(4)ゴルゴの話
ドイモイ政策も同じ。1975-1991年は鎖国。その後観光が解禁される。タイは日本より20年遅れており、ラオはタイより20年遅れている。ゴルゴは90年代に自費で出国。草加に住んで東京の日本語学校に通った。当初の手持ちは1000ドルしかなかったため、大変な苦労をした。ほかほか弁当でバイトして食いつないだ。結局2年で帰国した。
子供は7歳と1歳半。現在は雨季休み中。ラオには日本語ガイドが全部で16人しかいない。彼も常に出張することになり、家にいなことが多い。寂しい。 ラオの人口はここ5年で350万人から550万人に増加。出生率が増加したことと難民の帰国が理由。国が安定した証拠。今後も増加することが予想されている。都市部は教育問題がなく、子供も2-3人。農村部は10人以上子供がいる家庭も多く、食べさせられない場合は寺に預ける。今後経済は在外ラオ人の投資に期待することになる。タイ人の投資も多くはない。電力は水力発電があり、停電は少ない。ガソリンは1-2割上がっているが、配給制はない。FECなどの外貨制度もなく、街ではドル、バーツ、ラオキップが同時に流通している。 ゴルゴの仕事は結構忙しいようだ。因みに英語・中国語は数百人、フランス語でも数十人はいる。彼は旅行社と契約しているフリーのガイド。しかし実際には旅行社も数人規模のため、雑用も引き受けているらしい。今日も1時間ほど留守番を頼まれているらしい。 (5)茶店 彼は行きつけの茶店があるということで行ってみる。ところが何と店は改装中。店の前の工事に合わせているのか??残念だ。なかなか良さそうな雰囲気であったので。ゴルゴはちょっと考えてまた車で別の場所へ。
ゴルゴは嫌な顔をせずにまた考える。そして3つ目の店へ。そこは普通の建物の小さな店。軽食を食べる場所である。店の中では地元の人々が麺を食べていたり、コーヒーを飲んでいたり、思い思いの過ごし方をしている。古びてはいるが、風情がある。典型的なショップハウス。ここで彼はラオコーヒーを2つ注文した。日本と同じようにラオでもお茶はタダなのである。であるからコーヒーを頼んでお茶を貰い、併せて飲むことになる。
私の前には伝統的なラオ茶が置かれた。緑の葉がコップを舞う。なかなか美味しい。特にあのコーヒーを飲んだせいだろうか??さっぱりする。薄いが味はしっかりしている。葉っぱも手摘み、これでタダとは??
一方北の外れ、ポンデサリーから車でかなり奥まで入ったところに樹齢2000年の茶木がある。ポンデサリーまで飛行機は週2便しかなく、しかもキャンセルになることもある。それでも日本の専門家はトライしている。飛行機を使わないとすれば、ルアンパパーンから車で10時間。雲南との国境である。それでも行く価値があるとゴルゴは言う。
(6)戦争
インターネットのチェックに行く。知り合いのAさんからメールが来ていた。昨夜ラオに行くと伝えておいたら、いきなりラオの食文化についての論文を送ってくれていた。漬物文化、発酵文化には興味がある。明日市場で確認してみよう。 部屋に戻ってNHK衛星放送をつける。丁度7時のニュースを放送中。昭和天皇の側近のメモが発見されたとのこと。その内容は天皇が靖国神社にA級戦犯を合祀したことに不快感を持っていたというもの。これはなかなか凄い内容である。具体的に松岡洋右、白鳥敏夫などの名前を挙げて不快感を示しており、生々しい。今の宮司を『親の心 子知らず』となじったと言う。何故こんなメモが今頃出てきたのだろうか??小泉政権末期の波乱なのだろうか??アジア諸国はどう反応するのだろうか?? 戦争についてラオ関連で思い出すことがある。あの関東軍参謀、ノモンハン事件の責任者、辻政信である。マレー作戦、シンガポール攻略などにも関与し、バンコックで終戦。その後『潜行三千里』、ラオ、ベトナムを経て重慶に至り、南京国民党政府に勤務。帰国後は何と参議院議員までなった男である。
大東亜共栄圏の夢をもう一度??と言うことだろうか??戦乱の残っているインドシナに昔を思い出したのだろうか??ホーチミンと直接交渉し名を挙げる最後のチャンスだったのだろうか??兎に角分からないこの事件がここビエンチャンを舞台に起こったことに不思議な因縁を感じる。 (7)夕食 時間は6時半とまだ早く、お客はいない。中には舞台があり、後で踊りが披露される。民芸品が壁際に飾られている。このレストランは外国人用である。小渕前首相、小泉首相、秋篠宮などが訪れたことが掛けられている写真で分かる。 ゴルゴがメニューを開き、きのこの写真を指す。何とそれはマツタケであった。そういえばバンコックのバーンタオ氏が『松茸があったら食べたい』と言っていたのを思い出す。バンコックに持って行けるのか聞くと、問題ないという。
お客が徐々に入ってきた。西洋人の観光客、日本人とラオ人のビジネスマン、日本人政府関係者などがいたようだ。私の席は特等席、舞台の脇である。ゴルゴは去っていった。詰まらない、いくら立派なレストランでも一人で食べるのはどうも?? 料理はのりスープが出てきた。これは絶品、塩味が利いている。台湾で食べた物とほぼ同じである。ラオ伝統の挽肉のサラダ(ラープ・ディップ)は少し食べにくい。牛肉が生なのである。何故この料理がラオ料理なのか良く分からない。野菜炒めと共に、赤米が出てきた。しかもディップ・カオという小さな籠に入れられてくる。地元では手で食べるらしい。私は箸を使って食べた。餅もちして美味い。横に生野菜が置かれており、きゅうり、ミントなどを口に入れながら食事をする。
