みちのく一人旅1997(3)最後のバスでストーンサークルへ

3.十和田湖
(1)八甲田山
実は老人とバスに乗っている時、最初に聴いたことはこれからどこへ行ったら良いかということ。自分がどこへ行くかも分からない何て、と思うが、一人旅の良さを味わいたかった。風の向くまま気の向くまま。老人は一言、『十和田湖を見たらいいだろう』と言う。突然そういうことになってしまった。事前のイメージでは津軽半島か、下北半島か、であったからこれは驚きであるが、勧めに従う。

十和田湖へはバスに乗っていく。バス停で2時の切符を買う。老人が宿も予約したほうが良いというので、そのバス停で適当な宿を頼む。昼ごはんを食べていないことにやっと気が付くが、時間が無いのでコンビニで肉まんを買って食べる。

バスに乗ると誰も乗っていない。間違えたか??5分前に若い女性が2人乗ってきた。何と3人を乗せてバスは定刻に出発した。市内を少し走ると直ぐに畑が見えてくる。そして山を登り始める。八甲田山である。登っていくと何と雪が降り始めた。社内はシーンとしている。2人の女性も十和田湖に行くのであろうか??

雪の八甲田といえば、明治35年(1902年)の弘前第八師団の雪中行軍による遭難事件を思い出す。210人中199人が死亡するという前代未聞の事件である。新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を読んだのは中学生だったろうか?吹雪の中で1つの決断が全ての生死を分ける、厳しい現実を思い知らされた。

風が出てきた。非常に綺麗な雪景色、雪が舞う。弘前第八師団の雪中行軍の時も最初はこんな穏やかな雪であったろうか?みるみる地表が雪に覆われる。バスはゆっくり登っていく。司馬遼太郎の北のまほろばでは、ロシアの南下に備えて、旧南満州を想定した演習が必要であったと言う。日露戦争の2年前、気分は切迫していただろう。

弘前第八師団は明治の日本陸軍で最強軍団と言われていた。太宰の『津軽』では、大坂夏の陣以降330年の間に約60回の凶作を経験している上で、それでも津軽不敗神話として、津軽は殴られても負けることはないとしている。そして『第八師団は国宝だって言われているじゃないか』と言わせている。この自負が雪中行軍悲劇を生んだのか?

(2)十和田へ
雪は物凄い勢いで降り始めた。これは凄い。風が雪をバスの窓に叩き付ける。のんびり雪景色を眺める雰囲気ではなくなった。しかし何で私はここにいるのであろうか??昨日の朝は全く予想していない風景が目の前にある。

1時間以上乗っただろうか。突然大きな建物が目に入る。酸ヶ湯温泉、と書かれている。ガイドブックで見ると総ヒバ造りの千人風呂で有名と言う。何だか楽しそうだ。酸ヶ湯と言う名前から分かるとおり、強い酸性の湯だそうだ。かなり寒さを感じていたので、入ってみたくなる。突然2人の女性が『お世話様』と言ってバスを降りた。彼女達はここが目的地だったのだ。私は十和田の宿も予約しているし、何よりバスの運転手のことを考えてしまった。もし私が降りてしまったら、彼はどうするのだろうか??勿論運転して十和田湖に行くだけなのだが、この雪の中彼を残していけない気分になる??

結局バスは私一人を乗せて出発してしまう。かなり寂しい。その後更に奥深く入っていく。400年の歴史を持つと言われる谷地温泉、大町桂月が晩年を過ごした蔦温泉などを通って行く。とうとう運転手が話し掛けて来る。『どこに行くの?』確かにそうだろう。こんな時期に男一人で観光もないだろう。

奥入瀬に入る。『テープ流すから』と言うと奥入瀬の解説テープが流れ始める。たった一人の乗客の為にテープが流れている。何だか可笑しくて笑ってしまいそうになる。しかし同時にこの物悲しい状況は冬の東北の寂しさを強く印象付ける。奥入瀬には本当に自然が残っていた。雪が止み川に雪が流されていく。深い木立が歴史を感じさせる。綺麗に自然が流れていく。静かである。午後4時頃であるが、薄暗いその景色が幻想的にさえ、見える。もし夏に来れば爽やかな所であろう。是非歩いて見たい。次回は夏休みの家族旅行で来たいと思ったが、その後実現していない。

(3)十和田の宿
とうとう十和田にやって来た。このバスの旅は凄く長く感じられた。3時間弱、時刻は5時、あたりは真っ暗になっていた。バスは十和田湖畔のバス停に着くはずであるが、私が予約した宿がどこにあるか全く分からない。その時運転手が『お客さん、宿どこ??』と聞いてきた。『十和田湖山荘』(湖なのに山荘とはへんであるが??)と答えるとそのまま路線を外れてその宿の前にバスを着けてくれた。そして中に向かって『お客さんだよー』と叫んでそのまま行ってしまった。あっけない別れであった。

