『街道をゆく』を行く2005 赤坂2

【赤坂2】2005年9月11日

前回2週間前に赤坂を散歩した。9月に入り朝夕が少し涼しくなってきたので、午前中に歩いて見る。気分は快調であるが、やはり体は暑さを感じており、シャツの背中はぐっしょりと汗が滲みる。

2.赤坂②
(1)ホテルオークラ

南北線六本木1丁目駅で下車する。新しい駅であり、泉ガーデンプレースという新しいオフィスビルが駅の頭上にある。ここは江戸時代、将軍出陣の先鋒役である御手先組のあった場所である。本文には、江戸時代までは御手先組が強くなければ戦には勝てなかったと書かれている。

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最新鋭のビルを前に歩き出すと直ぐに泉屋博古館に出る。ここは住友コレクションの内、特に中国古代青銅器の展示で知られる京都本館の分館である。こちらは2002年の秋にオープンしたばかりで、京都とは異なり絵画、陶磁器、茶道具などを展示しているというが、当日は閉館しており見学できなかった。

スペイン大使館の前を歩き出すと直ぐにホテルオークラ別館が見えてくる。本館は1962年、別館は1973年開業。私の理解ではホテルオークラは長らく東京で最高のホテルであった。バブル最盛期の頃、私は1年間に5回もこのホテルで行われた結婚披露宴に出席したことがある。もし仲人さんが相当の地位にある方ならば、皆同じ会場を選んだものである。私個人には全く縁のないホテルであるが、何となく頑張ってほしい。最近はパークハイアットなど外資系ホテルが大量上陸している。司馬の東京での定宿だったようだが、21世紀に生きていたら、外資系ホテルに泊まっただろうか?

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(2)大倉集古館

オークラの本館と別館に挟まれた、霊南坂と江戸見坂の交差する場所に大倉集古館がある。ホテルオークラ創業者大倉喜七郎の父、大倉喜八郎が1917年に創立した日本初の私設美術館。収蔵品は絵画・彫刻・工芸品・能装束など多岐にわたり、3万5千冊あまりの漢籍を有している。

 

喜八郎といえば、新潟新発田の生まれで、戊辰戦争では官軍、幕軍両者に武器を売り、官軍有利と見ると全て官軍に売り捌き、明治になって御用商人の地位を築く。日清日露の戦争でも大儲けして死の商人とも呼ばれた。一方多くの企業を興し、現在残っている主なものだけでも大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清製油などがある。尚ホテルオークラは喜八郎の帝国ホテルを凌ぐものを作ろうとして喜七郎が設立したものである。

そういえば、喜七郎には面白い話がある。1930年に私財を投じてローマで日本画展覧会を開催。勿論ムッソリーニとの関係を構築するパフォーマンスであろうが、日本から横山大観らが出品し、177点を展示。しかし内135点が今も行方不明のままとのことである。絵の一部はムッソリーニから女優のソフィアローレンに渡ったとも言われ、格好のミステリーである。この話を聞いたのは数年前であるがその後答えは出たのであろうか?

大倉集古館であるが、門を入ると日本庭園が見える。驚くのは大きな石造があったり、大倉喜八郎の像がベンチに座っていたりすることである。何だかお化け屋敷に入ったよう。中に入ろうとしたが、入場料が千円と表示されており、高いなと感じる。よく見ると小学生の子供を連れてくれば無料になるようなので見学は次回とする。

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(3)江戸見坂、汐見坂、霊南坂

東京には兎に角坂が多い。オークラ本館の周りは江戸見坂、汐見坂、霊南坂の3つの坂で囲まれている。大倉集古館から出ると江戸見坂を下る。江戸の市街地が一望できたことから坂の名前が付いた。今はビルに囲まれ殆ど見えない。

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この坂はかなり急激に下っている。登るのはかなりきつそう。江戸時代にこの坂を上った人は江戸市中を治めた気分になったかもしれない。そんな坂である。下りきった角には『東京経済大学発祥の地』という碑がある。元は大倉商業学校、喜八郎が創立者である。そして左に曲がると汐見坂を登る。この坂から海が一望できたのが名の由来とか。江戸時代川越藩松平大和守の屋敷があったことから大和坂とも言った。

