ダージリンお茶散歩2011(4)マカイバリ 茶園主と散歩して分かる素晴らしい茶園

マカイバリ茶園の歴史

クルセオンからの下り坂を降りると、ラジャ氏がお客さんを案内している所に遭遇。彼の家は工場から茶畑を登った所にあると言う。時間が空いたと言うことで、オフィスにお邪魔し、ホワイトティーを頂きながら、マカイバリの茶の歴史を聞く。

ラジャ氏のひいお爺さん(Girish Chandra Banerjee)はコルカタ近くに広大な土地を有する家に生まれたが、ロンドンで法律を勉強したいと言う希望が父親の怒りを買い、14歳で家を出て今のバングラデッシュに辿りつく。ヨーロッパの8か国語が話せた彼はその後地域とイギリスの間に立つなど頭角を現し、16歳でダージリンとクルセオンでポニーエクスプレスサービスというポニーを使った郵便システムを確立。20歳の時には既にこの地域で大金持ちになったと言う。

1840年にキャンベル博士が最初にクルセオンとダージリンに茶園を開いた。そこに目を付けたイギリス軍脱走大佐サムラー(Samler)がこの地に広大な土地を所有。ひいお爺さんはサムラー氏と仲良くしていたが、1858年にサムラー氏が亡くなるとその地を引き継ぐこととなる。しかし時代はイギリス植民地へ入り(1857年セポイの反乱)、危機感覚に優れた彼はこの土地の管理者として香港のジャーディン・スキャナー商会を前面に立てて、土地を所有し、イギリスの接収を免れた。

当時生産管理は行き届いてはいなかったが、商品はクルセオンまで籠を背負って運ばれ、そこから鉄道でコルカタへ。コルカタでジャーディン・スキャナーがオークションにかけ、イギリスなどへ輸出されていった。利益は半々だったと言う。それでも初代が亡くなった1898年には途轍もない財産を残したという。

1939年に第2次世界大戦が始まると、これを好機と見た祖父(2代目、Tara Pada)は父(3代目、Pasupati Nath)をマカイバリに送り込んで経営を行った(マネージャーはインド人と言うルールが存在)が、父は茶に興味がなく、もっぱらハンターであった。

余談だが、東京裁判の3人のジャッジはアメリカ、イギリス、そしてベンガル人だった。ベンガル人のみが天皇の戦争責任を否定し、天皇は責任を問われなかった。ベンガル人とはそういう人々だ。元々ベンガルはこの地や今のバングラディシュを含めた広大な土地を指していたが、イギリス人はベンガル人の優秀さを恐れて、土地を細かく分割した。

話を聞いている間もひっきりなしに来訪者があり、職員が指示を仰ぎに来る。その一つ一つに丁寧にそして的確に指示を与える。トラブルに対しては毅然とした態度で臨んでいる。経営者の顔がそこにある。ただ我々と話すときには、飛び切りの笑顔あり、ユーモアを交えたトークありで、とても楽しい。

10月12日(水)  マカイバリを訪れる人々

昨晩パサンに「ラジャ氏は8時半から工場を見て回り、その後お祈りをするから、9時過ぎに行けばよい」と言われたが、そこは日本人、8時半と約束すれば相手が来なくても8時25分には彼のオフィスに行ってしまった。

案の定、彼は工場に行ってしまい、そこに若いカナダ人カップルがいた。旦那はトロントでTVコマーシャルを作っているとか。よく聞けば1970年代、親がカナダに移民したインド人だそうだ。カナダで育った彼はインドの文化や慣習をあまり知らないらしい。今回の旅は自らの文化を知ることで1か月回っている。カナダは英連邦であるから当然紅茶文化だろうと思ったが、やはり最近はコーヒーが主流。茶のイメージは薄れていると。

トロントもバンクーバーもいまや大陸中国人が大量に不動産を買い、移民してきている。その勢いは驚くべきスピードだと言う。この辺りが金に物を言わせて、その地の文化を理解しない中国人として、嫌われる要素がある。インドでも中国の力による侵攻には警戒感を強めており、例えばシッキムに中国人は入ることが出来ない(パキスタン、バングラディシュも)など、一定の制限を設けている。昔日本も同じように思われていたと思うと、何だか情けない気がしてきた。

因みにここにホームステイする人は、ヨーロッパ人が主流。偶に韓国人や日本人もいる。最近はインドのデリーやコルカタ、ムンバイなどもからもビレッジライフを求めてくる人々がいる。またドイツ人でボランティアとして、水タンクの寄贈を行うような人もいる。実に多様性がある中、日本人でも写真撮影に来たり、ラジャ氏との交流のために茶業者、ジャーナリスト、芸術家、実業家などが訪れていると言う。

その夜、パサンと話した。彼はこの村の発展を真剣に考えていた。「自分たちは大儲けをしようなどとは思わない。また今の自然な生活を捨てようと思わない。しかし例えば子供たちにもっと教育の機会を与えたい。そのため、学校建設を計画している」

その計画によれば、それは専門学校のようなものであり、お茶製造の技術から、車の修理や電気関係など、この村として必要な物を皆で教えようと言うもの。先生はこの村でその技術を持つものが担当、その他事務員なども村人で賄うと言う。

