モンゴル草原を行く2013(3)セレンゲ 幻の茶城

8月13日(火)

3.     セレンゲ

セレンゲヘ

今日はいよいよモンゴル草原を行く。2台のランドクルーザーに分かれ、北を目指した。ウランバートル市内を抜けると、後はずーっと草原。道は一本道で舗装道路、快適だ。天気も良い。恐らくはモンゴルで一番良い季節なのだろう。ただゲルや羊の姿はなく、もっと遠くへ行っているように思えた。

 

途中にガソリンスタンドがあり、給油。簡単な店があり入ってみると、缶コーヒーなどが売られていた。これは台湾製。モンゴル人もコーヒーを飲むんだな。車を所有している層は当然海外慣れしている。因みにガソリン代は日本並み。

 

鉄道の線路に出くわす。列車が来るので足止め。列車が来るまで相当の時間がかかり、周囲を探索。この辺りは草原と言っても、家があり、区画が割られている。聞けばモンゴルでは全国民が700㎡ずつの土地を貰う権利があり、誰も使っていな土地は自由に使い、届をすれば自分の物となるようだ。自分の土地には柵などをして、使用していることをはっきりさせるらしい。最近はUB付近の土地は確保できないようだが、田舎は便利なところを選んで貰うという。

 

列車は基本的に貨物。それも延々と続く。石炭や石油を運んでいるようだ。これがモンゴル経済を支えているのかもしれない。勿論トラックも走っていたが、その数を見れば、鉄道輸送の重要性が分かる。

 

4時間ほど走ってセレンゲ県に入る。ここは草原ではなく、小麦や野菜の畑が見えてきた。農業県セレンゲ、UBの市場で見た野菜などもここから運ばれてくるらしい。内モンゴルの草原出身のNさんは『ここの小麦は悪くない』などと、自らの故郷を懐かしんでいるようだ。作物や草花を見て、一瞬で名前を言い、種類を見分ける、草原で生きてきた証を見るようだ。

 

合計5時間ほどで、セレンゲ県の中心都市、セレンゲに到着。ここはもうロシアとの国境の街だ。当然北に進んだので涼しくなると思っていたが、何とどんどん暖かくなる。実はUBは標高が高く、我々はどんどん坂を下っていたらし。『北へ行く=寒くなる』という固定概念ではアジアは語れないと痛感した。UBの市場でわざわざ購入した上着の出番はとうとうなかった。

県庁訪問

セレンゲは静かな田舎町だった。だが、ホテルは結構立派で驚く。最近できたようだが、それだけ需要があるということだろう。ネットもちゃんと繋がるし、何よりきれいだった。ホテルから歩いてすぐの所に県庁があり、訪問した。セレンゲの現状について聞いたが、『農業県』ということだった。またロシアとの国境貿易も盛んのようで、この県はかなり豊かな感じがした。

 

お昼はホテルに戻り、県庁の人々やセレンゲ商工会のA会頭も参加して会食した。このホテル、食事もしっかりしており、益々よい。餃子の皮のようなものが入ったスープが特に美味しい。昼からしっかり儀式としてビールを飲み、歓迎された。先方のトップが女性だったのでこの程度で済んだのかもしれない。

 

部屋に戻り休息。今回は全てNさんと同室だが、彼は早々探検に出るという。やはり私などよりは10歳以上若い。モンゴル族と言っても外モンゴル、特にロシア国境には初めてやってきた。興味津々のようだ。こちらは車で疲れたので、ベットに横になるとすぐに寝てしまう。環境が良いせいか。ここは空気もいい。UBの喧騒もない。

 

草原のBBQ 

午後5時に車に乗り、草原へ出発。牛や羊がゆったりと歩く草原を見ると心が休まる。車で30分ほど行くと、突然丘の斜面を登る。そこにはゲルが。そして濛々とした煙が上がっていた。A会頭より『今日は旅行会社の社長のインタビュー』と聞いていたが、何と草原のゲルで行われるという趣向だった。というか、このゲル自体が観光用で、BBQを食べるというプランだったのだ。

