台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(2)台北 劇的な再会

4.25年ぶり、劇的な再会


Kさん夫妻と別れてタクシーに飛び乗る。今度はある友人より紹介されたBさんと会うためだ。「Bさんは昨年まで交流協会の文化担当をしており、非常に顔の広い方だから、一度会っておいた方がよい」とのメッセージを貰っていた。しかしその次のメッセージには首を傾げた。「Bさんは当日夜台北でライブをやります」、これは一体なんだ?文化担当とミュージシャンが同一人物とは??

指定された場所に着くと、車からBさんが降りてきた。如何にもミュージシャンが練習を終わってきた感じだ。喫茶店に入り、「初めまして」と挨拶した。Bさんは昨年20年勤めた先を退職、現在は日本で映像関係の仕事をしながら、歌を作り、そして台北時代に結成したバンドメンバーとライブも行っていた。ちょうど今夜がそのライブの日であったという訳だ。途中でBさんの携帯電話が鳴り、国語(中国語)で流暢に話をしていた。何か少し引っ掛かるものがあった。震災ボランティア、台湾での交流など、その後様々な話をした。共通点もいくつかあった。そして私は最後の質問をした。「その中国語はどこで勉強したのか」と。

驚いたことに彼が口にした留学先と留学時期はなぜか私のものと一致していた。「え?」突然頭の中に25年前が蘇る。「Bさん」、あー、思い出した。確かに同じ時期に上海に居た彼だ。念のため、数人の同学の名前を挙げると彼の顔も輝いてきた。因みにこの再会を当時の留学仲間に連絡すると皆一様に驚いていた。

25年ぶりに再会した。しかもこのような形で。これも最近いうところの茶縁の一つである。懐かしさがこみ上げたその時、日本人の婦人が近づいてきて、我々の再会時間が終了したことを告げた。こうなれば、夜のライブには行かねばなるまい。そして彼に会った最大の目的である台湾茶に詳しい日本人を紹介してもらわねばならない。

5. 幽玄なお茶屋さん

あまりの驚きに体勢を立て直すために一度ゲストハウスに引き上げる。MRTに乗ると、なぜかお腹がグルグルなる。余程驚いたのだろうか。トイレを探すと駅の外側だった。日本にはないパターン。駅員さんは非常に親切にドアを開けてくれた。何だか子供の頃に、こんなことがあったな、と思い出す。台湾はいつも懐かしい雰囲気を持っている。

夕方連絡があり、約束の場所に台湾人Jさんを訪ねた。これもBさん同様人のご紹介であり、初対面であった。コーヒーショップの前で待ち合わせたが、そこには入らず、少し歩く。どこへ行くのだろうか。何と到着したところは駐車場。台北も街中に駐車はかなり難しい。初めて会う人間と車で会うのは避けなければならない。

これからお茶屋さんに連れて行ってくれるという。車の中でJさんの話を聞く。日本在住10年で日本人のように日本語を話す。かなりの人脈を持っていそうで楽しみ。そして話が盛り上がった頃、ある民家の前で車が止まった。階段を5階まで上がる。こんな所にお茶屋さんがあるのか。中に入ると普通の家。日本語で「こんばんは」と笑顔で女性に言われる。奥に畳が敷かれており、そこに年齢不詳のYさんがさらりと座っていた。早速お茶を頂く。昔の包種茶は現在の物とはかなり違うのか、と質問するとYさんはおもむろに「じゃあ、昔の包種茶、飲んでみる」と言いながら、お茶を淹れてくれる。

飲めば分かる。確かに現在緑茶に近い包種茶とは異なり、発酵度が高く、香りは立たないが、味わいはある。何だか不思議な気分になる。数十年前の包種茶をマンションの一部屋で飲んでいる。思わず畳に寝転がりたくなる。この家には他に貴重なお茶が沢山所蔵されているようだ。

夕食として餃子とスープをご馳走になった。このシンプルな食事が実にこの場に合っていた。食後に部屋から屋上に出た。そこにはYさんの思いが込められていた。様々な植物が置かれていたのだ。「自分の家が一番リラックスできる空間。緑がない場所ではリラックスは出来ない。当たり前だよね。」若く見えたYさんが一瞬仙人のように見えた。

6. ライブ

時間も8時となった。Yさんのもとを離れ、次なる目的地へ。先程劇的な再会をしたBさんよりライブの前のメンバー夕食会へのお誘いだ。本来は遠慮すべきところであるが、そこに青木さんもやって来ると聞き、仲間に入れてもらったのだ。 

