佐賀・福岡茶旅2024(7)なぜか山口 重源の旅

3月11日(月)山口へ

翌朝はさわやかに目覚めた。疲れてはいても、腹が減る。こういう時は前回も行った資さんうどんへ直行した。朝はそれほど人が無い。何と従業員もいない(奥にはいたが)。席に勝手に着き、勝手にパネルにインプットしてでオーダーし、黙々と食べる。そして支払いも機械で行うため、何と全く人に会わなかった。これまた日本では、驚きの光景。

午前9時にUさんが迎えに来てくれた。先月東京で偶々会った時に、山口に行こう、という話になり、ここでピックアップされたわけだ。南アジアが専門のM先生が同乗していた。楽しい3人旅で、車は関門海峡方面へ向かう。この辺の表示は分かり難かったが、いつの間にか山口県に入っていた。

途中王司のSAに寄ると、どら焼きが売っている。巌流焼きとある。さすが山口。そこから40分ほど行き、ランチの場所に着く。何だか繁盛している定食屋さんだったが、我々は美味しそうな定食を無視して茶粥を注文する。これがかなり旨い。店の名前はばんちゃ屋で、元々はお茶屋さんだったらしい。今でも茶の卸しはしているとか。

そこから1時間ほど走り、徳地という場所へやってきた。なぜここに来たのかといえば、Uさんが『東大寺再建に奔走した重源がここから木材を切り出して奈良へ送った。この付近にはかなり古いお茶の木があるので、鎌倉初期と関連があるのでは』との話からだった。確かに興味深い。重源といえば、栄西と一緒に宋から戻ってきている(栄西の1回目)ので、茶を持ち帰った可能性など色々と考えたい。因みに近くにある『重源の里』は改修中で今年の年末まで開かないらしい。

その地域は実に穏やかな里だった。石垣などに茶が顔を出している。花と茶、自然がまさに共生している雰囲気が良い。この辺にも勿論重源の伝説は残っており、800年前とあまり変わらないのではとさえ思える、自然な風景に癒される。ほぼ人影はなかったが、偶々農作業をしている老夫婦に話しを聞く。本当に過疎の村だった。

それから佐波川のほとりに重源上人像と顕彰碑を見る。木材切り出しで貢献があったのだから、川沿いに像があるのは自然なことだが、やはりかなり新しい。更に対岸に渡り、岸見の石風呂を見学する。ここは往時、重源が作業員のために作ったらしい。けが人や病人などが入ったのだろう。

そこを管理している人とちょうど出会い、何と中を見せてもらった。800年間現役で、今も月に1回、入ることが出来るらしい(文化財指定がされているのに)。石風呂に入り、外で焼肉などをする人もいるとか。尚先日NHKの取材が入ったともいう。ローカル番組かと思ったら、私が常に見ている『英雄たちの選択』だというから驚く。重源が取り上げられるらしい。これはいつか見なければと思う。

そして新幹線の徳山駅まで送ってもらった。今回の山口はほんの少しだけだったが、またまた興味深い内容だった。新幹線まで少し時間があったが、何と駅に図書館が併設されているので、時間つぶしには困らなかった。こういうのは本当に有り難い。中で本を読んでいる人、カフェでお茶している人など、様々な利用が可能となっている。新幹線がやってくるまで十分に寛いだ。そして「さくら」が2時間もかからずに、新大阪まで運んでくれた。

佐賀・福岡茶旅2024(6)柳川から博多へ

トイレを済ませるともう戻る気にはなれず、立花邸の裏に回って歩く。そこからは邸宅の様子が少しだけ見え、声が聞こえてくる。披露宴の最中、という感じだ。そこから柳川城跡へ向かう。学校の敷地になっているのだろうか。小山になっているところが城だった。更に歩くと旧戸島家住宅といういい感じの古民家が見える。また街へ入るとこの地で『さげもん』と呼ばれている飾りが沢山あった。そこからバスが出ていたのだが気が付かず、別のバス停まで歩き、何とか駅前へ戻る。

宿にチェックインして休む。最近はすぐに疲れてしまう。テレビではWOWOWが映り、アメリカ女子ゴルフツアーが見られる。上海でやっているので、この時間がライブ中継だった。ボッーとみていると日が暮れていく。昼のカレーで腹が一杯だったので、麺でも軽く食べようと思い、外へ出てみた。

立花うどんという店がある。店に入ると何ともいい匂いがした。凄く混んでいて驚く。何とか席を確保して肉ごぼてんうどん+まぜめし、という名物を注文する。つゆはかなり甘いのだが、何とも私向きの味で、嬉しい。まぜめしと合わせて食べると確かにいい感じだ。私のすぐ後にはもう、ごぼてんは売り切れていた。ご当地グルメを堪能する。