 

一人の女性が近づいてきて『ビール、飲みましょう』と何と日本語を話した。聞けば3年前まで千葉県の工場で働いていたという。そして『この3年間で初めて日本人と会った。日本語が話せて嬉しい』とも言う。彼女は思い出すように日本語を使っていたが、すぐに流暢になった。

 

このゲルツアーは今年から始まった。ロシア国境から7㎞、外国人の観光客に期待している。日本人はほんの数組が泊まった。このような民間による新たな試みがモンゴルに芽生えている。

 

BBQは美味かった。だが羊ではなく豚肉。モンゴルの地方に行ったら毎日羊だと脅かせれてきたので拍子抜けした。青空の下で食べるBBQ、ビールや馬乳酒を酌み交わし、気分も爽快となる。そうなると歌が出る。N教授も特にロシア民謡を披露。先方は日本語の話せる女性とその旦那が日本語の歌を歌う。そして踊る。最後にはモンゴル相撲まで披露された。これは決してショーではなく、素朴なもてなし。それがとても良い。

 

この近所には周囲を一望できる丘もあり、景色もよい。丘に登れば、河が見え、遥か国境付近まで見渡せる。思えば遠くへ来たもんだ、と思う。こんな観光、したくてもなかなかできるものではない。

 

8月14日(水)

幻の茶城発見

朝ごはんはビュッフェスタイルではなく、オーダー。オムレツとパン、野菜が少ししかないのがモンゴル風。テーブルにキッコーマンの醤油が置かれている。羊肉にかけて食べる人がいるようだ。これは意外に美味いだろう。さすがキッコーマン、モンゴルの果てまで営業していると思ったが、これはシンガポール製。恐らくはモンゴル人の誰かが日本人と関係なく輸入したのだろう。うーん、モンゴル市場は確かに小さいが、親日的でファンは多いと思うのだが。

セレンゲ県の税関を訪ねた。役所のビルの目の前に鉄道の線路があり、ロシアと繋がっている。モンゴルにとってロシアがどんな存在であったのか、よく分かる。ただセレンゲの貿易に占める地位は低下してきているらしい。ロシアではなく中国の影響があまりにも大きくなりすぎた。

そして車で国境に向かった。呆気ないほど簡単に到着。車が列をなしており、国境を越えてロシアに向かうことが分かる。イミグレの人に話を聞くと、『毎日数百台が通る。日帰りも多い』と。気軽な国境だった。

ちょうど自転車に乗った人たちがやってきた。聞けばフランス人の50代の夫婦。何とフランスから自転車でやってきて、モンゴルを回り、これからフランスへ帰るところだという。既に1年半の旅をしている。半端じゃない。驚きだ。

そして何より驚いたのは、国境の柵の向こうに見えた白い建物。何気なく聞いてみると、何と百年以上前の茶城だった。ここはモンゴルではヒャクトという地名だが、ロシア語はキャプタ。1727年に清とロシアで結ばれた、あの歴史の教科書にも出て来るキャプタ条約の場所だったのだ。Nさんが言う。『今朝、「茶葉の道」という本を読んでいたでしょう。あそこに出ていた茶城ですよ』と。意図せず持ってきた本の写真が目の前に。歴史が厳然と存在している。全く驚きだ。

茶葉は中国からここを経由してロシアに運ばれ、拡散し、人々は茶を飲むようになり、やがては生活必需品となった。この地は清国の商人とロシアの官僚がパーティーをしていたところでもある。是非とも国境を越えて茶城跡を見学したかったが、『ビザを持っていないなら行けませんよ。こっちは出てもいいが、ロシア側で罰金とられますね』というイミグレの一言で現実に帰った。

