《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》最初の旅-北京

〈最初の旅-1986年9‐10月北京〉

1. 留学
1985年私はあまり深い考えも無く、銀行に就職した。相変わらず北京語も出来ず、算数も不得手の私が今の会社を選んだ大きな理由は、『北京語を使う必要が無い』と考えたからだ。当時巷では中国ブーム。就職時、多くの企業から中国語を勉強していたと言う理由だけで誘いを受けた。はっきり言えば全く勉強しなかった私は就職の為とはいえ、『中国語が出来ます』などと言う嘘をつくことは思いもよらないことであった。私が選んだ銀行は信託銀行。どうみても国内銀行の響きであり、中国語を使うビジネスなど無いと思っていた。企業訪問ではろくに調べもせず、お金持ちの資金を預かるつもりで入社したのだ。

その考えが間違いだったことは直ぐに分かった。入社後配属された場所は国際部、当時の役員はトイレで会えば、『中国語勉強しているか?』と聞いてくる始末。これではおしっこも出なくなってしまう。そして入社1年目の3月、当時の部長から『中国留学の話がある。詳しいことは人事部で聞いて。』と言われて、人事に赴けば『来週までに健康診断して来て。』。私の意思などお構いなく、留学が決まってしまった。後に私を採用した人事の人に聞くと、中国語が出来ないと言っていたので、機会を与えたまでとの事。随分と配慮されていたようだ(笑)。

さあ、それからが大変だ。普通の留学生は中国語の学校に国内で通い、そして留学するのだが、私の場合行き成り留学。何とかお願いして、週2回夜先生に来てもらって、他の生徒と3人で勉強を開始したのが、5月。9月の留学までに何とか基礎の基礎をマスターした。ところでそのとき習った先生は、上海人の莫邦富氏。その後ジャーナリストとして、中国の社会問題を追いかけており、蛇頭、一人っ子などを題材とした多数の著書を残している。この時点ではそんな人になるとは思っても見なかったが、彼は留学当初からこのような野望を抱いていたのだろうか?

2. 上海へ
今回の留学は、全国銀行協会のアレンジで中国銀行の受け入れである。会社は事務所のある北京に留学するよう勧めたが、中国銀行からの回答は上海の復旦大学であった。当時聞いていた話では、上海は中国で一番発達した都市ということであったので、ラッキーという感じを持った。これは後で大いに間違いであったことが分かるのだが。

1986年9月6日、17年経った今でもこの日は忘れない。中国民航(今の中国国際航空)で成田を出発した銀行員留学生は21名。私は最年少であった。その後の上海生活の記述は別の機会に譲ることとする。

3. 北京
(1)北京へ
上海での生活にも漸く慣れた頃、国慶節の休みがやってきた。と言っても中国の大学は実質10月から始まるので、未だ殆ど授業もないような有様ではあったが。9月下旬我々の部屋の向かいのH君から『北京に一緒に行きませんか?』との誘いがあった。H君は関西の大学から私費で留学して1年以上経過しており、北京語も堪能で上海の事情にも通じているので、我々の貴重な情報源となっていた。私と同室のAさん,それにもう1人の4人で行くことが決まった。正直言ってこの時期中国の怖さ(?)をいやと言うほど味わっていたので、H君がいなければ決して出掛けはしなかったろう。また行き先が北京であり、北京事務所には挨拶しようと思っていたので、決心がついた。

アレンジは全てH君任せ。当日9月29日の夕方、初めて上海駅に行った。今なら虹橋空港から一っ飛びであるが、当時『国内線は落ちる』(ある人の話では年間10機以上が墜落していたが、外国人が乗っていない限り発表されることは無いとのことで、我々に実態は良く分かっていない)とよく言われており、飛行機は生命の危険が伴うと本気で考えていたので、列車の旅となった。この切符を買うのがまた大変でH君のコネを使って何とか軟臥(A寝台)を抑えてもらった。(当時汽車の切符を買うのは大変であり、特に幹線の軟臥は厳しい。更に国慶節とくればその難しさは想像を絶する。)