「旅行業はどうしてもコルカタやダージリンなど都市の旅行社がアレンジしてしまい、我々にはあまり利益が無い。何とか自分達でツアーをアレンジしたり、企画したりもしたい」とも言う。確かに私ももしパサンを知っていれば、彼に英語でメールを送り、手配を頼んだかもしれない。欧米人の多くは、旅行社などは通さず、自ら連絡を取り、中には直接やって来て、ステイしていく者もいる。「日本人はどうして旅行社を通すんだ」と聞かれて困る。寄付金で学校を建てる、寄付付きツアーは日本でも流行るのでは。

ラジャ氏の話2

今日はラジャ氏と30分話が出来た。昨日彼は丁寧にマカイバリ茶園の成り立ち、そしてその紅茶の輸出などについて、説明してくれた。このような話は既に何十回もしているようだが、嫌な顔もせずに話してくれる。2008年には本も出版しており、こちらも買い求めて、私の至らない英語を補うこととした。

今日は生産された紅茶の品質と価格について、聞いてみた。150年前にマカイバリで紅茶生産が始まってから今日まで、紅茶の世界ではダージリン紅茶が一番良質であると確信しているようだ。アッサムは大葉種で、繊細な味が出ない。スリランカの茶木はインドから渡った物で後発。中国では混乱もあり、良質の茶葉を作る環境が無かったと言う。

当時イギリス人の憧れは中国産の紅茶。アッサムで茶樹は発見されたものの、やはり中国産が飲みたいという要望に合わせて、中国より茶樹を持ち込み、インド各地に植えたが、結局このダージリンだけで中国産小葉種の茶葉が育ったのだという。

価格は全てカルカッタのオークションで決められたが、ダージリンティーは常に高値であった。勿論茶葉の質と顧客の要望により、安いお茶も作っていたし、ティーバッグも作っていた。リプトンもブルックボンドもダージリンに一目置いていた。

日本の震災の話も出た。「中国にはプリンシパルが感じられないが、日本には今回の震災を見ても、まだまだプリンシパルがある」と言う。先月シッキムを中心にこの地方でも大きな地震があり、家屋に被害が出たと言うが、もし日本の震災並みの地震がやってきたら、人心が耐えられないだろうとも言う。

ラジャ氏と茶園散歩

ラジャ氏が得意の「カム」と号令をかける。私は黙って彼に着いて行く。工場からかなり下る。どこへ行くかなどとは聞かない。指揮官の行動は絶対である。ラジャ氏のいでたちは狩りに行く英国人。背筋はピンと伸びている。

道路では村人と達とすれ違う。その度に彼はバックから飴を取り出して一つずつ皆に配る。店の中の子供には覗きこんで配る。そして必ず声を掛ける。話の内容は分からないが、茶葉はどうかとか、暮らしはどうかなどと聞いているに違いない。その姿はまるで領主様。英邁な領主を持った村人は有難く彼の話を聞く。

左手に棒を持って進む。途中から茶園に突入。昨日も経験しているとはいえ、毎日散策しているラジャ氏のペースは早い。着いて行けずに遅れる。彼は滑りやすい場所などでは、的確に指示を出して助けてくれるがそれ以外はお構いなく進む。自身でも滑ることがある。すると彼は「Part of My Life」と言って何ごともなかったように進む。イギリス人がゴルフでフェアウエーの真ん中に作られたバンカーにナイスショットして運悪く入るように。

ラジャ氏が草むらを指す。そこには蜘蛛の巣が張られている。「これが意味するものは、化学肥料が使われていないことと蜘蛛の食糧が十分にあると言うこと」実に多様な虫がここに生息しているそうだ。

次にまた草むらを指す。「ここには13種類もの草が密集して生えている。彼らは共生出来ている。人間がもしこんなに多人種で密生していたら必ず喧嘩になる。人間とは愚かなものである」全くその通り。

茶畑に入る。彼はいくつもの茶葉を摘みとる。「プージャ(祭り)があったから、成長しすぎてしまった。これでは次の芽が出ない」と言う。プージャ期間は1週間以上休みであったが、自然の植物が成長を止めることはない。それにしても茶畑の景色は素晴らしい。

30分以上下っただろうか。これから上って戻るのかと思うと、気が遠くなる。と丁度小屋が見える。一休みかと思うとラジャ氏は中に声を掛ける。窓から数人の子供たちが顔を出す。どの子も素晴らしい笑顔とちょっとしたハニカミを見せる。彼は一人ずつに飴を配りながら、様子を聞く。ここは茶園の託児所であった。これならお母さんも安心して働ける。素晴らしい配慮だ。

更には車が用意されており、乗り込む。実はパサンの家を通った時に家の犬が付いてきていた。この犬は私が出来掛けるといつも途中までカードしてくれる賢い犬だったが、今日は何故か全行程付いてきてしまった。私はジープの後ろから彼を見え送り、心配してラジャ氏に「あの犬は家に帰れるだろうか」と聞いた。「当たり前だろう、犬はそんなにバカではない」全くその通り、家に帰るとちゃんと玄関先に寝ていた。





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