3月10日(日)柳川から博多へ

今日も朝ご飯を宿で食べる。特にここのめしは美味かったので、沢山食べてしまう。かなり疲れてはいたが、散歩に出る。近所の三柱神社に参拝。この辺が舟遊びの船に乗る起点のようだ。私はじっと船に乗っているのは難しいのでパスする。神社内にはなんと安東省菴の顕彰碑がある。

安東といえば、江戸初期に長崎にやってきた明の朱瞬水をサポートしたことでその名を聞いていたが、こういう人が柳川から出ているのか。気になったので、安東省菴の墓を訪ねてみると、そこには水戸光圀、朱瞬水が3つの巨石という形で置かれていた。この辺の歴史については、いつかもう一度見てみたいと思う。

後は古いお寺、蔵などの街並みを見ながら散歩に勤しんだが、だいぶん暑くなってきたので、途中で止めた。荷物を取って駅へ行き、西鉄を待つ。特急だと僅か40分ほどで天神まで行けるらしい。福岡県も広いと思っていたが、意外と近い。薬院で降りて電車を乗り換えた。前回乗った新しい路線で、櫛田神社前へ行く。前回も泊まった宿に荷物を置き、腹が減ったので食堂を探す。

残念ながら目当ての食堂は午後2時でも長蛇の列。仕方なく住吉神社をフラフラしてから戻る途中、ちょうど席があったえびすやうどんに入る。隣のおじさんが美味しそうにかつ丼を食べていたので、私も頼んでしまったが、何とそのおじさんは更にぶっかけカルビうどんも食べている。私の素うどんが寂しい。外へ出るとさっきは待ちが無かったのに、10人ほどが待っていて人気店だと分かる。やっぱり博多もうどんだな。

帰りに櫛田神社にも行く。ここに来たのは何年ぶりだろうか。外国人観光客が非常に多い。何だか桜がきれいに咲いている。横の細い道も何となく風情がある。宿へ行き、部屋に入ると、もう完全に疲れた。ベッドに横になり、仮眠をとるつもりが本格的に寝入ってしまった。何と夕飯に出る元気も無くなっていた。

佐賀・福岡茶旅2024(5)佐賀をフラフラ、そして初めての柳川へ

昼を過ぎていたので、慌てて近所の食堂を検索したら、何と県庁の地下に案内された。既にランチは売り切れていたが、何とかハンバーグの食事にはありつく。昔の社員食堂をちょっと思い出したが、今やだれでも利用できる場所。役所の打ち合わせの人々が場所を取り、会議の準備を始める。

午後もフラフラとする。佐賀の街をこんなにゆっくりと歩いたことはない。県庁の裏から佐賀城を目指す。二の丸跡へ来ると、鍋島直正の立派な像が聳え立つ。天気が良いので映える。その横の門から中に入ると、本丸歴史資料館があった。何と入場無料。靴を脱いで上がると、思ったよりはるかに素晴らしい展示の数々。幕末のパリ万博に佐野常民を団長に、野中元右衛門らが参加した話などもちゃんと展示されている。素晴らしい。

そこから堀沿いを歩くと、副島種臣生誕地の碑が建っている。更に歩いて行くと龍造寺隆信、大木喬任などの生誕記念碑、官軍墓地などが次々に現れる。佐賀市内は歴史散歩に適している。長崎街道は何度か歩いているが、やはり楽しい。今回はシュガーロードとの関連にも関心を持つ。そしてOさんのお店まで行き、お茶を買って帰る。

夕飯はカレー専門店と書かれた店でロースカツカレーを食べる。本当は佐賀牛カレーを食べるつもりで入ったのだが、何だかロースカツが食べたい気分になる。何とも分量が多くて、腹が特大に膨れた。店で食べている人よりデリバーの方が頻繁に出入りしている。今時はこんなものだろうか。

3月9日(土)柳川へ

朝ご飯を食べて、駅でぼうろを買って、バスターミナルへ横移動。今日は柳川へ行ってみる。何と電車で行くとかなりの回り道になり、逆にバスだと1本で簡単に着くらしい。バスに乗ると、どうやら先日降りた佐賀空港の近くなのだと分かる。完全なローカルバスで、観光客などいない。

ローカルな道を約1時間走り、柳川駅に着いた。予約した宿に荷物を置き、観光案内所で地図を貰い、だいたいの観光地を把握した。そして初めての柳川を歩きだす。すぐ川が流れており、舟遊びの観光客を乗せて走っていく。まだ寒い時期だとは思うが、今日は日差しが暖かい。船頭さんの声がいい。

