《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》紹興・寧波-魯迅会議と修学旅行

〈3回目の旅-1986年11月紹興、寧波〉
―魯迅会議と修学旅行

1. 紹興
ある日H君が『紹興行きません?』と私に聞いた。上海に来て2ヶ月、正直退屈していた。既に授業には飽きてしまっており、夕方来る家庭教師の学生相手に、テレビを見て語彙を増やしたりしていた。

紹興と言えば、紹興酒と魯迅。どちらも中国を代表するもの、是非行って見ようと思った。何故か紹興行きの列車は夜の出発である。夜9時上海発の寧波行きに乗る。前回の無錫行きと違い、非常に暗い印象。当然幹線である上海―南京線より落ちる車両を使っている。先が思いやられる。ただ今回は中国通のH君が付いている。特に問題は無かろうと高をくくっていた。

紹興は紀元前500年頃には既に越の都であった実に古い街である。越といえば臥薪嘗胆で有名な越王勾践がおり、古代は華やかな街であったろう。しかし私の紹興のイメージは、魯迅の『故郷』という作品に出てくるあまり明るくない街なのである。

紹興に着いたのは夜中の3時過ぎである。この時間ではホテルも探せない。11月にしては暖かかったので、町をふらふらする。町には運河が張り巡らされており、暗い中で仄かに紹興酒の香がする。実に不思議な感覚だ。まるで異次元に迷い込んだみたい。全てが幻想的。ところが少しずつ夜が明けてくるとこの幻想が現実に変わる。朝6時に幾つかのホテルを訪ねるが、何処も一杯といわれる。初めは中国に良くある『部屋があっても泊めない』社会主義的対応だと思っていた。ところが今回は事情が違った。『全国魯迅会議』。魯迅研究者が一堂に集まって会議をするらしい。紹興はそれ程大きな町ではない。本当に部屋がないかもしれない。

8時頃には諦めて、朝食を食う。粥とまん頭。これでも上海の宿舎に比べれば遥かにマシ。その後近くに居た人力車を捕まえて町を散策。清代の詩人で女性革命家秋謹の故居を見た後、今回の元凶、魯迅博物館に。横には『孔乙巳』に出てくる紹興酒を売る店があった。朝9時、何と沢山の人が朝から紹興酒を買いに来ていた。中には入れ物に事欠いて哺乳瓶に紹興酒を入れていたおじいさんもいた。何というところだ。きっと赤ん坊の頃から紹興酒を飲んでいるに違いない。我々も朝靄の中で嗅いだ香が忘れられずに、ついに人力車のおじさんと3人で店の汚い椅子に座り飲み始めた。とても旨かった。日本で飲んでいたビンに入ったものなど問題外だ。樽から直接椀に入れる。椀は綺麗とは言えないが、それまでもが時代を感じさせた。何杯か飲んでしたたかに酔った。当然だ。昨夜あまり寝ていないのだから。

何とそのまま人力車に潜り込み寝てしまった。昼近くに起き上がったが、もうこの町に居ようとは思わなかった。人力車で駅へ送ってもらい、寧波行きの切符を探した。幸い午後の切符を手に入れた。これは幸先がよい。これで今日はゆっくり寝られる・・はずだった。

2. 寧波
列車の中でも殆ど寝ていたと思う。駅に着くと這い出すように列車を降りる。駅前は閑散としていた。地球の歩き方、これが私の旅の唯一の道具だった、を見ると泊まれそうなホテルは1つしかない。駅に近い華僑飯店だ。当時中国では外国人が泊まれるホテルはかなり限られていた。ドミトリーはあるにはあるがバックパッカー用と言った感じで、上海以外で気分のよい生活をしようとする我々にとっては無用の宿であった。駅の外国人窓口で上海行きの切符を買う。ところが何度聞いても3日先しかない。これは大変なことになった。もしここで泊まれなければ今度こそ野宿だ。