中から奥さんが出て来た。背中に赤ちゃんを背負った若奥さんだ。何となく訝しそうに私を見て『予約した人??』と聞いた。その後愛想笑を浮かべて『寒かったでしょう』と言う。確かにこんな日に一人でやって来た私は変人にしか見えなかったかもしれない。ここは本当に地元の宿である。昨日とは雲泥の差がある。2階の6畳間に案内される。薄暗い電気が揺らめく部屋に石油ストーブが置かれている。子供の頃の自分の家を思い出す。田舎のおじいちゃんの家にでも行った気分である。

下に降りてバスのことを聞く。明日ここからどこへ行くか?これはかなり問題である。こんな寒い、雪が降る場所にウロウロすることはできない。思い出したのが『大湯のストーンサークル』。歴史好きとしては、一度は行ってみたい場所であるが、ここからどうやっていくか分からない。若奥さんに聞くが、『ストーンサークル』自体を知らない。仕方なくおばあちゃんに聞く。車でしか行ったことがなく、バスがあるかどうかも分からないと言う。何より重要なことは十和田湖から出るバスはもう無いのではないかという事。え、閉じ込められた??その時の私の心境はまさに冬の十和田湖に取り残された哀れな旅人であった。

夕飯に呼ばれる。1階の広間にはどうやらこの寒空に土木作業をしてきた人々がどんぶり飯をかき込んでいた。そうか、この宿は建設作業員などを泊める宿で観光客が来る所ではなかったのだ。それで若奥さんも訝しげだし、バスの便など誰も知らないのである。夕食は非常に家庭的でボリューム重視。本当に田舎に帰った気分になる。風呂も自分で汲んで沸かすらしい。何だか面倒になって、何もすることなく、寝てしまった。布団の中が一番暖かい、そう昔子供の頃に感じていたあの懐かしい感触がそこにあった。

11月19日
(4)十和田脱出
翌朝6時前に起きた。前日と異なり、天気が良さそうだった。普通の旅行ならちょっと寒い凛とした朝に十和田湖の周りを散歩する自分を想像するだろう。しかし事態は私にとってフェーバーではなかった。前日おばあちゃんが何とか探し出したバスの時刻表では、朝8時半のバスが1本あるのみ。

歩いて10分ほどで十和田湖畔に出る。バス停を探す。朝7時であるが、幸い出勤してきた運転手がいた。聞くと何と『よかったねえ、今日が今年最後の運行だよ。明日からはバスないからねえ。8時半にここに来て』と言われる。私の旅は何と無謀であったことか。何も調べていないでここへ来てしまった。しかし運良く最後の一日に間に合った。もし昨日酸ヶ湯温泉で下車して、今日バスでここへ来たら、誰かの車に乗せてもらう以外脱出の方法はなかったのである。

朝飯も納豆に味噌汁。決して贅沢ではないが、幸せな朝となる。おばあちゃんも『よかったねえ』と言ってくれた。天気が良くなる。気分も良くなる。早めに宿を出て、湖畔を散歩する余裕が出ていた。ここが広い十和田湖の中で休屋と呼ばれる地域であることが分かる。湖岸には立派なホテルが連なっている。歩いていくと乙女の像がある。十和田湖にシンボル、高村光太郎の作品である。坂上田村麻呂が建立したと言われる十和田神社もある。明治以降は日本武尊を祭っている。静かな朝に古びた神社、風情がある。

穏やかな湖面を眺める。気持ちが落ち着く。昨日が驚くほど変化に飛んだ一日であったことが分かる。毎日朝このように穏やかな時間を過ごせば、人生は充実したものになっているのではないだろうか??非常に短い滞在であったが、十和田湖の印象は強い。

4.大湯
(1)大湯へ
バス停に戻る。バスはまだ来ていない。切符を買う時もう一度確認する。何しろ間違えれば行き先を失う。バスの運転手は『大丈夫。送って行ってあげる』と言ってくれる??何人かの老人がバス停に現れ、バスに乗り込む。定刻になっても運転手と職員は誰か来ないか2-3度確認している。それもそうだろう、このバスが秋田方面への今年最後のバスなのだから。

バスがゆっくり動き出す。残念ながら大湯へはこのバスではいけない。25分行った所でバスを乗り換える。銚子の滝、または中滝であったろうか?運転手は私に合図を送り、更にそこに待っていた職員に私のことを告げてくれた。何と親切なことか。別のバスが直ぐにやって来た。田舎では信じられないほどの連携である。そして数十分、稲刈りの終わった田んぼの中を走っていく。丘のような山がいくつかあった気がする。一番前に座っている私に突然今度の運転手が『着きましたよ』と言う。そこは建物が1つあるだけの田んぼの真ん中。ここなのだろうか??

降りると直ぐにバス亭の時刻表を見る。次のバスは3時間後である。一体ここでどうやって過ごすのか?幸いなのはそんなに寒くないことぐらいか。見渡したが何も発見できない。ここから少し離れた場所になる可能性もある。しかし聞くことが出来る分けがない。どうする??