川沿いに公文書館があった。お雛様を飾っているというので中に入ると、ふときいてみたいことが出来た。係の人に聞いてみたが、よく分からないとのことで、上司の人まで出てきて説明してくれた。突然なのに、この対応は実に有り難い。もう少し勉強してから来れば、もっと聞けたかもしれない。

川沿いを歩いて行くと、田中吉政という名が出て来る。柳川の武将といえば立花宗茂だが、その後は田中吉政がここを築いたらしい。関ケ原の戦い後、石田三成を捕らえたのはこの吉政だったらしい。立派な像も建っている。日吉神社まで来ると、大きなおかめに迎えられた。婚礼用の写真を和装で撮るカップルが初々しい。

柳川の古い町並みを残すエリアに入ると、北原白秋の生家など古い建物が多く残されており、土曜日ということもあり、観光客が多い。私は観光案内所で聞いた柳川のグルメ、和牛ステーキのせカレーを食べるために、清柳食堂へ向かった。ここは有名店らしく、観光客も多く、お店の人も慣れた感じの案内だった。牛すじを煮込んだカレー、かなり濃厚で旨い。

柳川藩主立花邸(御花)に行ってみる。かなりいい感じの洋風建築で、中を見学するのが楽しみだったが、何と今日は結婚式使用のため、入ることは出来ないという。週末で観光客が多い時に、いや週末は結婚式も多いだろうから、かなりの確率で見学不可なのだろう。何となく納得できない感がある。そして何よりトイレは中にしかなく、入れない。何と1㎞も離れた観光案内所まで行かないとトイレにも入れないとは。観光地でこれはないだろう、と驚いた。

佐賀・福岡茶旅2024(4)ついに吉野ケ里遺跡へ

吉野ケ里歴史公園、かなり広い敷地だ。川を渡って集落の入り口を入る。ほぼ復元されているものだけが残っているらしいが、木柵が気分を揚げる。そして先日25年ぶりに行った青森三内丸山遺跡を思い出す。まずは遺跡展示室に入り、ここの概要を掴む。弥生時代最大の環濠集落、というだけではないようだ。観光客は多くはないので、ゆったりとみられる。

広い敷地内をフラフラと歩いて行く。時々ガイドさんが観光客に説明している場面に出くわしたが、私が欲しているようなお話は出て来ない。弥生時代、ここでは酒や絹織物が作られていたようだ。当然ながら茶の痕跡などは全く見られない。住居から祭りごとの中心地へ移動していく。

一時はここが邪馬台国かと騒がれたところ。司祭者が重要な決定を行う場などは、我々が教えられてきた卑弥呼の姿を彷彿とさせる。更に歩いて行くと、甕棺墓と呼ばれる墓場があった。ここからは往時の物がそのまま出てきているらしい。吉野ケ里唯一の現物と言っていた。それが納められ、復元されている展示館があった。さすがにここは迫力がある。

それから森の中を少し歩き、広い広い曠野?を歩いて行く。この辺はまだまだ発掘調査などがされていない場所が多くありそうだ。最後に南側の集落を歩き、その先の展示室を少し覗いて、見学を終了する。ここまでほぼ休むことなく約3時間半、サラッと見てもこれだけ時間が掛かるので、ちゃんと見ると本当に2日は掛かるかもしれない。古代のロマンをどれだけ感じられただろうか?

また駅まで戻り、電車で佐賀駅へ。ここで初めて腹が減ったと気が付く。駅にこれまで気が付かなかったうどん屋があったので、入ってみる。午後3時前なのに、お客が意外といる。ゴボてんうどんとお稲荷さんを頼んだが、味はまあまあかな。そこから今日の宿に行き、チェックインする。これまで定宿として使ってきたが、昨日のアパと比べて、かなり見劣りする。

さっきうどんを食べたのに、また物足りなくなって、夕方定食屋を探してみる。するとお食事処があったので入ってみると、なかなか立派な夕飯が出てきて驚く。これは定食というより、お刺身御膳だろうか。さしみも分厚いし、魚のカマ焼きの塩加減も絶妙だ。味噌汁もうまい。まあいいお値段で私には贅沢な夕食だが、偶にはこういう経験も良い。

