ベトナム南部茶旅2023その1(4)バイリンの茶畑で

劉さんは私を車に乗せて走り出す。劉さんは台湾人で、バオロック(正確には隣のバイリン)に来て15年になる茶師だった。しかも出身は南投の鹿谷というから驚いた。共通の知り合いの名が何人も出て来る。この田舎町で初めて会ったのに5分で打ち解けてしまった。これこそ茶縁の成せる業。

車はバオロックの街を抜けて20分ほど走り、茶工場に着いた。ここが現在の劉さんの仕事場。結構大きな工場で、敷地も広い。空気が旨い。今日は天候の関係で製茶はない。ベトナム人がオーナーでちょっと挨拶したが、地元の名士といった感じの紳士だった。近年この付近の茶園はベトナム人オーナーに代わったところがいくつもあるという。

劉さんは以前近所の台湾系の茶工場で茶を作っていたが、2年ほど前ここへ移ってきたらしい。ここに住み、ここの物を食べて生活している。『慣れてしまえば、ここの生活は悪くないよ』という。勿論製茶時期が終われば台湾に帰り、鹿谷で奥さんと暮らすというが、コロナ禍の3年近く、台湾には帰れなかったというから大変だった、と話しながら高山茶を試飲させてくれた。

私が15年前にバオロックで台湾系茶園を訪問したことがあると告げると劉さんが車を走らせて、『ここじゃないか』という場所に連れていく。残念ながらここではなかったが、そこに台湾人女性がいて、高山茶を淹れてくれた。何だかベトナムの山中とは思えない出会いだ。だが台湾系茶園はどんどん減っているらしい。

『台湾ではベトナム産烏龍茶に対する規制が厳しくなり、また誹謗中傷もあって、茶作りを辞める台湾人が増えている』というのが理由らしい。確かに台湾に行った時も『コンテスト茶にベトナム産が混ざり、混乱している』などの話は何度も出ていた。だが私としてはベトナム産茶の品質がそこまで良くなったのか、と喜びたい気分だった。それにしても『ベトナム戦争時に米軍が枯葉剤を撒いた土地で烏龍茶を作っている』など言う噂は誰が流したのだろうか。いずれにしても需要が無くなれば淘汰される、ということだろうか。

劉さんはバオロックの街まで送ってくれた。途中の山中、道路脇に古い茶樹が見られた。『これがフランス時代、紅茶を作っていた名残だと聞いている』と劉さんは説明してくれた。確かにフランスは1920₋30年代にこの付近で紅茶を作っていたと聞いている。というか、そのような素地、土壌や気候があって、1990年代に烏龍茶造りが始まったということだろうか。

更に山中でちょっと見晴らしがある場所へ行くと、何と不思議な形の建物が見えた。その前には提灯がぶら下がっている。この付近は最近別荘建設が盛んだという。ホーチミン‐ダラット間の高速道路建設が進んでおり、数年後に完成すれば、ホーチミンから週末来られる避暑地として注目されているというのだ。実は茶園を辞めた台湾人の中には、土地を建設会社に売って資金を回収し、台湾に持ち帰った人もいるらしい。約20‐30年前二束三文だった土地の値段は今や1000倍にもなっているとも聞く。

バオロックの街で劉さんがワンタン麺をご馳走してくれた。そこは華人系の店で、味もなかなかのものだった。劉さんは時々街に出るとここで麺を啜って帰るらしい。見ているとそこで作られたお菓子も買っている。いくらこの地の環境が良いと言っても、やはり慣れ親しんだ味がある。

先ほどとは別のバスターミナルへ行き、切符を買ってもらい別れた。私はこれからどこへ行くのか、全く分からない。行き先の地名すら読めない。張さんがアレンジし、その指示で劉さんが買ってくれた切符なので、問題はないと思うがどうだろう。日が暮れていき、何とも不安にかられる。

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