汐見坂を登りきるとそこには物々しい厳戒態勢があった。何だこれは?霊南坂を歩こうとしたが、警備員に制止される。何とか頼んであの直線的な坂の写真を取らせてもらうのがやっと。横のアメリカ大使館を見た瞬間、気が付く。今日は9月11日、9.11テロ後4周年である。大使館前の信号辺りから写真を取っていても、少し離れた場所で立ち止まっても、誰かが必ずチェックしている。

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霊南坂で思い出すのは『山口百恵と三浦友和の結婚式』であろうか。25年前に引退した彼女がウエディングドレスで教会を出るシーンは良く覚えている。当時浪人生の私と彼女はどうしてこんなに境遇が違うのかと、羨望の目でテレビを見たのは昨日のようだ。その6年後上海に留学したときに『赤いシリーズ』が大ヒットしていたのには驚いた。本当のスターはどこに行ってもスターなのである。

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本文にあった共同通信社ビルは今や雑居ビルとなり(本社は2003年汐止に移転)、日本たばこビルは本社ビルを一新している。どちらも厳重に入り口を閉ざしており、何かを探す雰囲気ではない。

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(4)溜池

溜池は江戸時代初期には赤坂見附から虎ノ門まで続くひょうたん型の池であった。江戸切絵図にも『赤坂桐畑』に描かれている。子供の頃雨が降ると、『溜池は底だから水が溜まるぞ』と父親が言っていたのを思い出す。学校でも『溜池はゼロメートル地帯です』と教わった。

江戸初期は急速に人口が増えた時期。治水は重要な課題であった。浅野幸長がこれを請負、ダム工事のプロ、甲斐武田の遺臣、矢島長運らの働きにより1606年に完成させた。つまりは人工の池である。現在の特許庁、山王パークタワー、日枝神社下、エクセル東急ホテルなどは全てこの池の埋立地である。

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現在の溜池は単なる交差点に過ぎない。『溜池』の表示が無ければ特に分からない。高速の高架の下、日曜日の交通量が少ない交差点は何故か寂しい。

(5)澄泉寺

六本木通りを登る。全日空ホテルの前に桜坂という坂がある。きっと春はきれいなのだろう。その坂を上ると表通りの喧騒とは全く違った世界が現れる。きれいな並木道が続く。この道は明治中期に出来たもので歴史は古くない。

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程なく左に折れ坂を上ると寺がある。陽泉寺の横から細い路地に常国寺、正福寺などの寺が並ぶ。この辺りにこんなに寺があることを初めて知る。その一番奥に澄泉寺がある。寺の前には釣鐘が目立つ。

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林鶴梁という江戸末期の儒学者の墓がある。しかし本文ではこの林についても、釣鐘についても一言も触れていない。では一体何の為にこの奥まった寺にやってきたのか?その後榎坂を通る。溜池の堤に印として榎を植えたのがこの辺りだという。

(6)氷川公園

前回氷川神社に行ったが、勝海舟の旧居、氷川小学校には行っていなかった。しかし氷川小学校は既になかった(老人養護施設となっている)。仕方なく地図を見ると氷川公園がある。行って見たが、特に特徴も無い、小さな公園であった。看板がある。説明を見ると1908年この地に氷川小学校は誕生した。しかし1929年に火災があり、旧勝邸に学校を移したのだという。

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勝海舟は言うまでも無く、幕末を代表する幕臣であるが、彼は一体何だったのだろうか?長崎海軍伝習所に学び、咸臨丸でアメリカに行き、西郷と談判して江戸城無血開場を果たす。そして維新後はこの地に住み、枢密院顧問、伯爵を貰い、氷川清話を表す。

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(7)日枝神社

かなり疲れてきた。外堀通りに出て日枝神社へ。下から見上げると思ったより高い。階段が多く見える。登るのを止めようかと横を見ると何とエスカレーターが備えられている。これは便利。登るに連れて赤坂が見える。昔は皆坂を上るとこのような光景が見えたのだろう。TBSの建物が目立っている。

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登り切ると大きな銀杏の木がある。そしてきれいな門を潜り、本殿へ。1478年に太田道灌が江戸の守りにと川越の山王社から勧進したのが始まりで、4代将軍家綱の時、1659年ここに建立した。大戦で焼失し戦後再建される。