3月8日(金)佐賀をぶらつく

朝ご飯を宿で食べて、すぐに散歩に出た。街中には、数年前の維新博の時に作られた偉人たちの像がいくつも置かれている。歩いていると龍造寺八幡宮という文字に引かれて寄り道する。横から入っていくと、何と義祭同盟の記念碑が建っている。この同盟には幕末維新の佐賀藩を支えた江藤新平、大隈重信、副島種臣らが参加していた。八幡宮の鳥居は石造りで古めかしい。その先の太鼓橋もやはり古めかしい。その横にはなぜか楠木神社もある。

ずっと歩いて行くと鍋島家の徴古館があった。今は博物館のようになっているが、その建物はなかなか良い。川を渡ると、そこには図書館がある。この建物も古めかしい。2階へ上がるのも、現代の造りとは違っていて面白い。ここで佐賀県の茶業史を探す。親切に色々と資料を出してくれたので、思っていたより時間をかけて眺める。嬉野茶の歴史以外にも色々と参考になる資料が見付かった。

佐賀・福岡茶旅2024(3)嬉野と彼杵

そしてその明治初期の紅茶史を求めて、式浪村という場所へ行ってみる。1873年のオーストリア万博にこの村の山口という人による紅茶の報告書があるというのだ。しかし何の手掛かりもなく、ちょうど山口製茶園があったので、そこに入って聞いてみるも、その歴史については何も分からなかった。もう150年も前の話しだから、分かる方が珍しい。

嬉野の大茶樹にも行ってみる。ここは9年前に来ていたが、冬で誰もいないせいか、400年を越える老茶樹も元気がないように見えた。この茶樹が植えられた頃に茶業に尽力した吉村新兵衛という武士の記念碑が近くにあるというので、そこを訪ねてみたが、何とかなり急な坂道で、あわや転げ落ちそうになりながら、何とか辿り着く。これだと一般の人は、とても登っては来ないだろう。

そこから30分、山を越えると長崎県だった。彼杵茶は近年コンテストで連続受賞するなど有名になりつつあるが、こちらも早い時期に紅茶生産があったのではないか、ということで訪ねてみる。東彼杵町歴史民俗資料館へ行くと、古民家が建っており、雛飾りなどが鮮やかだった。資料館へ入ると、茶業についても展示もあったが、その開始時期は明治中期以降とそれほど早くはなく、また期待したような展示には出会わなかった。

ランチは資料館の敷地内にあった店で、『クジラ炊き込みご飯と団子汁』を頂く。彼杵ではクジラが名物なのだろうか。我々が行った後すぐに売り切れになっていた。長崎街道を大村の方へ走っていく。老舗茶舗があるとのことだったが、既にやっている様子はなかった。図書館を目指すべきだったのかもしれないが、残念ながら本日の調査はここで終了となり、一路佐賀市を目指して引き返す。

佐賀駅まで送ってもらい、珍しくアパホテルに入る。6₋7年前に使った時はあまり良い印象はなかったが、部屋もリノベされ、フロントも実に親切で好感度が爆上りした。飲み物を買おうと、駅周辺へ行くと、駅もきれいになっており、その横にスーパーも出来ていた。そこで寿司を買って持ち帰ったのだが、何と入れたはずの醤油が見当たらず、醤油を全くつけずに食べた。それはちょっと新鮮でよかった。

3月7日(木)ついに吉野ケ里遺跡へ

これまで何度も佐賀には来ていた。電車に乗ると吉野ケ里という名前の駅があることも知っていた。だが、何故かこれまで一度も吉野ケ里遺跡を訪れたことはなかった。雨が降っているとか、急に予定が変更になったとか、色々と理由はあるが、要はどうしても行きたいとは思っていなかった可能性がある。

JR長崎本線で佐賀駅から3つ、吉野ヶ里公園駅で降りる。そこから歩くと1㎞ぐらいあると聞いていたが、きちんと表示があり、途中に気分を盛り上げる物もあり、あっという間に門まで着いた。チケットを買おうと見ると、何と2日券が売られている。ここに2日続けてきて見学する人はどんな人なのだろうか。アンコールワットのように1日ではすべては見切れない遺跡なのだろうか。興味津々となり、入場する。

佐賀・福岡茶旅2024(2)古湯温泉で読書三昧

夕方になり、古湯温泉にやってきた。ここには森平太郎の別荘があったというが、今や掲示板一枚だけで、建物などはなかった。本日はこの古湯温泉に泊まる。Oさんから教えてもらった不思議な宿に行った。何と客は1日1組限定、というわけで今晩は私一人だけ。そして古民家の畳部屋や廊下などには、何と本好きが選んだ一人20冊の本が70人分置かれていた。