青木由香さん(http://www.aokiyuka.com/)、台湾在住9年、お茶にも関係した仕事をしているとのことで、紹介を受けていた。台湾に関する著書もあり、ユニークなキャラだと聞いていた。青木さんはメンバーのためにライブハウス近くの個性的なお店を予約して待っていた。さすが。

ところがメンバー以外にも数人、参加者がおり、また初対面でお茶の話を聞くなど出来る状況ではなかった。BバンドのメンバーはBさん以外の3名は若い台湾人であり、おとなしい感じであったが、皆今日の日を楽しみにしていたようで、とてもアットホームな雰囲気に包まれていた。これもBさんの人柄か。特に24歳の裕君は全盲のピアニスト、東京でのリサイタルも控えているとのことで、少し驚く。

そして食事が終わり、いよいよライブへ。ライブハウス前にはファンや知り合いは待っており、久々の再会を祝していた。Bさんの台湾生活が充実していたことを物語っている。青木さんの携帯が鳴る。何か話していたが、当然こちらを振り向き、「Yさんのお茶屋に居たの?」と聞く。その電話はYさんの所で日本語を話していた女性Lさんからであった。そして何と何と、その彼女こそが青木さんが最近立ち上げた会社の会長だと言うではないか?もうこの程度では驚かないが、やはり驚いた。青木さんとも何らかのご縁が繋がった。

いよいよライブハウスへ。こじんまりした会場で、Bバンドの演奏は始まった。Bさんとリーダーのトークが間に入り、会場は沸いていた。Bさんから中国語で「今回の震災に対する台湾人の支援に感謝する」との言葉を聞き、久しぶりに感謝を表す意味を感じた。支援も感謝も突然生まれる物ではなく、このような親密な空間でお互いが分かりあう中で生じる物ではないか。

Bさんの歌声がハウスに響く。力強い歌、色々な思いが詰まっていた。子供たちを思って作った曲も含まれており、思わず涙しそうになってしまった。感激の再会の余韻は残っていた。彼は全てを敢えて日本語で歌っている。歌詞が分からなくても、台湾の人々に十分に伝わっている様子が分かる。実に不思議な情景だった。

演奏が終了し、Bさんが一人一人の観客と固い握手を交わす。しみじみと「今日会えてよかった」と言葉を交わした。これも一つの茶縁なのだろうか。Bさんの今後の活動に注目して行こう。

4月21日(木)
7.魚池へ行け

翌朝8時、ライブの疲れがあったが?昨日会えなかった黄さんに電話する。すると「10時半には出掛ける」との答え。取るものも取り敢えず、朝食も取らずすっ飛んで行く。タクシーに乗り10分で到着。

黄さんは1980年代終わりから、台北市茶葉公会の会長を務め、現在は顧問。日本語も英語もできる黄さんは公会にとって貴重な存在であり、対外的な広報、外国人のアテンドなどは公会を代表してやっているようだ。日本をはじめ、諸外国にお茶人脈を持ち、講演をこなしてきたという。

同時に恵美寿というお茶屋さんを経営している。恵美寿はアメリカにも工場を持ち、中華レストランにお茶を供給している。恵美寿の店の名前の由来は先代が恵比須顔だったからだという。何ともユニークである。

黄さんはお茶の歴史の専門家ではない、と言っていたが、一通り台湾茶の歴史を教えてくれた。そして日本統治時代「総督府は茶葉伝習所や試験場を作って、台湾のお茶人材を育成し、また品種改良を行った。これは大変な貢献である。」と熱く語る。私が思っていた台湾茶の歴史にはなぜか日本統治時代がスポット抜けていることに気が付いた。それはなぜだろうか。そう、当時台湾の輸出品と言えば、米、砂糖、茶であったが、その内日本が必要としたのは米と砂糖。お茶は輸入する必要がなかったため、日本統治時代を研究する人からも敬遠されてきたのだ。

そして黄さんは決定的な言葉を言い放った。「あんた、必ず魚池に行きなさい」。魚池?今まで聞いたことがない地名が飛び出してきた。しかし私の旅は行けと言われれば行くのである。どうやっていくのか、今回行くのかは全くこの時点では分かっていなかった。それでも結局は行ってしまうところに私の旅の面白さがある。



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