これは茶縁なのだろうか。きっとそうなのだろう。旅には意外性が付き物だが、今回の意外性はスケールが大きかった。

何もない自由貿易区

実は今日国境を訪問したのは、単なる旅ではなかった。今回の調査の目玉の一つ、モンゴル-ロシア国境における自由貿易区の発展状況を視察することにあったのだが、現場に案内されて驚いた。10年前から計画されているこの貿易区、殆ど何もなかった。プレハブの事務所に計画のパネルなどがあったが、何ともむなしい。

 

なぜこのような状態なのか。このプロジェクトを担当していたのは20代の若者2人。『毎年予算は付くが、お金が届いたためしがない。当初基礎工事で地中のパイプなど水工事は行ったが、そこまでだ』と本人たちも残念そうだ。

 

外に出ると、骨組みだけ出来た倉庫が一つ、ポツンと建っていた。これは今の貿易区を象徴していた。多少の従業員がいるとのことだったが、昼休みで誰もいない。何とも寂しい。ここは産物のないモンゴルが、世界各国から物資を集め、貿易を進めるはずの場所だったが、計画倒れ。モンゴルの現状がよくわかるプロジェクトとなっている。

 

因みに貿易区には柵が設けられている。これはロシアとの国境を示すもの。『ロシアはどんどんモンゴルの土地に侵入してきている。何も対抗しないと、奴らは更に進んでくる』、昔は気が付くと、ロシアの柵が前進してきたそうだ。確かに広大な草原、全てを守ることは人口の少ないモンゴルにはできない。またロシアは入植と言う形で、ロシア人をどんどんこの地に放り込み、彼らが国境を動かしていることもあるようだ。島国日本から来たものには、全く想像もできないような、領土争いがそこにある。

 

またモンゴルには精霊信仰がある。この大地にも祭られている場所があった。一見無造作に置かれている石、布で周囲を囲われている。そして驚くべきことに、捧げられているのはお茶の葉。日本ではレンガ茶と呼ばれるブロック状の磚茶。これはモンゴルの人々が日常飲むミルクティの原料だ。中国茶は仏教との兼ね合いが強いが、ここでは精霊。

 

ローカルランチ ロシアから卵

昼ごはんはかなりローカルな店に入った。まんとうと羊スープ、これは私が望んだものだったので満足。この辺に店はあまりなく、国境を越えてロシアから来たトラックなどが引っ切り無しに前を通り、または停車していく。レストランの隣はちょっとした何でも屋。トラックの運転手が下りてきて、水などを買っている。

 

運転手に何を運んでいるのか聞いてみると『卵』との答え。材木などを積んだ車もあるが、食品を運んでいる車も当然ある。卵はモンゴルでも何とか生み出せないのだろうか。ロシアでも条件は変わらない筈だから。大量生産した方が安い、と言う資本主義の原理だろうか。こうした輸入形態がモンゴルの伝統だとよくわかる。

2 thoughts on “モンゴル草原を行く2013(3)セレンゲ 幻の茶城

  1. 2012〜13年は本土で「茶叶の道」がクローズアップされた年でした。そのどれもがこのチャプタで終っています。この茶城の画像を撮ったひとはいないので貴重です。
    ロシアは漢口に工場を建て、古くなった機関車を再製してプレス機を作り、それで磚茶をどんどん生産しました。紅茶の磚茶の表装に機関車が描かれているのはそういう事のようです。

  2. 1939年頃モンゴルと旧満州国との国境紛争ノモンハン事件がありました。日本軍部の不拡大策で大きく報道されていませんが、旧ソ連とモンゴルの連合軍と日本と満州国軍の連合軍が、航空機や機甲部隊を動員して当時としては近代的な戦争で、双方に数千人の死傷者が出た戦争でした。最近(2014年8月)ロシアのプーチン大統領がモンゴルを訪問して、当時のモンゴル軍の活躍に謝辞を贈ったと聞きます。今のモンゴルに当時の語り伝えや遺跡が残っていますか?

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