しかもその本の後ろには、選者のコメントや順位なども表示されていて、実に面白い。思わず眺めてみると、私と同年代の方が選んであろう本は実に懐かしく、すぐ手に取ってしまった。更にはちょうどテレビドラマでやっている『舟を編む』があったので、つい手を出してしまい、結果一晩で読むことになった。畳の部屋にはこたつがあり、エアコンにヒーターまで完備されており、お茶も飲み放題だから、もうこれ以上の環境はない。ここに来る客は比較的若い層(20‐30代、男女両方、一人客も多い)らしい。決して安い訳ではないが、自分だけの落ちける空間を求めてくるのだろうか。

取り敢えず暗くなる前に温泉へ向かう。この家には風呂はないので、近所の温泉に入ることになる。古湯温泉の湯は極めてぬるい。だからいつまでも入っていられて、気持ちが良い。宿のオーナーも『本を読みながらゆったり入れる温泉』をテーマに全国を探して、ここに場所を得たらしい。近所の老人たちと一緒に入る。

部屋に戻ってまた本をめくり始めると、夕飯が届けられる。お弁当形式だが、ご飯とみそ汁は作りたてで美味しい。おかずも豊富で、思わずご飯をお替りしてしまう。食後は文机でゆっくりする。文豪気取りでニタニタしている自分がいるのが分かるような、楽しい時間が過ぎていく。

お茶を飲み終えると、また本に向かうのだ。自分にこんなに集中力があったとは、と感心するのだが、これも環境の成せる業だろう。何と合計8時間ほど本を読み耽り、気が付くと夜中になっていた。隣の部屋に敷かれた布団に潜り込み、この空気を独り占めしながら、まるで中学生のような気分の中で寝入った。

3月6日(水)嬉野・彼杵へ

翌朝は早く目覚めてしまう。散歩に出ると、こじんまりした温泉街は小雨に濡れていた。古めかしい神社の石段は、滑って登れそうもない。こんな時に仕事の用があり、郵便ポストを探して投函する。昔の温泉旅だ。部屋に戻ると『ザ・日本の朝ごはん』が運ばれてきて、またウキウキしながら食べる。勿論それなりのコストはかかるが、たまにはこんな宿に泊まって、自分だけの時間をゆっくりと過ごしたいものだ。

Oさんが迎えに来てくれ、名残惜しい宿と別れた。そしてまた森平太郎探索に戻った。佐賀に戻る途中にあった実相院というお寺。そこの急な石段を整備したのが森だったらしい。記念碑もあったのかもしれないが、文字が判別できず断念する。それにしてもなかなか雰囲気のあるお寺だった。

そこから嬉野へ向かった。実はOさんと初めて会った9年前、嬉野へ連れて行ってもらった。それ以来だった。前回はなかった、うれしの茶交流館「チャオシル」に行く。ここに嬉野茶の歴史に関する展示があり、大変興味深い内容を見ることが出来た。嬉野紅茶は明治初期からあったのか、また江戸時代オランダは日本茶を輸出していなかったのか、など、の疑問にヒントを与えてくれていた。更にその出典について聞いてみると、既に亡くなった郷土史家の先生直筆のノートが保存されており、そこから様々な考察が出来た。実に貴重な資料を見せて頂き、感謝しかない。

佐賀・福岡茶旅2024(1)新高製菓の旅

《佐賀・福岡茶旅2024》  2024年3月5₋11日

コロナ禍で国内旅行をした時、一番多く回ったのは九州だった。特に国産紅茶の歴史をやろうと、Oさんの車に乗せてもらい、かなりの場所を回っていた。ただ面白いことにOさんの地元である佐賀県は泊まるだけで調査をしていない。今回は佐賀と彼杵を少し歩き、柳川から博多へ向かった。

3月5日(火)古湯温泉へ

朝早く起きて、家を出た。羽田空港までいつものルートで行く。ラッシュアワー時間帯だったかもしれないが、恐れるほど混んではいない。これが今の東京だ。活気はあまり感じられない。羽田空港で時間を持て余す。ようやく佐賀行きのフライトに搭乗だ。だが何とバスで移動。因みに今回はマイレージを使った。

そしてアップグレードの権利が今月で切れるとの情報が出ており、それを使うと初めて『1A』という座席がもらえた。いつもは通路側しか予約しないのだが、「これもまたいつもと違うやり方」ということだ。といっても機内は快適かと聞かれれば、それほどでもないと答えるだろう。1時間半のフライトでサンドイッチが出るだけ。いや、イングリッシュブレックファーストの紅茶が飲めたのは良かったか。今日も天気は悪く、窓からは何も見えない。

