《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》杭州—留学最後の旅、あれは幻だったのか

〈11回目の旅−1987年5月杭州〉 
—留学最後の旅

留学中最長の一人旅、東北・山東一人旅を終えると、いよいよ留学終了が近づいてきた。あれ程嫌だと思っていた中国であるが、最後にどこへ行こうかと迷うほど慣れてきている自分にびっくり。

元々は最後の旅は新彊ウイグル、シルクロードの旅と決めていたのであるが、その夢を打ち砕いたのが勤め先の事務所設立。7月の帰国時には設立パーティーが開かれるとあっては、手伝わないわけにはいかない。とてもシルクロードを回る時間は無い。

元同室のAさんに聞いてみると『そりゃ杭州だろう』と言う。中国人も『死ぬ前に一度は杭州を見たい』らしい。『上有天堂、下有蘇杭』と呼ばれるほどに蘇州と杭州はよい所である。一度はお出でである。

毎度のことになったが、国際旅行社で杭州行き列車のチケットを取る。流石に観光地のせいか、外国人向け軟座はすぐに取れた。幸先がよい。また今回は昨年末の南京に習ってホテルの予約を電話で試みる。これも何故か簡単に成功。180元でツインの部屋を確保。

杭州まで列車で約4時間。もう少し早く着きそうなものだが、そこは中国。実はこの年私の帰国後高知の高校生が修学旅行に来て、この線で事故に遭い、多数の死者を出した。私に不思議だったのは、何故上海を通らずに蘇州と杭州を行き来できたのか??それは私が乗った時は出来ていなかった迂回線が出来ていたのだ。不慣れな運転手が事故を招いたと思われる。途上国では経済発展に人々が付いていけない。それにしても痛ましい。

駅に到着すると荷物持ちを仕事とするおじさんが寄ってきたが、これを無視して切符売り場へ。帰りのチケットも難なく買える。2泊3日に決定。バスに乗る。今回は宿が決まっているので、安心して進める。

宿は駅から程近い友好飯店。このホテルは今年出来たばかりの新築。岐阜県と中方の合弁とのことで安心して予約したのだ。しかし、ここは中国。そんな簡単に行く分けが無い。上海滞在も10ヶ月になれば自ずと身に付いている。

確かに建物は新しいそうだ。当時中国は新築といっても壁がボロボロだったりしたので新鮮。フロントへ行くと確かに予約があると言う。オー凄い。そしてパスポートを出すと『日本人か、ならば半額』と驚くことを言う。

更に上海での職業を聞かれて『留学生』と答えると『それも半額』と言うではないか??一体いくらなんだ??何と180元で予約した部屋が45元になってしまった。これまで日本人だということで不当に高い料金を取られていたので、これはうれしかった。(お金が惜しいと言うより、そう言ってくれる事だけで嬉しいのだ)これだから中国は分からない。

部屋はきれいなツイン。久しぶりに優雅な気分になる。やはり中国生活が長くなったことを実感。外に出ると柳が下がっており、風景もよさそう。早々に西湖へ向かう。西湖は何の変哲も無い湖であった。中国人は何でここがよいのだろう。

湖岸を歩いて行くとやがて杭州飯店に着く。この付近では一際立派なホテルである。シャングリラが経営しているが、まだサービス、設備両面でシャングリラの名称を使用できないらしい。それでも上海と比べて十分満足できる綺麗さを持っていた。

清潔さ、当時中国で最も我々が欲していたものかもしれない。綺麗な場所に来るとホッとするし、その場所を動きたくなくなる。天下の西湖を横目に見ながら、ホテルのロビーにうっとりする、それがあの頃の中国の現実だったかもしれない。

夕飯もこのホテルで食べた。値段はかなり高かったが、満足した。帰りに湖岸を歩くと、真っ暗であった。観光地と言っても当時はこんなものだった。

2日目の朝、ホテルで粥を食べて、再度西湖へ。昨日と反対に南側から回る。南の端まであるいていくのに3kmも掛かる。何と大きな湖だ。南の端から蘇堤が北に伸びる。ここは宋代の詩人、蘇東坡が杭州知事だった時、20万人を動員して築いた堤防である。もう夏に近い日差しが照り付け、何も遮る物の無い堤の上はかなりの暑さだ。観光客も沢山いるが、皆只管写真のポーズを決めている。

お気に入りの杭州飯店の前まで来て、疲れ果てる。また中で休む。午後外へ出ると天外天という名前のレストランが目に入る。人が行列していた。聞けば有名な店らしい。中国人がブランドに弱いことはこの時知った。何しろ全国は広い。名前が知れている店は強い。

その後どうしたんだろう??ここで見事に記憶が途切れている。既に20年もの歳月が過ぎている。言い訳であるが、当然忘れてしまうこともある。しかしこの杭州行きは私の上海留学の最後を飾る旅。忘れるはずが無いものを忘れる。やはり中国は私の夢の中であったのだろうか??

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