踊りはゆっくりとしており、2人は円を描いて回る。5分ぐらいで引っ込む。続いて20分経って男女が出てきてまた踊る。しかし残念ながら特に変化がない。女性は表情が乏しいが、若い男性の顔には品がある(穏やかな顔)。家元の出ではないだろうか?? また例のくわ茶を飲みながら見ていたが、突然メコンの夕陽が見たいと思い、レストランを飛び出す。何とか松茸は忘れずに。外では運転手が不思議そうな顔で急いで車を出した。メコンリバーと言うと怪訝そうな顔をしたが、言葉としては理解したようだ。川沿いに行くと既に真っ暗な中、プラスティックのテーブルと椅子が置かれ、鶏肉が焼かれている火が赤々と見える。ソーセージも焼かれており、美味しそう。大きなバーベキュー大会である。西洋人がビールを飲みながら騒いでいる。皆楽しそうだ。 一人の私は寂しくなり、携帯に手を伸ばす。タイの携帯はこの川沿いだけは繋がる。ミャンマー国境と同じである。自宅に掛けるとまた長男が出た。今メコン川にいると言うと羨ましそうな声をだす。いつか自分で来て欲しい。写真はいくら撮っても写らない。それ程に暗い。ホテルに戻り9時には寝る。 7月21日(金) 腹が減る。朝食は何処で取るのか??フロントに行くと笑顔の挨拶。隣の建物の2階に食堂があると言う。登って行くとレストランがあった。外にテーブルが出されていたので、座る。室内は軽くクーラーが効いているが、戸外の方が断然気持ちが良い。 眺めると川がある。よく見ると川に網を投げている人がいる。魚が取れるらしい。風景画の世界である。周りは特に何もなく、遠くに建設中の建物が見える。このホテルは本当に良い。一体誰が作ったのだろうか??今朝はビュッフェ。私はパンが好きなのでたくさん取る。クロワッサン、パストリーなどどれを取っても美味しい。さすがフランス植民地である。ベトナムでもパンが美味しかった。思わずお茶ではなく、コーヒーを頼む。コーヒーカップを持ちながら、風景を眺め、風景を眺めながら、コーヒーを飲む。植民地に着任したフランス人の気分であろうか??コーヒーはやはりコンデンスミルク入りではなく、ブラックが良い。 (2)メコン川散歩
昨夜の喧騒はなく、静かなメコンの朝であった。雲が低く、川に沿って流れている。大きな木の下に精霊が祭られている。これはミャンマーでもタイでも見られるもの。アミニズムというものであろうか??川は雨季で水嵩がある。水は決してきれいとはいえない。簡易な建物に人が住んでいる場所もあったが、基本的にきれいなレストランや整備された公園がある。散歩には非常に適している。
川沿いには大きな建物が1つ建っていたが、最近出来たもの。カジノホテルかと思ったが、聞けばカジノはここから70kmほど下流にあるらしい。川沿いの道にはフランス風の建物がいくつかある。タイ人がラオに観光に来る目的はこのフランス風の建物を見ることだそうで、食べ物やお土産はあまり期待しないらしい。殆ど変わらないからだろう。
その付近には洒落たギャラリーがあったりする。フランス人が歩いていたりする。そうかと思うと華僑協会の事務所があったりもする。ここラオには中華街と言われる場所はない。以前はあったらしいがその後同化してしまっている。但し街中には至る所に漢字の看板がある。中華系が経済を握っているのか、最近の中国大陸からの投資増加に合せているのか??
中に入るとフランス人??が一人遅めの朝食を取っていた。常連という感じで新聞を読む。こちらは初めてで緊張。英語でお茶を頼むと通じた。バンビエンという昨日とは違い地名の緑茶である。葉が少し細かく、コップに茶葉が多く入っているため、少し苦い。3000k。 周りを見回すと、何故か日本の舞妓さんの絵がある。フランス人の東洋趣味をそのまま反映させたのだろうか??地球の歩き方を取り出して読んでいると、何故か『焼き物の村、バーン・チャン』が目に入る。そういえばハノイを訪れた際、陶器の村としてバッチャンを紹介されて行ったことがある。意味は同じなのだろうか??どんな意味なのだろう?? 更に歩く。何だか意地になっているようだ。ラオテクスタイルと書かれたフランス風の建物があった。経営者はアメリカ人で、アメリカでも認められた質の高い織物を作っている。この店では染色から織物まで一貫して生産している。裏では実際に作業が行なわれており、自由に見学できた。 年代物の大きな機織機が何台もあり、前には年配の女性が座っている。横には作業中の布が干されている。全てが手作業。こんな手間の掛ることはいつまで続けられるのだろうか??ビエンチャンにはこのような工房がたくさんあると言う。
フランス風の建物を利用したフレンチレストランもあった。その辺りにはバイクやソンテウが大量に客待ちしていた。私にも声を掛けてきたが、断ると、写真を撮って欲しいと言う。ついでに寝ている仲間も撮れと言うので撮ると、皆でデジカメを覗き込んで笑い転げる。ビエンチャンの若者はなかなか愉快である。
スカンジナビアンベーカリーなぞと言う名前のパン屋もあった。フランスの植民地でパンが美味いと褒めていたら、何故だかスカンジナビアが出てきた。オーナーの出身地だろうか??中ではケーキなども売られており、在住の西洋人が買いに来ている。大きなワイン樽を建物の上に載せたフレンチワインを売る店もあった。一体ここにはどれ程の外国人が暮らしているのだろう??
この街には先進国では恐らくクラシックカーに属するベンツやBMWが平気で走っている。タクシーがベンツだったりもする。タートダムの周りにも無造作にそうした車が駐車されている。マニアは涎を出しそうだが、私は車のことは分からない。
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