(2)初めての列車
当時の上海は何から何まで大変だった。大学の宿舎から駅に行くのも満員のバスなら幾つか乗り換え、タクシーは前日町まで行って予約しておく必要があった。旅行は一大イベントだ。上海駅は目立たない建物で、バスで通り過ぎてしまっても不思議は無いほどみすぼらしかった。イメージは戦後直後の映画に出てくる上野駅?人は山ほど居り、改札口に着くのも一苦労だった。駅構内も暗く、どの列車が何処へ行くかもよく分からない状態であった。その中で我々の乗車する北京―上海直行便は唯一光を放っているように見えた。この列車北京―上海間を17時間ノンストップで結ぶ最新式であり、恐らく当時中国が誇る列車であったはずだ。

中国の列車には軟臥、硬臥、軟座、硬座の4種類があり、今回は長距離であるので、軟臥に乗る。軟臥は4人一部屋でコンパートメント。左右に2段ベットが2つあり、昼間は下のベットに2人ずつ座って過ごす。更に進行方向左側は通路になっており、引っ張ると出てきて座れるシートから外を眺めることも出来る。我々は4人で1部屋を占領し、快適な旅を過ごした。

初めは兎に角物珍しさもあり、動き回ったり、外を眺めていた。上海郊外は田んぼと畑が連なっており、日本の田舎のようだった。その内夜になり暗くなると全く電灯が無いところが続き、本当に真っ暗だったのを良く覚えている。
列車内では皆がお茶を飲んでいる。お茶でなければ白湯かもしれない。車掌は頃合を見計らって薬缶に湯を入れて持ってくる。車両と車両の間にも給湯器がある。

夕食は列車に付いている食堂車へ行くのだが、これが非常に混雑していて、席に座るのも一苦労。食事も美味しいとは言えない代物だった。更に驚いたのは、我々が食べている横におじさんやおばさんが鋭い目つきでピタリと張り付いており、立ち上がる素振りでも見せれば、忽ち取って代わられる勢いであった。中国人の逞しさをここでも見た。中国人にとって食事は何よりも大切なものなのだ。この時文化大革命終了から丁度10年まだまだその意識は人々から去っていなかったのであろうか?

夕食後、部屋に戻ると通路に外国人が居た。我々以外は中国人と思っていたので、話しかけた。たどたどしい英語で聞いたところ、ハンガリーの外交官夫妻のようであった。日本ではなかなか会えない人々なので幾つか質問した気がするが忘れてしまった。この列車の軟臥に乗っている中国人は基本的に共産党幹部、軍関係者また何かのコネのある人だけと思われた。硬臥以下の喧騒は凄まじいものがあったが、ここは別世界のように静か。ただ基本的に車掌以外と言葉を交わした記憶は無い。未だ相手から見ても外国人は未知の存在であったのか?

夜中に一度ガタンといって列車が止まった。未だ到着には早いと思い、外を見ると山東省の済南駅であった。ここは交通の要所であるらしく、郵便などの荷物の積み下ろしだけが行われていたようだ。下りて見たかったが、何時出発してしまうかが心配で窓から眺めただけだった。

(3)北京事務所
翌朝北京駅に到着した。ここも今とは違い、暗くて怖い雑踏だった。但し上海駅と違い建物は立派であった。1959年の建国10周年を記念して建てられただけあり、首都の玄関口の風格はあった。H君の誘導で何とか駅を抜け、バスに乗ったと思う。左程遠くないところに予約したホテルはあった。このホテルを予約することも当時の中国では難しく、今回はH君の知り合いの先生を通じて予約してもらった。場所は天壇公園の西側、天橋飯店の近く。因みに1999年に北京駐在となった折探してみたが良く分からなかった。尚現在近くに天橋茶芸館という食事をしながら話芸や京劇の一節を楽しむ劇場があるが、ここの食事は頂けない。

ホテルはあまり大きくないが、部屋は何とスイートルームだった。ここに4人は寝れるということだ。まあ兎に角国慶節の休み(当時は30日午後と10月1-3日)期間に部屋を確保できることは当時大変なことなので、皆喜んで泊まった。恐らく部屋代は一泊一部屋200元位ではなかったか?

