『街道をゆく』を行く2005 本郷2

【本郷2】2005年9月17日

春以来の本郷を散歩した。いよいよ散歩の秋??

2.本郷②
(1)谷中

今回は本郷に向かうルートとして日暮里駅を選択。あまり意味は無いが、谷中銀座で飴を買いたかったので??駅を出ると橋がある。下御隠殿橋(しもごいんでんばし)、非常に由緒正しそうな名前である。1日20種類、約2500本もの電車が通過する日本有数の跨線橋として別名「トレインミュージアム」と呼ばれているそうな。

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 駅の南側には御殿坂。寛永寺の御隠所がこの先にあったのでこの名が付いたとか。月見寺(本行寺)には幕末の家老永井尚志の墓がある。新撰組にも出ていたな。

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中銀座に出る。最近はテレビなどにも取上げられており、人出も多い。何故か西洋人がガイドをしているツアーがいる。しかしツアー参加者はアジア人が多い。英語で下町を歩く、などという企画が受けるのであろうか?

狭い商店街の中に肉屋が2軒、コロッケを売っていたりする。その場でソースをかけて食べられる。袋にソースがしみる。子供の頃を思い出して懐かしい。『後藤の飴』で手作りかりんとうを買う。くろ飴も買う。なかなかよい。

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(2)団子坂

不忍通りを歩く。少し行くと団子坂下につく。突然祭りのお囃子が聞こえる。見ると子供達が神輿を担いでいる。後ろには小さい子が山車を引く。どうやらお祭りのようだ。神輿が団子坂を行く。坂は意外に急なので、ゆっくり進む。揃いのはっぴ姿である。子供の頃町内会に参加するとお菓子やおもちゃがもらえたのが非常に鮮やかに蘇る。

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団子坂の名の由来は団子屋が近くにあったとか、転がると団子のようになるからとか言われている。また幕末から明治末頃までこの坂に菊人形が小屋掛けをして大いに賑わったという。

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坂を登り切ると左側に鴎外記念本郷図書館が見える。中に入ると鴎外書籍コーナーがあり、その奥には鴎外関連の展示がある。小説の原稿や日用品、観潮楼の写真などが展示されている。

 散歩中にはあまりないことなのだが、腹が減った。見ると図書館の前に巴屋という名の普通の蕎麦屋があったので入る。穴子天丼が名物のようで注文する。老夫婦がやっている。この天丼、はすが実にしゃきっとしている。そして生姜が揚げてある。何とも不思議に美味い。蕎麦がついている。この蕎麦がまた歯応えがある。江戸が実感出来たような気がした。よく見るとこのお店は天保に創業していた。

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少し歩くと右側のビルの所に『青踏社発祥の地』の表示がある。1911年に平塚らいてうの提唱でこの地に結成された。雑誌青踏はこの年の9月に創刊され、『元祖、女性は実に太陽であった』という有名な発刊の辞があり、表紙絵は高村光太郎の妻となる長沼ちえの作であった。

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更に歩くと右側に東都六地蔵の1つである金銅仏が露仏として安置されている。戦災で寺が焼失後、奥の角に置かれている。人間と等身大の仏が宝珠と錫杖を持ってスッと立っている。その姿がなかなか良い。

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(3)墓巡り

団子坂を駒込学園のところで右に曲がる。高林寺を目指したが、入口が見付からずに更に進む。すると寺の裏側が見える。引き込まれるように入る。駐車場があり、墓地の裏門?というよりは工事の為に偶々空いていた所から行き成り入る。

何故か引き寄せられるようにある墓の前に。この寺がどこなのかも知らないのに何故?誰の墓かは直ぐに分かった。最上徳内。1755年に最上川近くで百姓の子として生まれた徳内は10歳の頃子守をしながら寺子屋の授業を庭で聞いており、読み書きを覚えたという努力の人。27歳で江戸に出て著名は数学・天文学者本田利明に師事、1785年田沼意次の蝦夷地調査団に利明の代理で参加。その後蝦夷地を隈なく調査し、『蝦夷草子』を表す。シーボルトとの交流もあり、賞賛されている。

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本来ならばここから北側にある高林寺を目指すべきであったが、道を間違えたため大円寺へ行く。途中にいくつか寺があるが、どこにも著名人の墓があったりする。流石に江戸の中心地に近かったことを窺わせる。

大円寺には幕末の砲術師範役高島秋帆の墓があった。この寺の入り口は結構分かりにくく、更に墓のある場所は別の入り口になっている。その一番奥に草で仕切られたように墓がある。

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高島は長崎の町年寄でオランダ人について砲術を学ぶ。アヘン戦争を知り幕府に砲術の必要性を説き、1841年江戸徳丸が原(現在の高島平付近)で西洋式調練を行った。その後鳥居耀蔵に妬まれて蟄居を命じられたが、ペリー来航で情勢が変わり、砲術師範役として幕政に復帰した。

白山上の交差点からそのまま天栄寺へ。門の所に『駒込土物店跡』の碑がある。江戸初期からの青果市場、神田、千住と並ぶ江戸3大市場の1つとして栄える。1937年に巣鴨の豊島青果市場に移転。