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 本殿前の門には男女の猿の像がある。権現とは仮に現れるということ。猿の化身であろうか?本文でもこの『神猿像』を見て驚いている。また門の外には国歌に出て来る『さざれ石』の謂れとなった石がある。宝物殿には奉納された多くの刀などが展示されている。

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裏門を降りる。いや、正面の階段である。あまりに静かでしかも薄暗い。しかし本来神社の階段とはこういったものであろう。ここも表通り同様人の往来を考えて、エスカレーターを取り付ければ便利であるが、どうなんであろうか?

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(8)報土寺

一ツ木通りに戻る。一ツ木通りの由来は昔奥州街道がこの地を通過しており、人馬の往来が絶えない。丁度この場所で人や馬を乗り継いだので、人継村といったとか。または氷川神社の神木が一本の銀杏の木であったことから、一つ木と命名したとの話も。左側に浄土寺という寺がある。明治時代の赤坂は決して賑やかな場所ではなかった。人出があったのは豊川稲荷とここ浄土寺の地蔵の縁日(6の日)ぐらいだったという。

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銅像地蔵菩薩坐像という左手に宝珠を、右手には錫杖を持つ丸みのある坐像がある。1719年に製作されたとある。地蔵は6道の内地獄道にいて、落ちてきた衆生を救済するとして民衆の信仰を集めていた。この地蔵もそんなことで人を呼び込んだのであろうか?

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浄土寺を出て、円通寺坂を上る。昔円通寺という名の寺が別にあったが、1695年頃にこの場所に現在の円通寺が出来る。

円通寺より南に少し行くと三分坂に出る。急な坂で車賃を銀三分上乗せしたところから名が付いたという。尚三分とは通貨の単位ではなく、重量の単位であるようだ。今歩いてみても急な坂である。しかし改修前は更に急であったというから驚く。坂に荷を上げる料金が三分だったという説は有力であろう。

その坂下に報土寺がある。三分坂から下って来ると右側が築地塀になっている。この塀は独特である。報土寺は1614年に一つ木通りに創建されたが、1780年ごろに現在の場所に移転。築地塀はその頃作られた。築地塀とは土を突き固め、上に屋根をかけた土塀で塀の中に瓦を横に並べて入れた塀を特に練塀という。

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 中に入ると右手に梵鐘が見える。第2次大戦で供出された梵鐘が戻ってきたそうだ。そして『陸軍歩兵1等卒、小林音松』と書かれた碑がある。亡くなったのは明治37年11月29日、場所は旅順赤坂山である。どうしてこの碑がここにあるのかは分からない。『坂の上の雲』を読んでみると、旅順総攻撃が始まったのは11月26日、それまで203高地を軽視していた乃木将軍はここを攻めた(いや児玉源太郎が攻めた)。それまで数万の兵を全く無策に殺してしまった無能な男、乃木はどんな心境であったろうか?そして何より、その無能な指揮官の命で難攻不落の赤坂山(203高地が陥落しても陥落しなかった山)に突撃していった歩兵の心境はどんなだったのだろうか?

奥の墓地には江戸の大力士、雷電為右衛門の墓がある。18歳で身長が195cmもあった大型力士であり、1790年から引退するまでの22年間の通算成績が250勝10敗。最高位は大関で何故横綱にならなかったかは不明。出雲松江藩の松平不昧のお抱えとなる。不昧といえば7代目藩主であるが、江戸時代後期の大名茶人であり 藩主としての務めを果たしながら、茶道を究め、名物茶器の蒐集を行い、さらに茶道具の研究成果を著作としてあらわし、不昧流茶道の祖となった。尚雷電の墓はその体に似合わず、大きなものではなかった。

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報土寺から少し歩くと乃木坂に赤坂小学校がある。豊川稲荷のところに出てきた大岡越前守の屋敷跡に1873年に出来た学校。当初は豊川稲荷の道の反対側にあったが、その後現在の場所に移転される。尚当日は衆議院選挙。小学校も投票所として開放されていた。日本の未来をこの中に託していくのであろうか?

 

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