バタバタ茶を訪ねて2013(2)蛭谷のバタバタ茶会

3.   朝日町

小川温泉

駅には朝日町商工会議所のHさんが迎えに来てくれていた。これは京都宇治のお茶問屋さんの口利きである。感謝。今日は特に予定がなく、そのまま宿泊先へ。事前に『温泉ホテルと湯治場、どっちが良いか』と聞かれていたので、湯治場、と答えていた。湯治場、その表現が何とも古風で好ましい。この21世紀にも湯治場があるのだろうか。

 

Hさんの車で送ってもらう。途中川があり、その向こう岸を差して、『あそこが蛭谷。バタバタ茶をやるところ』と言われる。ただその『蛭谷』の発音はどう聞いても『ビルダン』と聞こえてしまう。一体どんなところだろうか。

 

車は山道を行き、トンネルを潜った。その向こうにはまさに一軒宿といった感じのホテルがドーンと建っていた。目指す湯治場はその立派なホテルの横にちょこんと併設されていた。既に予約されていたので、スムーズに。湯治場は1泊2食付きで7000円ぐらい。ホテルはその倍はするらしい。そしてHさんは会議があると言って帰って行った。

 

フロントのおじさんに『WIFIありますか』と聞くと『WIFIって何?あー、あの無線の・・』と言われて驚く。実はこの山の中、私が持ってきたポケットWIFIも、圏外が表示されていた。『携帯は何とか繋がるんだけどね』『そういえば数年前、外部との接触を断ちたいというお客が数日泊まったな』など、浮世離れした話が続く。でもそれは好ましい。私もネットなし生活でのんびりできると割り切る。

 

この湯治場に来るお客さん、昔は確かに湯治の為に長逗留だったが、今では近隣の老人たちの日帰りの湯、となっている。中にはここの温泉の権利を持っていて無料で使える人もいるらしい。田舎は複雑だ。夕方は皆が湯から上がり家路につく。

 

露天風呂があるというので見学に行く。小川というには大きな川沿いに歩いて行くと、脱衣所はあったが、風呂は見えない。と思ってカメラを岩の方に構えると、何と裸のおじいさんが立ち上がった。本当に自然の温泉だった。双方ビックリして無言。脱衣所から素っ裸で岩まで歩く自信がなく撤退。その横を女性が女性用に向かっていく。すごい。

 

宿に戻り、一風呂浴びると気分も落ち着く。だがすぐにご飯。何と5時半開始だ。泊まっている人は殆どいないので、食堂は早く閉まるようだ。刺身など、結構おいしいものが出て満足。おばさんにこの辺の歴史を聞いてみたが、『よくわかんね』という感じ。

 

夜は物音といえば、川のせせらぎのみ。ネットもなく静かに熟睡。そういえば今朝は長野で朝5時に起きて、長い1日だった。

6月21日

蛭谷へ

すっきりした朝の目覚め。PCを見ないとこんなに楽なのか、と改めて感じる。またこの環境、素晴らしい。朝8時過ぎに、ホテルの方へ行き、朝食を食べる。団体さんは既に朝食を終え、バスに乗り込んでいる。朝ごはんは充実しており、満足した。9時半にHさんが迎えに来てくれた。湯治場ともお別れ。名残惜しい。フロントの男性からは色々な話を聞いたが、何と元お坊さんだったようだ。もっと話を聞けばよかった、残念。

 

車は川沿いを走る。蛭谷地区は以前戸数100戸あったが、今では30戸、150人が暮らす町。伝承館というバタバタ茶の伝統を守る施設がある。ここで週4回、午前中に地元の人が集まり、茶会が開かれている。私はこれに参加させてもらった。お当番の女性が準備をしており、10時頃から三々五々人が集まり、バタバタ茶を飲みながら、お話している。

 

バタバタ茶の歴史は相当古い。基本的には仏事。各家庭で故人の祥月命日に茶会を開催、知り合いが集まって茶を飲み供養する。蛭谷(ビルダン、ベルダン)地区では今でも続いているが、準備などが大変で開催が減ってきている。それに伴い茶の需要も減り、生産もほぼなくなり、他の場所(福井辺り)で作られた物を買って凌いでいた。

 

だがその茶農家も生産を中止することとなり、このままではバタバタ茶がなくなると危惧したHさんら、町の人々は茶作りをしていた最後の一人に教えを乞うて見事復活させたのだという。現在の茶葉生産量は年間僅か3000㎏で、とても商売に適した生産量は確保できない。年1回7月頃に茶葉を摘み、40日掛けて作る。専業農家はなく、友の会で生産している。このバタバタ茶、作るのはかなり難しい。何度も試行錯誤を重ねているが、未だに完璧に作れることはないという。Hさんは『発酵させている間は一日2₋3回の見回りが欠かせない。本当につらい作業だ』と言っている。

