バタバタ茶を訪ねて2013(3)突然立山へ向かう

4.   富山

富山散歩

Hさんと駅でお別れして、富山行の各停に乗る。もう完全に各停の常連だ。富山駅まで小1時間、何事もなく、過ぎた。富山駅で下車。駅は2015年開業予定の北陸新幹線の工事が行われていた。因みに新幹線が出来ればよい、と勝手に思っていたが、地元の人によれば「現在富山発のサンダーバード大阪行きが、金沢始発になるのでむしろ不便になる」との声があり、驚く。ここは関東より関西に近い場所、ということなのだろうか。

 

駅の近くのビジネスホテルに投宿。まあどこにでもあるビジネスホテル。部屋も狭い。が、驚いたことに、テレビ番組の中に香港のフェニックステレビがある。一体誰が見るのだろうか?中国人がここに泊まって、フェニックステレビを見る、ちょっと面白い。

 

富山の街を散歩してみた。駅前から路面電車が走っている。小雨の降る中、敢えて徒歩で富山城を目指す。今は公園になっているこのお城、中には2代藩主前田正甫の像がある。伝説では、この正甫が江戸城で腹痛を起こした他の大名に反魂丹という薬を渡したところ、たちどころに治り、諸藩より求められたのが、「越中富山の薬売り」の始まりだとか。

 

公園内には茶筅塚など、色々と記念碑があり、雨に濡れてしっとりとした雰囲気が良い。城の堀沿いには遊覧船もあるようだが、今日はお役御免のようだ。1時間ほどぐるっと回ってみたが、富山の街は落ち着きがあり、静けさの中にあった。ある意味、地方都市らしい地方都市、ということだろうか。

 

再会

夜は北京時代にお知り合いになったNさんとYさんと再会した。Nさんはこの4月に富山に転勤になったばかり。Yさんはお隣の高岡市在住になっていたが、わざわざやってきてくれた。富山にお知り合いがいるとは思っていなかったので、喜ばしい出会いであった。

 

食事は富山の海の幸を満喫した。刺身もかき揚げも実に、実に美味かった。先日の札幌でも感じたことだが、日本の地方都市は食に恵まれている。というより、東京などの大都市が恵まれていない、ということだろう。もっと日本を見直す必要がある。

 

富山には韓国人が多く訪れていたが、昨年の竹島問題以降、観光客が激減しているらしい。地理的に近いというだけではなく、日本の良さが感じられる富山は高く評価されていたのではないか。それが政治で翻弄されてしまうのは残念でならない。

6月22日

6.   立山

立山へ

翌朝はスッキリ目覚める。天気も回復していた。朝食はホテルが無料で提供。朝から生卵をご飯にかけて食べ、満足してしまった。休日であり、皆さんゆっくりご飯を食べており、慌ただしさはない。

 

今日は立山へ行くことにした。昨晩Yさんより、折角だから立山のパノラマを見た方がよい、と言われてので。芦峅寺を目指せ、の一言で富山駅へ。立山行の電車に乗り込む。目的地は立山博物館、駅は千垣という名前。それだけを知り、電車に揺られ、田舎道を行く。

 

小1時間で千垣に到着。非常に小さな無人駅。電車を降りる時に一両目の頭しかドアが開かず焦って降りる。すると運転手が慌てて下りてきて、「切符」と叫ぶ。私は電車の降り方も知らずに乗ったのだ。

 

千垣駅は何とも古風な駅舎を持っていた。如何にも映画のロケ地になりそうな場所である。そこからどちらへ歩いて行くのか、聞く相手もいない。仕方なく適当に歩く。線路沿いの車が通る道を行くと、庚申塚や石仏群が現れる。この道が古来立山への参道だったことが分かる。少しずつ上っていく感じ。そして2㎞あまり歩いて、博物館に到着。お目当てのパノラマショーは2時間後、とのことで、周囲を歩き出す。

 

芦峅寺界隈

この辺りは実に雰囲気が良い。教算坊という江戸時代の宿坊の庭は見事であった。隣の神社も歴史を感じさせる。その中で博物館だけで現代風で浮き上がっていて、景観上好ましいとは言えない。阿闍梨法印が仏祖報恩のため、建立したという種子石碑が並ぶ坂を下る。ここも古き良き道のムードに溢れている。

布橋、あの世とこの世を渡す、天の浮橋とも呼ばれ、江戸時代芦峅寺の重要行事であった灌頂会の際、女性たちが目隠しして、この橋を渡ったという。やましい行いのあった女性はそこで橋から落ちる、という話は、先日沖縄の久高島で聞いたイザイホーの儀式に通じるものがある。「戒め」「箍」という言葉が思い出される。今の世には「お天道様は全てお見通し」という概念が欠けている。