実に久しぶりの佐賀空港。ここから佐賀駅までバスに乗る。途中は畑が続き、雨が降る中、最後の方が街になる。バスターミナルでOさんの出迎えを受け、車はまた郊外へ走り出す。さあて、どこへ行くのだろうか。全てお任せだ。車はこれまで行ったことがない道を北の方へ移動していく。

30分ぐらい走り、山の方へ向かっていくと、何と表示に『郭沫若』の文字が見えた。何でこんなところに郭沫若、と呟いたら、Oさんが、じゃあちょっと行ってみようと言い、車は川沿いの山道に入っていく。10分ぐらい行くと、そこには橋が架かっており、何とか歩いて渡るとそこに日中友好関連の記念碑が建っていた。郭は1924年に家族でここに湯治に来たらしい。そして何らかの小説を残しているというので、ちょっとびっくりした。

また30分ほど行くと道の駅がある。ちょうど雨が降り出していたが、その敷地内にはよい水が湧いて出るらしく、水を汲んでいる人々がいた。その付近はダム建設に伴い集落が水没したようで、昔の写真などが展示されている。ランチは『ジャンボ野菜かき揚げそば』を注文した。本当に驚くほどジャンボだった。

そこから少し行くと可愛らしいパン屋さんがあった。昔ながらのバターパン。小学校の給食にも使われているという。このパン屋さんのひいお爺さんは戦前台湾の新高製菓で働いており、戦後の引き上げで郷里に戻り、パン屋を開業したという。実はすぐ近くの和菓子屋さんも同様の歴史だというから、新高製菓は面白そうだ。

新高製菓とは何か。今日の午後はそれを知る旅となった。そこから小学校へ向かう。敷地内には、新高製菓の創業者で、地元出身の森平太郎及び養父の森源兵衛ゆかりの記念碑が建っている(文字が薄くて判別は難しい)。更に学校でも過去に森について調べており、その資料を頂戴した。

そこから図書館へ向かう途中に、森平太郎ゆかりの家が残っていた。立派な図書館には森平太郎の展示コーナーが設けられ、冊子も作られていた。ここでかなりの情報を得た。森平太郎は作家北方謙三の曽祖父に当たるそうで、東京に戻ってから、森をモデルに北方が書いた『望郷の道』という小説を読んでみた。勿論小説なので実際の森とはかなり違うのだろうが、ちょっとワクワクして読んだ。当時の台北の様子などが生き生きと描かれている。

静岡茶旅2024(4)百里園を探す

更に牧之原市の方へ向かう。平田寺という由緒正しそうなお寺に入る。ここになぜかヘリア商会が建てた英文の記念碑が残っているという。分かり難い場所だったが、茶場関連の碑の横に、英文の碑を何とか見つけた。謂れなど聞きたかったが、人がいないと思っていると突然頭の上からゴーンという鐘の音が響いてきた。帰れという合図と受け取り、日が暮れる中を退散した。帰りにとんかつをバクバク食べて宿まで送ってもらう。体力的にはかなり消耗した。

2月19日(月)百里園を探す

翌日は雨模様。朝掛川駅へ行き、天浜線に乗って森町を目指した。この線に乗るのは何年ぶりだろうか。相変わらず現金で切符を買い、一両列車に乗り込む。ゆらゆらと30分で遠州森に着く。ここでYさんにピックアップしてもらい、森町とはお別れして、浜松方面へ進む。

本日の目的地は、三方ヶ原の百里園。ここは以前から静岡の長老に『調べてみれば』と言われていた場所であり、車が無いとちょっと行きにくいのでYさんのサポートで訪問が実現した。牧之原同様、士族授産事業である百里園については、既に図書館でかなり資料を集めていたので、今日はその雰囲気を味わえればよい。

まずは三方ヶ原神社へ行ってみる。ここには開拓の碑が建っていた。それによれば横田保が百里園で茶業などを経営していたが、1903年に茶工場は閉鎖された。荒廃が心配されたが、地元有志が茶園の土地を購入したらしい。神社をよく探すと、当初開拓に従事した気賀林の顕彰碑も建っている。彼が初期の民間側代表者であり、その後横田に引き継がれた。

近所を歩くと、武家屋敷跡などの表示はあるが、住宅地で茶畑などは全くない。姫街道とも呼ばれた気賀林の屋敷のあった場所には小さな記念碑が建っているだけだった。この辺でなぜか雨がすごく強くなり、歩くのにも難渋した。一度神社に戻り、車に乗って百里園茶工場跡を探す。

