ある日の埔里日記2017(20)埔里文庫

2月7日(火)
埔里最後の日に

 

1か月は長いようで短かった。色々なことがあり過ぎて、埔里に来た日が遠い過去のことのように思える。滞在中、台湾茶の歴史についての興味が急速に芽生えていったが、これをどのように調べればよいのだろうか。手始めに折角いるのだから、埔里の歴史が分からないかと、来て早々に図書館を訪ねていた。4階に埔里文庫という歴史を展示している場所を見つけていたが、その時は係の人が忙しかったので、出直すことにしていた。ところが旧正月で1週間以上図書館は休みとなり、また土日は文庫がお休みということで、今日まで再訪できていなかった。

 

午前中は荷物の整理をした。1か月もいると、いやでも荷物が溜まっていた。ゴミ類は昨晩のゴミ出しでほぼ捨てていたが、本や資料などをどうするか。結局バッグ一つをここで預かってもらうことにして、帰国荷物を分けることとなる。日頃整理整頓ができていないことを露呈させる。

 

昼ごはんは近所で気に入っている、焼肉飯を食べる。焼肉という文字が引っかかりやすい。実際には焼肉弁当の体であり、大き目の肉が2枚入っていて、後は野菜や蛋など。店内で食べるとこれがどんぶりで出てくる。何というか、どこがうまいか言葉で表せないがうまいのだ。スープは無料、自分でよそう。60元。

 

午後図書館へ向かう。歩いても5分位だ。隣には建物の下にバスケットコートがある。図書館の1階は新聞や雑誌があり、近所の老人がゆっくりと眺めている。3階には歴史関係の本もあり、前回はここで台湾の歴史関連を眺めた。中には日本時代に書かれた日本語の本まである。

 

そして4階の埔里文庫。前回もちらっと見ていたが、日本時代の商店や診療所が再現されており、実際に使われた備品なども展示されている。また埔里在住カメラマンの残した書籍なども展示されている。尚入口付近には、霧社事件で亡くなった日本の巡査やセデック族の女性の写真などが大きく展示されている。これは何を意味するのだろうか。この歴史を現在の埔里の人々はどのように捉え、どのような位置づけで展示しているのだろうか。原住民であるセデック族といわゆる台湾人の間にも、溝があったはずなのだが。

 

埔里の歴史に関する本も多数置かれているが、その中でお茶に関連したものを探すのには苦労した。日本統治時代、勿論まだ高山茶などは存在せず、埔里が茶の集積地だったという話もない。何冊かの本を開いては閉じ、開いては閉じ、していると、係の人が『何を探しているのか?』と声を掛けてくれた。

 

事情を説明すると『そのような資料を本から探すのは難しい』と言って、色々と検索を掛けてくれた。埔里にあった東邦紅茶は別にして、魚池など南投県まで範囲を広げて見てもらうと、いくつかの発見があった。本願寺の大谷光瑞などの名前も出てきて、大いに興味をそそる。やはり日本と台湾、色々な歴史がありそうだ。

 

係の人はとても親切に、教えてくれた。ここに来るより、国史館のサイトにアクセスする方がよいなど、かなり具体的なアドバイスがあった。有り難い。それでも公開されている資料には限界がありそうだ。それを一つ一つ見つけて、確認していくことが歴史への近道なのだろうか。

 

夕方、図書館を出て、帰路に就く。宿の近くまで来ると、ちょうど許さんと目が合う。先日茶工場を案内してくれた人だ。明日埔里を離れると挨拶して、茶を振る舞われる。旧正月はずっと店を閉めていたが、家族で韓国旅行に行っていたようだ。韓国の印象を聞くと『飯がうまくない』との答え。まあ何を食べたかはわからないが、台湾人には合わないかもな、と思ってしまう。

 

そんな話をしていると、バイクが店の前で停まり、おじさんが入って来た。手にはキャベツをぶら下げている。親戚のおじさんが持ってきたのかと思ってみていたが、ちょっと台湾語でのやり取りがあり、許さんがお金を渡すと、おじさんは立派なキャベツを6個も置いていった。

 

昨年はキャベツが高値になり、生産農家が増え、今は価格が暴落。捨てるよりマシということで、安い値段で引き取ってもらうべく、家々を回っているらしい。『我々も農家だからその気持ちはわかる』と言って、引き取ってあげたらしい。この辺が生産者に近い場所だろうか。ぜひ持って行ってくれと言われたが、私は明日埔里を離れる身、残念ながら遠慮した。キャベツ炒めにしたら、美味そうなのに。それにしても農家は大変だ。夕飯は牛肉麺を食べて〆た。

 

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