午後は皆と別れて北京事務所を訪問した。民族飯店にあった。当時は日系の事務所も沢山所在しており、立派なものだった。事務所といってもホテルの部屋を使用しているので、部屋番号を頼りに探す。漸く辿り着き、ノックするとドアが開き、そこに濡れた髪を拭きながら佇む美人が居た。これには驚いた。部屋を間違えたと思った途端、その後ろから『いらっしゃい』と日本語で言われた。当時の次席駐在員S氏だ。美人は事務所の秘書劉さんだった。事情を聞くと中国では風呂は各職場で入るものだそうで、彼女は国慶節休みで帰宅する前にシャワーを使っていたようだ。ホテルの部屋だから、風呂場はあるわけだ。

帰りは連休前で殆ど車の走っていない中、何とかタクシーを捕まえてホテルに戻った。運転手の北京語は全く分からなかった。兎に角早い。舌の巻き方も尋常ではない。これが老北京人の北京語だ。酔った勢いで分からないながらも会話を試みた。ホテルに着くと、運転手は親切にも中まで着いてきた。おかしいなと思って聞いてみたところ、私はお金を払っていなかったのだ。後日この話を誰かにしたら、もしその運転手がホテルで騒いだら大変なことになっていたと言われて、背筋が寒くなった。

(4)北京観光
10月1日は天安門広場、故宮博物館に行った。兎に角広かった。故宮の中は歩いて抜けるだけで、1時間半も掛かった。何を見たかは覚えていない。天安門広場では可愛い子供の写真を取ろうとして親に文句を言われた。中国では無断で子供の頭を撫でたり、写真を撮ったりしてはいけないことをこの時知った。

午後頤和園へ行った。園の中を闇雲に歩き回ったが、中身には印象がない。ただ天気が良くて気持ちがよかった。故宮より更に広かった。天壇公園にも行ったが、観光地にあまり印象がないのは、やはりこの旅の目的が観光ではなく、日本食を食べるためであったからかもしれない。ところで北京は10月のこの時期だけが素晴らしい。『北京秋天』と言われている。上海の9月は東京と同じで残暑が厳しく、更に宿舎の裏がどぶ川であることから特に臭い。それに比べてこの爽やかさ。北京の第一印象が良いのは天気の為だ。後年2年間北京に住んでみて気候の悪さは身に沁みたことから、この時のタイミングの良さを思わずにはいられない。

北京は広い。上海と違って簡単に西から東に行けない。当時はタクシーなど簡単に捕まえられず、基本的にバスに乗った。バスは2つをチューブで繋ぎ合わせたトロリーバスで、車掌の言葉も分かり易い。因みに上海は上海語で話していた気がする。上海ほど込んでいなかったのは休みの為か?

そういえば、この旅で全く印象が無いのが北京の地下鉄。先日亡くなった宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読むと1985年には北京に地下鉄があったとなっている。しかし全く乗った記憶も無い。やはりタクシーが乗れる喜びにタクシーばかり捜してしまったのだろうか?(1999年に駐在した時も子供を地下鉄に乗せるために、タクシーで駅に行くほど不便ではあったが。)

昼も夜も食事は日本食レストランへ行った。建国飯店の中鉢、北京飯店の五人百姓。感激した。上海が中国1の都市と言われるのは、あくまでも中国人を対象とした話だ。80年代日本人にとってよい都市は北京と広州ではなかったか?カツどんを食べて泣きたくなってしまった。誰も北京ダックを食べようとは言わなかった。(最終的には全聚徳に入ってみたが。)

10月2日、北京旅行のメインイベント、万里の長城へ行った。前日やっとタクシーをアレンジ。200元(これは当時の私の先生の月給の1.5倍)。車はシトルエン、但しフロントガラスは割れており、なかなかスリリング。街中を抜けると畑が広がる。シトルエンは休みの日に働かされたのが不満なのか、用事があるのか驚異的なスピードで飛ばしていく。160kmは出ていた。途中皆怖くて何とかスピードを落とさせようとしたが、2時間その調子であった為、到着したときはグッタリした。長城にどうやって登ったのは全く記憶がない。私は高所恐怖症のため、いやな思い出は忘れようとして忘れた可能性もある。