その場所は今や葬儀屋さんになっていたが、説明板は設置されていた。そして道の反対側にはかなり大きな横田保顕彰碑が建っている。横田はウーロン茶や紅茶の製造も手掛け、百里園をかなり発展させたようだが、彼の死と共に茶工場は閉鎖されたらしい。明治時代、この辺は茶業で大いに栄えたことが分かる。

近くのお茶屋さんを訪ねてみた。横には茶畑があり、向こうには茶工場も見える。三方原茶という名称で中蒸し茶が売られていたが、その歴史について知ることは出来なかった。茶業組合の事務所へ行っても分かる人はおらず、百里園ははるか遠い存在だと分かる。折角なので三方ヶ原古戦場跡へ行ってみたが、そこは広大な市営墓地の端にあり、あの家康、最大の敗戦などと呼ばれている戦いが、ちょっと歴史の中で小さくなった。

ランチはさわやかでハンバーグを食べたいと行ってみたが、相変わらずの混雑。順番待ちの間に近所の神社などを訪ねてみる。この辺には明治5年に学校が作られたと書かれているから、相当早い時期であり、余程教育に熱心、資金的な余裕があったのだろうか、と思ってしまう。ハンバーグは相変わらずの美味しさ。

帰りはまた遠州森まで送ってもらい、30分ほど電車を待つ間、古めかしい駅舎をじっくりと眺める。掛川からは静岡まで行き、ちょうどバスが来たので新宿までそれに乗って戻る。相変わらず天気が悪く、今回は行きも帰りも富士山を拝めずに終わる。

静岡茶旅2024(3)紅茶フェスから伊久美、月岡へ

2月18日(日)紅茶フェスから歴史探索へ

朝ご飯も宿に付いている。ちょうど大学生の団体(野球部)が宿泊しており、食事場所は大混乱。その中を縫って何とか食べる。昨日のカレーに続き、野菜たっぷりの味噌汁が美味い。部屋は狭くてかなりくたびれてはいるが、なかなかいい宿だった。各宿には特徴というものがある。

9時半前にYさんが迎えに来てくれた。車で島田へ向かう。今日はここで地紅茶フェスが開かれるというので行ってみた。会場に着くと駐車場は何とか空いていたが、我々の後の車は停められない。会場に入ると予想をはるかに上回るお客さんが来ており、かなり窮屈な印象であった。開会式が行われていたが、中に入ってみることは難しい。

その後会場の各ブースに立ち寄り、お茶を試飲、購入した。お馴染みの茶農家さんたちがずらっと出ており、さすが静岡のフェスだと思われた。すれ違う人も知り合いが何人もいて、ご長老にもご挨拶できたのは良かった。最近の地紅茶サミットはどこでも大人気とは聞いていたが、和紅茶ブームは本当に来ているのだろうか。

午後はセミナーなどがあるようだが、早々に満席になっている。我々はお茶を買い込み、話をするべき人とは一通り話して、会場を後にした。だがこの辺に食事ができる場所はないらしい。結局すぐ近くのKADODEに行くと、そこにはフェスから流れた紅茶ファンが多く集まっていた。

KADODEに中に入ると、お茶の試飲などがあり、そちらに参加する。宮崎のKさん夫妻がいた。更にはカフェで緑茶バーガーを買って、共有スペースで何とか食べる。ここには一度来たことがあるが、こんなに人がいるんだ、と驚いてしまう今回。地方のイベントというのはなかなか難しいものだ。

そこから伊久美方面へ向かう。30分も走らずに伊久美に入ると、茶畑が見えてくる。すぐに坂本藤吉翁の顕彰碑を発見した。この人は江戸後期にこの地に宇治製法を導入した先駆者だが、初めは誰も賛成しなかったらしい。そして導入後すぐに彼は亡くなってしまったが、製法は残ったということだ。

その先まで行くと公会堂の建物がいい感じで残っている。ご近所の方に話しを聞くと、今は茶農家も減ってしまったようだが、坂本藤吉の名前は知られていた。更に西野平四郎の名前を出したが、この先は殆どが西野姓だよ、と教えてくれた。きっとご子孫がいるに違いないが、探すすべがない。近所のお墓があったが、確かに西野は多かった。

そこから車で約1時間。菊川市月岡にやってきた。ここは旧幕臣で初代静岡県知事の関口隆吉が住んでいた場所。茶畑がある横の少し高い場所に神社があり、その裏が邸宅だったようだ。関口の記念碑も建っている。『関口隆吉遺愛の地』とも書かれている。あの広辞苑を編纂した新村出は隆吉の次男で、ここで育ったらしい。奥さんは茶道家で子孫が茶室を建てていたとあるが、今はその影はない。

