャンマーの酸茶とかなり似た工程だが、一部違うところがある。ピースのメンバーは茶葉の選定、箱詰めなどで活躍すらしい。次回は7月頃実際の作業を見てみたいと思う。

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話を聞いているうちに、お茶が出てきた。このお茶、何と『幻のお茶』と呼ばれている曽我部さん製造の石鎚黒茶だという。昨日訪ねた石鎚神社で保存していたものをわざわざ持ってきて頂いたというのだ。感謝。この黒茶、ミャンマーの酸茶よりあっさりした味で酸味もほんのり。今の天狗黒茶はどちらかというと酸味が強いので、保存年限の差かなと思う。形状は葉っぱそのままというものもあり、かなり自然な感じがした。いずれにしても、一度無くなったものを復活させる、それは本当に難しいことだろう。特に黒茶は発酵に使う菌に左右される。

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昔から山で作られた黒茶は自らの飲むのではなく、販売用だったというのはミャンマーの酸茶と同じだった。こちらは瀬戸内の島に送り、代わりに塩や魚を手に入れていたらしい。瀬戸内ではこのお茶を船に乗せて、長い船旅のビタミンなどの補給などに使ったという。またお粥に混ぜて茶粥として食べてもいた。現在も茶粥を食べる人はそれなりにいるようで、自分で作って食べた人からは好評だった。

 

ではなぜ石鎚山では、飲まないお茶の生産が行われたのだろうか。単なる商品作物だったのだろうか。それにしてもこの製造技術をどのように手に入れたのか、この山には茶樹が自生していたのか、どこから茶樹を持ち込んだのか、謎は深まるばかりだが、もはやそれに答えてくれる人はいない。

 

現在は健康茶として、日本全国に向けて販売している。一度飲んだ人からは再度注文が入ることも多く、口コミで広がり始めており、売り上げは伸びているが、残念ながら供給が安定していないという悩みがある。今後は知名度を上げて、顧客を掴みながら、生産を安定させる、という課題を克服する必要があるようだ。

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