(2)ストーンサークル
仕方なく、道の反対側に行ってみると、そこに無造作にストーンサークルが円を描いていた。昭和7年に発見された日本でも最大級のストーンサークル(環状列石)。その神秘性が話題となっていたが、何の為に何時作られたのか分かっていない。真ん中に石柱がある。周りに幾つもの石が円形に置かれている。ただそれだけである。

本格的な発掘は昭和26年。中野堂、万座の2つが発掘された。中野堂は40m、万座は50mにも及ぶ円形の石組みであることが確認される。一般的には巨大な墳墓であるとの説が有力である。しかし何故このような大型の墳墓が存在するのか?何らかの集落があったと見るべきではないのか??住居跡も同時に発見されている。

8000年前の火山灰に覆われていたこの遺跡は、『十和田文化圏』を形成していたとも言われている。古代文明、東北は古代日本の中心であったという説は青森の三内丸山遺跡を見ても信憑性が出てきている。因みに十和田湖の東側に戸来村がある。ここにはキリストの墓があると言われている。戸来はヘブライのことだそうだ。ちょっと聞くと眉唾物であるが、様々な証拠も出てきている。

最近では縄文後期の発掘物は後世人為的に埋められたものとの説も出ている。一説では2万年前の遺跡??縄文より前の人々が暮らしていたのであろうか??作家高橋克彦はこのストーンサークルを『宇宙人の基地ではないか?』として小説に書いている。高橋氏の説にはいつも驚かされるが、決して荒唐無稽な話とも言い切れない。ストーンサークルを見ていると確かに不思議な形をしている。真ん中の石柱から宇宙への交信が行われているとも見える。宇宙からUFOがやって来る時の目印であったかもしれない??何だか考えているだけで楽しい。

しかし1時間もジッと眺めていれば流石に飽きてくる。それに天気が良いといってもそれなりに寒い。11月下旬の東北北部である。横に資料館があるので中へ入る。発掘された大湯式彩色土器や玉石などが展示されている。発掘の歴史なども書かれているが30分もあれば全部見られる。タクシーを呼ぶための電話番号も表示されているが、外へ出る。私の旅は公共交通機関の旅である。

バス停で時刻表を見る。先程も見たのだから、時間は分かっているのに見る。後1時間バスは来ない。周りは冬の田んぼである。遠くを見ると山が見える。その山の形がなかなかいい。黒又山、標高280mのこの山をピラミッドに見立てている人もいる。確かに形が三角形に見える。山頂から稜線を見てみると正確な四角推だという話もある。

日本各地にある山そのものがご神体ということであろうか。東北には十和利山、戸来岳、早池峰山など形が三角形なだけでなく、霊山として信仰の対象となっている山が幾つもある。麓付近では縄文式土器が出土するという特徴もある。遥かに山を眺める。疲れたのでバス停の横に座り込む。気持ちが良い。しかし周囲から見ればかなり可哀想な人間に見えたのではないだろうか?

(3)盛岡へ
この道は滅多に車が通らない。静かな空間がそこにある。古代にロマンを馳せる。すると小型車が一台通り過ぎた。と、何故かバックしてきた。運転していた男性が顔を出し、『乗っていきませんか?』と言う。ちょっとビックリしたが、これから1時間待つことを思えばご好意に甘えることにする。(今なら良からぬことを考えて断ってしまったかもしれない??)車に乗ると男性が『我が町の遺跡を見に来てくれて有難うございます』と言ってくれる。これにはビックリ。車に乗せてもらったのはこちらである。お礼を言われる覚えはない。

話をしてみると彼は40代、歴史に非常に興味を持っており、ストーンサークルを誇りに思っていた。これは素晴らしいことである。郷土の歴史に興味を示さない、またはその歴史は大したことがないと思い込む人々が多い。しかし実は身近な歴史が大切なのである。ましてや4000年前のストーンサークルなのである。当然だと彼も言う。話はどんどん歴史の深みに入る。盛岡に住む高橋克彦氏の名前が出る。彼は高橋氏を囲む会??に参加しているようで、高橋家の庭に小型のストーンサークルが再現されているとの話も出る。興味深い。ストーンサークルは本当に凄い遺跡なのではないか?そう思えてくる。

彼に聞いてみる。『わたしはどこへ行ったらいいですか?』と。すかさず『東北の歴史は平泉です。大河ドラマでもやったでしょう。』と言う。そうだ、平泉へ行こう??結局鹿角花輪という名の駅まで送ってもらう。『ここから盛岡までバスで行くのが速いですよ』とのこと。わざわざ近くの駅ではなく、バスが出る所まで連れて来てくれたのである。本当に感謝感激。

しかし貴重な体験をさせてもらった。日本でこのような経験が出来るとは。本当に楽しい時間を過ごした。海外では地元の人々に親切にしてもらい、非常に良い思い出を作らせて貰って来た。まだまだ日本も奥が深いのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です