ホテルのロビーに入るとき何故か緊張した。いやな予感。案の定、カウンターのお姐さんは『部屋はない』と素っ気無かった。しかし我々はここで引き下がれない。日本人で、留学生で、その上昨夜の紹興の出来事があって、などと切々と語る。それでも先方は動じない。1時間ほど経過してロビーにへたり込む。絶望的状況だった。お姐さんは仕方ないと言った感じで『部屋が無いのは本当。あなたの同胞が全て予約したのよ。嘘だと思ったら表に出てみれば。』と言う。表に出ると何と入り口のところに大きな横断幕で『歓迎 ××女子高校様』と書いているではないか?『えっ?修学旅行?何で?何でこんな所まで来るの?』その頃日本の高校では中国への修学旅行がブームになりつつあった。事実翌年にはあの高知学芸高校の列車事故が上海近郊で起こる。

ロビーに戻ると『ほらね』と言った顔でお姐さんが見る。もう動く気力がなくなっていた。本当にへたり込んだ。ロビーで寝そうな勢いだったに違いない。マネージャーらしき人が来て『どうしても泊まりたいなら、従業員宿舎に泊めてやる』と言う。もう何でもよかった。45元、確か45元取られた。部屋に窓は無かったが、予想外に清潔だった。満足した。直ぐに横になって夜まで休んだ。

夕食はホテルの食堂に行った。どうもホテルの周りで清潔に食事が出来そうなところは無かった。今では信じられないがかなりの田舎と言った印象である。食堂の席の1つに何故か日本の醤油が置かれているのが目に留まる。その席に着こうとするとここは指定席だと言う。何と寧波に駐在している専門商社の駐在員が毎日ここで食事をするのだと言う。そうこうしている内に本人がやってきたので、思わず声をかける。ここに駐在する苦労話を聞く。彼はここ寧波唯一の日本人駐在員。出張が無い限り365日、ここに泊まりそしてこのレストランで食事をする。コックにカツどんのような日本料理を自ら教えて作らせるなど何とか生活を充実させようと努力していた。テーブルの上の醤油やソースもそのようにして出来たエセ日本食を食べる為のものであった。

通算3日目、やる事も無く、郊外の観光を計画。ロビーでタクシーのチャーターを頼むが車が無いと言う。何というところだ。仕方なく、1日中寧波市内を歩く。といっても殆ど見るところもなく、港付近でぼっーとしたりするだけ。港といっても少し大きな川に小型の船が停泊しており、朝地引網を行ったと思われる網が放置されていて、小魚が引っかかっていたりする。日本で言えばかなり地方の寂しい港町になすことも無く、無為に時を送るといった風情。

寧波郊外には例えば蒋介石の故居があったり、日本で曹洞宗を起こした道元が学んだ天童寺があったりするのだが、とても歩いて行ける距離ではない。バスも不便であると言われては、成すすべが無かった。今寧波に行く人がいれば、今回の話は全く異次元の話であろう。私はその後一度も寧波を訪れていないが、聞くところに寄れば現在はかなりの発展を見せており、浙江省の中でも豊かな地域であるらしい。上海―寧波間は高速道路で僅か4時間で結ばれている。海外から進出する企業も多く、港も整備されているという。

4日目午後漸く車が手配出来、阿育王寺に行く。これだけ待って何故この寺に行ったのかは残念ながら全く記憶が無い。また折角行ったのに寺の記憶もあまり無い。一体どうしたことだろう?黄色の山門を潜り、広い境内を歩いた。282年建立の古刹であるが、何があったのかはとうとう思い出せない。兎に角毎回3食をホテルのレストランで食い、何もせず過ごした。ホテルの部屋は修学旅行生が1晩で去り、2日目からは普通の部屋となったが、かえって最初の従業員の部屋が懐かしかった。これがこの旅の収穫。

5日目の夜、寧波を後にする。また夜の列車で上海に着いたのは夜中の3時。今回はずっと暗い印象のまま終わった。最後に宿舎に戻った時、当然ながら門が閉まっており、管理人のおじさんを叩き起こしたのは申し訳なかった。しかし今思い返してみれば、この頃が心身ともに一番きつかったかもしれない。季節は暗く寂しい冬に向っていた。あのセピア色の80年代の風景が蘇る。毎日日本に戻りたいと考えていた私は遣唐使や留学僧侶と実は同じ体験をしていたのかもしれない。

 

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