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江戸初期毎朝野菜を運んでいた近郊の農民は天栄寺付近の木の下で一休みしており、新鮮な野菜を求める近所の人向けに販売したのが起こりだという。土物店とは芋、大根、ごぼう等土が付いている物を多く扱っていたために付いた名。またの名を『駒込辻のやっちゃば』、売り声が『やっちゃ、やっちゃ』と言ったとか、セリの声、野菜運びの声などとも言われている。いずれにしても江戸の勢いを感じる。

駒本小学校の横に高林寺がある。緒方洪庵、幕末の医師、大阪で適塾を開いていた蘭学者の墓がある。何故大阪で過ごした洪庵の墓がここにあるかといえば、最後に嫌がる洪庵を幕府が将軍の奥医師として登用し、無理やり江戸に連れてきたためである。

大阪の適塾といえば、幕末の人材を数多く輩出した。3,000人と言われる門弟の中には『花神』の村田蔵六(大村益次郎)、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉などが含まれる。封建社会をぶち壊すような塾で、身分に拘らず、規則などには無頓着、しかし勉強だけは死ぬほどするという不思議な所。これも全て洪庵の包容力であった。

墓の横に追悼碑がある。よく見ると森鴎外の撰文。やはり軍医であった鴎外と何か関係があったのだろうか?後で調べると『雁』の主人公岡田のモデルは洪庵の六男緒方収二郎で鴎外の同級生であったと言う。

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(4)本郷通り

高林寺から先程の蓮光寺を通り、歩いていくと道の脇に碑がある。見ると夏目漱石旧居跡とある。ロンドン留学から失意の内に帰国した漱石は一高に職を得てここに住み始める。『我輩は猫である』『坊ちゃん』などはここで書かれたようだ。ビルの横の塀の上には猫の像がピンと尻尾を立ててこちらを見ていた。尚この碑の題字は川端康成である。

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そこから横道に入る。郁文館という学校を探す。かなり細い道を歩く。昔ながらの民家が狭い道の両側に並び、玄関前に小さな鉢植えが置かれている。そして行き成り校庭が見える。サッカーが行われている。正面に回ると丁度修学旅行から戻ったのか、生徒がスーツケースを押して出てきている。

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『我輩は猫である』の中で苦沙弥先生(物理学者の寺田寅彦がモデル)の家の西隣がこの郁文館中学(作品中は落雲館中学)である。野球のボールが飛び込んでくる場面もある。

郁文館は明治22年(1890年)の創立。昭和20年3月10日の東京大空襲では校舎がほぼ全焼したが、戦後も変わらず一貫してこの地にある。他の学校が大体移転、一部移転をしていく中、珍しいのではないだろうか?但しこの歴史ある学校に平成16年(2004年)、ワタミフードの渡辺美樹社長が目を付けて理事長並びに校長に就任した。今後この学校はどうなっていくのだろうか?

本郷通りに戻ると直ぐに西善寺がある。入口の門はとてもお寺とは思えないモダンなもので、建物の下を潜ると伝統的な墓地が見えてくる。ここに江戸時代の北方探検家で幕臣(旗本)の近藤重蔵の墓がある。先程の最上徳内と共に択捉島に渡り、『大日本恵登呂府』の標柱を立てた。

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晩年は長男富蔵の殺傷事件に座して、近江大溝藩に預けられた。本文中にあるとおり、旗本である重蔵に対する対応に大溝藩は苦労していたようだ。北海道の状況をつぶさに見ていれば、幕府の外交政策に批判的になり、それが危険人物と見做されて幽閉されたとの考え方もある。

西善寺を出て本郷通りを南へ。本郷追分と信号機の下に書かれた場所があるが、記念碑などは何もない。更に歩くと文京六中という中学がある。そこに『追分尋常小学校跡』という碑がある。明治36年(1903年)に開校された学校に追分の文字があり、この辺りが追分であったことが分かる。追分とは遠国へ向かう街道の分岐点。この辺りは江戸時代森川氏が居住しており、森川追分と呼ばれていた。

本郷通りからまた横道に入る。誠之小学校、備後福山藩の中屋敷内には藩校が置かれていた。誠之館。本国広島では1786年に開校。幕末には老中首座阿部正弘を出したしこの藩は教育にも力を入れていたに違いない。現在は福山誠之館高校となっている。

一方この地には1875年に阿部家の援助もあり、小学校が作られる。それが誠之小学校。今年で130周年。校庭を見るとトラック内に3本の大きな木がある。子供達がその木を避けながら、サッカーをしているのが微笑ましい。

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(4)菊坂

結構疲れてきた。ふらふらと住宅街を歩く。菊坂下までは時間が掛かった。東京は坂が多い。しかもかなり小刻みにある。この菊坂は細いが長い。少し登ると直ぐに古い土蔵が見える。伊勢屋質店。1860年に開業し、1982年に閉店するまでこの地で質屋を営んでいた。蔵は関東大震災で外壁が落ちたが、中は明治40年の改築後そのままだと言う。

樋口一葉は明治23年(1891年)にこの付近に母と妹と住まいし、苦しい家計の遣り繰りをしていた。伊勢屋によく通い、親交を深めたらしい。下谷に移ってからも、付き合いは続いていた。一葉が亡くなった時、葬儀に訪れる人は殆ど無かったと言われているが、伊勢屋は香典を持って来た。

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一葉旧居跡に行く時間が無くなった。次回に譲ることにしよう。

 

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