すぐ近くには関口家の旧菩提寺、洞月院には、顕彰碑が建っている。篆刻は勝海舟、河津桜がきれいに咲いている。牧之原開拓に尽力し、その能力から中央政府に乞われて各地を回り、最後は静岡で亡くなった関口。元々関口家は今川氏の重臣であり、あの家康の妻、築山殿を出した家と言われれば、なるほどと思ってしまう。

そこから相良の方へ走ってみる。途中に『相良油田』の看板をみえ、俄かに興味を持つ。相良油田といえば、森町の茶商、村松吉平が晩年その開発に熱心に取り組んでいた。ここは日本の太平洋側で唯一の油田だったとあり、明治初期に採掘が始まっていた。今のその採掘現場、小屋などが残っていた。その向こう側を見ると、公園がある。何とそこには相良油田の資料館や再現された採掘場などがあったが、展示は既に終了していて見ることが出来なかった。残念。

静岡茶旅2024(2)初めて久能山へ登る

2月17日(土)久能山へ

今日は朝チェックアウトして、荷物を置いて、駅の南にあるバス停に向かった。そこに着くとちょうどバスが来たので思わず乗り込んで終点まで進む。そこでバスを乗り換え、目的地に向かうはずだったが、ふと向こうを見ると海が広がっていた。思わず太平洋を仰ぎ、バスに乗らず歩いて行くことに決めた。

海岸に降りると、雲から光が少しだけ見えた。これはいい、と更に歩くと、ものすごい強風が吹いてきて、歩くのさえ困難になる。海岸線のところどころ分断され、何とか道路に這い上がっても途中が工事中で、歩を進めるのが困難で困る。なぜ私は海に出てしまったのだろう。大人しくバスを待てば、こんな苦労はなかったろうに、と後悔する。

30分ほど歩き、何とか久能山の手前まで来て、ついに後から来たバスに抜かれてしまった。何とか久能山下までやってきてGoogle Mapで見ると、東照宮まで徒歩4分と書かれている。ところが実際は、ものすごい数の階段があり、東照宮ははるか上を見上げなければならない。既にかなり歩いているので疲れを覚える中、ゆらゆらと石段を登る。中高校生は石段を駆け上がり、軽々と私を追い抜いて行く。それにしても急な坂で、この城を攻めるのは大変だろうと噛みしめる。

週末でもあり、上まで行くと観光客がかなりいた。河津桜がきれいに咲いている。狭い山の上にかなり建物が詰め込まれている感じだ。本宮まで行くと、ちょうど商工会の人々が集団で祈祷を受けていて、一般客は一部排除されていた。こういうのはどうなんだろうか。博物館もあるので見てみる。ビデオで日光東照宮との対象などを見ることは出来た。家康は久能山に埋められているという。ヨーロッパの珍しい時計もある。

ここからまた歩いて石段を下り、バスを探して乗るのはあまりにも大変だった。するとロープウエイの文字が目に入る。行ってみるとちょうど日本平に行くロープウエイが出る所で、700円払ってそれに乗り込む。私は高い所も嫌いだし、料金も高いのだが、脚がもう前に出ないので、それで行く。僅か数分で向こうへ渡る。ここから敵が攻めるのも無理だな、と感じる。

日本平、良く名前は聞くがここだったのか。観光客が蛇口をひねってみかんジュースを出していた。私はここには用事がないのでバスに乗り込む。バスが出るとすぐに公園のようなところに河津桜が咲いており、屋台が出ていた。更に行くと立派なホテルがあった。ここは見晴らしがよさそうだ。そこからバスは下っていき、40分ほどで静岡駅まで戻ってきた。

宿で荷物を取り、駅まで歩いて電車に乗る。これから掛川へ行く。もう慣れたルートだ。駅近くの宿にチェックインするが、静岡駅近くと同じ系列なのに、全く違う感じの宿(昔のビジネスホテル)に戸惑う。すぐに外へ出る。ちょっと歩くと立派な掛川城が目に入る。その近くには先日コラムを書いた山田治郎蔵の石碑が建っている。

報徳社の図書館の向かいに掛川市の図書館があり、そこで資料を探す。やはり掛川、お茶関連の書籍は1つに纏められていて、見付けやすい。掛川の郷土史関連もあり、有り難い。2時間ほど調べものしていると疲れが出てきたので、宿へ戻る。この宿にも無料のカレーが置いてあったので、それを頂き夕飯の代わりにする。このカレーが思いの外美味しく、好感度がかなり上がる。夜はゆっくりと休む。