 

しかしなぜ蛭谷というのか。なぜ『びるだん』と読むのか。そしてなぜここでバタバタ茶が飲まれているのか、謎は深まるばかりだ。

バタバタ茶会

伝承館に10名程度の人々が集い、茶会が始まった。茶葉を布で包んで鍋に放り込み、煮出している。皆さん、マイ茶碗、マイ茶筅を持ってきており、煮出した茶を碗に注ぐ。そして素早い動きで茶筅を碗の両側に打ち付け、バタバタ音をさせながら、茶をたてる。これがバタバタ茶の名前の由来だ。

 

この茶のたて方、飲み方がいつどこから伝わったのかは定かではないらしい。私が4月に訪ねた中国広西壮族自治区の梧州で作られていた六堡茶と製法が同じと言われているが、この町ではそれすら知られてはいない。茶は中国から来たのだから、この製法も中国から来たのでは?と言っても真実を知るすべがない。一応公式見解は⇒ http://www.shokoren-toyama.or.jp/~batabata/

 

仏教に絡んでこの茶が生まれたのではないか、との話もある。この付近は一向宗であるが、なぜか蛭谷には寺がないため、自宅で仏事、茶会をする習慣が残ったというのだ。お茶と仏教は深い関係にあるので、十分に考えられる。また蛭谷と川を挟んで対岸にある羽入は全く違う土地柄であることから、蛭谷の人々はいつの時代かに別の土地からやってきた、茶の製法も持ってきたのではないとの説もある。実際蛭谷の人々は非常に明るい。太陽が出る方角だから、というだけではあるまい。

 

そんなことを考えているとおばあちゃん達は、どんどん茶を飲み、ケタケタ笑いながらとりとめもない話をしている。『そんな混ぜ方じゃダメだよ』と手本を見せてくれたり、昔話をしてくれる。少なくとも皆さん、子供の頃から慣れ親しんだ茶である。おばあちゃんがバタバタやってくれると味がまろやかになり、美味しいのは何故。

 

『昔はお茶に塩を入れていたよ。そうすると美味しんだ。けど、最近は健康診断あるでしょう。すぐに血圧などに影響が出るから、今は入れないの』という。そういいながらも塩が置かれており、入れてみると何となく味がすっきりしているようだ。いずれにしてもこのお茶はあっさりしていて飲みやすい。

 

そしてお当番の家で作られた漬物、実に実においしい。最初は遠慮していたが、あまりの美味しさについつい手が出てしまう。自ら作ったキュウリや大根を漬けている。山菜も山から採ってきている。非常に自然な味だ。

 

あっという間に時間が過ぎ、参加者は開始同様、三々五々帰って行った。『さよなら』とも言わない人が多い。どうせまたすぐ会うからだろうか。帰ろうとするとお当番さんが『おにぎり作ったから食べていきなよ』と言って、漬物とおにぎりが差し出された。既にお茶会でお腹一杯だったが、ありがたく頂戴した。このおにぎりもうまかった。何とも幸せな茶会だった。感謝。

http://www.kurobehan.com/kouza/guide19/

茶畑

伝承館を後にして、茶畑を見学する。茶畑は町の中にあり、遠くに山々が見えるいい景色の中にあった。『お茶実証畑』と書かれた看板が立つ。畑はここ1つだけ、ここでバタバタ茶製造の原料となる茶葉を摘んでいる。海辺に近いこともあり、標高はなく、平地に畑が続く。

 

茶樹は『やぶきた』と書かれている。あと1月もしないうちに茶摘みが始まることもあり、茶葉が元気に育っていた。ここは公園にもなっていて、向こうの方にまるで原始時代のような藁葺の家屋が見えた。バタバタ茶が何となく愛おしくなってきた。

 

すぐそばに『なないろ館』という郷土の特産品などを扱っているところがあった。富山県には各地に窯があり、焼き物が盛んなようだ。海辺ではヒスイの原石が今でも見つけることが出来るという。『縄文時代から古墳時代にかけ、朝日町はヒスイの玉つくりの地』だったそうで、古代のロマンに満ちていた。

 

この地はその昔、中国や朝鮮半島と独自の交易があったのではないだろうか。ヒスイの貿易がメインだったかもしれないが、それに伴い、モノや人の往来があり、独特の文化が築かれた、そんな気がしている。

 

最後に町役場へ行き、町の歴史についての資料を探したら、親切にも『町史』を貸して頂いた。ただ残念ながらお茶についての記述は殆ど無く、バタバタ茶については、分からないことが多く残ってしまった。

 

 

 

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