但し登った後の印象は強烈であった。何処までも続くレンガの壁、所々に見える物見櫓、そして雄大な景色。全てに圧倒されてしまったのであった。その時頭の中に浮かんでいたのは只1つ。『どうして日本はこんな物を作った国と戦争してしまったのだろう。天皇及び日本の内閣・軍幹部がこの風景を見ていたら、戦争の決断が出来ただろうか?百聞は一見に如かず、とは正にこの事だ。私は今この風景を確認した。今後は絶対この国と戦争をしてはいけない。』現在でも現場を知らずに新聞情報等を基に議論している人が多い。特に中国情報は政治的な要因もあり、歪められているケースが多々見受けられる。この時から私の営業スタイルも現場主義になった。

帰りもハイスピードで市内に戻る。運転手は我々の不満を余所にチップなどを要求している。働くのが好きでない北京人を印象付ける出来事であった。後に北京の合弁会社に勤務した際、この時のことを何度となく思い出した。

(5)北京のゴルフ
10月3日、昨日ホテルに戻るとS氏より電話があり、ゴルフに行かないかとの誘いがあった。私は生まれて2度しかコースに出たことがなく、面白いとも思えなかったが、何しろ『クラブハウスには日本式の風呂がある。夜は日本飯屋で寿司を食わせる。』と言われては、行かないわけには行かない。

ゴルフ場は昨日の帰りに寄った明の十三陵の傍にあった。出来たばかりのようで木は殆ど生えておらず、白杭がやけに目立つコースだった。現在は木も育ち素晴らしいコースになっているが。日本の経営で、クラブハウスでカレーが食えた。

但し夜は素晴らしかった。寿司をたらふく食べた。何もかも忘れた。感謝している。

(6)最後に
10月4日、愈々上海に戻る日が来た。正直戻りたくなかった。最後の昼は新橋飯店でラーメンを食った。若干温かったが、美味しく食べた。食べ終わると向こうから歩いてくる人が見えた。近づいてきたその人は大学の同級生ではないか?A君、確か私と同じで中国語が不得手、中国語と関係ない職場を探して、故郷の九州へ戻ったと聞いていた。『こんなところで何してるんだ?』同時に顔を見合わせた。彼は九州の優良衛生陶器メーカーに入社したが、折からの中国ホテルブームに巻き込まれ、中国で便器を売り歩くことになっていた。たった一人で入社1年目から中国でやっていると言う。私はよほど恵まれていると思い、これまで愚痴をこぼして来たことを恥じた。しかし中国語から逃げた2人が北京で再開とは。彼によれば実はもう一人、中国語がいやで九州に戻ったT君も福岡の銀行に入り、入社1年目で北京に留学し、既に帰国したとのこと。やはり運命とはそんなものかと感慨深かった。

新橋飯店の横にドイツ風ベーカリーがあった。当時中国ではパンが食べられることは貴重だった。このパン屋の中に入って圧倒された。パン屋に圧倒されたのは後にも先にもこのときだけ。ジャムパン、クリームパン、チョコレートパンがあった。夢中で買った。上海では物があったらその場で買えるだけ買うという習慣が既に身についていた。トイレットペーパーを両手一杯に抱えて満員のバスに乗ったこともある。この時およそ50個のパンを買った。列車の夕飯もパンを食べていた。翌日上海の留学生宿舎に戻り、日本人に1つづつあげた。皆最敬礼して受け取った。1個日本円で5円程度のものを『このご恩は忘れません。』などと言って貰う日本人は既に日本には存在しない。

17時間の列車の旅というと、途轍もなく長い感じがするが、寝てしまえば1晩。ましてやノンストップで人の乗り降りがない、この旅は最も楽なもので初回としてはいい旅だったと言えよう。

 

 

 

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