橋の先には墓があった。ここに過去寺があった証拠であろうか。驚いたことに芦峅寺という寺は既になく、地名として名を留めているのみ。周囲は公園のようになっており、旧家が移築されていて、往時の面影を見ることはできる。

2時間後、ビデオ上映をみた。立山の歴史や自然に関するものだった。歩いて見てきたことが説明されており、興味深い所もあった。立山信仰、私の中には殆どなかったイメージが膨れた。そしてビデオが終わると、場内のカーテンが開き、立山連峰が一望できた。ビデオ上映中は降っていた雨はなぜか上がっていた。観客は私の他に一人だけ。勿体無い景色だった。

博物館の受付によれば、「バスは時刻表通り動いている」とのことであったが、今日は休みのような気がして、歩いて千垣駅に戻る。そしてやはり駅に着いてもバスの来る気配はなかった。博物館の人は通勤は車でありバスなどに乗ることはないので、知らないのだろうが、間違った案内により、電車に乗り遅れたりしたら、目も当てられない。何しろ1時間に一本程度しかないのだから。そのまま電車で富山へ帰った。

そしてNさんに聞いた「反魂丹」を売る老舗の薬屋、池田屋安兵衛商店を訪ねた。ここは駅から少し離れた商店街の近くにあった。堂々とした店構え、中には昔の薬作りについての展示物があり、観光客が見学することもできた。勿論薬を買いに来る地元に人もいた。実は先日訪ねた蛭谷は和紙の産地でもあり、富山の薬を包む紙として使われたのかと推測、尋ねてみたが、「江戸時代以降、薬を包む紙は八尾で作られている」との回答であった。蛭谷の謎はここでも解けなかった。

6.   高岡

不思議なホテル

高岡へ向かう。富山から高岡まで各停でも30分。距離は非常に近い。だが、この2つの都市の間にはとても大きな溝がある、と聞いた。高岡は京風文化の街であるらしい。

 

実は今朝ホテルを予約しようと思ったが、予約できないホテルがいくつもあった。そんなに混んでいるのか、駅についても特に人が多い様子もない。仕方なく予約した駅前のホテルは分かり難く、電話で場所を尋ねた。何と普通のビルをビジネスホテルに替えたものらしい。分かり難いわけだ。

 

そしてこのホテル、実に面白い。インターネットはあるが、特殊な機械を使わないと繋がらない。WIFIの時代からすると10年以上遅れている。私は持参のポケットWIFIで凌いだ。部屋のドアはカードキー方式だったが、何とドアは自動では閉まらなかった。一度フロントへ行き、戻ってドア分けると開いていて驚いた。確かに横に説明書きはあったのだが、これもまた何十年前のものなのだろうか。

 

ワンフロアーの部屋数も少なく、フロントも呼び出さないと出て来ないし、出てきても不機嫌そうである。今のホテルチェーンに逆行したようなサービス。大浴場もあると書いてあったが、大は余計であった。全てが不思議、ネタとしては面白いが。

 

高岡のパキスタン料理

昨晩会ったYさんを呼び出してしまった。何だか一人、という気分ではなかったのだろう。彼女は車でやってきてくれた。夕飯を食べようということになり、「パキスタン料理はどう?」と聞かれて、思わず飛びつく。何で高岡でパキスタン、その意外性が面白い。

 

場所は高岡から富山の方へ戻ったところのようだった。国道沿い、夕日がきれいに落ちていった。そこは何と、駐車場、いや中古車を停めている場所だった。パキスタンに中古車を輸出する基地だそうだ。そこで働くパキスタン人の為に料理屋が出来、それが地元日本人にも評判を呼んでいた。それにしてもなぜ富山にパキスタン人、不思議だ。

 

プレハブの食堂、という感じのお店に入ると働いている人はパキスタン人だが、お客は皆日本人。どうやらお店が繁盛したのでここは日本人用にして、パキスタン人用は別の場所に作ったのではないだろうか。ナンとチキンカレーを頼んでみた。予想よりはるかに大きいナン、そして大量のカレー。確かに味は良く、黙々と食べてしまった。インドではナンは高級品で普通はチャパティを食べる。日本はなんて贅沢なんだろう、などと思ってしまう。

 

帰りに道の駅、に寄った。明日どこへ行くのがよいか、作戦を立てるためであった。高岡や富山の地図はあったが、各地がバラバタ。これでは大阪や東京から来る外国人には使いにくい。勿論日本人しか範疇にはないのだろうが、もし外国人にも来て欲しいなら、「自分の街はこんなに素晴らしいだけではなく、自分の街までどうやってくるのか」を示してほしい。各自治体は考え方を改めるべきだろう。

またTSUTAYAを通った。ここには車が沢山駐車されており、人が沢山いた。「高岡の若者は夜になると車で出歩く」との言葉に、東京や大阪との違いを感じる。昼間道を歩いていても、日本の地方都市のことは分からない、ということだろう。

 



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です